2014/04/25

なぜ数学が必要か

(1) ほとんどどんな学生でも、好むと好まざるをに拘らず避けて通れない教科が、数学と英文読解である。
そもそも、数学と欧米言語はつくづく似ている(きっともともとは同じ哲学から興っている)。
数学でいえば、諸々の「要素(情報)」の自由な「編み合わせ」によって、何らかの論理がつくられるということ。
欧米の言語においても、単語たった一つでは立体的な意味は無いが、その「単語のコンビネーション」が特定の意味を成立させており、このコンビネーション型の文法は、もともと名詞一発で全部を語ろうとする日本語にはあまり無い。

そのためだろうか、数学が得意な子は、ほとんどみな英文の論説読解が得意になっているし、この類似性こそが、日本の学生に数学と英語を強制的に課している何らかのリーズニングの深淵なのかもしれない。

ただし。
少なくとも一つ、数学と言語は決定的に違うところがある。
数学においては、既存の論理さえ無視しなければ、「俺自身の」着眼点は自由、思考の方向も自由。
ごく簡単な例で、a(x+1)2+b(x+1)+c = 3x25+4 がxについての恒等式となるよう、定数a,b,cの値を求める場合。
左辺をxについて整理し、ax2+(2a+b)x+a+b+c = 3x25x+4 として係数同士を比較しても求められる、が、そうではなくて xに-2、-1、0を代入すれば定数a,b,cだけの裸の式も得られ、それぞれを算出してもいい。
どちらの方針で計算するかは「俺自身」が決める自由がある。 

しかしながら欧米の言語、ここでは英文読解を例にあげるが、これは単語のコンビネーションの順番に従い「俺自身の」思考が一意に決定されてしまう。
たとえば、"Studies" という単語ひとつだけでは意味が成立しないこと、上に述べたとおりだが、では "Studies attempting to tie vegetarianism to low mortality rates" とすると、「菜食主義を死亡率低下に結びつけるための研究」の意となり、これを「死亡率低下のための菜食主義を試みる研究の結合」と解釈すると文意が異なってしまう ─ つまり間違いとなる。
さらに "... have not been conclusive." と繋ぐと、もっと意味が限定的になってしまい、はぁ分かりました仰せの通りで、と追従するしかない。

…と、いったところから、今回の勉強論④では、どこまでも人間側の自在な着想を保証しつつ、最も普遍性も高い学術として、数学の必要性についてふれたい。


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(2) ある日のこと、たまたま時間が空いた時に小学生女子に算数を教える羽目になった。 
うわぁ、冗談じゃないよ、小学生なんか、こちらが喋っている言葉の1/3くらいしか理解出来ないだろうに…
それでも、慎重に言葉を選びつつ、実際に教えてやったのだが、この経験が実に示唆的であったので、まとめて記す。 

【問い】  「えんぴつが1ダースあります。1ダースは12本のことで、その1ダースの値段が480円です。では、えんぴつ60本ではいくらでしょうか?」
(笑うなよ)

この問題に対して、この娘は、んーーーんとしばし考え、さささっと計算してはみるのだが、なかなか答えが合わない。
しばらくの間、横からああしろ、こうしろと指示していた僕の脳裏に、とつぜん雷撃がバチーーンと走った。
ああ、そうだ、そうだったのだ!
僕はすっと立ち上がり、ホワイトボードに向かって以下を列記した。

(ダース) (本) (円)
?              1           ?
1            12        480
?            60          ?

それから、そーっと声をかけて、さぁ、?のところは、どんな数字になる?と。
すると彼女は…突然ばっと立ち上がると(たぶんこの娘の脳裏にも何か閃光が走ったのだろう)、この表において左から右へ、上から下へと掛けたり割ったりの検算を一人でやってのけ、?の数字をきれいに導き出したのであった。
それどころか左上の?を0(ゼロ)と書き入れたので、正直僕は驚いてしまった。
ともかくもこの検算が終わると、彼女は晴れ晴れとした表情を浮かべ、「自分が何やってるのか、分かった」と。
その通り!よく出来ました!つまり算数(数学)は、情報と情報の関係付けの学問であり、問題の全貌を把握出来たら、自分で意味を与えていけばよいのだよ(などと抽象的に語ってやってもたぶんこの娘には判らかっただろうけど。)
もちろんこんなこと、あくまでちっぽけでささやかな算数のエピソードに過ぎない、が、これだって高校教育における「行列」や「会計学」の基礎でもある。 

さらに、ここが肝要なのだが…算数/数学の勉強においては、言語は出来るだけ介在させない方がいい! 
いや、むしろこれこそがものすごい真理ではないか ─ 我ながら思い返せば、かつて海外の顧客向けに新規コンセプトの製品を提示したときも、言葉であぁだこぅだといちいち説かない方がうまく伝わったもの。
上の小学生向けのアドバイスにしても、種明かしをすれば、こういう営業経験から閃いたものであった。

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(3) だいたい高校2年生あたりにもなると、いろいろ本質的なところまで思考出来るようになるもので、だからこんな不平不満もよく挙がるらしい。
「数学は、どうして数字と記号と線分ばっかりなのか?ストーリーが無いんだよな。だから生き生きとした思考が出来ないんだ」
なーるほど。
実はこの疑問は、「経済活動をどうして通貨で表すのか?」と問うに似る。
で、後者の方をとりあえず回答すれば、「この世界の財貨の価値を一律化して表す単位が、通貨の他に無いから」である。
数学の場合も、「この宇宙に論理的に在りうる量や順序を表す共通単位が、数字と記号と線分以外には無いから」…だと思うが、僕はちゃんと教わらなかったから厳密には分からん。
ただ、ざっと振り返ってみれば、数字や記号や線分は、何らかの序列数、大きさ、繰り返し数、組み合わせ数、変化の範囲を表しているようである。
そしてこれらの万国共通の掟さえ守れば、「俺自身」がどう操作しようが俺の自由!
とりあえずあっちへ、やっぱりこっちへと自在に着想の軸をコロッコロッと転換することができる。

