2015/03/29

【読書メモ】 権威と権力

岩波新書の本のうち、特に抽象性の高い主題を論じたものは、固有名詞や形容詞による静的な時事論評を極力排除しつつ、動詞遣いはかなり理知的、つまり理科系も社会科系も超えた論理思考の書といえ、読書意欲を喚起し続ける。
今回紹介の本もまさにそうで、人間が何故に権威に従いまた如何にして克服しうるかにつき、慎重に論理分析を挑んだ傑作である。
著者は慶應関係者なら誰もが知る精神科医にして大作家、戦後文学界そしてアカデミズムの重鎮の一人でもあられたなだいなだ氏。
『権威と権力 なだいなだ・著 岩波新書版』
いうことをきかせる原理・きく原理

本書構成上の特徴として ─ 或る常識人(精神科医)と、或る懐疑的な高校生の対話形式をとり、実社会の常識観という外縁をとりあえずは据えつつも、人間の権威権力への従属性を本源まで暴いてゆかんとする検証的な論旨展開はなかなか大胆だ。
本書メッセージを総括すれば;
「勉強して知識を得よ、そして自覚せよ」
「知識に権威を介在させてはならぬ」
「理想社会は自由な知識人の自由な調和に在り、ゆえに未来における実現目標としてしか存在しえない」
…といった旨に集約出来ようか、かつ、さまざま垣間見る反骨精神は妙に平易な文面と相まって精神の涼風のごとく心地よい。

なお本書第一刷はじつに1971年であるにも拘らず、とりわけ第6章以降にてあげつらう人間のさまざまな権威便乗や転用の事例は、40年以上の歳月を超えて現在でも失笑を誘うもので、くだんの原発事故までふまえればむしろ本書は人間精神の予言的な透視図であるかのようでもある。

さぁそれでは、いつもの【読書メモ】のとおり、本書の章立てを超えつつ、僕なりの要約と解釈をささやかなアブストラクトとして以下に記す。



我々が何事かを「分かる」というセンスは我々一人ひとりの内に完結しているが、「解らない」という不安や恐怖はおのが外の知識格差からくる。併せて、普遍的な意味の判然とせぬ数値データなどへの不安感も根強い。
それら知識やデータに正当性を認めたいとの念から、我々はむしろ自発的に権威を認めてしまう。
それら知識やデータが「間接的な出力」であるのなら、我々はその出力段階の全過程にまで権威を見出さんとする。
医者や弁護士の看板、大学名(偏差値)、ノーベル賞などがその例。

さらに、権威への盲信はマスコミなどを通じて、その盲信者の多数派をも生み出す。
よって、或るカテゴリーにおいて見出された権威は、別のカテゴリーにまで拡大適用されうる。
そうなると、その権威を否定しようとする人間が現れた場合に、その人物の方を潰そうとする。

権威は、人間の無知(という不安感)につけ込んで、我こそが全知全能なのだと洗脳する場合も多い。
たとえば、或る神が不在であることを証明出来ぬのならば、その神は必ず存在するのである、といった詭弁が、権威の名を借りて我々のうちに忍び込む。
或いは逆の論法として、資本主義はけして完璧な経済システムではない、だから代替システム(社会主義など)の方が優れているのだ、などという誘導も同じ。

我々が外部からの権威押しつけを盲信しないための方法は、おのれ自身が知識を得ること。
また、如何なる真理も本当は存在せず、事実が常に一つ発現しているのみであると悟ることである。 
もうひとつは、複数の情報データを客観的に比較すること。

おのれの知識とは、収集した知識それ自体でなく、それらをおのれの自我にのっとり冷徹に観察出来るようになってこそ独立したものといえる。
こうして人間は、少年から青年となり、そして近現代の大人になる。

☆   ☆   ☆

命令と説得は構造的に異なる。
命令は人間の階層構造、とくに官僚機構において多用され、その上位における決定上の本旨が不明瞭なままでも下位に伝達されうるので、人間の階層構造が多重複雑なほど下位が盲従しやすい。
一方で説得は、相応の権威を効用(あるいは悪用)する者による、無知の者たちへの暗示誘導たりうるケースもある。
だが、説得は「なんらかの理」にのっとり、促す者も聞く者も同意しうる方法をとるのが望ましい。
この理想論に従うのならば、法は権威であってはならず、だから悪法が法であってはならない。

我々が権威はおろか理すらも信用しなくなったら、いったい何をしでかすのか?
いかなる権力の存在をも否定する野党化、その革命かもしれない、そして既製の権威を片っ端から否定するかもしれない。
しかしいかなる権威権力をも否定し続けるならば、自分たち自身の権力化や議会への進出すらも許せず、だからさらに野党が分裂し、基盤であったはずの労働組合も分裂していく。

じっさいは、ソ連でスターリン悪政が批判された時、マルクスやレーニンといった古典的な権威は否定されなかった。
これまでの人類史において、権威が完全に否定されたことはない。

☆   ☆   ☆

人間の権威や宗教は、本来は強制力が無くとも正当性をもって永続しうる。
が、そこに便乗する地位/組織は常に強制的な権力をともなう。

我々にはひとつの重大な幻想がある。
社会・組織はなんらかの完結した全体だ、と捉える見方である。
だが実際は、あらゆる事実は独立した個々の事象であり、全体など構成していない。
あらゆる組織を有機体と喩える場合も多い、が、組織は個々の人間によって構成されており、組織そのものは独立した意思決定などなしえず、誰かの恣意によって動いているに過ぎない。
いかなる社会組織もそれ自体は権威ではなく、ましてや権力機関であってはならない。

我々は権力をもって、おのれたちの防衛のために「便宜的なまとまり」を保持しようとし、一方では外部者への攻撃も行う。
この便宜的なまとまり保持のために、有史以来、天皇制さえも利用されてきた。
だがその便宜的なまとまりとて、権力を喪失すれば崩れていって、互いに外部者となり攻撃対象ともなっていった。

我々は、いったいどうやって社会を維持しうるのか?
それは 「個々人が自由に行動しつつも、自生的に秩序が成り立つ、いわば調和型の社会」 によってではないか?
残念ながら、この調和型社会は理想像にすぎない。  
そして現在の諸問題は、理想によってではなく、現在の解決手段によってのみ克服するしかない。
自覚した各人の知識と行動によってこそ、調和社会という理想もいつか実現しうるのではないか ─ そう楽観的に信じて今日を生きていきたい。

以上