2017/11/14

ピアノの家

先月のこと、近所の新築住宅に越してきた家がある。
ちょっと贅沢なつくりの真っ白な木造二階家、生垣は品のある淡いジャスミンの植え込み、その隙間から庭先をちらりと覗き込めばささやかなガーデニングは小ぶりなバラであろう、芝生は見事に刈り込まれている。
夜半になると、オレンジ色の照明が白塗りの壁に映え、あったかな格調と佇まい、ピノキオやピーターパンの影絵さながらだ。

あらためて表側の門構えを見やれば、木製看板で 「ピアノ教室」 とある。
ほぅ、ピアノか。

平日の朝は、このピアノ教室の家から一人の娘が駆け出してくる。
服装や身ぶりから察すればおそらく中学生だろう、たまに路上で僕とすれ違うと、ずり落ちそうな眼鏡をきゅっと引き上つつ、気取った仕草で速足に、市街地方面行きのバス停に向かってゆく、これがなかなか可笑しくて堪らない。
とはいえ、近所だからといって馴れ馴れしくするとおかしいだろうから、と、彼女も考えているだろうから、そっけなく素通りする。

そういえば。
あの娘は、あの家でピアノをつま弾くことがあるのだろうか。
そもそも、「ピアノ教室」 と冠している以上は、母親がいわば講師であろう、としたら、あの娘はピアノ演奏をいっさい禁じられているのかもしれぬ。
あんたが弾いたら、下手っぴーなピアノが近所に聴こえちゃうじゃないの!ダメよ、ダメダメ!…などと諭されていたりして。

いや、それよりも。
これまで幾度となく、あの家の前を昼にまた夕刻にと通りすがったことがあるが、ピアノを演じているのを聴いたことがない。
ははん、もしかしたら、看板は出してはみたものの、まだ越してきてから日も浅いので、受講生は居ないのではないか。


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あの娘は毎日、学校から帰宅するやいなや母親に尋ねている、かもしれぬ。
ねえお母さん、ピアノの受講申し込みは有った?などと。
ううん、まだ無いわよ、気長に待つことにするから、あんたは気にしなくていいの、と母親は素っ気なく答えるだろう。
でも ─ とあの娘はちょっと怪訝そうに問いただすかもしれぬ ─ ピアノ教室がうまくいかなかったら、うちのピアノは売っちゃうの?
ばかね、と母親は軽く嘆息しながら諭すことだろう、そんなこと心配しなくてもいいのよ。
でも、お母さんはせっかくピアノが上手に弾けるのに、なんだか可哀そう。
もう、そんなことは気にしちゃダメ、ねえ、あんたは勉強さえ頑張っていればいいの。
そう言いつつ、母親はレースのカーテンをさっと開いて、夕陽の採光に室内を照らしつけ、ちょっとだけため息をつきながら…

そんな母親の背中を見ているうちに、あの娘はきっと堪らなくなって口走るだろう、ねえお母さん、いつかこの家にも住めなくなっちゃうの?
そんなことはないのよ、と母親は踵を返しながら口早に反駁するだろう、そんなことはないの!さあもう自分の部屋に行きなさい、ちゃんと宿題を済ませなさいよ!それが済んだらお台所を手伝ってくれる約束でしょう。

あぁ。
もしもそんなふうな実情だとしたら、あの娘の胸中、いかばかりか。
そして、だ。
もしもだよ、そんなおりに、こんなふうなe-mailがあの家に届けられたら、どのような素敵な展開を見せるだろうか…。

