2015/01/06

正論のつくりかた

2015年というと、どうも感覚として本格的に21世紀に浸かってしまったような気がする。
15という数字が四捨五入して20であり、そこで2020年とおくと、もう前世紀とは完全に一線を画した気になるから、じゃないかしら。

そんなことはどうでもいいが、依然として僕なりに「ほわん」と考えていることがある。
それは。
もしかしたら、人間の説くいろいろな論理方便のほとんどは、以下の3つの判断基準を克服することであまねく正論となっているのかもしれない ─ というところ。

① 無限か、有限か…何もかもすべて有限である。
② 必然か、偶然か…どこかで不可知(偶然)がおこる。
③ 体感か、情報か…自身が体感している。

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まず①の無限か有限かについて。
もし、この宇宙にたった一つでも無限に続く存在が確認されるとしたら、他にも無限に続く存在があるかもしれない。
であるのなら、全てのものや事象だって無限に存在し続ける「かもしれない」。
もっとも我々は、実際にはすべてが有限であり、変わり続けていると「信じている」からこそ、なんでも定量的に捉えている。
定量的にとらえるからこそ、或るものAが別のものBを含み、AがBの存在理由となるなどと因果論を説けるはず。

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次に、②の必然か偶然かについて。
もし宇宙のすべての事象が必然的にのみ展開するとしたら、人間は数学も科学も法も生み出してきたはずがない。
何がどうなるか、すべて予め決まっているのだから。
じっさいは、何か人知で推し量れない偶然が起こるはずだ、と我々が信じているからこそ、その偶然をちょっとでも回避するために数学や科学がおこり、法が必要になったのでは。

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さらに、③の体感か情報かについて。
我々がなにごとかを考えるにさいしては、それを自分と切り離した存在=情報としてとらえ、因果を語ることが多い。
我々は超然と固定的に存在し、対象のみが流転していくのだと。
しかし実際は、そんなことを考えそんなふうに語っている我々自身も、一緒に流転している。
だからこそ、対象と一体化して一緒に動いていれば、なんでも体感し、おのれなりに体得することもできる。
いや、むしろ体感も体得も、一人ひとりが自分で為すしかない。
(哲学はもとより、解剖学者の養老孟司先生が一貫して仰っていることもここにあるような気がしている。)

そういえば、水泳が出来ない子に水泳を教えるには、補助器材をあてがってでも、引っ張ってでも、なんでもいいからまずは泳がせるに限る。
それで、浮かんだまま前方に推進するという行為が可能であるということをその本人に直接体感させるのである。
スキーを教えるのも、相撲を教えるのも、数学やビジネススキルを教えるのも同じで、分析は体感させたあとの方がよい。

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これら①有限である、②なんらかの偶然がおこりうる、③自身が体感している、との3つの前提をおさえれば、たいていの正論は成り立つのではないかな?

例として :
『なぜ、自由競争経済ではみなが豊かになる、といえるのか?』
(なぜ統制経済や配分経済では豊かになれないのか?)
それは、人間のあらゆる財貨は有限の物質であり、しかも世界では何か不可知の偶然が必ずおこり、そんなこと言っている我々自身だってそのうち死んじまうから
─ つまり、どんな需要が新規に起こるかは誰にも分からないが、自由競争経済なればこそ、みなが命あるかぎり需要をおって供給の競争に励み続けるからだ。

さらに例として :
『なぜ、どんな企業のいかなるビジネスも永続しないのか?』
いかなる素材も有限で、無からは生み出せぬため、どんな企業だって他者の財貨やサービスをもとに改良し創造し、さらにまた他者を顧客としてビジネスを拡大する、が、需要も変わり続けていくから、どんな企業や事業にもいずれ出番ナシの局面がきて忘却の彼方へ
─ しかしまた別のどこかの誰かが、別のかたちをとって新たなビジネスを始め、事業が拡大、これを、我々の種族が続くかぎりずっと繰り返す。

さらに:
『なぜ、既得の所有権が正当化されるのか?』
それは、いかなる財貨も有限の量的な存在であり、その価値を決める我々も不確定な有限の存在であり、しかも世界では何らかの偶発的事象がおこりうるから
─ だから、今ある人が所有する財貨はその人が存命のうちはその人のものだとし、何らかの価格をつける…さもなければ、みなが独自に価値の論拠を主張しあい、奪い合いや殺し合いになる。

さらに:
『なぜ安楽死は許されないのか?(あるいは許されるのか?)』
それは、我々人間の生命活動が有限であり、全ての生死が必然的に解釈された訳でもなく、また生きているかいないかはその当人の意思にも委ねられるからだ、うんぬんと。
もっとも、これは難解すぎて何が正論は分からぬが、やはり有限であること、偶然が起こりうること、当事者の主体的体感が問われること、の3つにのっとって論じられているのではないかしら。

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『なぜ万能細胞はあるといえるのか(あるいは言えないのか)』
『なぜ日本は領域を拡大せぬままカネを蓄積出来たのか』
『なぜ日本円は全世界の決済基軸通貨とならないのか』

これらの論題にしても、ざっと同じように①有限である、②なんらかの偶然がある、そして③自身が体感している、と論じ通すことによって、何らかの正論とは立つのではないか…同じように反論も立つとはいえ。

以上
まあ、こんなもの思いつきなので、あとになってからああやっぱりなどと考え直すかもしれない。
そしたら削除だ。

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、一方では通俗性を極力回避しつつ、論旨の明示性を意図して書き綴りました。

あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本