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2018/03/05

学力偏差値の素晴らしさ

たとえばだが、福澤諭吉(先生)が現代の大学入試問題に挑んだとする。
きっと、ろくな点数は採れないだろう。
そこから偏差値を測定すれば、やっぱり低いだろうな。
にもかかわらず、だよ、現代のほとんどの大卒よりも、福澤諭吉の方が知的業績は遥かに偉大である。
これは何を意味するのか。
知識には、時代を(つまり時間を)超えた完結性など無いということだ。
完結性が無いのだから、連続性も無い。

つまり、学力偏差値ってのはね、或る特定範囲の知識量を、或る特定のタイミングのみで計測しているに過ぎないわけ。

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次に、学生諸君は自分の学力偏差値を自分で選択し、指定することが出来るのか?
たとえば、俺は国語の偏差値が50前後しかないが、これはみっともないから、お父さんに頼んで偏差値65チケットを購入することが出来るのか?
出来ないね。
では、大学側はどうか?
うちはそこそこ名の知れた私立大学だから、偏差値50の馬鹿なんか絶対に入学させないぞ、と、受験生の偏差値を指定出来るのか?
出来ない。
(センター試験はどうなんだ、というかもしれないが、センター試験の点数が受験生の日頃の偏差値と一致するってものでもない。)
さらに、学生諸君ないし大学は、駿台や河合塾あたりに対して偏差値の算出方法を指定しているのか?
していない。

つまり、学力偏差値ってものは、学生諸君が選択し指定するものではないし、大学当局が指定するものでもない。
特定の業者が特定のタイミングで知識量(の再現性)を測定しているに過ぎぬ。

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全国の大学受験生が、社会階層も人種民族も分け隔てなく、或るタイミングせつなせつなの確実な知識量のみを順位付けをする、将来の世界などどうでもいい、そして、偏差値算定業者は学生からも大学からも隔絶された正義の機関である ─ 
これが日本の学力偏差値というもの、これほどまでに「民主的」なゲームは他にあるまい。
たとえば欧米では、人間を生まれつきでクラス分類、そうでなければ、突出した潜在能力を極度に重用するという、つまり不平等きわまる知力評価がなされているようだ。
さぁ、我々日本人は、全国一斉学力偏差値の民主主義的な精神性を欧米にも大いに自慢してやろう。

以上
(ははははは。バーカ。)

謝辞

ここに提示の記事は、いずれも私自身の判断責任のもと編集・投稿したものです。

大半の投稿は学生など若年層向けを意図してやや平易な表現にて、通俗性は極力回避しつつ、論旨の明示性を重視しつつ書き綴りました。あわせてまた、社会人の皆様にお読み頂くことも想定しつつ、汎用性高い観念知識を相応に動員しながら記した積もりです。

私なりの思考着想によるささやかな閃きが、皆様の諸活動にて何らかの光源たり得れば、望外の喜びであります。

山本