2014/04/08

思考に上限なんか無い

(1) すべての日本人の叡智、信念、競争と配分、献身と犠牲…それらをもって死に物狂いに働いてきた数十年間の総決算が、2011年の原発事故であった。
いや、あんなものアメリカに強要されただけで、我が日本人の自由選択の産物ではなかったのだ、とすぐに反論も出ようが、それつまり、そういう従属的弱者の心性の総決算であったのだともいえる。
取り返しのつかない巨大事故の悲劇、ああ、我々日本人は道義心か、数理センスか、技量スキルか、言語か、法解釈か、まあどこかにとてつもない自殺型の遺伝子を持ち合わせているのだろう…と多くの日本人が凄まじい自己嫌悪を覚えた。

その同じ民族が、同じ国家領域で同じ自然条件に応じつつ、同じ叡智と道義心と根性をもって働き続けているのだから、これからも似たような巨大事故は数十回でも数百回でも起こるに決まっている。
いくら反省だの再生だのと口先では言ってみても、この期に及んでこんな民族の知力や能力など信用出来るわけがない。

…と、ここまでがひとつの論理的な必然。
しかし、こんなところで留まって、あいつが悪いだのこいつがダメだのと言ってても、何にもならない。
時間だけが無慈悲に経過していく。
むしろ我々が思い返さなければならぬ真理は、我々の知性は必然的な上限を設定するためではなく、それを超えるために存在しているということ。

そもそも、だ。
或る人間が、不特定の或る物質を、別の或る物質にぶつけてみる。
その「実験」とその「結果」についての事実は皆で分かち合うことが出来るだろう…しかし、全ての人間の思考がそこで必然的に帰結してしまうのだろうか?
もし、こういう個々独立の事象について、我々の思考が上限を置かないとしたら、どうして全体の系に上限設定をおく必要があるか?

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(2) 我々の思考には、もともと上限なんか設定出来ない。
むしろ人間は、自然に想像力を発揮するように出来ていて、それも互いの駆け引きにおいて磨かれるもの。
ここまで来ると高校までの一律化教育をほとんど逸脱してしまうが、だからこそ続けよう。

たとえば。
世界に冠たる大国ロシアは、近代史以来の宿願であるクリミア半島をウクライナから奪った、はい、来年のセンター試験に出ますから覚えましょう、おしまい ♪」
…というのが学校で教える社会科。
さて、そのロシアが国際世論に圧されて、「すいませんでした、やっぱりクリミア半島はウクライナに返還します」などと言えるか?
今更そんなこと言ったら、ははーん、ロシアは短慮なバカだということになり、きっと主要国からナメられてしまうだろう。
ロシアの狙いは逆で、我が国には深く鋭い戦略と豪胆な行動力が有るのだ ─ と周囲に思わせること、だからクリミア半島は絶対に返還するわけがない。

さて、ロシアはこれから何を売って、何を買うのか?天然ガスか?シェールガスか?農産物は?工業製品は?兵器は?軍隊は?インフレは覚悟の上か?通貨はどうするのか?
…というところまで考えて、本当の勉強が始まる。 

似たような例。
ある時、上司に呼ばれてこんなことを云われたとする。
ここだけの話だが、今度うちの会社で『炭素繊維』を応用した製品への開発投資を進めることになった。この仕事に従事すれば特別なインセンティヴも付くし、役職も上がるかもしれん…ところであんたは『炭素繊維』の技術に通じていたっけなあ。どうだ、興味有るか?
ここで、「それが私と何の関係が有るのですか?」と訊き返す人を、あほと言いますね(あほでなければ新入社員だろう)。

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(3) もうちょっとだけ。
しばらく以前のこと、或る東南アジアの国を訪問中に、大手商社の事務所に立ち寄ったことがある。
そこの所長と談笑していて、自動車の話になった。
「最近はクアラルンプールでも、中国製の自動車も増えたんじゃないですか?」と僕が話しかけると、この所長が「そうなんだよ。でも僕は乗らないよ」と仰る。
「どうしてですか?」と僕が尋ねると、「だってカッコ悪いじゃん」とお答えになった。
なんだ?こんな戯けたコメントがあるか、と僕は内心で驚嘆した。
少なくとも、社会的責任を自負されている大手商社の社員であれば、工業製品をカッコいいとか悪いとか印象点のみで語るわけがない。
「中国製の自動車は、走行中に壊れるかもしれないからね」などと現実的なコメントを寄越すはず。
まして海外駐在者であれば、その程度の勉強はしているでしょうに。

…と考えてはみたが、それでも納得しきれず、ホテルに戻るタクシーの車内でさらに想像力を膨らませてみた。
本当は ─ あらゆる商材の事業機会を狙っている商社マンというのは、いかなる製品の仕様性能についても自らの見解を明かしてはならない、のかもしれぬ。
なーるほど、それなら話は分からなくもない、が、そこから先を察するのがこちらの勉強である。

以上

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、一方では通俗性を極力回避しつつ、論旨の明示性を意図して書き綴りました。

あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本