2015/09/12

ネイチャーとルール (2)

先の投稿にて、人間世界のルール(法)は人間のネイチャーの収斂系ではない、と書いた。
そしたら、ひとつの反論として、アングロサクソンは自然法と判例主義に則っているから、ネイチャーとルールが「一体化」しているぞ、という由があった。
この指摘について、ちょっと考えると確かに正しいような気もするが…
いや、この「一体化」論は、「人間の雑多で不規則なネイチャーのうち、ルールに適合したものだけが法規範→自然法として残った」 という、いわば結果論に過ぎぬのではないか。

もしもアングロサクソン文化圏が、人間のネイチャーと社会秩序ルールを完全無欠に「一体化」させているのなら。
どうして英国議会にわざわざ高等法院をおいて司法判断の論拠機関としているのか?
さらに、どうしてわざわざ判例を残すのか?
また、なぜアメリカ合衆国は司法組織機関の権能の多くを独立させて、三権分立の政治システムを採っている?
むろん、事はアングロサクソンには留まらず、世界の多くの地域では司法権の独立はもとより、成文法主義をも採っている。
それどころか、人間のネイチャーと社会秩序ルールが完全に同一である(ことになっている)厳格なイスラームの世界だって、やっぱり司法機関をちゃんと設置している。
これをどう理解すればよいのか?

もし仮に、人間のネイチャーと社会秩序ルールが常に完全に一致するのなら、司法システムそのものが素より要らないはず。
むしろ、両者間にズレが起こるという前提があるからこそ、両者の補正機関として司法システムが設置されているのではないか。

そうだ、神といえば。
アングロサクソンほかヨーロピアンは、そしてイスラームは、どうして一神教を信じ、あるいは改編して、現在まで保持し続けているのか?
人間のネイチャーが社会秩序ルールと常に完全に同一のものであるのなら、神の存在などわざわざ設定するはずがない。

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ここでの鍵は、人間のネイチャーと社会秩序ルールを収める中立の第三者の設定 ─ それが、もともとは神であり、それから法規範となり、そして戦争やビジネスでいえば仲裁機能の設置ということになるんでしょうね。
どんな思念においても、Aという与件とBという要件を評定し、相互に補正し折り合いをつけるためには、更なる力点としてCをおかなければならぬのは当然のこと。

ただ、更に残された謎、というか重大な課題がある。
そもそも我々は、社会秩序ルールの側を人間の生来のネイチャーに合わせて補正すべきであったのか、あるいは逆に、人間のネイチャーを無理やりにでも既存の社会秩序ルールに合わせるべきであったのか、というところ。

ちょっと気になるのは儒教。
これなどは、人間のネイチャーの方を既存の社会秩序ルールに強引にアジャストさせてきたのかもしれぬ。
「…かもしれぬ」 などと曖昧に書くのは、じつは僕は儒教精神というものを叩き込まれたことがないし、儒教に神も法も介在しないようだから、主観的も客観的にもほとほと分からないのだ。 
たとえ朱子学や陽明学で、宇宙の理がなんたらかんたらといえども、実際の儒教文化においては、皇帝やボスを筆頭にメンツやカネに則った、いわば「当事者間のみにおける強制力」ばかりが横行しているのでは、と考えてしまうこともある。
おまえは俺に従え、なぜなら俺も先輩に従ったからだ、他に理由など無いんだ ─ うむ、本当にそういう世界であるのなら、人間の生来のネイチャーなど捻じ曲げられる一方ではないか。

儒教には、たとえば 「三歩下がって師の影を踏まず」 などというまことしやかな教えがあり、君臣の義とか長幼の序などと称するらしい。
だが、そんなこと言ってる連中自身、若い頃には師の影を踏まぬどころか師の本体を踏んだり蹴ったりしてたんだろうが。
それでてめぇが老境に差し掛かると、年下の連中に向かって 「師の影を踏んではならぬ」 なんて諭してるんじゃないのかな、ダメだよそんなの、ははは。
そういう人のもとへ、そーっとカネを包んで持っていったら、「おまえは若いのになかなかの人物だ、俺が若いころも同じことをしたもんだ」 なんて目を細めて喜んでたりして。 
これなら、儒教文化圏が贈収賄や粉飾決算と相性がいいのも納得出来る。
(ちょっとイジワルに穿ち過ぎかしら、だけど儒教には超越的な絶対正義が無いようで……)

儒教と共産主義の相性は、どうなんだろう。
共産主義そのものは極めて一神教的、つまり、最終理想形が論理的にはちゃんと定義されている。
あらゆるマテリアルの希少性が克服さえされれば、みなが幸せに生きられることになっており、それを阻害する強欲な利潤競争は悪だということになっている。
とはいえ、その理想論の実現プロセスにおいては「強制力」が必要。
だから儒教と相性がいい、あるいは儒教と徹底的に対決する……どっちかな、中共では儒教は人間的過ぎるとしていったん全否定されてしまったが。

以上

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、一方では通俗性を極力回避しつつ、論旨の明示性を意図して書き綴りました。

あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本