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2025/06/13

【読書メモ】 融けるロボット

『融けるロボット 安藤健・著 NPO法人ミラツク 

もともとロボットは一瞬一瞬のインプットコマンドごとに呼応しつつ精密な反復アウトプットを体現する機構系である。
これら連続精度を以て、そのロボット導入による「効用(benefit)」を論じてよかろう、そしてバラついてしまえば効用は小さいことにもなろう。
そして「効用」は某かによって為される'供給力(量)'でもあるが、同時にまたそこから反作用的にまた派生的に生じる'需要力(量)'ともいえ、かようにして関係当事者は増えてゆくので、いずれ社会全般がロボット化されうる。
…といったところが僕なりの要約でありかつ所感である。

さて、本書にてはロボットによる「効用」をヨリ多元的に切り分けている。
たとえばハードウェア物理特性、ソフトウェア論理、自律性と拡張性と環境要件、全体最適と部分最適、エネルギー損得からカネ勘定まで ─ さまざまなプリズムを通しつつ段階的に事態分析を進めている(ようである)。
しかしながら本書の主要メッセージのひとつは、自動化~事業化~社会全般まで諸々の「効用」を相乗的に接続し拡張させる新観念、『ロボット・トランスフォーメーション RX の追求』であろう。
むろん一方では、マクロな横軸を貫いた辛辣な批評も随所に見られ、これらは警告性が高い。
たとえば、ロボットの数理判断力と感覚・運動能力がむしろ反比例しうる由を論う’モラベックのパラドックス’などの引用、などなど。

本書の楽しさは、多元的な分析眼よりも、むしろロボット規格~開発~導入事例の豊富さそれら通じてのロボット・トランスフォーメーションの未来像、に見いだせよう。
具体的事例なればこそ教訓もさまざま、よって是非とも学生諸君や若手社会人に紹介しおきたいと思い立ったところである。
※ 付言しおけば、僕自身かつて電機メーカ在籍時に(ロボットとまでは行かぬまでも)さまざまな自動化システム機器の拡販に携わった経緯あり、それら自動化システムがもたらすさまざまな「効用」についての顧客たちとの論争は今も記憶に新しく、これもあって本書におけるふんだんなロボット投入レポートはなかなかエキサイティングである。

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<本書におけるロボット導入事例を幾つか掲げおく>


・1つの木に複数の実を成す作物の収穫作業にては、従来はどうしても’不適格なサイズ/不適格な時期’の実を棄てざるをえなかった。
しかし、ここでロボットが実のサイズと時期を精密に峻別しつつ収穫出来るようになれば、不適格な実を廃棄するどころかむしろさまざまな実を活かしつつ徐々に収穫出来るようになる。
これが上手くゆけば、総じてこの作物の収穫量は増えてゆく。


・豆腐の梱包作業にては、ロボット起用によって作業精密化が増すのはむろん、高温の豆腐をいちいち冷ますことなく直に掴んで梱包続けること可能にもなる。
これによって、梱包され販売される豆腐の鮮度(衛生水準)が高まることになる。


・牛の搾乳にては、乳牛の体調や生理データをロボットが’センシング’し蓄積可能。
これらデータを元にして、これら乳牛の受胎から繁殖まで管理し効率化図れる。


・病院内での各患者への薬剤の配送作業は、患者ひとりひとりの容態によってさまざまありうる。
ここで、調剤から配送までさまざまな作業パターンと所要時間を従前にスタディの上で、これらを配送ロボットに学習させることが出来る。
これにより、これら配送ロボットに’どこまで任せうるか’(どこまで人手が担うか)を人間側がいつでも確認可能となり、よって最適な調剤~配送パターンを見出すこと可能。


・空港内にては、身体の不自由な人々の移動サポートが義務化されており、車椅子によるこれらの人々の搬送の’完全自動化’が最適解のように見做されがちではある。
よって、精密な走行可能なロボット車椅子こそが望ましいと。
しかし、車椅子利用者は必ずしもロボットとの直接コマンド入出力を望んでいるわけではなく、むしろ「人間との」の応答を求めている。
よって、たとえばこれらロボット車椅子に人間が同速度で随行するなど、フレキシブルな’共存型’システム実現こそが求められ続けている。


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以上、あくまでほんの一端ながら、ちょっと要約紹介してみた。
他にも、リモートセンシングを活かしつつ距離と時間を克服するロボット、それらとの共存や功罪判断などなど、なかなかの頭の体操たりうる事例が続々だ。


※ なお、上でも触れたとおり僕は電機メーカの営業あがりゆえ、ロボットについては僕なりに更に想像力が大いに掻き立てられる。
極端な未来像をふっと想像たくましく描いてみれば ─ たとえば、特定の元素(電荷や電磁場)それ自体がコンピュータ/ロボットとして活かされる日が来るだろうか、そんな物質がありえようか、液体や気体としてならどうか、人体細胞レベルで駆動するウルトラミクロロボットはありうるか、などなど。
これらロボットがいつか出現したとして、人間との役割/責任分界はどうなるのか、社会はどう変容するのか…通貨媒体は??



おわり

2025/06/03

【読書メモ】 数学x会計

じっさいのところ、物質やエネルギーの実在「量」と、カネの「数」が、マクロ/ミクロにて比例関係に在ったためしが有っただろうか…。
あくまでも、物質やエネルギーの「量」を「数的に」価値表象化する媒体がカネではないか。
たとえ国民所得ベースでヒト・モノ・カネの三面等価が成り立つと表現できても、あくまで一律カネ換算した「数」表現にすぎぬ。
こう考えると、カネ換算とカネ計上は物質/エネルギー「量」とは同期をとりえないのではないかと、なんだか心許なくなってしまう。

それでも、カネ計上に則った「会計」は厳として全世界でほぼ統一的に成立し続けており、国民所得はもとより財政も企業経営も国際収支も「数的に」ビシッと取り仕切っている。
そして「会計」の精密さを保証しているのが「数学」のはずである。
しかしながら「数学」は(とくに証明は)しばしば残酷なもので、「量」も「数」もあっちへこっちへ変換自由自在、しかも人間の常識をしばしば突き崩しうる思考方式であり……

ここいら、常に頭のどこかでグルグルと巡り続ける思念ではあるが、どこかでとりあえずの’けじめ’をつけたいものではあった。
とはいえ、数学論そのものから分け入ってしまうと、「量」次元と「数」次元がむしろウヤムヤになりそうな気がするので、ここはもっと謙虚に「会計」の側からエントリーしたいところではある。
そこで見つけた一冊がこれだ。
『数学x会計 金子智朗・著 税務研究会出版局

本書は要するに会計数学の概括所。
総じて原則論に則って書かれたものゆえ、高校履修の政治経済程度の知識があれば大半の読解は困難ではない。
貸借対照表における資本(これから起用されるカネ)と資産(すでに売買されちゃったモノや知恵)、国際収支におけるそれら、そして個々の取引プロセスにおける損益計算書…どれも我々一般社会人にはお馴染みの系である。


さて此度の【読書メモ】としては、これら第2章と第3章のコンテンツを総攫いし、やや論旨を入れ替えつつ、以下に要約する。




< Part-I  ’会計の基礎’>
さりげない導入部にも映るが、以下のような軽妙な(かつ深淵な)解説が呈されてはいる。

・或る取引における損益分岐を分析するにあたり、「算数」と「数学」、どちらが'実体’を多元的に含み合わせうるか?
「算数」ならば、売価(買価)や変動費などなどさまざまな次元の’実体’の変動分を複合させての複雑な算出が必要になってしまう。
一方で「数学」はといえば、代数の起用と法則化によって「数」の次元統一を成し、最適統一解を容易に導くことができる。
この簡潔さ明瞭さを以てこそ、「算数」ではなく「数学」が会計にて起用されている由。

なお、本書<Part-II 数学と会計>の前半部にても、代数と法則化による「数学」の単純明瞭なパワーについてさまざま呈されている。

※ ところで、カネの予算化や差配にては、つるかめ算と代数方程式どっちが向いているのかなと、僕などはちょっと穿ってしまう。


・事業活動にて、収益と費用を’経済的事実の発生’に準じて計上する会計が、「発生主義会計」方式である。
一方で、’カネの収支’に準じて計上するのが「現金主義会計」方式。

「発生主義会計」が成立する論拠は;
事業取引にて当事者間で’収益認識基準’が共有されており、これに則って権利/義務の信用取引が当事者間で確定している ─ と見做しうること。
かつ、さまざま費用は収益獲得のための’犠牲であるが損失ではない’由による’費用/収益の対応原則’も一応は成立しうること。
じっさい、現行の企業会計における「損益計算書」は、原則として「発生主義会計」に則っている。


・資産/負債の原価と売上額にては、原則として「取得原価主義」が採用されている。
「取得原価主義」は;
或る資産の購入代価と付随費用を以てその資産の’取得原価’とする
この資産/負債の取得時の支出額に則って、’売上額’を画定する
この資産/負債の保有期間中は、時価変動による評価替えをしない(だから時価会計方式は採らない)
じっさい、「貸借対照表」にては「取得原価主義」が採用されている。


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<Part-II 数学と会計>
かなり実践的な例題もふんだんな章だが、僕なりに了察しやすかった箇所を幾つか要約してみた。


・Return on Invested Capital = ROIC の意義と解釈。

まず、事業利益を 'Earning before Interest and Tax = EBIT とする。
これが資金提供者への還元原資であり、また支払利息控除前の利益でもある。
ここで、利益が課税Tの対象ゆえ、税引後の利益は EBIT(1-T)
ここから、債権者へ利息分を払えば、当期純利益。
これが株主還元されてゆく。
以上から、ROICの立式は、EBIT(1-T)  / (有利子負債+株主資本) であり、論理矛盾は無い。

さらに、経済的付加価値 Economic Value Added = EVA を任意に設定する
また、加重平均資本コスト Weighted Average Cost of Capital = WACC これは債権者への利息、かつ株主への配当と株価でもあるとする。
(この内訳は、負債コスト、株主資本コスト、有利子負債、株主資本、実効税率であるが、面倒なので関係式は略す)。

これらを、上述のROICおよびEBITと絡め合わせると、
EVA= EBIT  x (1-T) - (有利子負債 + 株主資本) x WACC
変形すると、
EVA =  (有利子負債 + 株主資本)  x {EBIT(1-T) /  (有利子負債 + 株主資本)  - WACC}
=   (有利子負債 + 株主資本) x (ROIC - WACC)
ここまであくまでも不変のEVAに拠っているならば、債権者と株主への分配が同列になされているはず。
そして、ROIC > WACC であるならば EVA > 0 となる。


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・定率法による減価償却の可否

或る固定資産のn年目の簿価を Cn とし、償却率を r とすると、
(n+1)年目の減価償却費  Cnr
(n+1)年目の簿価  Cn+1  =  Cn - Cnr  =  Cn(1-r)
等比数列表現すると
 Cn  = Cn-1(1-r)  =  Cn-2(1-r)2  =   Cn-3(1-r)3   ……    C0(1-r)n

ここで、この資産の耐用年数を n年とし、残存率を定率Sとすると、償却率は
 C0(1-r)n  =  S
(1-r)n  =  S/C0
ここで r を求めるのに n乗根すると、
1-r  = n√(S/C0)  から、r = 1 - n√(S/C0)
この償却率計算は、かつて資産の残存率Sを一律10%と見做す上では矛盾無かった。

ところが現在の会計では、資産の残存率を原則として 0 としている。
そこで上の定率Sの式にて S=0 を代入すると r=1 になってしまう ─ つまり1年目に全償却することになってしまう。
そうでなければ、簿価Cnが0に収束することはない。
つまり、定率法にては償却率を有効に導くことが出来ない。
そこで定率法ではなく人為によって償却率を決めている次第。


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・量産効果の真実

或る製品の製造コストの内訳として;
1個あたりの変動費 v
固定費の総額 f
製造数量 x
製造コスト総額 C
製品1個あたりの単位コスト  y 
ここで、どの製造ロット分も完売するものとすれば、
C  = vx + f
y = C/x = v + f/x 
変形すれば、
y - v  = f/x
これは 直線x=0 と 直線 y=v  の両者を漸近線とする双曲線を成す。

ここで、実際の製造量は x>0 のはずなので、製品1個あたりの固定費はどんどん少なくなる。
それに伴い、製造単位コストは究極的には変動費のみとなるはず ─ これが一般には量産効果とされている。
ところが、じっさいは総製造コスト  C  = vx + f  は必ず右上がりとなり、これは固定費総額fがどれだけになろうとも変わらない(?)


