2015/09/06

ネイチャーとルール

① 人間はいつも二重に生きて、二重に死ぬ。
ひとつは 「ネイチャーとしての自己」 として生き、そして死ぬ。
もうひとつは、「ルールにおける自己」 として生き、そして死ぬ。

生には順番がある。
まず 「ネイチャーとしての自己」 が生き、その集合として、「ルールにおける自己」 が生きる。
だから、死にも順番がある。
まず 「ルールにおける自己」 が死に、それから 「ネイチャーとしての自己」が死ぬ。
「ネイチャーとしての自己」 が死んだら、もう社会貢献は何も出来ない。 

それでは ─ 人間は必ず 「ネイチャーとしての自己」 が 「ルールにおける自己」 に優先されるべきなのか?
どんなルールだって、もともとは誰かのネイチャーだった、それがたまたまルールになっただけさ…とみれば、なおさらルールなどは虚構であって、人間の本源は各人のネイチャーだということになる。
だが、現実世界はそうではないですね。
経緯はよく分からないが、人間はルールなるものを発明し、まずは 「ルールにおける自己」 があり、その制約下で 「ネイチャーとしての自己」 もある。

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② おもいきって学問について考えると。
少なくとも 「ルールにおける自己」 のための数学があるね。
それは全世界の皆が、ハード/ソフトの共有と効率化のために習得しなければならぬもの。
だが、「ネイチャーとしての自己」 の数学だってある、かもしれないぞ。
特定の個人だけが抱く数学、のような思念体系だ。
それが社会システムにおける 「ルール」 に貢献しうるかどうかはわからない。

音楽は、楽譜という「ルール」があるからこそ、その「ルールにおける自己」 として我々が音楽を構成出来る。
また、絶対音感という「ルール」もある。
だが、楽譜が無くても音はネイチャーとして実際に存在しており、「ネイチャーとしての自己」 がそれを活かして新たな音楽を創造しうる。
みながそれを聴くかどうかは分からない。

経済は、通貨という「ルール」があるからこそ、財貨の価値尺度もおくことができる。
また、時には通貨そのものが金や銀といった貴金属と特定のルール(レート)で交換しえる。
だが、かりに通貨が無くても、財貨の価値というものは 「ネイチャーとしての自己」 の嗜好によって随意設定、だから物物交換がいくらでも可能。
ただ、皆がその経済系に参入するかどうかは分からない。

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③ 「ネイチャーとしての自己」 と 「ルールにおける自己」 は、社会集団においてこそいよいよ区別が希薄になる。

法や代議制というのは、 「ルールにおける自己」 が集まった社会にて、みなに何らかのコストを課すシステムルールだ。
安全保障、原発なども、「ルールにおける自己」 が集まって、能力を移譲しつつコストも負担しあう社会システム。
だが、「ネイチャーとしての自己」 から見れば、各人の生理的なスペックは千差万別だ、となり、社会のルールのためにコスト負担などしてられっか、となる。
だからといってルールの存在を否定し始めたら、現状の社会システム系は成り立たない。

そこで ─ 仮に社会の全構成員の 「ネイチャーとしての自己」 は安保反対、原発反対であったとしても、「ルールにおける自己」 は国連安保や原発に賛成票、ということがおこりますね。
もちろん今にはじまった現象ではなくて、たとえば江戸時代の忠臣蔵事件だって「ネイチャー」と「ルール」の矛盾が悲劇を生んだ。

或る大手総合電機メーカが、市場経済における投資者の意思決定を公然と阻害し続けてきた。
少なくともこれは、金融証券取引法において違法行為。
あわせて、株主と経営者の利害調整をも損ね続けている。
こちらは会社法からみて違法行為。
「ルールにおける自己」 の集団が二重の違法行為を続けてきたことになる。
法の根本を理解していなかったのですよ、というのならバカであり、もちろん理解はしていたが誤魔化したんだというのなら卑劣である。
(いや、実は我々の「ルール」では収まりがつかないもっと支配的な「ルール」があって…というかもしれぬが、そんなこと言ってるからバカか卑劣のどっちかなのだ。)

それにも拘らず。
彼らが製造・供給してきた財貨は、量からみても質的な信頼性からみても、立派なもの。
とすると。
従業員一人ひとりの 「ネイチャーとしての自己」 には科学技術や市場経済への良識がある ─ と理解するしかない。

こういうふうに、「ルール」と「ネイチャー」は曖昧に併存しているから、「とりあえず」法があり、ゆえに、きっと法は各人のネイチャーそのもの収斂ではない。

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④ ただし、少なくともスポーツは 「ネイチャーとしての自己」 と 「ルールにおける自己」 がひとつに完結している
One for all かつ、All for one などという。

たとえ自分のチームがボロ負けしているとしても、「ネイチャーとしての自己」 は、「ルールにおける自己」 を実現するため全力疾走しなければならない。
それが人間の本能じゃないか。
もし、チームみんなで示し合わせて手抜きするというのなら、それは 「ルールにおける自己」 への裏切り。
かつ、「ネイチャーとしての自己」 への裏切りでもある。
つまり二重の裏切りであるから、全員を二回づつぶっ飛ばすべきなのでは?
…とはならず、それらの自己は一つに完結しているのだから、一回でよい。

以上

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、一方では通俗性を極力回避しつつ、論旨の明示性を意図して書き綴りました。

あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本