2025/12/06

Think Big (5)

ふとした閃きこそ、しばしば巨視的であったりする。
だからさらに続けてみよう。
(言葉ばかり弄んでいる文系ジジイ連中は読まなくていい。どうせ怒り出すんだろうから。)


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・光は最も速い電磁波物質だという。
光速を以て観測すればとりあえず宇宙の歴史像は138億年くらいだと。
…なんてことをピカッと閃いちゃう我々人類の知覚や思考もまた138億年くらい大昔のものなのか、あるいは、遥か超未来のキラッとしたほとばしりの先取りなのだろうか。
※ 作家ならこのくらい書けよな。でないと出版不況からは抜け出せないだろうよ。


・「テレパシー」の同期と交信の能力は、各人ごとにバラついているという。
しかし本当は、むしろ人間’以外’の何らかの物質を通じてこそ、テレパシーの同期~交信がなされ、だからその物質を介せば誰もがテレパシーを共有し…
…とすると、古代人や宇宙人とのテレパシーも可能ということに…?


・自然界や生命自身には、水圧や蒸気圧などを「タービン回転」によって「電磁誘導」に導いて「発電」するエネルギー機構は無い。
なぜ人間がこんなものを考案したのか、不思議な気になることがある。
むしろ静電気モーターなどが、’自然や生命人体とフィットした駆動系じゃないかいやどうかな生物科は何と言うかなはははは。


・主要国にてデータセンターがどんどん増え続けているらしい。
地球の総物質量/エネルギー量がほとんど不変だとすると、データセンターばかり増え続ける(相応の消費電力も増え続ける)のはおかしいのでは。
経営者ならこのくらい分かってるでしょうに。
或いはスパイと戦争の激増が目されている?

また、数学とアルゴリズムとソフトウェアと言語学が進歩し続けているとすると、データセンターばかり増え続けるのはやっぱりおかしい。
経営者ならこのくらい分かってるでしょう。
或いは宇宙人との邂逅が目されているのだろうかははははは。


・宇宙の全物質/全エネルギーは、無限だろうか?有限だろうか?
一方で、人間の知識量は無限だろうか?有限だろうか?
これらについて、人間に解釈しようがないので、とりあえずAIを立てておくのでは?
でもAIにも解釈しようがないのではないか。
とすれば、さぞ困ってんだろうなあと。


・運動方程式の時間積分、質量ごとの置換積分、これら位置エネルギーと運動エネルギーの対応(保存測)
これら数学は文系の俺でも分かるの。
また一方では向心加速度やケプラーや万有引力もまあ分かる。
ところが、万有引力の仕事と位置エネルギーを絡める発想/文脈は閃かない。
ここいら教師のセンスが問われるところじゃないかな。


・いわゆる文系が数学や物理学を厭うのは、文系思考の多くが特定命題の一方向への因果律であるため。
理数系はむしろ'比例'と’関数’と連立方程式’のタイプの多元多重思考が多く、しばしば論理循環や論理反転に鋭敏でなければならず
 ─ などと単純に捉えているのは文系の俺であって…


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・人類は、車輪を発明し、道路を平面化し、動力を生み出し、直流⇔交流の電流を活かし、さまざま素材を開発し、数理計算と論理素子を拡張かつ凝縮し、核反応を制御して、労働の苦役から解き放たれてきた。
ところがAIやロボットとなると、人類は失業と戦争で滅亡するそうな。

どこかにキチガイが紛れているんだ。
或いは悪辣なカネ貸しがCO2削減を煽り続けているんだよたぶん。


・1kWの'仕事'はいつでもどこでも同じ物理量。
この変換や複製の効率に優れる国や地域ではカネが要らなくなる。これをデフレと称す。
そこでカネ貸しは、バカと餓死と戦争の多い国地域にどかんどかんと貸付け、これをビジネスチャンスだのファンドだのと称し、もちろん1kWあたりに死に物狂いとなり、さあえらいこっちゃと駆けずり回るんだ。


・愛情はカネでは売買出来ない。
ならば憎悪もカネでは売買出来ない。
よって、テロや戦争はカネでは解決しきれない。
したがい、少なくとも国防は常に必須だ。

…この論理に異を唱えるリベラル左翼人は、愛情をカネで売買出来ると言うのだろうか。


・人間は通貨を考案してきた。
しかし、全世界の統一通貨が望ましいのか、あるいは逆に、あらゆる財貨が通貨機能を果たすべきか、誰も結論は出せていない。
税と物価と国体にも大いに関わる不可思議。
AIはこの難題を真面目に解決しうるだろうか?
ははははと笑い飛ばすだけなのでは?