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ざっと、本書 Part-I および Part-II のごく一部を掻い摘んで僕なりに記してみた。
本書はどこまでも数学に則った会計本ゆえ、ところどころ論理の意外性、証明と反駁、そして実社会における制度矛盾など、我々の先入観を突いたり覆したりのスリルが味わえる。

本書については、ひとえに会計分野を目指す学生諸君に留まらず、また文系分野の「数と論理のゲーム」に過ぎぬと辟易することもなく、多くの読者にチャレンジ進めたい一冊ではある。
ただし、上でもちょっと取り上げたWACCやROICなど内訳や差し引きの混み入ったタームについては、数学慣れした上で果敢に挑むべきでもあろう。
僕はそこまでの執念は無いし、しかも数学に接し続けていると疲れてしまうので、このあたりでいったん本書を書庫に収めることとする。


(おわり)

2025/05/07

【読書メモ】 SIZE サイズ

『SIZE サイズ   バーツラフ・シュミル著  NHK出版

本書は物質文明論。
随所に指摘するところ、ざっと概括すれば ─
・人類は科学技術~ICT技術とそれら産業化を通じて、さまざま物質のサイズ極大化から極小化まで実現してきた。
・国家サイズや人口密度などいわゆる規模の経済も、さまざま物質~製品のサイズを大いに策定しかつ貢献してきた。
・ヨリ源泉的には、我々人間自身の認識センスもサイズ感の重大な本性たりえる。
・これらさまざまな物質のサイズを物理的に解きほぐせば、形状規模と集積度合いと有限性といった属性に回帰可能、それらの相乗ないし相反についての分析も可能であろう。
…といったところではなかろうか。

なるほど著者自が吐露されているとおり、本書は物質文明についてかなり幅広く論考を進めているため大雑把な論旨に留まってはいるものの、それでも本書のスケール感や果敢さはなかなかのものだ。
『世界の真実は「大きさ」で分かる』とのサブタイトルもけして名前負けしてはいない。


なお、本書前段部にてはハッキリと読み取れぬサイズファクターについても、僕なりにちょっと思いついた。
例えば、さまざま物質の位置エネルギーと、一定の仕事ごとのエントロピー、循環と散逸、これらはサイズとどう関わってくるのか。
そして、工業製品における物質間の「バラつき」や構造上の「冗長性」などとはどう関わってくるのか。
さらに、宇宙全般を遠大にふまえての物質「超連結性」まで論考を無遠慮に拡張するとどうなるだろうか。
一方では、さまざまな’情報’データとそれらの量をどう捉えればよいのか。
野心的な読者としてここいらもそっと留意しつつ本書を読み進めてみるのも一興か。

さて本書ではとくに前半の第1章と第4章にとりあえず着目してみた。
上に僕なりに概括した、さまざまな物質の形状規模・集積度合い・有限性における相乗ないし相反(とくに工業化)につき、これら第1章と第4章こそが端的に指摘していると察せられるためである。
よって、此度の【読書メモ】としては、これら第1章と第4章のコンテンツを総攫いし、以下に要約する。




・物理上の基本的な用語定義としては、物質の長さ、面積、体積、質量、エネルギーなどを(’ベクトル量’ではなく)あくまで’スカラー量’次元で客観表現すべく、さまざまなサイズ表現が起用されている。

・海岸線や国境長など巨大かつ複雑に入り組んだフラクタル構造は、尺度の精度によってサイズがかなり異なってしまう。

・自然界におけるさまざまな生物種は、サイズと形質が左右対称の正規分布(ベルカーブ)をとる。

・さまざまな生命種は身体サイズを大型化することで捕食者への防御力を高めつつ、また自身の食糧の種類も増やしてきた。
大型化は進化であったともいえる。

・しかしながら自然界全体を見渡せば、微生物あってこそ、極めて多様な共生系が成立していることにもなる。


・工業社会にては、我々は製品の精密な画一サイズを予想すればこそ、それら製品の需要と供給が精密かつ高速に一致出来、これが経済成長を進めてきた。
経済成長によって市場サイズが大規模になればこそ、人口が集中し、職種が著しく細分化され、だから多様かつ多大な経路を経ていよいよ大規模に経済発展する ─ はずである。


・利用可能な’エネルギー’サイズこそが、人間の’余力’を大いに高めてきた。
18世紀末、ひとつの水車あたりの出力は16馬力≒12.5kW程度、19世紀なかばにようやく5倍以上になった。
第一次大戦後、内燃機関、蒸気タービン、ガスタービンなど原動機が大型化し、エネルギー出力量が増大。
現在の小型乗用車に搭載されているガソリンエンジンは130馬力≒100kW以上、これがSUVやピックアップトラックだと200~250kW。
大型外洋船タンカーの2ストローク型ディーゼルエンジン出力はとてつもなく巨大で80~90MW。
ボーイング747のジェットエンジンにおけるガスタービン出力も90MW。
現在の発電所における蒸気タービンの最大出力はもっと巨大で1000MW以上。

・自動車や船舶やタービンなど原動機は、むしろ半導体素子の超小型化と相まってこそ、巨大化と製造が可能になってきた。
(コンピュータ~ソフトウェアによる貢献は多大である。)

・1800年時点での高炉と比べ、現在のそれは内容積が60倍に巨大化し、1日あたり鉄鋼生産量は3000倍となった。
※ここでいう鉄鋼は高炉抽出の銑鉄の意か。

・1900年時点での最大の水力発電所と比べ、現在のそれは設備容量≒電力量が600倍以上になっている。

・1900年頃と比べ、現在のアンモニア合成量は1000倍以上に増えた。
このアンモニアによって製造された化学肥料こそが、農産物の収穫量を増やし、また飼料作物の栽培に多大な土地を充てられるようになり、我々は動物性タンパク質を多く摂取可能になってきた。。
※ なおハーバーボッシュ法による空中窒素の捕捉により、生物間を循環する窒素も2倍になっている。

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・実体経済において、工業設備や工業製品が無限大に巨大化(微細化)することはない。
理由は経済効率もさることながら、物理上の制約によるところが大きい。

大型外洋船タンカーのうち、原油タンカーのDWT(載貨重量トン数)は第二次大戦後には2万DWT程度、1959年に10万DWTを超え、70年代初頭に30万DWTを超えたが、1975年に進水のシーワイズジャイアント号56万4763DWTが現在までの最大スケールである。
タンカーの更なる大規模化が放棄されてきた理由は、巨大な重量によって喫水が深くなり過ぎ、パナマ運河やスエズ運河やマラッカ海峡を航行出来なくなってしまうため。

風力発電の大規模化が進まぬ理由も、物理上の制約に大いに因っている。
風力タービンのブレードの素材と形状と厚さを維持しつつ、これらサイズの大型化を図ると、総重量はその3乗に比例して巨大になってしまう。
なんとか技術開発にて素材自体の軽量化を図ってはきたが、全長107mで重量が55tのGE製のタービンブレードがこれまでの最大サイズであり、これ以上のものは製品化されていない。

現在のトランジスタ/マイクロチップの集積度と速度性能は、超微細化の限界にさしかかっている。
CPUの動作周波数は、1994年には100MHz、2004年には3GHzとなったが、消費電力(熱)の微小化が呼応しきれなくなり、そのご5GHzが上限となっている。
フォトリソググラフィ技術による回路図転写により、2020年時点でのトランジスタの線幅はわずか5nmにまで微細化されており、さらに2nmのトランジスタ開発製図も図られてはいるが…

※ 本箇所はとりわけ大雑把な描写に留められておるため、やや真意を捕捉し難くもあるが、マイクロチップ集積化と微細化と電力と熱量の絡みなどは学生諸君には大いに関心を払ってもらいたいところではある。


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以上、僕なりに要約的にまとめてみた。
なお、第2章から第3章では人間工学と入出力情報の相関および建造物の対称性などを論考されているが、ここいらはまたあらためて読み進めていくつもり。



おわり

2025/04/13

大学新入生諸君へ (2025)

大学新入生向けのメッセージを記す。

※ 過去数年のうちに綴ってきた内容と似通ってはいるが、ヨリ多元的ないし総論的にまとめてみたつもり。


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宇宙の成りようは、さまざま物質とそれらのぶつかり合い。
始まりから現在まで、「必然」の物質秩序によって「必然」の運動と作用/反作用と仕事がぎっしり繋がっているという。

しかし、生命物質の出現あたりからは宇宙の必然に抗した「偶然」の事象ともされており、だから我々人類がモノを考えたり操作したりも「偶然」に過ぎぬのではないかと思い悩むことも出来ちゃう。

我々は我々自身をどこまでも「自然の実体」として認識している。
そんな「実体ボディ」「実体ブレイン」の我々こそが、宇宙や自然を「実体」として畏敬し、それら「実体」の運動による爆発や大地震や防風雨にひれ伏さざるを得ない。
「実体」と折り合ってこそ、我々は月だろうが火星だろうが到達しうる。

しかしだぜ、ここでも我々は贅沢な思考貴族たりうるんだ。
「実体」に呼応し比例しているかのごとく、我々人類は「表象」もさまざま発明し、これら「表象」を「実体」に織り交ぜながら’自然科学’を表現し、'経済学や法律学'も表現し、’文明'を作ってきた。

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さてお立合いだ。
君たちの大好きな、物理学(力学)上の真理のひとつが、運動方程式 ma=F であろう。
これは「必然」の関係式か、或いは「偶然」の可能性にすぎぬのか?
物理経験則に拠ったものであり、しかも等式表現なのだから「必然」に決まっているだろうが!と気色ばむのが普通の高校生であり大学生でもろう。

さて、この運動方程式にて、mは物質物体の質量を(慣性ともども)表しており、だから「実体」の「力」そのものであるとしよう。
しかし加速度aはどうだろうか、これは「実体」そのものにはあらずして、あくまでも位置と経過時間から間接的に導かれた「表象」ではないだろうか?
とすると、むしろこの等式全体そのものが「表象」に過ぎぬのではないかと。

ここまでひっくるめると ─ 運動方程式ma=Fは「必然」そのものの物理系でありつつも人間流の「表象」に過ぎぬということになる。


まだある。
理想気体の状態方程式 PV=nRT は「必然」を表現しているか、それとも「偶然」込々の絵柄に過ぎぬのか…もちろん物理経験則に準じているのだから「必然」の塊に決まっていよう。
そして、これは熱つまり分子運動量の基本的構造と状態、だから「実体」だ ─ と映る。

しかし個々に捉えるとどうだろうか。
なるほど圧力Pは分子「実体」の「力」の量である。
モル物質数nは言わずもがなだ。
しかし体積Vはあくまでも分子の位置とサイズでしかない ─ これを「実体」の「力」そのものと捉えてよいものか。
さらに、温度Tは物質の運動エネルギー(キャパシティ)に呼応した尺度、よって、上に挙げた運動方程式と同様にこの運動エネルギー/仕事も(加)速度を併せ準じたもの ─ これを「実体」の「力」そのものと見なしてよいものかどうか?
ましてや、気体ごとの定数Rは両辺の帳尻合わせの数、だから「表象」でしかない…


以上のように捉え直してみれば、上に挙げた運動方程式にせよ状態方程式にせよ、「実体」の「力」そのものは質量mと圧力Pとモル物質数nのみではないか、そして関係式全体としてはあくまで「表象」に如かずではないか、と映らなくもない。


何をおかしな難癖つけてんだ、と訝しく感じる大学生も多かろう。
しかしだ、思考考察の対象がたとえ「必然」の物理系であろうとも、SI単位系にてどう組み上げられようとも、人間の便宜によって表現されればすべて「表象」に過ぎない。
そして、たとえ数学が必然のみの思考系であるとしても、数学そのものがあくまでも「表象」の組み合わせに如かずだ。


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ましてや、「必然」か「偶然」かすらも判別できぬ事象については、「実体」を確定しがたい。
そこで、とりあえず何もかも人間業による無節操な「表象」発明によって表現しちゃう…そんなこともありうるわけだ。

その悪例が経済学や政治学、かもしれぬ。
俗に、風が吹けば桶屋が儲かるなどというが、このような複合利害を一本道の「必然」で説明しきる方程式や恒等式はたぶん無い。
無いのをいいことに ─ 化石燃料によって地球が温暖化しウィルスがワクチンがトランプ関税でコメが値上がりし消費税がああ為替金利がああ円高がああ議会制民主主義がダメなんだなどと。
もうどれもこれも宙に浮いた「表象」表現となってしまい、ましてやカネと多数決がわんさか混じるから、もっともっと「表象」化ひいては虚構化がすすみうる。

高校までの世界史が難解極まる教科である理由もここにあろう。


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野暮になるので、もういちいち論うのはやめておく。

ともあれ大学の新入生諸君には、おのれが対峙する事象が「必然」の塊なのかあるいは「偶然」のウヤムヤなのかを、まず見極めて欲しい。
その上で、我々自身がそれらの「実体」性にどこまでも同期をとれるのか、或いは人間なりの「表象」表現を続けているにすぎぬのか、常に意識して欲しい。

この二段構えでさまざまな物事に当たれば、少なくとも虚しさに苛まれることだけは無かろう。


以上

2025/04/05

新卒社会人の皆さんへ (2025)

新社会人の皆さんに伝えおきたいことを、ちらっと記すことにする。
僕なりにここ数年ほぼ同じようなことを考えており、着想も問題意識もほぼ変わっていないので、今回も昨年以前とほぼ同じ内容だ。


