2014/04/02

それは論理か実在か?

昨今のニュースでいろいろ僕なりに考えるところがあり、とくにSTAP(万能/幹)細胞の騒動については少し呆れている。
そもそも万能/幹細胞は、「論理のみ」なのか、「確固たる実在」が確認されているのか…どちらで将来を見据えるべきか、どっちもか…と議論を詰めていきたいところ。
しかしながら、その「論理」は一見したところ真である、が、その論理の根拠たるコンテンツは「実在」していない、だから将来の成果物も不正確なものに決まっている、よって論理そのものを潰してしまえ ─ 
というのが現在のめちゃくちゃな乱痴気騒ぎじゃないのかな?
これ以上は、どうも雑音がやかましくてよく解らない。

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(1) さて。
こんごも万物についていちいち問われ続けるであろう、論理と実在について、本ブログの信条にのっとり、出来るだけ単純かつ極端に考えてみる。

世界史の文化史につらつらと現れる偉人たちにもみられるとおり、古代から人間は様々なものの実在を認めるたびに、それらを連結して再利用したり、更なる別種のものを生成すべく、人間独自の論理を捻出してきた。
数式記号などは、実在の連結ツールの最たる例じゃないかな。
大雑把にいえば、人間の論理とは、人間の周波数と人間の数理・文法をもって完結的に表現された系だろう
(同様に、猫には猫の周波数、猫の数学、猫の文法がある ─ だからあんなに得体の知れない動きをするのかも)。

では逆に、実在を「超えてしまった人間論理」があるだろうか。
あるね。
たとえば、円周率がそうだ。
もちろん円周率という定数は人間の論理である。
聞けば、はるか数十兆ケタ(?)までも論理的に算出実績があるという。
仮にここまでの論理を真とする。
では、その数十兆ケタまで正鵠を極めた円をここへ持ってきなさい、と言われて…はて、そんな円がどこに実在しているのか?
そんな円など実在しない、よって、 円周率という論理そのものが虚偽なのですか?
そして円周率計算を実行したハードウェアも、また円周率に則って組み上げられた物理的なマテリアルや建造物も、全部虚偽だということになるんですかね?
だったら我々は一刻も早く数学の教科書を焼き捨てなければならない。

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(2)  あらためて、「実在と論理が一致していないもの」を極端に整理してみると。 

・厳然と実在しているのだが、(人間の)論理で完全に連結しきってはいないもの ─ 宇宙、生命、時間、電磁波、放射線、エントロピー(?)、ピラミッドなど
ざっくばらんに言うとハードウェア/理科分野に多いのかな。

・実在を連結するどころか、そこから乖離した(人間の)論理が先行捻出されているもの ─ 上に挙げた円周率など数学定理の他、音楽、地球環境、設計図面、カネ、税、法律、民主主義など
こちらはソフトウェア/社会科系分野に多いのではないか(養老孟司先生なら「実体の脳化」と仰るかもしれない。)

「カネ」という論理ひとつをとっても、それは本来は現金という実在に留まっていたが、論理がどんどん拡張し、現代世界ではカネは帳簿でもあり、手形でもあり、証券債権でもある(だからクレジットカードもビットコインも成立する)。
また、ただの音の不規則な羅列から乖離した、数学的な論理定型によって、「音楽」が人為的に作られるようになった。

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(3) ともあれ、昨今の最大の問題は2種類。

まず、「論理的には完全に連結されてはいないが、実在している」という、そんな何かについて。
そういうものを活用して新たな研究開発や新規創造は許されるのか。
こちらは放射線被爆の問題も当てはまるだろうが、電磁波を利用した携帯電話なども良い例。

一方では、「実在を先行超越している論理」 を基にして、新たな研究開発や新規創造が許されるのかという問題もある。
此度のSTAP細胞騒ぎの本質は、こっちじゃないのかしら。

勉強を進める人たちは、論理と実在のいずれかの不完全性を突いて全てを貶めるという愚に陥ることなく、具体的な対象物ないしは論理を精査し、一つひとつ新規の開発創造まで踏まえて検証していくべきだろう。

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(4)  ところで、連想ついでに。
こんなものもありますね。
実在するかしないか、それすら判然と出来ないもの ─ 神、霊魂、言語、夢など。 

たとえば神については、社会科で「唯名論」「実在論」という哲学論争について習うだろうが、しかしもともとは遥か古代から、神の実在が永く信じられてきた。
論理先行の19c末にやっと死んだことにされているほどである。
一方で、まだ生きている神々だって世界には沢山おわします ─ ということになっているが、その実在をどうやって確認するのだ?

でも、言語は明らかに実在し、それらを論理でちゃんと連結しているじゃないか…と考えがちだが、そこが悩ましいところ。
たとえば。
古代クレタ文明で使用されていた「線文字A」は未だ解読されていない。
だが、「その線文字Aをもとに作られたミケーネ文明の線文字B」は、古代ギリシア語に通じるものとして論理的に解読済だという。
つまり、線文字Aは現代人の論理では連結出来ない、にも関わらず「文字として実在した」ことになっている。
(このおかしさが分かりますか?とくに社会科の勉強は論理先行のものを扱う機会が多いゆえ、むしろ或るものが本当に実在しているのか鋭敏に意識しなければなりませんよ。)

しかしもっと面白いのが、「夢」ではないか。 
そもそも「夢」は、それを見る者にとっては、おのれの論理のみによって連結されている ─ いや論理だけが暴走しているというべきか。
しかし実在はしていない、実在しないからこそ夢という。

「若い人たちは大いに夢を抱いて欲しい」、とは教育関係者の常套句だが、これはなかなか巧妙な方便だね。
何らかの対象物が実在するしないに拘らず、それについての論理だけは正確に打ち立てておけ、という意味ともとれるが、一方では具体的なもの(実在するもの)に高い関心を抱いて欲しい由も訴えている。
どっちとも受け取れるように、「夢」という言葉を好んで使っているのかもしれない。

以上(とりあえず思考の限界だ、はははは)