・放射能 1Bq あたり或いは放射線量 1Sv あたり、客観統一の「価値尺度」は誰にも設定出来ませんよ。
米ドルでも日本円でも出来ません。財務省にも科学技術庁にも東大にも無理無理。ましてや国会議員はむりむり。
どんな事故が起ころうとも、あくまで主観上の損得勘定しかないでしょう。


・勉強量と仕事と収入における正比例のコスパ論について。
そもそも、1電子ボルト[eV]あたりの人類普遍の価値は?
1ジュール[J]あたりでは?
この世には物質/物理上の絶対の価値’尺度’が無い。だから勉強量と仕事と収入の比例関係は人間には証明できない。
駿台や河合塾ならこのくらい分かるでしょう。


・地球温暖化で大儲けし、地球寒冷化で大儲けし、巨大地震予測でまた大儲けしている人たちは、こんごの太陽がどうなってゆくのかについて語れるのかな。
それは研究予算次第ですよというかもしれぬが、ならばカネ次第では宇宙の全貌も語れるのかしら。


・AIには’価値’の観念がない。’価値基準物質’を内包していないため。
財貨の需/給の数値は精妙に扱うが、あくまで人間都合によるもの。
人間都合の通貨や証券債券や化石燃料のために、AIが命懸けになるか?

相場が暴落したら電力供給とAIが停止するのか?
(もしかしてこれが関係利権屋たちの煽りなのかな。


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・学校教育における最大の問題は、実体「量」と論理「数」の混同ですね。
例えば、『或る工場の製品が売れなくなり、利益も株価も下がると、官僚やカネ貸したちが「俺らの’面子’に泥を塗った」と憤り、この工場の設備も従業員も焼き払ってしまう』
─ この狂気を「価値の多様性」などと説く教師がいるのは困ったもんだ。


・世界のさまざまな実体の内から、数学や言語が生まれ出でたという。
例えば、岩石やゴマの内から呪文が生まれたと。
「開け、ゴマ!」と唱えると巨大な岩戸が開いて財宝がわんさかと。
金利や株価を語れば、核武装が即座に実現するか?核融合発電が適うのか?太陽フレアを制御出来るか?
ヘンな宗派だなあ。どこか狂ってるのか。


・核物質反応の臨界状態は、金利や議会次第で制御調整が出来るのかな?
核兵器開発と核軍備は金利次第か?議会次第か?
欧米はそうなのか?中国は?

現在の国防は、市場経済も民主主義も超越しているのではないか?
カネと多数決で議論しているのは政党とメディアだけなのでは?
(何を討論しても必ずカネと多数決にすり替える、そんな文系メディアも多い。困ったもんだ。)


・昨今の日本は、円安、株安、債券安、一方で長期金利だけは上昇傾向。
エコノミストたちは「さぁ売れ」だの「さぁ買え」だのと煽る。
シンプルに考えれば、「実体『量』」の経済と「利益『率』」の経済がある。
投資家と投機家はどちらを優先しているかでしょう。
消費者はどうか。そして財政は。


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・我々は「多様性」を許容すべきである。
ゆえに、統一言語の禁止、統一通貨の禁止、統一民法の禁止、統一政府の禁止、共産主義の禁止を訴える…

ここまでは正論として、では水は?電圧は?タンパク質は?数学はどうなる?どれも多様化が望ましいのか?
自民党や野党はここまで真面目に考えてんのかな。
東電や東芝は、厚労省は、まともに答えられるのだろうか?