企業組織にて、或る物質から成る或るモノを新規に作ってこれを複製して転がしてゆく過程で、価値が増えただの減っただのと称される。
さらに、信用が上がったり下がったり、そして株価が上がったり下がったりだ。
企業務めの新人が分野問わず最初に訝ったり煩悶したりするのがここだ。
しかし、価値や信用なるものは、どこまでも実体と非同期の暫定的な人間都合でしかない。
ここのところ、シンプルに解説してみる。
(いいとか悪いとかは一切論じませんよ、そういう価値判定はどうでもいいの。)


そもそも大人社会で大いに威力を発揮している根元的かつ端的な学術思考、すなわち物理(学)経済(学)について、ごく簡単な比較をはかりつつ大人社会の不可思議さを論ってみよう。

※ とくに文系卒で技術産業に就職した人たちは、暫くは製品(モノ)と価値(カネ)にまつわるさまざまな方便に失笑したり思い悩んだり、そんな日々がしばらく続きうる。
僕自身がそうだった。


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物理学はあらゆる物質/物体の運動とそれら仕事/エネルギーの変化と保存則とエントロピー増大を考察対象とし、これらを再現的に捉えて語る。
再現性を語るためにこそ、必ず数学に則っている。
数学が有限が無限かはさておくとして、物理は一応はあらゆる実体の有限性と保存性を記述する ─ ことになっている。
コンピュータプログラムさえも、ブロックチェーンでさえも、電磁波の変化として捉えてみれば物理学の考察対象である。
人間の脳神経も遺伝子もやはり物質なので、物理学のうちにあるのは当然である。

では経済学はといえば、こちらも物質/物体や運動や仕事/エネルギーの変化を捉え、これらについての再現性を語る。
やはり再現性ゆえ、数学に則ってはいる。
それなら物理学そっくりじゃんと納得するかもしれないが、そっくりどころか、おそろしく異なっている。

とりわけ厄介なのは、経済事象のひとつひとつを通貨換算して価値や権利を表象しつつも、当の通貨そのものに価値や権利の絶対尺度が無いというところだ。
要するに、どこまでもその時その場の人間風の価値と権利をとっかえひっかえで、これらが物理の外部に超然的におわしますなのである


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さて、物理学経済学は同期をとりうるだろうか?
社会人らしくもうちょっと実践的に論うならば ─ さまざまな物質や仕事/エネルギーの「物理量」と「経済価値/権利」は比例関係にあるだろうか?

物理学に則れば、たとえば過去2000年間において地球の全物質量/全エネルギー量は全くといっていいほど変わっていない ─ ことになっている。
しかし同じ2000年間にて、資産の価値も通貨の価値も、それらの量も、とてつもなく増大しかつ変動してきた。
いったいなぜか?

さらに、通貨の量は信用の量だと言い、信用増大ないし信用収縮といい、インフレやデフレともいい、通貨量と信用は比例関係にあるという人もいるが、では信用が増えるにつれて多くの通貨が必要となっちゃうのか?
このあたり物質量/エネルギー量とどう繋がっているのか、わけがわからぬ。


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① 物理学と経済学の差は、上にちらっと書いたように、物質物体の外部に人間風の’価値’超然させるかしないかだ。
あらためて、’価値’について捉えなおしてみたい。

資産の「価値」には、物理上の絶対尺度も基準も無い。 
1クーロンあたりや1電子ボルトあたりの「価値」尺度も基準も無い。
金(gold)1オンスあたりもだ。 
あらゆる価値は、あくまで人間がその時その場で好き勝手に決めているにすぎない。
だいいち、データそのものの価値を独占するなどというが、物理に即していえばデータは電磁上の表象でしかないんだぜ、これらの価値とはいったいどういう意味だ?
ましてや、付加’価値’だの、それを見做した上での付加価値税だのと…

ともあれ、物理学には’価値’の観念は無いが、経済学にてはあらゆるモノや仕事に’価値’を設定する。
ここだけ捉えてみても、物理学と経済学は同期をとっておらず、量的な比例関係にない。

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② その上で、さらに仕事(生産)において物理学と経済学を比較してみる。

物理学に則れば、あらゆる物体はそれ自体なんらかの「運動」を為しつつ、さまざまな物体が互いに作用/反作用しあい、これら成果の距離を以て「仕事」と称していること、誰もがお分かりのとおり。
仕事は’生産’でもある。

ところが経済学における用語では「仕事(生産)」の定義が分かり難く、どうも察するに何らかの'価値’の付加を以て「仕事(生産)」と見做しているようでもある。
だから経済学によれば、通貨のみをグルグルと回しているだけでも「仕事(生産)」の付加がどんどん増えていく(そしてGDPも増えていく)ように映る。

※ とくに女たちは、生活そのものがこれすべて「仕事(生産)」を為していると信じているようで、だから職場で遊んでいても寝ていてもとにかく通貨を寄越せと。

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③ さらに、仕事(生産)とコストについて。
たとえば電気には、電位差克服のために電流に物理上のコストがかかる。
その電位差を克服すれば、物理上の仕事つまり電力を起こしたことになる(発電を為したこしたことになる)。

しかし経済学に則れば、なんぼ電力の仕事を為したところで、カネというコストばかりが発生し、リターンという名の仕事(生産物)はほとんど無いことになっちゃう場合もありうるわけで、そうなるとこの仕事(生産)行為は経済学上の価値はほとんどゼロだ、ナッシングだ。

むかっ腹が立つかもしれないが、これが物理学と経済学の差だ、そして理系と文系の違いといってもよさそうだ。

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④ 物理学にはさまざまなモノやエネルギーの導出や解釈の’自由’こそ大いに有るが、実体そのものの実在の'自由'は無い。
在るモノは在り、無いモノは無い ─ たとえ量子力学でもだ。

ところが、経済学における価値や権利はいくらでも’評定の自由’があり、’操作の自由’もある。
だからこそ、資産や通貨の'取引の自由'もあり、ゆえに保護や排除の'自由'もあり、関税の'自由'だってなんぼでもありうる。
なるほど、これらに伴って或る一定集団の効用や福利厚生は向上しうるかもしれない ─ あるいはしないかもしれない。
実体の実態がどう転ぼうとも、経済上の'自由'はどっかんどっかんスケールが変わり、それでハッピィにもなりうるし、一方であぶれた仲介事業者たちはギャァギャァ騒いでいる。


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自嘲を込めて察するに、人間が物理上の実体を黙殺して経済上の価値だ権利だを設定したがるのは、ひとつには人間の意思決定が短期的で表象的な択一トレードオフを好んでしまうためかもしれない。
最近とくに考えているところでもある。


以上

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(付記)

毎年書いていることだが、仕事における実践的なアドバイスも一つだけしおく。

新人諸君は、なにはさておき、まずはメモ用紙を準備しろ、そして常に携行しろ、見聞きするもの片っ端からメモしまくれ。
チマチマした付箋などはダメだ、大きめの紙を使うんだ、出来ればB5サイズ以上のものだ、広告の裏紙でもなんでもいい。
これくらいのサイズであれば、まとめていろいろ書き記すことが出来るし、いつでもまとめてノート帳として一瞥できよう。

とくに、新規の世界への了察は理科や社会科の新分野学習に等しく、右脳的(絵画的)に物事をズンズン描き続けること必須、だから大きな紙面が望まいのだ。
また、電話番などで取り次いだメッセージもつらつらと書き残し、ビッと引きちぎって上長などに手渡すことが出来る。
一方で、書き損じをしてしまったメモは引きちぎってとっとと捨てるんだ、いちいち名残惜しんでいてはいけない。

以上の機能を同時に果たすべく、B5サイズ以上の紙を常時20枚くらい束ね、これを左上リング綴じの構造にしておけばいい。
これで重要なメモはノートとしてずっと保持し続けつつ、不要な紙はどんどんちぎり捨てることが出来る。
ホントに重宝するから。


もうひとつ付記。

技術仕様から契約書にいたる文書類について、職制を問わずほとんど誰もが実務上拘束されることとなろう。
これらの意義について精緻に了解しておきたい。
口頭による提示や合意ならまだしも、文書によるそれらは諸君らの想像を超えた恐ろしい失態を導きうるものだ。
例えば、同一の商材についての見積書が複数存在する場合、購入希望者はどちらかおのれに有利な方を正当な文書と見做し、それ以外の文書は黙殺すること、当然である。
契約書もしかり。
くれぐれも慎重に、ワンアンドオンリーの原則だぞ、ナンバリングと更新日時の明記を絶対に忘れるなよ。

※ 塾業界や風俗関係などであれば、うっかりミスでも土下座くらいで済まされる、かもしれない。
しかし、まともな産業のまともな産品や製品においてはちょっとしたミスのみでも復元不能なほどの大損をもたらす場合も多い。
そんなこと続けていたら多大な賠償を負うのみならず、さらには市場からバカアホ呼ばわりされて信用失墜してしまいかねないぞ。


もうひとつ付記しておこう。
いわゆる事務系職の若手企業人の皆さんは、TCP/IPとかJDBCとかIncotermsなどなどの統一的プロトコルを一通り頭に入れて、まずは「系」を理解したい。
それら「系」が分かってこそ、営業や経理などの「因果」も「プロセス」も見晴らしがよくなる。

※社内がアホばかりなら、大手SIerや大手商社に訊け。

2025/03/30

【読書メモ】シンギュラリティはより近く

『シンギュラリティはより近く レイ・カーツワイル NHK出版
本書はカーツワイル氏によるAI概括論。
AI論や技術文明論について、博識の著者ならではの広範な学際的/業際的な見解をさまざま散りばめた一冊ではあろう。
ただし、実践的な技術論や産業論についてはあまり踏み込んでいない。
穿った見方をすれば、同著者のさまざま著作の内から特に話題性の高い論題を最大公約数的により合わせたようにも察せられてしまう。
そのためであろうか、論旨も文面もしばしば散逸的あるいは飛躍的に映り、だからこそ本書コンテンツはしばしば難解である。

さて、サブタイトルにては人類がAIと融合するとき」とある。
本書コンテンツの過半は、(おそらくは)AIの導入に伴う社会と産業の変容について綴ったものではあろう。
一方で、僕なりにAI論がらみで常々留意してきたところは、むしろ人間/AI間の混交や自己同一性の混同であり、ここいらについても本書では概括されている ─ それが 第2章「知能をつくり直す」および 第3章「私は誰?」である。
もとより、本書は冒頭からチューリングテスト型の知能認知・人間認知・それらの物理上の所在をひとつの大論題に据えてはおり、これら第2~3章にても’AIがいかに人間に近似しいかに超越するか’について相対的かつ多角的に概括している。

そこで、此度の【読書メモ】としては、これら第2章と第3章のコンテンツを総攫いし、やや論旨を入れ替えつつ、以下に要約する。




・まずは p.33から記載のニューラルネットとアルゴリズムの概要~基本設計(およびヴァリエーション)について。
本箇所はハードウェア上のニューロンやシナプス強度・学習・それらふまえたノード構造やトポロジーについて根元的な観念/フロー図を呈している。
読者としては是非とも一通りは了察されたい。
※ ICT関係企業を目指す大学生/高校生諸君であればここいらはさらっと了察しうるところであろう。

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生物は、「フィード/フォワード学習」と「プログラム記憶」を為す数多くのニューロン神経系をモジュール構造として有している。
これらニューロンモジュールによる「学習」と「記憶」によって、生物はさまざま瞬時の判断を無意識に起こし、単純行動によって危機を回避し、生存の可能性を高めてきた。

生物は、これら数多くのニューロンモジュールを「小脳」に有する。
生物の世代間遺伝にともない、小脳のニューロンモジュールも遺伝複写され、その新世代もやっぱり同じ「学習/記憶」機能を有する。
その結果として、生物種の進化もある。
人類でさえも、これらニューロンモジュールの半分以上は「小脳」に在る。


・他の生物種と比べれば、人類は統合的な意識的思考を為す「大脳新皮質」を遥かに多大に活用している。
もともと大脳新皮質は、約2億年前に哺乳類の脳上に張り巡らされ始めたニューロンのネットワーク系である。
約6600万年前の生物種の大量絶滅にさいして、哺乳類たちは危機回避のため複雑かつ統合的な意思決定が必須となり、そこで大脳新皮質が脳上に折りたたみ構造を成しつつ表面積を増やすに至ってきた。

大脳におけるニューロンの9割は大脳新皮質にあり、その数は平均すると210億個、これらが約100個ごとにモジュールを成しており、これらさまざまなニューロンモジュールが並列思考処理を為しているようである。
現行の一般的なコンピュータが直列計算処理を為すのとは対照的である。

最新の研究によれば、人間のニューロンモジュールは、感覚などの'入力'と行動などの'出力'に上下のレベル差を起こす階層構造となっている。
この'入出力のレベル差'によって'学習や記憶における物理認知~論理判断まで階層化を為している'ようである。


・人間の脳とコンピュータの「計算能力」比較。
ニューロンのシナプスの発火に則って推察されるかぎり、人間脳による最大の計算能力は 1014  回/秒。
脳のエネルギー消費量に則れば、計算能力はもっと小さいことになる。
ところが、スーパーコンピュータ「フロンティア」による計算能力は 1018  回/秒であり、すでに人間を1万倍も上回っている。

AIと比べた人間の制約は;
情報の取り込みが遅いこと
記憶容量が少ないこと
個体に寿命があること
人間がこれら制約事項を克服出来ず、一方でAIが言語表現にて人間と完全に伍するならば、AIはこれらにて人間を凌駕していることになる。


・生物およびコンピュータごとの「情報処置のパラダイム」と所要時間を段階的に記すと以下。
① 無生物が化学合成して生物になるまで: 数十億年
② 小脳が初歩的な学習を為すまで: 数時間~数年
③ 小脳が進化を通じて複雑なスキルを習得するまで: 数千年~数百万年
④ 大脳新皮質が新たに複雑なスキルを習得するまで: 数時間~数週間
⑤ デジタルニューラルネットが'超知能'レベルの新スキル習得するまで: 数時間~数日
⑥ ブレインコンピュータインタフェースBCIが新規アイデア探索するまで: 数秒~数分間
⓻ コンプトロニウム(プログラム可能物質)が自身の在りようを再編成するまで: 数秒以下


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我々人間の大脳新皮質のニューロンモジュールの活動を、’外部'コンピュータと同期をとり、さらにそちらから制御まで出来るだろうか?

