2017/10/28

what と why

どんな愚鈍な御仁でも、何らかの物事についてその what を語ることは出来る。
たとえば、或るセンセが子供たちに元素周期表を見せながら、これらが元素でーす、と言ったとしますね。
ふーん、なぜそういう表が在るのか?と訊けば、このセンセはほわんと怪訝な表情を浮かべつつ、これらの元素が既に存在しているからだよと答える。
ほぅ?それではその元素周期は、どれも必然的で連続的な秩序なのか、非連続的な想定も混ざっているのか、そもそも電子配置数とイオン化のしやすさと周期の内外の関係は…
そんな諸々の疑問を思い立ち、神妙に問い返そうものなら、このセンセは苦虫を噛み潰したごとくで、「細かなことは次回の授業で学びましょう」 と打ち切ったり。
次回も今回もあるか、総覧だけ見せておいて論理内訳は無しってことか、そんなもん、役所の窓口や軽薄なテレビ番組と変わらないじゃないか、もう我慢ならん!

こういう愚鈍なセンコーの話を毎回まいかい小一時間も聞かされる子供たちは、きっと化学が大嫌いになるだろう。
なぜ、こんなことが言いきれるか ─ それは、愚鈍な営業マンのトークを小一時間も聞かされた僕自身が、そいつらの売り込む製品システムをもう大っ嫌いになってしまったからだ!

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あほうの営業マンが既得の what を描写するだけなら、いっさいの接続副詞を排除したランダムな棒読みに終始してもやむをえまい。
そんなもん、無視すりゃあいいのである。
しかし、少なくとも教師は何事においても why/because を想起し、学生を触発すべきではないか。
why/because にこそ論理があり、論拠があり、ゆえに思考の系があり、だからストーリーを為し、相手に意味とコンテンツが伝わるもの。
それらを聞かされてこそ、生徒たちもおのれの思考を発動させますがな。
もしかしたら、センセの説くその why/because は本当はどこかおかしいのかもしれぬ、ならばいったいどこがおかしいか、そこの疑問をぶっつけ返し、教師がそれに答えてゆく ─ これを勉強というのだ。
そして一流の教師ほど、微妙な why/because を何本も捻出しつつ、それらを子供たちにぶっつけて反論をニヤニヤと待っているものである。

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教師自らが why/because を想起出来ない、としたら、その理由は、自身にそういう思考回路ないし思考細胞が無いからか、或いは儒教だか中華だか社会主義だかの要請によって why/because の創出が禁じられているからか。
なんにしても、そういうセンコーに無秩序な棒読みの what ばかり押し付けられた子供たちは、why/because の思考ゲームを楽しむことがない、だからきっと(男女とわず)理科や数学が超大嫌いになるだろう。
俗に「理系離れ」などと指摘されて久しいようだが、これは実相としては教育による「理系離し」なのではないか、それも、聞くところによれば明治時代から(いやそれ以前から)そうだったそうな。

さて、そうやって「理系離し」の教育に晒され続けた子供たちが大人になり、たとえば営業部長になっても、電池の原理が分からなかったり、プラスとマイナスの表記が逆になっていても気づかなかったり…それでも名刺の肩書は一丁前で、社会的信用は二人前で、年収は数人前であったりする。
まあ、しょうがないよ、世の中の需要は自由、だから供給も自由、why/because を学ぶも自由、それを放棄して既得の what にしがみつくも自由、誤った what が回りまわってたまには事故も起こるだろう。
しかし。
そんな随意な what の無秩序世界にても、えてして理数系思考の人ほど「公正」だの「偏差」だのという why/because を投入して、この世の中はおかしいだの許せんだのと憤っている。
そういう意味では理数系の人間もちょっとバカなのかな、いやそうであっても、そういうバカは産業でも教育でも常に必要なのだよ、きっと。

以上

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、一方では通俗性を極力回避しつつ、論旨の明示性を意図して書き綴りました。

あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本