・日本の全国民がコメ農家になれるだろうか?
日本の全国民が自動車メーカーになれるだろうか?
日本の全国民が医者になれるだろうか?
こんなこと不可能でしょう。
だからこそ金融があり、サービス産業があり、学校があり、風俗メディアがあり、役所や議会がある。さらに失業も犯罪も戦争もある。


・新政権の有能な女性閣僚の皆さまに認識頂きたい。
いわゆるグローバル化現象は、さまざまな事物において、ごく単純に捉えても
① 収斂 or バラつき、さらに ② 自然 or 人為
つまり2=4通りの解釈が可能。
しかし人間は誰もが有限なので、何事にてもこれら4つを同時に許容することは困難です。
同様に、LGBTQの解釈も困難ですね。
解釈や許容の困難なテーマは政策化し難いもの。あっちこっち振り回したり隙間で儲けたりする輩も多いでしょう。深入りしないことをお勧めします。


・高市政権は、概ね「敵でない勢力は味方です」と説かれる。
しかし世界には、「味方でない奴らは全て敵なんだ」と睨む連中もいる。
両者は補完関係にも対称関係にもなく、よって和解は不可能かもしれぬ ─ という冷徹な見方が女性陣に可能かどうか。
そこんところだな。


・日本における「多重国籍」について、諸国ごとに法制度が異なるため、日本の法務省のみでは完全な捕捉は出来ぬと。
多重国籍の捕捉が法制度にて不可能とすると、「無国籍」者の捕捉もやはり不可能ってことか?
もっと真面目にやってくれよな。


・「UFOが地球に飛来した」
「いったいどこからやって来たどういう物質とエネルギーから成るUFOなのですか?」
「それが分からないからUFOと言うんだ」
「じゃあ対処しようがないですよ」
「そこを考えるんだよあほ」
「無責任なこと言わないで下さいよ」

世の中の多くはこんなだよ若者諸君。自信を持て。
どうせいずれは怒鳴り合いとケンカになるんだ。
たとえば、大地震や大災害が起こった際にだ(不幸なことだが)。


・割り算と引き算ばかりの銭ゲバ左翼の殺人時代は、いよいよ終わりつつある。
これからは伝統保守と未来技術のでっかい掛け合わせ時代到来だ。
率先するのがトランプとプーチンと高市政権などだ。
…というくらいのデッカイ時代感覚を抱いてゆきたい。

若者諸君、君たちの人生には意義が有ったんだよ。
(この復興パワーを以て、東芝や日産などもでっかく復活させてくれないかな。)


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つづく

2025/11/30

【読書メモ】 法と経済学

『法と経済学 有斐閣ストゥディア 得津晶・西内康人

本書前半部に目を通すかぎり、本書の主目的は民法(商法・会社法も)において、’当事者の行為選択における損得トレードオフと動機付け’を如何に数化/価値化しうるかの論考であろう。
ならば本書コンテンツは「民法の経済性(学)」の指摘とも総括しえよう ─ むしろこちらを本書タイトルとすればヨリ大意明瞭な気もする。
すると、ここいらから当然演繹され、かつ疑義も頭をもたげてくる、そんな大命題がある。
民法が経済性(学)を成しているならば、民法上の当事者間には必ず損得の自動調整が効いているといえようか?
うむ、これはなかなか野心的な論考ではある。

また、本書は構成もなかなか野心的ではあり、随所にて「CASE」として続々と呈されているシンプルなケーススタディ群を徐々に分析しつつ、要件や行動動機や損得を解き明かしてゆく。
総じて、文面の分量はけして大量ではないので、一通り読み進める上ではさして困難さは無かろう。

尤も、各文章はやや長めでしばしば論旨反復的でもある。
また、各論から総論を誘う文脈づくりも目立つ。
一方では、ベン図やツリー図やフローチャート類は希少に抑えられている。
以上から、要件や行動動機や損得における’条件分け’(これらの過不足の有無)がやや捕捉し難く、だから却って文面過多にすら映ってしまう。
よって、せっかくの諸々のケーススタディも、比較検証のエッジがしばしば不明瞭に留まっているのが惜しい。