そもそも、大脳新皮質の活動の測定自体がいまだ’非侵襲的’な方法に留まっており、例えばfMRIを使っても血流変化までは分かるが精密なタイミングは特定出来ず、また脳波測定を行ってもその電気信号は物質活動の部位までは特定しきれない現状である。

脳内に直接電極を埋め込めば、大脳新皮質の個々のニューロンの活動を精密に測定可能ではあり、またニューロンを外部から刺激することで双方向コミュニケーションも可能ではあろう。
しかしこれでも、あくまでごく少数のニューロンとしか接続出来ないため、言語型の複雑なコミュニケーションは不可能だ。
それでも現時点では、100万個のニューロンと接続しつつ10万個のニューロンを刺激し得るインターフェースが開発中ではあると。

ヨリ実践的には、ナノスケールの電荷を血流~脳へ送り込む方式が進められており、いずれはナノロボットなどを起用し、これで脳内の数多くのニューロンに直接そして効率的にコミュニケーションを図ることが…。


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・人間の脳とAIの共通項あるいは差異について注目すべきは、「意識」の完結性についての論題である。
そもそも「意識」とは何かについて、人間の側に科学上の完結的な定義が無い。
だからAIにとってのそれも定義しようがない。
※ 第3章のこの哲学論めいた論題は本書でも極めて難解なところ。

「意識」の問題は、自由意志の有無に拠らなければならぬが、自由意志とは何かとなると宇宙自然の認識の仕方に拠ってくる。
宇宙自然は必然完結性のみから成っているか、あるいは偶発のランダムネスを含んでいるかである。

数学で挙げられるセル・オートマトンの単純なルール/クラスを一目すれば、極めて単純な数理規則から成る数式を必然完結としつつも、これらの遠大な集積がところどころで創発的なランダムネスを含んでしまうことが分かる。
簡単な数学に拠ってさえ、必然か偶発かについての認識はこのように難解であり、だから自由意識の完結的定義は出来ていない。

人間の脳がこのようなパラドックスを許容してしまう理由は、外部からの情報入力に常に解放されつつ、それら入力情報が常に変動しており、脳内の11次元もある(?)ネットワークを通してこれらを処理しているため。
さまざまな思考や計算を個々にこなしてゆくことは可能であっても、全てを一度に解釈し完結した解を導くことが出来ない。

さて、こういう人間の脳と意識をこのまま外部のコンピュータに移植(複製)すると移植されたそのコンピュータはあらゆる思考や計算を一度に完結して解を導くことが出来るだろうか?
やはり出来ないのでは?

脳と意識があくまでも不可分だとして、仮に脳をコンピュータに移植した場合に意識もそのまんま移植したことになるのだろうか?
そのコンピュータは自分を何者だと意識するのだろうか?
脳全体の移植ではなく一部の移植に留まった場合は、どうなるのだろうか?


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・我々の大脳新皮質のニューロンモジュールをAIに’外部化’するとしても、AIは人間そのものたりえない、とする理由がある。
「文脈の記憶」と「常識の了解」と「社会的相互作用」において、AIは人間同様には思考出来ないため。

「文脈」については、或る文章における単語や記号の「トークン」同士がとりうる組合せをそれぞれ部分集合として、どれもこれも別個の文脈たりうる。
例えば、或る1つの文章において何らかのトークンが10個在るとして、これらトークン間の’何らかの結びつき'としての部分集合は210-1 つまり1023通り。
トークンが50個在るとすると、部分集合は250-1でざっと1120「兆」通りにもなる。
これら部分集合の数だけAIが「文脈」を記憶しうるだろうか? -  大規模言語モデルのGPT-4でも不可能である(ましてや新規の文脈づくりは出来ていない。)

「常識」はあくまでも人間なりの常識であり、これは人間センスと人間都合についての膨大な’知識と因果推論と推察’から成っている。
これらを入力されたとして、AIがこれらの’意義’そのものを人間そっくりにモデル化し理解しうるだろうか?
現時点では困難であろう。

「社会的相互作用」は、例えば人間同士のコミュニケーションにおける互いの思考プロセスや皮肉の応酬などで、これも現時点ではAIには了察困難である。

しかしながら、こんごのハードウエア進歩、それ以上にビッグデータ化と並列処理の向上と自己プログラミング能力次第では、AIはこれら「文脈理解」も「常識」も「相互作用」も克服しうる ─ との見方も可能。


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…以上、第2章と第3章それぞれ、一部の箇所について僕なりに平易に要約しつつ、やや論旨を入れ替え、ざっくりまとめてみた。


なお、同箇所にては、著者がしばしばコンピュータの在りようそのものについて発展的に(大胆に)一貫している主張もある。
たとえば;
チューリングテストを完全に克服するコンピュータは、どこまでも人間の在りように準じ続ける必要があるのだろうか?
むしろ、AIはAIなりにおのれを発展させてゆき、人間の思考モデルからも思考の意義からも乖離して独自の超知能に到達するのではないか?と。
本旨には僕もちらりと賛成で、その理由は、物質/ハードウェアの内にこそ数学やソフトウェアやコンピューティングが在るに過ぎぬのだから、AIが人間の脳物質(意識)と同期を図りきれるはずもなかろう、と考えているためである。


おわり

2025/03/20

巣立ち


「先生こんにちは、あたしですよ。今日はお別れの挨拶に伺いました」
「やあ、こんにちは。君は〇〇県の学校に進学するんだったな。叔父さまの家から通学することになるんだって?」
「はぁ、そうなりそうです。パタパタパタ…」
「いいぞ、地方はじつにいい。水も料理もうまい。とりわけ、お祭りがいいよ、気分がのってくる」
「そうですね、あたしも今からワクワクしています。どんどこ、どんどこ、どんどんどん」
「まこと、良い選択だ。都会よりもむしろ地方の方がね、何事もワイルドだ、だから世界の実相がよく分かるってもんだ」
「はぁ、やっぱりそうですかね。パタパタパタ…どんどこ、どどどん」
「そうだよ、とりわけ君たち高校生はね」
「どうしですか?パタパタパタ…」
「君たちはね、再現性や逆回しがキッチリと成立する命題ばかりを教わってきた。つまり、『必然』ばかりを学んできた。しかし『必然』オンリーで成立する思考系はじつは数学だけなんだよ。数学以外のあらゆる思考や学問はむしろ『偶然』の事象がワイルドに介在していると言っていい」
「へぇ、そんなものですかね。でも、宇宙の始原において、最も根元の力の粒子と場が在り、それらこそが究極の『必然』系なりと教わりましたけど。パタパタパタパタ…」
しかしだね、それら力と場が瞬時に『必然』を’完結’したとしたらそれで宇宙はお終いだよ。じっさいはさまざまエネルギーの相互作用によって空間方位拡大を成し、核融合によって新たな原子を順々につくり、分子が次々と反応し絡み合って物質がとてつもなく多様になり…」
「ふーん、パタパタパタ」
「なるほど一応は『必然』の連続経緯としての説明もあるが、ところどころ説明困難な『偶然』事象が起こってきたようでもあり」
「ふんふん、なーるほど。パタパタパタパタ、どんどこ、どんどこ、どんどんどん」
「ましてや、エントロピーの法則に抗するかのように出現してきた生命ともなると、どーーにも『偶然』の悪戯としか捉えられぬという見方が」
「ほぅほう、なーるほどなるほど、パタパタパタパタ、どんどこどんどん、どこどんどん」
「その生命の変異と進化の果てに、現在の我々がいる。ということはだな、我々自身が多くを『偶然』に拠っており、だからこそ、そんな我々の感覚も思考もまた、一瞬いっしゅん『偶然』のスパークの如しで」
「どんどこどんどこ、どこどんどどどん、パタパタパタパタ…」
「だいいち、君たちの大好きなデジタル技術やコンピュータやゲームやロボットにしてもだぜ、一見すれば『必然』オンリーの完成系のようでいて、じつはさまざまな『偶然』の物理に立脚しているわけで」
「パタパタパタ…パタパタパタパタ…バッサ、バッサ、バッサバサバサバサ」
「それからね、ついでに言っておくが、高校を出れば一応は社会人だ、社会こそはワイルドな『偶然』がぶつかり合って折り重なって、喜怒哀楽が交錯し、泣いたり笑ったりの世界だ。その覚悟もおのれなりに決めておけ」
「どこどんどんどん、どこどこどんどん、バッサ、バッサ、バッサバサバサバサ…」
「さぁ、もう話は終わりだ。それでは行け!『必然』には実直に、『偶然』には果敢に、強くまっすぐ飛んでゆけ!こんごの君が素敵な学生に、そしていずれは立派なレディにならんことを、心より期待しているよ」
「バッサバッサバッサバッサ、どんどこどんどこ、どどどんどどどん、バッサバッサバッサバッサ…パタパタパタパタパタパタパタ……」



(おわり)




2025/02/28

Think Big (3)


・「学問は役に立つか?」という問いは、「人生には意義が有るか?」と同様、リベラルバカの愚問だ。
「いつか/どこかで」としか答えようがない。
逆に、「おまえは宇宙の果てを知っているのか」と問い返してみれば、むぐぅと黙りこくってこの問答は終わる。


・教育は、教える側も学ぶ側もいわば酸化還元のごときで、同じ記録が残るんじゃないかな。
シナの諸王朝や帝国は日本人の祖先たちを大いに教育した ─ とシナは主張するが、ならばシナ側に「そういう教育記録」が残っているはず。
たとえば小野妹子に対して何を説いたか、菅原道真に何を教えたか。


・宇宙のどこかに我々人類を超えた「知的生命体」が存在するか?
この問いに対しては、熱力学や数学などに即しつつ「存在するよ」と答えるのが通例らしい。
ならば、そういう「知的生命体」は個体間のバラつきが大きいのか?或いはAIのように思考も運動も収斂統一されているのか?どうなんだろうね?


・電荷の符号化やデータ化や演算や転送複製を「インターネット機能」とすれば、1つあるいは2つの電子素子のみがインターネットを成すことはありうるだろうか?


・「電圧」と「水圧」と「血圧」が現代文明を規格化している。
もちろん、どれも安定していれば健全な国家民族であり、どれかが不安定に変動散逸していれば野性的なバカということになる ─ と言い切れるのかな?


・地球の経済が通貨インフレを継続してゆくと、あらゆる電子通貨/コンピュータの「運用エネルギー」総計が地球上の全物質の「物理エネルギー」を超える日が来るだろうか?
理系と文系の違いは、こういうところじゃないかな。


・物理学にては、或る系にてさまざま物質粒子が増えればそれら衝突機会も増え、ゆえに「仕事量」も増えることになっている。
しかし経済学にては、或る系にてさまざま物質粒子と人間が増えればそれら衝突機会がむしろ減り、「仕事量」も減っていく場合が…
文系の鍵はカネと価値と権利か。功罪ともども。


・ICT関連デバイスというかガジェットは、性能あたりのコストが凄まじく変動してきた。
だがエアコンや自動車の入出力エネルギーとコストは、そうでもない。
じゃあエネルギー熱量あたりコストは?食糧は?


・あらゆる物質分子は運動量が安定し、関わりも安定している。
だから物質も、また人間自身も、量的に安定している。
よって電圧も工業製品も量的に安定している。
ところが、「通貨」だけは量が乱高下している。
つまり「通貨」は地球上で最も不安定な物資であろう ─ いや物質ですらない、ただの数学上の論理でしかない。


・価値(value)そのものの基準物質が「量子/粒子レベルにて」実在するだろうか?
実在するならば、その実在量に応じて市場価値も大きくなるのだろうか、それとも小さくなるのだろうか?
どちらでもないとすれば、なぜ経済学は成立しうるのだろうか?
ここのところ一貫した説明は無い。これからも無いのでは。


・電子(暗号)通貨の運用目的は、通貨効用を排他的に独占し、'通貨需要を高め続ける'こと。
一方で、量子AIはさまざま財貨の複製と調達を高速化するので、'通貨需要は下がっていく'。
…とすると、先進国がこれらを同時に強化するかどうか。
トランプと仲間たちはどちらに重きをおくのかなぁ。



・通貨は①流動/交換および②信用保持の「能力」媒体。
これら「能力」あればこそ「価値」もある。
とりあえず、ここまでは実体上認めるとしよう。
さて、どれだけ円建て資産が有っても、円の「能力」がこのまま低減し続ければ「価値」も下がり続ける。そのうち全部海外に買われるか、或いはゴミになっちまうぞ。


・人間は仕事(エネルギー)を'外部化'し、物質合成も'外部化'し、アルゴリズムも数学すらも'外部化'しようとしている。
こうやってどんどん'外部化’を進めるならば、人間自身は何のために思考活動を続けるのだろうか?カネ儲けか?裁判か?戦争か?宇宙進出か?これがアメリカか?
※ 芸術はどうなるんだろう?


