法を法たらしめているエネルギーは、それ自身の正当性。
そして、こと人間の行為にとっては、正当性の根源は財産権にある(あった)。
財産権があってこそ、あなたの昨日の家は今日もあなたの家であり、明日もきっとあなたの家である。
財産権があってこそ、あなたの資源があり、あなたの不動産があり、あなたのハードとソフトがあり、あなたの知性と労働があり、あなたの創造物とカネと利潤があり、あなたの健康があってあなたの幸福感もある。
財産権があってこそ、私有と公有の区別もある。
だから刑事も民事も訴訟され、採決されうる。
財産権の定義など、無くたっていいじゃないか、みんなで仲良く暮らそうよ ─ というのは、ほとんど万民の財産権が自然にみとめられてきた日本人などの発想。
だから日本人はやさしいし、国土や民族を守るために必死にもなれる。
これをもって、日本古来の民主主義、と称揚する人さえいる。
だが、世界のほとんどの地域では、財産権をもつ人間などごく僅かで、自分の土地も家もなく、武器の自弁すら出来なかったし、まして公有財産など有るわけがなかったので、国土や民族を守るために必死に頑張るわけがない。
そんな奴らを頑張らせるためにこそ、さまざまな財産権が法という名のもとに整備され、さらにナポレオンだのビスマルクだのソヴィエトだのという名のもとにバラ撒かれていった、のではないか。
じっさい、王侯貴族の財産権(の一部)が、市民に与えられ、やがて奴隷にも与えられ、怠け者やバカや強盗にさえも与えられるようになった。
いや、法というものは権利のみならず、人間の自由を保証するためにこそ整備されていったのだ ─ と言いたいのだろうが、しかし、財産権の無い人間に自由もへったくれもあるか。
最大の皮肉は、テクノロジーの進歩というものが、モノや情報の供給流通量を増やし続け、永続的な所有よりも暫定的な借用の方がメリットが増え、コストは減っていくということ。
少なくとも、仲介委託はどんどん不要になっていくんじゃないか。
と、すると、我々の知的本能は、私有権も公有権も撤廃の方向に進んでいるのかな?
なんだか議論が循環しているようだが、でもね、ここが実に面白いところだ。
以上