百聞は一見に如かず。
さっきっから左側に提示されている一連の図は、何らかの情報の関係付を一定の論理で示している。
これを好きなように考えなさい
制限時間、自分なりのアイデアが出尽くすまで。

このように数学の問題に「俺流に」あたろうとしている時に、横からいちいち言葉であぁだこぅだと解説ばかり押しつけられると、却って堂々巡りをし、それどころか混乱するばかり。
たとえば。
「はーい、いいですかー、二次関数のゼロ座標を中心として、或る経の円をぐるりと記す、さて、この円周と中心角θの関係は?
ほーらほら…円周の座標X軸上の位置を、中心角θに呼応してcosθと称し、一方で同じ円周の座標Y軸上の位置は中心角θに応じたsinθというのですよ!ちゃんと覚えなさい!」
…などなどと言葉で吹き込まれつつ、「ずぶの素人」が言葉で納得すると、すごく効率がよいようで、それでもどうしたって小一時間はかかるんですよ。
しかも、言葉で納得したというのは、ある特定の関係を覚えさせられたといっているに過ぎないのであり、数学を理解したことには必ずしもならない。

むしろ、「俺自身」の好きなように考えて、きっとこんなことなんだろう、と見当をつけ、それを「ものの分かっている人たち」にぶっつけて…
それで、座標とラジアンとcosθsinθなどなどが「とりあえずは全人類にとって最も効率的な表現方法」なのだと教わる。
ああ、そうか、じゃあそれは守ろうじゃないか、といいつつ、その上でさらに「俺流」の思考実験は好き放題に出来るわけ。
こういう勉強方法こそが理想的じゃないのかな。
きっと数学が得意な人というのは自分流の思考実験の回数が桁外れに多いはず。

スポーツにも大いにあてはまることだろう。
膂力と度胸だけでガンガンと暴れていた男が、ボクシングの効率的な身体動作を覚えれば、攻撃や防御のスキルが最適レベルに向上し、さぁその上でおのれの秘密兵器の必殺パンチを…
ね、そっくりでしょう、テニスでも水泳でもサッカーでも同じようなもん。
毎日まいにち、トークばっかり一方的に押しつけられて、何ぞ上達するものか。 

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(4)  そもそも、数学嫌いの人たちのエクスキューズとしてすぐに挙がる言質は、「それが何の役に立つんだよ?」というもの。
これは実はものすごく重要な問いかけじゃないかと睨んでいる。

大雑把にいえば。
人間は常に或る対象を操作しなければ存続出来ないが、その操作行為をものすごく極端に大別すれば、以下の5つに分類出来ると考える。
何かを「動かす」
何かを「合成する」
何かを「分解する」
何かを「複製する」
何かを「権利化する」

これらのうち、「動かす」「合成する」「分解する」「複製する」の4つは、全て人間と対象物の秩序だった関係付けが求められる。
人間は有限の存在であって、質量保存やエントロピーの法則を超越出来ないし、もし無秩序な関係で在り続ければこの4つの行為は突然終わってしまうリスクがある。
だから数学という「関係付けの学問」を必要とするわけで、かつ、数学の表現だけで伝えられるのなら寧ろ言語の注釈など無くても構わない。 
ただ、数学は「意味」ではあっても、「意義」ではない。
最後の「権利化する」だけは、何かに一方的に「意義」を与えて自分で抱え込むことだから、数学だけでは不可能、どうしても言語が必要となる。

で、歴史から学ぶこと。
いわゆる古代の文明の遺跡から、往々にして高度な数学の記録が出土されるという。
だがそれらの言語は、現代人には読解しきれていない。
そんな現代人からみれば、な~んだ、数学だけの文明だったから滅亡したんだよ、とニヒルに嗤うことも出来る。
が、むしろ真相は逆ではないか……数学を発達させた文明は長大な歴史時間にわたって記録を遺すことが出来た反面、言語だけの文明は移動も合成も複製も不完全なまま、質量保存やエントロピーを無視した言語闘争の挙句に風とともに去りぬだったのではないか。

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(5) かつて日本は、第二次大戦後のモノ不足、生産力不足の時代に理数系の教育を政策的に強化したという。
しかしモノが余り、人も余るようになると理数系の教育がだんだん軽視されるようになり…

というのが多くの識者たちの日本現代史批判。
だが、本当はどんなモノでも時間とともに変移するし、人の能力だって時間とともに変化するのだから、或る文明において何もかもが余り続けるはずがなく、必ず何かが新たに足りなくなるはずである。
それでも何かが絶対的に「余っているんだ」と強弁するのは、モノや知力や労働力の関係付け=つまり数学を無視した、言語のみの闘争ではないかなと時々ぼんやり思い当たる。

なお、経済・証券ファンの妄想を打ち砕くことを言ってやるが、カネの存在とは数学の法則に則っているようでいて、実はカネとカネの関係以外においては数学を無視するもの。
なんだおまえは左翼思想か、いや右翼の発言に近いぞ、とすぐに批判する人もいるのだろうが、そういうのを言語闘争というのだ。

以上、数学ファンでもなんでもない僕が思いつくまま記してみた。