・「知力」は簡単には定義出来ないのに、「経済効率」はほいほいと定義出来るのが、実におかしい。
だって、経済効率と成長の源泉は「知力」ってことになっているんだぜ。


・どんなモノでも資源でも本来は実体「量」であり、これら量が需要と供給を自然に決めるはず。
しかしこれら量を「数」にすりかえれば多数決によって寡占も収奪もできる ─ という知恵も古くからあり、とくに近代以降は統一通貨や証券や代議制などが文明の主となってしまった。
国連やNATO左派やゼレンスキーがそういう連中か、そして大御所がいわゆるディープステートか。
もう限界かもしれない。


・モノと知識は、属性上も機能上も別物なのでハッキリ峻別出来る。
しかしここに「情報」というタームを混ぜるとウヤムヤになり、モノ⇔情報⇔カネをすり替えることも出来る。たとえば遺伝「情報」とか。
これが英米とくに左翼の手口だった。
トランプ復権後の世界は「情報」が無くなる気がする。


・AIや量子コンピュータは、人間よりも遥かに精緻にものの現象/状態を認識出来、だから生命の生死判別も精密に出来るだろう。
ではそれらコンピュータは「倫理」を理解出来るか?フランケンシュタインの怪物創造に異議を唱えうるか?そこまでいかずとも万能細胞などについては?核兵器開発は?


・AIが何もかも「知り尽くしている」段階に至ったら、情報秘匿も暗号演算も要らなくなる?
むしろAIが人間に対してとてつもない暗号で挑んでくるかもしれない。


・デジタル化技術は、さまざまな意義や文脈のアナログ実体量を、一定電圧下で数値符号化し、画一に断片化。
もちろんこれらデジタルの断片は意義も文脈も絶無。カネそっくりだ。
だからこそ、複製や転送や改ざんをも可能にする技術。
一方で、自然環境はアナログに変容し続けている。
よって、もとどおりの実体には復元不能。


・なんらかの音階の調べがあればこそ、音符が音楽になる。
なんらかの教典があればこそ、思考は物語をつくる。
これら全てをニヒリスティックにバラすのがデジタル思考。リベラルや左翼はこういうもの。卑しい政党や下請企業も。



・情報の完全なデジタル化とは、データの暗号化と複製と伝送が永遠に’数学の支配下’に入るってことだ。
これでどうしてセキュリティレベルが高くなるのか?
むしろ元々の物質や身体のアナログなバラつきに拠ってこそ、セキュリティレベルが高まるのでは?(物理学上はこっちが正論なのでは?)


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…もうちょっと続く

2025/02/26

Think Big (2)


人間自身は物質で出来ているので、’物理上の保存則’に拠っている。
さらに、その人間が信奉する数学はしばしば’対称性’を成している。
ならば、宇宙は原初以来ずーっと同じものの同じ運動のみで成っていることに…
それでは、’エネルギー(エントロピー)の不可逆性’とどう関わってくるのかな?

学術素人の僕にはさっぱり収まりがつかない。
このウヤムヤさの内にこそSF(フィクション)が在るのではないか。


・フェルミオン粒子とボゾン粒子など(あるいは重力子)が’大元の力’を生んだり伝えたりして、さまざま原子物質を成す ─ と、ここまでの理屈は一応分かるの。
しかし、それら大元の素粒子が一足飛びに’最終原子’を成すのではなく、さまざま原子を作り核融合などで変化続けていく、ここがヘンだなあと言ってみたくなることがある。
そういうことになっていると、現時点の我々が納得しているんだから、しょうがないだろう、と諭されたらまあしょうがないのかな。


・最小作用の原理、対称性と相対性、経路積分など。主張しているニュアンスくらいは分かるが、あくまで’数学’に拠っているでしょう。統一の粒子や力からしても。 しかし現実としては、原子はさまざまで、物質も生命もさまざま、それらが’デタラメ’にバラつき続けているようにさえ見えてしまう。ヘンなの。


・観察/描写に則った、物質の属性分類と表現形式。
まず、物質の属性をその’粒子性’とみて、それぞれ相応の一般法則を記す。
あるいは、その物質の固有の状態を’波動性’とみて、波動関数で表す。
さらに、’固有のベクトル/行列’とみなし、線形代数で表す…。

だから何だってんだ?文系あがりの俺だってこの程度の概説は分かる。
もちろん経過時間だの(非)局在性だのを絡めると難度がどかーんと上がることも分かっている。


・’思考’は物質同士の反応だろうか?
宇宙のどこかで、さまざまな物質粒子が、遥か遠大な時間ドカンドカンとぶつかり合っていたら、いずれそこから何らかの’思考物質’が生じることがありうるか?
それら’思考物質’が再現性や対称性に則って経路や回路を成するとしたら、数学そのものではないか?

…とすると、物質そのものが数学を成していることに?
……とするとだな、再現性にも対称性にも則っていない物質と運動は、数学に乗っかるっことはなく、すると我々にも解析のしようがない??


・「情報」とはじつに不明瞭なタームだ。
いったい情報とは物質か、媒体か、人間論理か?

ノイマン→シャノンらによる情報通信理論は、熱力学になぞらえて、人間なりの一定の秩序情報の確定量/未確定量をエントロピー表現しつつ、必要な電気伝送路を定義。まあそんなようなもん。
してみれば情報とは電気電子つまり物質量であるともいえるが、ここで入出力される秩序情報そのものはあくまで人間論理であって物質ではない。
…いや、やっぱり物質のうちに人間論理が在るのだろうか?


・「モデル化」という日本語は曖昧で、模倣なのか例示なのか抽象化なのかハッキリせず、技術設計者と怒鳴りあったこともある。


・いかなる電磁波(場)にても、いかなる重力下にても、いかなる物質組成の環境にても精密に駆動し続ける ─ そういう全宇宙対応型のコンピュータやロボットを製作出来るだろうか?
もし出来ぬのならば、物理は数学に敗れたことになるのではないか。

もし出来てしまったならば、それらコンピュータやロボットはおのれらを「数学そのもの」だと信じ、さらに宇宙そのものも数学の系であると信じ…


・真空空間においても消えることなくずっと保存される数学はありうるだろうか?
真空空間にても人間やロボットを働かせる、そんなプログラムがありうるだろうか?
ありうるとすると、どこに保存され、あるいはどのように転送されうるのだろうか?


・あらゆる系には入口があり、そして出口もあるという。
宇宙や自然はそうとも言えよう。
だから如何なる袋小路からも必ず脱出できると。
しかし数学においては、入口も出口も無いのではないかな。
だから(少なくとも人間にとっては)難しいんだよ、小憎らしいほどに難しい。
吸っても吐いても分からないんだ。
生きても死んでも分からないんじゃないかな。


・プログラミング言語について。
いわゆる言語は知識命題とロジックの組み合わせから成るので、たとえロジックが正しくとも書いているやつがキチガイでは意味を成さない。
しかしプログラミングは数学と同様にロジックのみから成るので、書いているやつがキチガイでも成り立ちうるんだよこれが。


・「人間の数学」はあくまで人間の本能から生じたものか、それとも宇宙全体の永遠の真理なのだろうか?
或るサイコロが地球上で1の目を出す確率と、同じサイコロが月面上で1の目を出す確率は、きっと同じだろう。
ゆえに「人間数学」は全宇宙の真理といえるのだろうか?


・かつて東芝に就職したころ。
「ハードウェア(物質)の内にこそさまざまなソフトウェア(構成論理)が在りますね?」と年長者たちに話しかけたら、「バカ、逆も真なりだ」と。
ならば世界中の通貨を合わせたら地球をもう1つ作れるのかと、当時の僕は訝った。


・コンピュータはソフトウェア技術だと、数学マニアなどは言う。
しかしソフトウェアの再現性や安定性は、ハードウェア/物質/電気在ってこそでしょう。
そしてハードウェア/物質/電気の在りようを説くのが物理学。
ひっくるめて見れば、コンピュータは物理学上の実在、だからノーベル物理学賞の対象に…?


・「論理」を組み合わせ続けていくと「物質に成る」だろうか?
もっと端的に、AIになんらかの数学計算をひたすら継続させると、このAI自身が体細胞や脳神経に成りうるか?
また、生命「情報」は物質か論理か?「心(こころ)」はどうか?
今般のノーベル物理学賞きっかけにいろいろ考えてしまう。


・「宇宙のエントロピー増大」
「核融合(素粒子などの多様化)」
「生物種と個体の多様化」
こうして並べてみると科学解釈上の’つながり’は分からなくもないが、汎化学習を続けたAIは統一解釈を提示できるのかな。
(AI/ネットワーク自身の物理コンフィグから何か自覚しうるものなのか?)


・もしもAIがあらゆる物質の運動について「逆」学習≒忘却のごときを進めていくと、いずれエントロピー最小状態ビッグバンの在りようを解明する?


・数学は’無限’を前提として成り立つ。
それでは、生成AIは汎化学習によって「生と死」を理解出来るようになるだろうか?
或いは、いつか人間が全て居なくなっても、AIは宇宙のどこかで何らかの物資の形質をとり、何らかの数理演算を延々と続けることになる…? 


・あらゆる産業や生活にてAIの活用が進むと、あらゆる言語コミュニケーションが可能となる ?? じっさいは、万物が統一の素粒子と場の「必然の」運動/作用として記述されるだろうから、あらゆる言語は無用となるのでは? ただし「必然」に乗っからない幽霊事象はAIにも乗っからないので言語が残る?


・AIに訊いてみた。
「1000年後の人間はどんな言語を話しているだろうか?」
すると、「データが希少なので分かりません」 と返答してきた。
更にAIに訊いてみた。
「100万年後の数学はどのようなものに…?」
すると「ふっふふふふ」と笑い声が ─


・『何も考えるな』『何もするな』というプログラムがありうるだろうか?
これらコマンドはどこから誰に発せられるのかな。


・地球人類がこよなく信頼するAIに宇宙人がハッキング仕掛けたとして、そのため却って地球が幸せになったとすると、ハッキングはウイルス同様に人類をさまざま変化させ強化もさせ
 ─ となると、そのハッカー宇宙人はいったいどういう存在なのか。


・学校の授業で或る簡単な関数に出っくわし、これは定義域も極限もハッキリした「連続」であるとする。
一方、夢の中でも全く同じ関数に出っくわすが、こちらは定義域や極限が判然としない「不連続」とする。
以上から、夢は「不連続」であると言えるだろうか?


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さらに続く。

2025/02/24

Think Big (1)

おのれなりのヒラメキや呟きを、ざっとぶちまけてみたくなることがある。

だからって新たな境地への飛躍を図っているわけではない。
むしろ、思考の到達点どころか視座すらもぐらついてきて、もしかしたら俺はバカなのかもしれぬと…そういう雑記群である。

もうちょっと自己肯定的に明かせば、これまでに細々書いてきた ─ そしてこんごも書くつもりの ─ ささやかな学園SFもの(?)の着想ヒント集でもある。
もうちょっと責任世代風に言えば、若手社会人や学生諸君の思考枠や経路をどかんどかんと拡張しあるいは吹っ飛ばす、そんな効果を期待しての雑記集ではある。

もちろん、こんなもの読んでいても大手予備校模試の学力偏差値が高くなりはしないよ、むしろ下がっちゃうかもしれない。
知ったことか。


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・タイムトラベルについて。
全宇宙の「在りよう」が遥か始原から超未来までさまざまバラつきつつも、「実体粒子」の総量は常に同じであるとしたら、どんな物質も生命でも人間でもその巨大な「在りよう」を時や処を超えて’分業’し続けているに過ぎず…
すると何もかもがタイムトラベラーということに?
いや、タイム自体がそもそも気のせいだったということに?

こんなふうに考えると、いわゆる量子もつれについても納得出来てしまう、そんな気になる。


・「真空状態」での電子陰極線などなどについて。電子運動や静電気力などは理解しやすい。
難解なのは「真空」そのもの。
そもそもなぜ宇宙に「真空」が在るのか?
「真空」に本当に何も無いのならいかなる粒子も永遠に存在しえないのでは?


・道路と打ち水と気化熱についてのニュースを聞いて、ぼやっと閃いたアホみたいな疑念。
或る'真空空間'に特定の水分子のみが在り、(なぜか)運動エネルギーによって放熱するとして、この熱をこの水分子自身が吸収し気化することはありうるか?
ありえないならば、発熱と吸熱は別個の現象ということに?