『拝啓
初めてお手紙を差し上げます。私は御宅近郊に住む一介の男性で御座います。御宅にてピアノ教室を運営されている由を拝見致し、一筆執らせて頂きます。
私には中学生の姪が有り、本人曰くピアノに熟達しておるところですが、彼女が此度の冬休みの期間、我が家に滞在することとなりました。しかし生憎ながら弊宅にはピアノが有りません。そこで、誠に唐突なお願いとなりますが、当該期間に限り御宅にて彼女にピアノの練習機会を頂けぬものでしょうか?
本旨、もし御受け頂けます場合には、本心にご返信賜れば幸甚に存じます。
尚、私の実名及び住所はとりあえず開示を猶予頂きたく。理由は、弊申し出をお断り頂いた場合の貴方様及び私自身の心苦しさを勘案致すが故で御座います。 以上、乱筆無礼ながら要件まで。  敬具


もし、僕がこの文面のメールを本当に発信したとしたら ─

受け取った母親は、きっと最初は大いに慮り、しばし疑いまた穿ち、ふっと失笑し、それでも、ああもしかしたらこのメールの主旨は真実かしら、もし真実であればなんて素敵なことかしらと、幾度となく思いを巡らすことだろう。
そして一夜が明けると。
翌朝、あの家の娘はいつもよりも溌剌と、もう跳ねるような足取りでバス停に向かってゆくに違いない。
なぜなら、無論のこと、あの娘は母親からメールのことを聞かされて、ほぅらやっぱりあたしのお母さんは偉いんだ、世の中にはちゃんと見てくれる人がいるんだなどと自尊心でいっぱいだろうからだ。
そんな刹那にすれ違うこの僕こそが、母親にメールを送った善意の匿名者であろうとは、この娘はついも悟ろう訳が無い、それでよいのだ。

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以上のようなことを僕なりに勝手に想像しつつの、今朝方のことである。
またも、この娘とすれ違った。
すれ違いざまに、彼女は、つい、と僕に一枚のチラシを差し出した。
「あのぅ、これ、読んで下さい」
「なんだ、これは?」 ドキリとしつつも、僕は訝し気に問うた。
「うちの宣伝です。うちはピアノ塾をやってるんです。現在、生徒を募集中なんです」
「へぇ」
さりげなく答えてはいたが、この時、僕は心臓が早鐘を打ち始めたような切迫感に駆られていた。
これはなんということだろう…あたかも、ピアノの鍵盤におそるおそる指を置いて音階を確かめていたら、そのピアノが勝手にソナタを弾き始めてしまうような、そんなふうな驚きである。

いや、しかし。
しかしあくまで、僕は素っ気なさを貫くことにしたのである。
「あのぅ、ご家族に、ピアノに興味がお有りの方は」
「おい、君」 と僕はつとめて静かに言った 「こういうものはね、君じゃなくてご両親の仕事じゃないか。君はこんなことしなくていいんだよ」
「…」
「だから、このチラシは受け取れない。分かったね」
彼女は黙ってそれを手にすると、小さくちいさく折り曲げながら、ちょっと顔を高揚させつつ、すいませんでしたと小声で謝り声をあげた、かに見えた ─ それから突然駆け出していった。

その姿をしばし見送りながら、僕はほんの一瞬、猛烈な後悔を覚えていた。
じっさいのところ、僕の姪っ子はこの冬に我が家に逗留するかもしれず、そうであるのなら、この娘のピアノ塾に通わせてやりたいと、これは僕が本気で考えていることである。
この由を、あの娘に伝えてやったなら…そうしたら、あの娘はどんなにか喜ぶだろう、僕の姪っ子と出会い、母親の前でピアノの演奏を競いあい、そして楽しく合評しあう、そんな日をあの娘はきっと無邪気に空想し、さぞや楽しみに待ち焦がれることだろう ─ 

いや、たとえそうであっても。
そうであっても、やはりこの話はどこまでも母親に筋を通すべきだろう、と僕はすぐに思い直して、この娘には何も話さないことに決めた。
思念と現実は、幾重にも折り重なり、また入り組んでいるもの、そこを峻別し、現実の切片にて折り合いをつけるのが大人ってもんだ、と僕なりに考えている。


おわり

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、一方では通俗性を極力回避しつつ、論旨の明示性を意図して書き綴りました。

あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本