2016/05/25

自由・機会・フィクション


経済学や政治学はフィクションではないか、と最近つくづく考える。
その理由をごく総括的にしるす。

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経済活動の理想とは、いかなる制約も受けぬ自由な取引の追求だ。
ならば。
財貨において、価値の「相場」などあってよいわけがない。
それに、制度上の「統一通貨」が存在してよいはずがない。
当然のこと、財貨の独占の自由が与えられるべき。
そして、財貨の剥奪や破壊の自由も与えられるべきだ。

それから。
政治の理想とは、いかなる制約も受けぬ自由な権利の保証だ。
ならば。
いかなる人種民族や習俗宗派も「強制」されてはならない。
それに、意思統一された「政党」や「代議制」など在ってよいわけがない。
むろん、自由な意思を阻害する者は攻撃してもよい。
戦争の自由だってあるべきだ。

…以上はともに「自由の追求」ばかり強調し、万民の「機会の平等」を故意に無視して記してみたもの。

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人間世界の現実は、「自由追求」という根本論理によっても、「機会平等」という根本論理によっても、ぴたりと割り切れることがない。
自由の追求を寛容に認めさせつつも、機会の平等によって社会正義を貫けという。
そういえば 「博愛」 はどうなってんだろう?
こんなふうに、根本的な論理命題がウヤムヤで、現実と対応していない、となると、こういう知識や学術 ─ つまり、経済学や政治学や法律学はいまのところフィクションではないか。

フィクションだから、悪い、というつもりはない。
ただ、論理的にどれだけ追求しても、現実を説明しきれる「わけがなかろう」、と想定して本当に楽しいだろうか?
そんな知識の習得に意欲が湧くだろうか?
自分なりに洞察を推し進めていくタイプの人には、たぶん向かない。

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むろん、ウヤムヤなフィクションゆえにこそ、却って大胆な思考のヒントもありうる。
たとえば経済学でいえば、人間の需要とはいったいなにか?今のところ完全な定義が無い。
だから、需要とはカネですよなどと子供みたいな論がまかりとおる。
じゃあカネってなんだ?カネの流通量が倍になったら俺らの寿命も倍になるのかよ?…と更に訊くと、額に汗を浮かべてコソコソと逃げてしまう。
ばっかばかしい、が、このくらい『ええ加減」な話を、理知的にピシッと整合させれば、ちゃんとした学問になるだろう。

以上

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、一方では通俗性を極力回避しつつ、論旨の明示性を意図して書き綴りました。

あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本