・高校の物理/化学にては、質量保存則を学び、また原子核の質量欠損も学ぶ。核融合もちらっと。
ただし、物質も電磁気自体も「非圧縮性流体」が前提となっている。波媒質の一瞬ごとの角振動数や変位の検証にても密度は一定とされているようで。


・我々を活かすのは体感出来て腹に収まるもの。質量が有って力を為す実体と場だ。 一方で、距離サイズや時間やカネや法律などは、あくまでも脳内の間接論理でしかない。 アルキメデスやガリレオなどが暴露してきたとおりだ。縄文人にも分かっていた。しかし意図的にごっちゃ混ぜにする文明圏も在った?

そういえば、「SI基本単位」は7つ存在し、時間と長さ、質量、電流、温度、物質量、光度の各物理量について、それぞれ秒とメートル、キログラム、アンペア、ケルビン、モル、カンデラが定められている。


・物理で学ぶ波「媒質の単振動x正弦波」の'エネルギー'と'粒子量(強さ)'。
粒子ひとつの単振動エネルギーは 振動数と振幅それぞれの2乗および媒質密度と伝播速度に比例と。
これを最大速度時の運動エネルギーから導くか、ばねのエネルギー保存則から連想か。こういうところに高校や予備校の思考センスが。

そんなことはともかくも、こうして確かめてみれば振動数も速度も長さもあくまで論理数にすぎず、’実体’は何らかの物質粒子のお’量(強さ)と’エネルギー’だってことが納得は出来る。


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・雷やオーロラなどは「自然物」における電荷と電磁界の現象。
一方で、持続的な交流電流は「人工物」。コンピュータもロボットもだ。
では人間の脳神経は「自然物」か「人工物」か?
物理学はどちらに軸足をおいているのか?


・人間自身は物質で出来ているので、物理上は’エネルギー(エントロピー)の不可逆性’に拠っているはずだが、しかしその人間が考案する数学はしばしば’対称性’を成している。
さらに物理学が万物の運動の’再現性’を約束するならば、宇宙は原初以来ずーっと同じものの同じ運動のみで成っていることに…
このウヤムヤさの内にこそSF(フィクション)が在る。


・超AIが宇宙の万物(情報)をデジタルに微分微分してゆく、この「デジタル化プロセス」のためにあらゆるエネルギーが投入されるとする。
このプロセスがずーっと続いてゆき、あらゆるもののエントロピーを増大させる一方ならば、いずれは宇宙の万物が極限ビットに帰し、電磁波の作用すら効かなくなり、永遠に停止し…
こんなアホな事態がおこりうるだろうか?
(SFとしては楽しめるかもしれぬが。


・東芝に入社してすぐに教わったこと。あらゆる工業は、プロセスもまた成果物も定電圧に拠っていると。
ほほぅ、ゆえに情報通信のプロセスも成果物も定電圧なのだなと若いわかい僕は納得はしたのだったが ─ ならば我々人間の脳神経も数学も定電圧なのだろうかと、却って不思議な気がしてきた。今もだ。


・はるか遠い昔の最初の生命が光合成を始めたとき、その物質環境の電荷と電場は一定の電位を成していたのだろうか?それともランダムだったのか?
なぜ我々人類は一定の電位電圧にて機械とコンピュータとロボットを作るに至ったのだろうか?


・量子コンピュータと超電導素材とAIを活用すると、同じ物理上の「仕事」あたりの電力消費は全世界で本当に増えるのか?
むしろ減るんじゃないのかな。
全く新規の物質創造のごとき「仕事」が増えていけば、電力消費も相応に増えていくだろうけど。
空論じゃないよ。経済と政治と教育に関わる重大事項。


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・もともと宇宙は万物が非局在の巨大なアナログ慣性系。
このエントロピーに抗うため生命物質が出来たが、それぞれは変位(変異)の秩序が必要なので、メスたちが体内に同期クロックを生成。
ここから生命は宇宙を「時間」でデジタルに測るようになり、物理感覚が局在化し、数学を併せてカネだの法律だのを発案し、オスたちを働かせ
…という思いつき。


・あらゆる生物種は、ひとつひとつの個体が多様にバラついていればこそ、集団絶滅を避けうると。
しかし多様性を確保するためには、さまざま変異の機会も多くあるべきで、だから大集団のギューギュー押し合いへし合いが望ましいと。
とすると、バラつきとギューギューを両立させる要件はああ分かんねえ。
ともあれだ、多様性と適者生存について議論するなら、このくらい考えて欲しいもんだ。


・地球の重力がもうちょっと大きければ、地上から宇宙船を打ち上げることは出来なかったろう
 ─ とのことだが、それ以前に人類自身が出現しなかったかもしれないのでは?
(いややっぱり出現していただろうか?)


・地球上のあらゆる樹木は、どれもこれも幹や枝葉が別方向を向いている。
太陽の変位に応じているという。
これら樹木を金星や火星などで育てたとすると、やはり幹も枝葉もひとつひとつが別方位を向いてしまうのかな。


・眼が光に「反応」しているとき、光もその眼に「反応」していると言えるか、あるいは言えないか?


・あらゆる生命が熱力学の宿命に抗してさまざま変異してきたとすると、一斉絶滅が可能になった人類はむしろ熱力学に殉じる経路を選択したのか。
こういう巨大な科学文明論争はしばらく以前まではさかんだったのだろうが、現在は政策的に?思考をミクロ化しているのかな。トランプたちの本音はどうなんだ?


・「世界文明は化石燃料と鉄とケイ素と硝酸で出来ている」とかなんとか主張している本があったような。
確かに、肥料も爆弾も鉄筋コンクリートも半導体もプラスティックも該当している。アメリカがあり余っておりかつ求めているもの。
でもアメリカにとって最重要の物質は水ですね。
アメリカどころか、全人類にとって最重要のもの。


・水分子についての物理。
たとえば;
雨だれはどのように石を穿つのか?
雪はどのように積もるのか?
雲はどのように動いているのか?
質量も表面積も重力も運動量もエネルギーも熱も静電気もその他も、実体粒子として、あるいは論理数として、あれこれ関わってくるテーマでしょう。
こういう’水物理’こそ高校物理~共通テストにて必須とすれば…と思うことはある。


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しばらく続く。

2025/02/17

物理で学ぶエネルギーについて大なり小なり

物理の楽しさは、さまざまな物質(物体)の運動や仕事/エネルギーの繋ぎ合わせ、そしてそれらの作用/反作用や保存則、さらにはエントロピーと生命論であろう ─ なんてことはたいていの高校生が学校でさんざんぱら聞かされてきたところであろう。
そうはいっても、学校や予備校ではどうしても単元のブツ切りとバラ売りが率先されてしまい、だから超微小世界から超巨大宇宙までバーーンと貫くでっかい思考スケールはなかなか育まれないもの。
そこんところ、一介の教育関係者なりに、ちょっと挑んでみようかと思い立った。

もとより僕は電機メーカ在籍時より物理ファンではあっても、物理分野における職歴は無く、それどころか理系キャリアに一歩たりとて足を踏み入れたことのないド素人ではある。
でもね、いわゆる文系職あがりではあってもね、高校物理くらい大半は分かってんの!
(大人とはそういうもんだ。ついでに言っとけば英語だって大学時代まではバカレベルだったが、海外営業や技術提案書にて英語を使っているうちに大抵のものは読めるようになっちゃったのだ。)

さて、今回は「高校物理に則ったエネルギー論」をひとつの大系とし、過去数年にちらっとしたためてきた数件の読書メモに則って以下にざーっと引用紹介しておく。


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『人類の未来を変える核融合エネルギー 核融合エネルギーフォーラム・編 C&R研究所』 より

水素1gを「化学的に」燃やして得られるエネルギー(水から水素1gを得るための最小エネルギーに等しい)は約1.43x105Jである。
一方で、同じ水素1gを「核融合」させて得られるエネルギーは3.38x1011Jにもなる。

核融合炉における核融合燃料として、水素同位体の実用化が図られ続けている。
とくに地球上では、重水素(D)と三重水素トリチウム(T)によってヘリウム(HE)同位体と中性子(n)が生成される核融合が最も反応しやすいため、最有望視され続けている。
(とくにDT核融合反応と称す。)

この1核子あたりの反応式は  1D2 + 1T3  →  2HE4+ 0n1 
核融合反応前も反応後も、陽子の総数は2であり、中性子の総数(質量数-陽子数)は3である。
さて、これを原子量(アボガドロ数あたり総質量)でみると、反応前の重水素(D)のは2.141g、三重水素(T)の原子量は3.0160g、合わせると5.0301gとなる、が、反応後のヘリウム(HE)は4.0026g、中性子(n)が1.0086gであり、合わせると5.0112gにしかならず、反応後の質量は反応前より0.4%ほど軽くなったことになる。
※ アボガドロ数約6.3x1023 あたりの原子量としては約0.02g 軽くなったことになる。

この「質量欠損分」が、ここでの核融合反応によって運動(速度)エネルギーに変換されたことになり、1.7x1012J に相当。
これを電位差1Voltあたりの電子の運動エネルギー(つまり電子ボルト)1.6x10-19J≒1eV で換算すると1.06x1025MeV となり、あらためてアボガドロ数で割れば1回あたり17.6MeVがここでの核融合反応で運動エネルギーに変換されたことになる。
(さらに内訳として、ヘリウム(HE)では3.5MeV, 中性子(n)では14.1MeVとなる。)

※ なお同社・同編集部による本年初版の『世界が驚く技術革命 フュージョンエネルギー』にては、ここでの核融合反応によって変換された運動(速度)エネルギーは 1.8x1012J と記されている。


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『人類、宇宙に住む ミチオ・カク 著 NHK出版』より。
カルダシェフによる文明段階尺度など。

60年代にソ連の天文学者カルダシェフは、エネルギー消費量をもとに文明の段階を評価する尺度を考案した。
まず「タイプI」は、惑星に降り注ぐ恒星の光エネルギーを全て利用可能な文明で、平均的なエネルギー利用可能量は約7x1017W (J/s) となる。
これは今日の地球における我々のエネルギー出力の10万倍に相当、逆にいえば我々は未だタイプ0.7程度の段階に留まっていることになる。

次に「タイプII」は、恒星が生み出すエネルギーを全て利用可能な文明であり、じっさい我々の太陽の全エネルギー出力が約4x1026Wである。
そして「タイプIII」は、銀河全体のエネルギーを利用可能な段階の文明であり、上の太陽の全エネルギーと銀河の恒星の数から、この段階でのエネルギー利用可能量は約4x1037W となる。

現時点での我々の地球におけるエネルギー出力(そしてGDP)が年々2~3%ずつ上昇するならば、我々はまず「タイプI」の段階に到達するまでに更に1~2世紀かかり、そして「タイプII」段階に至るまでには数千年かかると考えられる。
なお、我々人類が「タイプIII」段階に到達するためには最低でも恒星間の旅行能力が必須となる ─ が、ここまでテクノロジーが到達するなど我々人類は100万年かかっても不可能との見方すらある。


仮に、我々人類が「タイプI」の文明段階に到達したとする。
その場合、化石燃料の使用可能量を問わず核融合エネルギーを活用しているはずであり、また宇宙空間にての太陽エネルギーも大いに活用していると想定出来る。
そして仮に、我々人類が「タイプII」の文明段階に到達するならば、それは「タイプI」段階での我が地球のエネルギーを全て使い果たした時ではないか。

「タイプII」段階であれば、我々人類は集団で地球から脱出することはむろん、地球自身をもまた接近する小惑星の進路をも曲げられるだけのエネルギーを既に手にしているであろう。
恒星からエネルギーを効率よく得るために「ダイソン球」をも活用しているだろう。
また我々自身が他の惑星に移住するにあたり、ナノテクノロジーによる資材および建造物の超軽量化が有益である。
それでも、これら機械類が放射する赤外線の熱放射は避けられないので、その惑星における長期的なエントロピー増大を回避するには更に他の天体に機械設備を分散設置してゆくことになる。

以上の推定が正しいとして ─ じっさい既に「タイプII」段階に入っている異星人がエネルギー出力を(熱量を)増大させているさまを、我々人類は未だ確認していない。
尤も、そんな異星人たちは既に反重力や重力波を既に大いに活用し、時空すら超えているかもしれない。


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『宇宙の始まりに何が起きたのか 杉山直・著 講談社Blue Backs より

・宇宙全体の構成元素のほとんどは水素とヘリウムであり、たとえば天の川銀河では質量比で98%が(原子数換算で99.5%が)水素とヘリウム。

恒星は、水素が核融合反応を起こしヘリウムが作られることによっておこり、水素を使い果たすと、さらにヘリウムが核融合反応を起こして炭素や酸素などが作られ、太陽のように「軽い」恒星においては、ここで核融合反応が終わる。

