2013/05/17

シャーロック=ホームズ


飛行機は、わりと深夜便が好きである。
とくに着陸15分前の、機体から下にのぞむ夜景が、ワクワクするほどに楽しい。
さらに見やれば、ヘッドライトを照らしつつ道路を走ってゆく車両やトラックさえもが、もうすぐ眼下に判別出来る、そのタイミングこそ至福のとき。
さあ、この国で、この町で、いったいどんな連中が俺を待っているのかな、と、いろいろな想像が膨らむ一方だ。

ふと、機内に視線を戻すと、ちょっと離れた座席では相変わらず一人の少女が本を読みふけっている。
それは英語本のシャーロック=ホームズ、表紙は有名な『赤毛組合』か、読んでいるその娘もやや赤い髪をしているのを見やればアイルランド系かもしれない。
旅慣れているのか、あるいは着陸に向かって降下し続ける飛行機にそっと緊張しているのか、一心不乱に読んでいるその娘がおかしくてたまらない。

やがて、ゴゴゴッと機体は着陸し、それからのっそり、のっそりと着陸ゲートにむかう。
こっちは時差の関係でさして眠くもないため、さてこれから夜明けまでどうやって眠りにつこうか、と軽く思案してしまう。
入国審査を済ませて、ホテルに向かうタクシーの列に加わる…いや、その前にちょっとだけタバコを。
腕時計と相談しながら、いそいそと喫煙ブースに向かう。

その喫煙ブースの中で数人がタバコを吹かしている。
「ちょっと、君…そう君だ、日本からだね?」
と僕に話しかけてくる痩身の白人紳士がいて、僕はちょっとだけドキリとする。
それでも、ああそうですよ、と答えると、さらにこの紳士は僕の顔や靴などをすっと一瞥して、「君は仕事で来たんだね、IT関係だろう?」と立て続けに語りかけてくるのである。
「いったいなぜ、そんなことが判るのですか」、と僕が訝しげに訊き返すと、この紳士はフーーーとタバコを吹かしつつ続けるのである。
「おほん。まず君のタバコだ、そのマールボロはアジアのパッケージだ、それから君の歩き方、中国人ではないね。それから首や肩だ、フォーマルスーツをかなり着慣れた形と見た。それに君の書類入れ、ずいぶん大きいが、しかし他の荷物は衣類だけじゃないか。ということはその書類入れの中にパソコンとドキュメンツの束をぎっしりとまとめて持ってきて、この国でまとめて作業する積もりだろう。そんな完結的な仕事をするのはIT関係だけだ。さらに、もし君がエネルギー関係のビジネスマンなら、こんなところで時間を弄んでいるわけもなく、とっくに出迎えのベンツに乗って一流ホテルに直行のはずさ」
ここまで聞いて、僕は思わず吹き出してしまう。
「そうです!その通りですよ、まるでシャーロック=ホームズですね、貴方は」
こう言ってやると、紳士はフンと軽く歌うように鼻を鳴らし、「僕はもっと賢いんだよ」と独りごちて、微笑んだ。


そんなふうにちょっとだけタバコを吸ってから、僕はあらためてタクシー乗り場へ。
異国の夜空の下、風情の全く違う連中の列に加わってタクシーを待っていると、なんともスリルが胸の奥からこみあげてくる。
やがてタクシーが来るので、それにサッサと乗り込み、予約済のホテルに向かう。
運転手はインド人で、やや聞き取りにくいアクセントではあるが、「俺のタクシーは良心的なんだぞ、メーター以上のカネは絶対に請求しない。ノープロブレムだ」と云う。
「へぇ。それじゃあ性質の悪いタクシーも出回っているんですかね?」 と僕が聞きかえすと、運転手はそうだよと答える。
「たとえば、どういうタクシーに気をつければいいんですかね?」
「そうさなあ…たとえば日本人に対して、馴れ馴れしく友達みたいに装って、俺は天然ガス大企業の関係者だとか、荷物をホテルまで運んでやろう、そこにベンツが待っているから、などと言ってね…」
「ほぅ、それから?」
「それから、ぐっと遠回りをして、町外れの小さなホテルまで連れていき、そこで法外なチャージをするのさ」
「へぇ」
「真夜中だし、もう他にタクシーなんか無ぇし、それにそのホテルの界隈はガラが悪いときたもんだ」
「ふーん」

やがて僕は予約のホテルに着くと、もう深夜3時である。
そのまますぐシャワーを浴びて、ベッドにひっくり返る。
ベッドの脇の小さな書庫には、シャーロック=ホームズの挿絵の本が有り、それは燐を塗られた野獣が大口を開けて襲いかかってくるという『バスカヴィル家の犬』。
ちょっと手にとってみるが…いや、やめておこう。
夢のまた夢、さらにその夢、きりが無さそうだ。


以上