2012/11/23

絶対善と部分悪

とりたてて傑出した知性も、資産も、道徳も無い、そういうささやかな環境条件下でずっと生きてきた僕のような俗人。
消費生活と納税のための人生、まあ、ときどき代議士に意思決定を委任するくらいがせいぜいのところ。 
何かを根底から組み直す知性も無い。
社会関係を一意に組み変えるほどの巨大な資産もあろうはずがない。

…などと考えて、あーあと無気力に陥ることもあるのが多くの社会人だが…いや、それでも前世代から受け継いだ道徳があるじゃないか、という。

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そこで道徳とは何だろうかとあらためて考えてみると、それは(あくまで事業に譬えれば)受給双方の合意に基づいた上での売上の拡大を図ることではないか、と思う。
合意に則った売上の拡大は、供給者にとっても受益者にとっても、「絶対善」。
みなの売上拡大によって、みなの需給一致の商材の絶対量を増やし、受給双方の機会を増やし、みなの知性と技量を充足させる
─ つまり、投資・機会の拡大こそ、どこまでも善であって、いつまでも善であり、いちいち議論討論せずとも善である。
もちろん、どんな商材であろうとサービスであろうと、カネが介在しようとしまいと、善はありうる。

一方、利益追求となると話は別である。
利益追求のためには、売上拡大のみならず、供給技術や人間を生産性の名のもとにカネに換算しなければならないし、商材在庫や設備や人間の削減を大前提としなければならないし、一方では顧客を口先半分で黙らせることだって必要となる。
と、なると、皆に公開されるとは限らないし、合意されるとも限らない。
ゆえに、「部分的に悪に陥る可能性」だってどうしても生じる。

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どんな商材でもどんな事業でも、売上拡大による「善」はひとつの絶対で理想目標だが、その実現過程における利益追求過程では多かれ少なかれ、大小の「部分悪」の選択がありうる。
と、言うと、そんなの売上があっての利益実現か、利益追求に励んでこその売り上げか、ということだろう、結局は堂々巡りの議論じゃないか…
…と反論されるかもしれないが、僕は堂々巡りではないと考えている。 
「部分悪」の反対はまた別の利益捻出の「部分悪」の選択に留まり、「部分悪」ばかりいくら束ねても「絶対善」には到らない。

いやいや、デフレで市場縮小が続いているんだから、利益最優先でもしょうがないだろう。
…と言われるかもしれないが、むしろ、デフレだからこそみなが投資機会と市場規模を拡大すべきであり、なんでも安いのだからそのチャンスでもある。

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経済学においては、「絶対善」の定義がない。 
なるほど、最大多数の最大幸福、などというが、そのための特定の条件定義や規制の撤廃という発想は、いわば「部分悪」の最小化の研究に過ぎない。
と思えば、悪徳こそが公益をもたらす、というパラドックスもあったりして紛らわしいのだが、しかしこれは、悪徳が蔓延すればその関連財の需要を喚起しひいては市場規模が拡大、というもので、そのさいの利潤追求から「絶対善」が導かれるとは云っていない。

一方、経済学では「部分悪」の定義はものすごくたくさんある。 
すぐに「希少性の競争収奪の学問だ」などと称される所以でもある。
だからどうしても dismal science (陰鬱な科学) となる。

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しかし、だからこそ経済学を勉強することは意味があると思う。
あらゆる「部分悪」を超えたあらゆる商材の売上拡大、機会拡大と市場拡大をみなが「目指す」ためである。
いわば、医学を習得するのが医学不要の自然で健康な心身を理想とする為であるに似ている。
そして経済成長の意味は、否、意義は、まさにここに在るはずだと信じてみたいのである。

(…なんて程度のことは概ねみんな分かっているからこそ、先進国は皆を大切にする国で在り続ける。)

以上


謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、一方では通俗性を極力回避しつつ、論旨の明示性を意図して書き綴りました。

あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本