さらに「重い」恒星においては、中心核にて炭素が核融合反応してケイ素やマグネシウムなどが生成され、さらなる核融合反応によって最終的には鉄までが生成される。

よって、ヘリウムよりも原子番号の大きな(陽子数の多い)元素の核融合反応→生成は「どこかの恒星の中」でなされていることになる。

・だが、鉄よりも原子番号の大きな金などなどの元素の生成にては、核融合反応のためのエネルギーが超巨大でなければならない。
それらの超巨大なエネルギーは、超新星爆発から生じたであろう中性子の原子核そのもののごとき重い天体(いわゆる中性子星)が起源であり、それらの衝突によってもたらされてきたのでは、と想定されてきた。

2017年の重力波の検出分析をきっかけに、この中性子星による超巨大エネルギー起源説が検証されたことにはなり、これがあらゆる元素生成の核融合反応を完全に解明したとまではいかぬにせよ、更なるスタディが期待されている。


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『爆発する宇宙 138億年の宇宙進化 戸谷友則・著 講談社Blue Backs』より

「化学的燃焼(結合)」と「核燃焼(融合)」と「静止質量エネルギー」にてエネルギー大小を比較; 
スケール関係を明瞭にするため荷電粒子/電位ごとの電子ボルト[eV]ベースで表現。
(※なお6.3 x 1018[eV]≒1.00[J]である。)

或る物質にて、電子の化学的燃焼(結合)エネルギーは1[eV]程度。
一方で、これら物質の原子核の陽子と中性子の核燃焼(融合)エネルギーは1メガ[eV]であり、電子の化学的結合エネルギーの1,000,000倍もある。
ところが、これら物質にて(電子の質量はほとんどゼロとして)陽子と中性子の静止質量エネルギーを計算すると1ギガ[eV]、つまり陽子と中性子の核燃焼(結合)エネルギーのさらに1000倍にあたる。
この比較から、それぞれのエネルギー間におけるケタ外れの大小差も分かる。

太陽がその一生のうちに放出するエネルギーなど、超巨大スケールの検証となると、さらに別の科学的論拠も起用され、それが「静止質量エネルギー」。

静止質量エネルギーは相対性理論(E=mc2)によって導かれるもの ─ 或る質量を有する物体につき、その運動エネルギーが0であっても、一方で光速はいつでもどこでも不変であり、ここからこの’質量そのものが有するエネルギー’を定義している。
(わずか質量1kgの物体であっても、その静止質量エネルギーは約 1017 [J] にもなる。)

太陽内部のプラズマによって’毎秒'おこる核融合の出力エネルギー: 4 x 1026 [J] /s
ここで核融合による「核燃焼の効率」、太陽の「質量」、これらによる「静止質量エネルギー」の演繹、それに恒星としての「推定寿命時間」も勘案すると ─
太陽が寿命(100億年)の間に燃焼放出するエネルギー: 1044 [J]


以上

2025/01/22

2025年 大学入試共通テストについての所感

これまでセンター試験でも共通テストにても社会科に注目してきた。
とりわけ、政治経済と世界史である。
これらはどうにも完結性の乏しい科目ではあるものの、どこまで巨視的な発想が問われているか、どれだけ学術上の深みを突いてきたか、あるいはどれだけズボラな知識パズルに堕しているか、こっそり見極めておきたいとの念がある。

だから此度の共通テストでも政治経済と世界史に注目した。
とはいえ、今回は昨年までとはやや異なるアプローチから講評してみた。

もともと、さまざまな学術は全体命題と部分命題と断片知識から成っており、これら全体と個々部分は必ず量的に整合するはずである。
数学はむろんのこと、物理でも化学でもだ。
しかし社会科はモノの量的分析にあらず、むしろ人間の利害損得を対象としており、根元はおそらくは’価値’(経済)と’権利’(法)になりえよう、このようにウヤムヤしているので、全体命題と部分命題はしばしば不整合にバラついてしまう。
たとえば、或る前提命題があって、『ゆえに』『かつ』『一方では』『しかし』別の命題がありうるわけ。

ここですよ、このさまざまな命題の組み合わせ、この論理と因果の紛らわしさ、ここにこそ昨今のセンター試験~共通テストの社会科の出題形態が拠っているのではないか。
つまり、さまざま断片メモ形態や討論形態のテキストを以て出題を構成している理由なのではないか。
むろん危惧も残されている ─ つまり、出題テキストの分量こそ増えつつも、個々の知識命題はやっぱりバラついたままであり、やはり知識量の競争に留まってしまうのではというところ。

ともあれ、僕なりに注目した出題について、以下にちらっと注記してみた。


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【旧 政治・経済】

第1問
問1 本問は前提そのものがおかしい。もともとサッチャー政権やレーガン政権の時節は、世界情勢も産業構造も移り変わり英米の優位性が後退してしまった1980年代であり、政府の権限強化と財政拡大によって事態解決を図った。これは政府機能の縮小ではない。

問2  巨大産業において自由競争と資産規模拡大が並行しうるか否かと考えさせる ─ しかし本問は主張がおそろしく不明瞭であり、断片メモ型のテキストが悪い方に出てしまっている。とりわけ’必要経費削減’の論理がわからない。

問5 クォータ制は、議席や候補者の一定割合を一定の性別や人種民族や文化宗派の集団に割り当てて、議会や総会における議席上の公正さを図るもの、ここまでは本問のとおり。
しかしだよ、議席上の公正さを追求するならば同時に議決権の平等性も確保しなければならぬ(過半数多数決とするのが或いは議決数は不問とするのか、など)。ここまで重合的に考えさせれば本問は良問たりえたろう。

問8 一般国民のメディアリテラシーは一般国民によっておのおの定義され強化されるのか。ならばこれは国民一律のリテラシーとはならない。誰が誰のためにどうやって強化するのか、訳が分からない。


第2問
問1 これは需要供給曲線の意義を再考させる絶好の良問だ。
そもそも財貨についての取引情報をシンプルに捉えれば、価格およびそれぞれの数量、かつ、それぞれ需要か供給かとなるが、たったこれだけでも数値の解釈としては22通りが可能ではある。
とはいえ、一般の需要供給グラフにては縦軸が価格で横軸が数量と定まっている。
しかも、この設問では賃貸アパートの供給数が価格に影響されず常に一定、つまり供給曲線の(対)価格弾力性がゼロとされている。
だから、変動している曲線が需要曲線であると容易に分かり、本問は解決だ。
しかしもっと根元的に挑むべき経済上の論題が残されている ─ そもそもだぜ、通常の市場経済にて、価格に左右されず供給量が常に一定におさまる商材が本当に実在しうるだろうか?
ここいら含め合わせての多段的な設問とすれば、もっと学術上の深みもありえたろうに。

問6  日本の輸出先の推移を表した図表だが、題意としてはドル円外為がどう推移してきたかと(させられてきたか)を当てさせるもの。プラザ合意とルーブル合意の順番は易しいが、どちらが日米構造協議に続いているか留意要。
かつ、80年代以降であることにも留意すれば、日米貿易摩擦が無かったという「メモC」は第二次大戦後~1965年ではなくむしろ2000年以降について語っていると見当がつく。
本問も情報の多段構成をとった設問なので、通貨まわりの損得論に留まらず輸出先諸国との包括的かかわりを追求すれば良問たりえたろう。


第3問
問2 領海の無害通航権は、従来より国際慣習法(慣習国際法)にて認められ、また国際海洋法にても諸国の排他的経済水域を定義の上でこれを認めている。
ただし、これら慣習法や海洋法があらゆる諸国間の条約に必ず優先されうるのか、これらさまざまな国際法の成立経緯とあわせて考えらこせるべきでもあろう。

問4 日本の国内法、さまざまな国際法、特定の条約、どれがどれに優先さるべきかを再考させるつくりであり、相反する意見を併記した’典型的’な社会科論争の恰好といえよう。
なお、本問の論題は'選択的夫婦別姓'であるが、これが人間の自然の本性に合致しうる制度なのか、あるいは論理性(相対性)の暫時的な悪用にすぎぬのか…LGBTQ同様にコントラバーシャルな論題なればこそ学習対象としたらどうかと察するが、汚いビジネスについても避けて通ることできず、だから学校教育では難しいのかな。

問6 刑事裁判について、これもまた国内法とさまざま国際法における優先度愛を問い質すもの。そもそも各国の裁判所がおのおのの国内法に則って国際刑事裁判所への協力要請をする’場合もある。国際刑事裁判所はあくまでも諸国の裁判所の’補完的機関’にすぎない。


なお、第4問の最終第6問には、ピケティが著した論文の一端にて「'富'」の格差や分配についてさらりと記しているが、そもそも'富(wealth)’とは何であるかについて学術上あるいは物理上の統一定義があるのだろうか?
'富’とは資産ですよと謳えば会計上の定義たりえよう、ならば、科学力によるさまざまな’仕事のキャパシティ’は本日の資産として計上しうるか?そのキャパシティによって為されうる’仕事’と物質量は?これらが本日の資産勘定でないとすると明日の富ですらないのだろうか…ピケティ自身はここいらを精密に定義した上で発言してきたのか…


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【公共、政治・経済】

第1問
問3 ここでもクォータ制の効用を論っているが、上の【旧 政治・経済】第1問に記したとおり、多数決そのものの在りようも併せて勉強すべきだろう。


第3問
問3 諸国のエネルギー消費と人口を堅持せよと説くのか、あるいは節減せよとの狙いなのか ─ いずれにせよ物理上の根拠が分からず、論理上の最適解もわからず、誰が何を求めているのか分からない。ぶきみな論題だ。


第4問
冒頭の会話文にて、ロシアのウクライナ侵攻が(国連安保理として)違法である由を指摘。ここにある会話型の世界評は世界の'相対化'を認めさせたいのか、あるいは、世界の'統一秩序’は形成しえないとの前提にあるのか。

問4 本問における'国際法'がいかなる法律を指すのか不明瞭である。もとより、いわゆる'国際法'はさまざまな慣習国際法や条約をひっくるめた慣例的表現にすぎない。あらゆる国や地域の法律をも条約をも超越した’世界統一国際法’など存在したためしはない。
本問での'国際法'と国際刑事裁判所の関わりも分からないが、上に記した【旧 政治・経済】の第3問ともども、これからの対外緊張の時節にていよいよ求められる国内法と国際法の構造理解とはいえよう。


第5問
問5  労働生産性(productivity)および購買力平価についての超雑感のような出題だが、もっと深く大きく広げていけば日本経済のありようへのヒントたりえるかもしれぬ。


第6問
問2 上に記した【旧 政治・経済】第2問の問1と似通ったもので、財貨の供給量が価格不問で一定である - ことになっている。ただ本問では複数年に亘る需要と供給の推移を数量と価格から連立的に割り出し、コメの生産量を算出させている(数学としては安易だが)。

問3 ここでも'生産性'について論じており、さらに’知的財産’についても触れているが、製造事業者による'新規イノヴェーション’が何を指しているのか分かり難い。ハードウェアか、ソフトウェアか、複製型技術か、省力型技術か、何が何をどう組み替えるのか?こんごの世界のありようについて、少なくともカネの調整や分配では済まされない、本当の教養知識たりうる ─ とすると生産性そのものの意義も変わってくる。


以上

※ 世界史については興に乗ってきたら追記する かもしれない。
物理と化学は別掲する。

2025/01/14

仕事とエネルギーについて

力の「運動方程式 ma=F 」、この物理単位は[N]ニュートン。
もちろんこの’力’の方程式は数学上ギリギリ演繹され絞り込まれたものではなく、自然観察上の統一された経験則として常に成立している。
この’力’を、行使される「位置x1, x2」間にて積分すれば、「仕事」の一般解 (x1, x2) Fdx」を定義出来、この物理単位は[J]ジュール。
一方で、この'力'を位置ではなく「経過時間 t」で積分すれば「運動エネルギー  (m/2)v2」を定義出来、こちらも物理単位は[J]ジュール。
もちろん、「運動エネルギー」の’表現上のメリット’は分かるよ。
なんらかの「単振動エネルギー」とも見なせるし、「位置エネルギー」としての表現も可能であるからであり、どれも物理単位は[J]だ。

それにしても、「仕事」と「運動エネルギー」それぞれを導くにあたっての積分次元の違いにはいかなる意義があろうか? ─ そもそも意義ではなく数学上の技法にすぎないのでは? ─ とあらためて考えてみた。

いかに文系あがりの僕だって、たかが高校物理の基本くらいは分かってんの。
しかしながら高校時代に数学くんとは不仲だったため、微積分とくに積分についてはきっちりとは理解していない。
それでもとりあえず納得しているところ、以下しるす。


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「運動方程式 ma=F 」にて 位置x、速度v=dx/dt、加速度a=dv/dt である以上は、すべて時間tの関数。
※ ロケットなどでは燃料消費にともない全体の質量mが減っていくので、質量mもまた時間tの関数ではあるが、ここでは簡単のため質量は一定とする。

「運動方程式 ma=F 」 の両辺に速度vを掛けると
mv(dv/dt)=Fv  ⇔  mv(dv/dt)=F(dx/dt)
ここで、時刻t0においては速度がv0 また位置がx0 として、両辺をt0~t1で積分(置換積分)すると、
v0=v(t0), v1=v(t1)       x0=x(t0), x1=x(t1) 
(v0→v1)mvdv =  (x0→x1)Fdx
   ⇔   (vo→v1)[1/2mv2] =  (x0→x1)[Fx]
  ⇔  1/2mv12-1/2mv02  =  F(x1-x0)
つまり、特定の時間t0~t1で積分してみれば、「力」の経過位置xによる「仕事」の増大は経過時間tによる「運動エネルギー」も増大させていると明らかになる。
※ ここいらのところは駿台の新・物理入門などにても前段部にさらっと記されている。

