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2015/10/28

弁当箱

ぼやっと考えること。
キリスト教やユダヤ教やイスラーム教などといった一神教は、そっと察するに、おそらくは巨大な弁当箱のような宇宙像・世界像をイメージしている。

まず、宇宙と同サイズの恐ろしくでっかくて豪勢な弁当箱がある、と思いなせぇ。
その内側に、天国や地獄といった幾つかのパーティション(仕切り)がある、と想像しなせぇ。
その、それぞれのパーティションの内側には、さらに自然とか人工とかいう更に細かいパーティションがある、と考えてごらんなせぇ。
それらをもっと細かく分けていけば、国や都市や村落があり、さらにさらに内側に市があり家があり宿がある。
ちょっとはずれには、役所や議事堂や裁判所やテレビ局もあって…。

と、まあこんなふうに、いわば超巨大な宇宙世界の実体をどんどん割り算(と余り)で区分し、属性や質量を設定していけば。
宇宙と世界とマテリアルと人間は、ぎっしりと隙間なくおのおのの役割を占め、だからそれぞれの関係づけにおいてあたかも化学式のように論理的で、何の矛盾もない。
とりわけ、ある事象がおこっている場合、それがプロセスなのかステイタスなのかのリーズニングがじつにハッキリしている。

そして。
仮にどのパーティション内にも収まらないモノが起こったのなら、それは毒に違いないから排除する、ということにもなりますね。

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ところが。
我々日本人が直観する宇宙や世界はちょっと違う。

そもそも、弁当箱がない。
ふ、と見やれば、目の前にご飯があり、なんや美味そうなオカズもあちらこちらに置いてある。
ほう、と相好を崩しながら、それらをつまみ食いしていると、いつの間にか家を出ていて、通りに出ている。
その通りをそぞろ歩きしていると、向こうで素敵な音楽が奏でられていて、そっちへふらふらーっと出向いて行くと、ありゃ、いつの間にか町外れである。
おやおや、わが町の向こうに別の町が、と、更にてくてく歩いて行くと、ところどころに神社があり、仏閣があり、さらに商店街があり、企業があり大学がある。
そんな通り沿いに、自動車やバイクなどもおいてあって、それに乗って更に疾走していくと、いつしか山々を超えて海に出る…

喩えはよくないが、まるで野良猫の世界観のよう。
ともあれ、我々はこんなふうに眼前の小さな対象からだんだん広がっていく発想法なので、そもそも最大宇宙から最小ミクロまでのフォーマットなど設定する必要が無い、そんな長期記憶も要らない。
それぞれの事象が、プロセスなのか或いはステイタスなのか、そんな視座の設定も曖昧でよい。
(だから化学式や英文解釈が苦手なのかな、それも、説明する奴ら自身がプロセスとステイタスの区別を上手く説いていない。)

ぼわーん、とお化けが出てくると、ぎゃーと叫んで逃げる。
この宇宙世界にそんなものが存在してよいはずがない、とはなかなか考えない、だって見ちゃったんだから!

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彼我間にて、どっちが優れているだろうか、などとは論じようがない。
何が優れており、何が劣っておるか、外周や外苑やパーティションを設定しない我々には判定のしようがない。
ただ、食うに困らぬ世界が実現すれば、みんな我々のようになる、そんな気がしないでもない。
あるいは逆かもしれぬ、逆というのはつまり、世界中の人間が我々のような思考法を習得すれば、誰も食うに困らぬかもしれないではないか。

以上

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、通俗性は極力回避しつつ、論旨の明示性を重視しつつ書き綴りました。あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本