かくて「仕事」は経過時間tによっても表現出来ることになり、あらためてふっと眺めやれば位置(距離)は時間の積でもあるのだから当たり前ではある。


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…とまあ、あらためて納得は出来たものの、一般社会における見識からあらためて考えてみると、「仕事」を経過時間で表現するというこの’論法’というか’根性’はどうも気に入らない。

そもそも一般社会だって物理法則に則っているはずであり、人間によるさまざまな「力」が投入され、さまざまな「仕事」が為され、かつさまざまな「エネルギー」が消費される(新たに生み出される)。
そして、或る「仕事」の成果をあくまでも線形のそれと見做すならば、位置(距離)を微分し積分する方が測定上はずっと容易であろう。
一方で、「仕事」を「経過時間」の積分として捉えるためには、まず時間をギリギリ微分して測定しなければならず、加速度の測定ともどもこれはおそろしく困難であろう。

それにもかかわらず、「仕事」を経過時間だけで積分的に表現するってことはだぜ、誰かが猛烈に「エネルギー」を費やそうが別の誰かが居眠りしていようが、経過時間のみで押し並べてみんなよく「仕事」をしているねぇということにもなり…
さらにやっかいなことには、経過時間を一律にカネと交換する作法が一般社会に根付いていやがる。
もっとやっかいなことに、女たちも移民労働者たちも「力」と「仕事」と「エネルギー」の区別が無く、もう次元も積分もへったくれもない ─ かもしれず、それでいまや経過時間とカネのみがガチンガチンの方程式を…。

※ ここいらは高校生諸君には理解し難いかもしれぬ。

まあいいや、人間はどうしても利害損得に拘り、しかも価値と権利とカネを塗すものだから、どうしても理科から離れ社会科に偏り、だんだん不愉快になってしまうもの。
このへんはまた気が向いたら記そう。


おわり

2025/01/12

新成人 (2025)


新成年おめでとう。
此処の投稿内容は、昨年の新成年の日に際して書き綴ったものを元に記している。
以来、僕なりに考えは変わっていないため、概ね同一内容を繰り返し記すことにする。

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昨日まで子供だった諸君らにとって、「実体」「論理」は一緒くたの不可分だった。
というより、すべて「実体」そのものに映っていたことだろう。
しかし、成年に達したということは、その彼/彼女にとって「実体」の次元と「論理」の次元が完全に分離したということ、そして、これらどちらもともに生きなければならぬということである。

だから、此度は「実体」「論理」について、ちょっとだけ理屈をおいてみよう。


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あらゆる物質も物体も、そして我々の肉体もまた脳神経すらも、1度に1つ限りの自然な「実体」である。
たとえば、遺伝子や細胞はむろんのこと ─ 水や食材、薬剤、電磁波、核、熱、鉱物、イオン、木材、鉄鋼、コンクリート、ガラス、プラスティック、機械類、半導体や導線、火力兵器、核兵器、ウイルス物質、ワクチン、さらにスポーツや絵画や音楽や文学などなど。
もちろん地震や津波は実体の超巨大な複合といえよう。
これらは何らかのエネルギーから起こり、何らかのエネルギーに転化もできる、だからこそ「実体」といえる。
日本国、皇室、日本人、お正月、アメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、ロシア人…そして伝統文化や社旗規範なども「実体」

「実体」は、途切れることなく連綿と変化し続けてはいるが、どこまでも有限の存在でもある。
変化し続けている以上は、「実体」それら自体をデジタルに均等細断することはおそろしく困難、ましてや有限の存在ゆえ、完全無欠の複製や流動や組み換えや復元はもっと困難、(素粒子レベルで本当に復元できようか)。

君たちは「実体」として生まれ、「実体」として育ち、「実体」として成人した。
「実体」として走り、「実体」として跳び、「実体」として「実体」を見聞し感受し、「実体」に対して右ストレートや左フックを叩き込み、「実体」を掴んで抱えて上手投げや下手投げを繰り出し、「実体」をぶっ叩いて場外ホームランを叩き出し、「実体」を蹴り飛ばしてオフサイドギリギリのシュートを放つことも出来る。


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一方では、成年なりたての諸君を大いに惑わしうる「論理」について注記しておこう。

「論理」はどれもこれも人間が考案した観念でしかない。
たとえば、数学とか言語とかソフトウェア(デジタル)とか、通貨とか価値とか税とか証券とか保険とか、法とか権利とか義務とか、多数決とか議会とかメディアとか…
さらに、国際金融資本、アメリカ合衆国、ヨーロッパ連合、ウクライナ政府、中国共産党、国際連合、NHK、感染者数、などなど。

人間考案の観念にすぎぬがゆえ、あらゆる「論理」は無限を前提とし得る。
無限の「論理」ゆえにこそ、作為的に意義や文脈を無視してデジタルに均等断裂が出来、なんぼでもシャッフルして組み換えが出来、さらに複製も流動も自由自在、そしていつかどこかで完全復元もOK ─ ということになっている。

「論理」のほとんどは、しばしば言葉遊びでもある。
たとえば「勤労の義務」は規範とされているが、「雇用の義務」という規範は無い。
また、「生産」および「生産物」は「実体」だが、「生産性」はカネまわしの「論理」でしかない。
「地球の気温」は「実体」だが、「温暖化あるいは寒冷化」となると「論理」でしかない。

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何が言いたいのかって?
成年なりたてホヤホヤの諸君に伝えたいことは、要するに簡単なことだ。
「実体」あってこその「論理」である!
「論理」のために「実体」があるわけではない!
有限の「実体」を改編し新規に作り上げるためにこそ、さまざまな「論理」の無限のフレキシビリティが起用される!
感染という「論理」をコロコロ転がしてカネをコロッコロと回すために、諸君らの肉体という「実体」が犠牲になってよいわけがない!

ひとたびカネに変えてしまった肉体を完全な元通りに買い戻すことは不可能なんだぞ!


君たちの多くが学んできたとおり(あるいは言い聞かされてきたとおり)、物理学は名称こそ紛らわしいが明らかに「実体」に則った学問である。
その証拠に、「万物」の運動現象をとことん還元すれば何らかの物体の単振動、それら力の作用と反作用である ─ などなどと断言している。
そして、エネルギーとその仕事の有限性に則ってこそ、エネルギー保存則もエントロピー限界説もある。
一方で、数学は「論理」でしかない、だからエネルギーも保存則もねぇんだ、無限にずーーーっと縦横無尽の展開をしていくんだ。

なるほど、物理学は数学「論理」によってさまざま新たな仮定もおこり、新たな発見もなされ、それらによってこそプラスティックもシリコンウエハーもコンピュータも航空機もレーザーも量子マシンも核兵器も生み出してはきた。
だから、「論理」あってこその新規創造だろうと反論したくなるかもしれない。
しかし、じっさいに生み出されたそれらは有限の物理環境においてこそ駆動するもの、だからどこまでも有限の「実体」である。

生命科学によって出現したクローンやIPSにしてもそうだ。
クローン男にせよ、IPS女にせよ、数学「論理」によって設定された完全な同一複製や組成再現であるはずだから、「論理」あってこその新たな生命秩序じゃないかと言いたくなるかもしれない。
しかしながら、それらはひとたび発生した瞬間から別々の環境にて別々の代謝を始めるもの、ゆえにどれもこれも別々のそして有限の「実体」である。


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グダグダと書き殴りやがって…と閉口しているかもしれぬが、ともかくも「実体」と「論理」の峻別は個々人にとっても国家民族にとっても生きるか死ぬかの超重大問題。
独立した成人であれば、なおさらのことだ。
だからこれからも何度でも繰り返すつもりだ。


以上

2025/01/07

教育と教師について

大層なタイトルを充ててみた。
此度の主題は若年層(とくに未成年)に対する教育である。
東芝在籍時から僕なりにずっと抱き続けてきた信念であり、今も変わらない。

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まず、人間の性分を以下の①と②に大別する。

① 実体と量(掛け算と足し算)のタイプ
こちらは、位置エネルギーが高く、文脈エントロピーはまだまだ小さい、つまり若くてワイルドで夢一杯の人間である。
自然物の動的/アナログ量に挑み、どかんどかんと変えつつ、もっとどっかんどっかんと繋ぎ合わせてゆく連中である。
新規のワイルドな心身鍛錬、新規の想像と創造、新規の素材の組み合わせ、新規の製品開発と市場開拓、新規売上と市場の拡大 ─ を図る人たちである。
発想そのものが理系型である。
なるほどタイミング次第ではインフレもデフレももたらしやすいが、産業と市場の大拡大をももたらす。

聞き及ぶ範囲では、戦前~戦中の日本人の多くはこのタイプであったようだ。
トランプと仲間たちもこういうアメリカを復活させようとしている。
たぶんロシアもだ。


② 論理と数(割り算と引き算)のタイプ
こちらは、既に位置エネルギーは低く、文脈エントロピーがかちんかちんに肥大化し固まっている、つまりジジイのこった。
物質量そのものではなく、論理/デジタルの数、通貨換算上の価値と権利を(そして通貨そのものを)奪い合い削り取っていく連中である。
既存の産業や市場に便乗し介入して、産品や製品を潰してでも利益を啄んで溜め込んでゆくやつらである。
発想方式は非理系である(文系とも称す)。
リストラとデフレと詐欺をずーっと継続しやすい。

聞き及ぶ範囲では、戦後の日本人にこういう連中が増えてしまい、せっかくの産業拡大や市場拡大を食いつぶしているようだ。
なにしろ物質量ではなく論理数の勝負を続けるため、議会と政党とカネ貸しと証券と保険と広告とメディアなどなどに多く、もちろん富の収奪も独裁政権も起こりやすい。


①と②は補完的に協力しあえば素晴らしいのだが、おそらくは①が盛り上がってくると②が出張ってきて、居座って、かっさらっていく。

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さてそれでは、未成年たちに伝えるべきは①と②のどちらの思考であり、どちらの’生き様’であろうか。
もちろん①のタイプに決まっている。

未成年はもとよりワイルドな自然物からの影響を大いに受け、だから心身の位置エネルギーが高い。
一方で文脈のエントロピーはほとんど無いので、何につけても俺流あたし流でやる気満々。
だからこそ、大抵の事に我慢してでも学校に来て修練に励み、分厚い本でも読んじゃったりするのだ。
こういう連中を相手にするのが教師だ、だから教師自身もこういうタイプでなければならぬと、こういうこった。
スポーツ選手でもいい、芸能人でもいい、農業や漁業でもいい、研究開発者でも設計担当でもSEでも営業でもいい、とにかくおのれ自身がワイルドな実体であり、変位と変容を続ける物質量である、そういう①のタイプの人間こそが、未成年とどっかんどっかん対峙する教師に向いているし、成るべきであると。

タブレット教材がどうこうと批判する声も依然として喧しいようだが、いいじゃないのタブレットでもスマホでも。
それらをひっ掴んだ子供たちがワイワイ叫びながらあっちこっち駆け回っていれば、それでいいのだ。

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教師が①のタイプばかりになると教育現場において統制が効かなくなる ─ などとぶちぶち言っているのはきっと②タイプのジジイどもで、頭の中がカネの割り算と引き算ばっかしだ。
こういうジジイ連中が数の論理で群れて集まって、世の中からカネを毟り取ることばかり考えている。
彼らにとっては、子供たちもまた実体量ではなくてただの数なのだろう、だから統制とか効率化とか唱えつつ、子供たちをギッチギチに矮小化させて型に嵌めてとっとと流してしまえと、こういうことじゃないかしら。

②の素養が全く無益だと言いきるつもりはない。
どうせ誰でも社会人になれば②に翻弄され苛まれ悩まされるに決まってんだ。
しかし、②のタイプの人間を未成年の教育現場に充ててはならない。


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ついでに。
①についての面白い論題のひとつが、「工業の宿命」であろう。
これはまた、「数学と物理学」の功罪でもある。
工業は素材としては自然物でありさまざまな実体量ではあるが、その製造過程は同じ電圧と同じサイズと同じ品質精度に拠っており、だから規格化も画一化も独占すらももたらしやすい。
よって、上手くやれば市場拡大も支配も容易だが、いったん普及してしまった製品は値崩れしやすい。
そこで手を変え品を変え、精度や密度や強度さらにソフトウェアを変えたヴァリエーションを提供しなければならぬが、もちろんこれとてどこかでネタ切れになる。
数学と物理学のみに拠っていれば、どんな工業製品でも必ずこうなる。
いつかどこかでデフレをもたらす。

しかしまだまだ①の新規創造の余地はあるんだ ─ 既得のヴァリエーションではなく自然物そのものつまり素材そのものを新たに充ててゆけばよい。
これをもたらすのが「化学(と生物学)」である。

(このあたり、また新たなヒントを掴んだら書いてみよう。)

おわり