さて、せっかく読みかけた本書ではあるので、とりあえず『第1章』と『第2章』について、僕なりに以下にざっと要約略記してみた。




<過失責任と厳格責任>

民法にては、或る不法行為の成立とその効果を確定すべく、その不法行為による因果関係と損害問題を定義する。
この因果関係と損害問題の定義において、「過失責任」「厳格責任」の原則解釈がある。

「過失責任」原則は、加害者による「予見可能性」と「結果回避義務」に拠った上で、不法行為の結果に損害賠償ペナルティが課されるとするもの。
「結果回避義務」は、加害者側のさまざまな技術能力パラメータに則って、裁判所が画定する。

一方、「厳格責任」原則は、加害者による「予見可能性」と「結果回避義務」が定義無きままでも、不法行為の結果に損害賠償ペナルティが課されるとする。
「結果回避義務」を裁判所が画定することはない。

「過失責任」よりも「厳格責任」の方が、損害を加害者側に内部化させ多大な責任を負わせる原則である。
しかし逆に見れば、「厳格責任」にては加害者側がおのれのみの損得判断に則って行動判断を適正化していることにもなる。

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「過失責任」原則における「結果回避義務」の損得尺度として、「ハンドの公式」が起用されることが多い。
例えば;
(a) 結果回避義務の履行費用
(b) 結果回避義務の履行にて低減が見込まれる損害発生確率
(c) 結果回避義務の違反にて発生が見込まれる損害
この上で、加害者側が (a) < (b) < (c) の損得大小判断を為すのであれば、義務履行の総コストも最小となるはず、だから加害者側は「結果回避義務」を受け入れる ─ つまり「過失責任」原則に同意していることになる。

「ハンドの公式」の留保条件。
「結果回避義務」は、個別要件化すれば基準設定から伝達までいちいちコストが掛かるので、加害者を客観の通常人と見做した上での普遍的なコスト判断が為されるべきである。
むしろ、「ハンドの公式」よりも一般慣習や法令に則ってこそ、加害者の「結果回避義務」のコスト判断が為される場合も多い。

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なお、「過失責任」原則における「予見可能性」は、’知られざる損害発生確率やリスク’についての加害者側の主観判断。
加害者はこの独自の「予見可能性」を「結果回避義務」と比較し、おのれの賠償額の最小化をはかる場合もある。

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日本を含め多くの国々では、「過失責任」原則を採用しており、「厳格責任」原則はあまり採用されていない。
「厳格責任」に則ってしまうと、加害者は自身が過大な賠償責任を課される由をあらかじめ予測してしまい、却って「結果回避」の自助努力がなおざりになってしまう ─ と考えられるため。
さらに、「厳格責任」に則る加害者はコスト負担の最小値とそれら負担者を独自に決定しうる。
(たとえば、上の「ハンドの方式」条件肢にて (b) & (c) と (a) それぞれの効用を比較して最小コスト負担のものを選ぶ。)

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不法行為の加害者は、上述のようにおのれらによる損害賠償コストの最小化を図るが、一方でこの不法行為の被害者側は自身の利益最大化を図る。

ヨリ総括的に「損害賠償」の機能をみれば;
・コスト負担の見做し平均から実額まで、(潜在的な)加害者たちに従前にスタディさせ、当事者意識を換気させる。
・また、この不法行為訴訟にて被害者側に掛かってしまう金銭的かつ時間的なコストを、損害賠償が代替しうる。

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<損害賠償の機能>

過失と損害の間にて、’事実的因果関係’を不問とする捉え方がある。
この場合、危険の現実化に応じた損害賠償を’一定の被害者’のみに払うか、或いは’潜在的な’被害者全員に払うか、どちらもありうる。
しかしいずれにせよ、’潜在的な被害者’をどこまで拡げるのか、また賠償の対象を’抽象的’危険のみに絞り込むのか、あるいは’具体的’危険を前提とした場合の発生確率をどう数値化するのか ─ 整然とは収まらない。

むしろ、「具体的危険の現実化」に絞り込んだ損害賠償制度が必須であろう。

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損害賠償の保護範囲には限界がある。
「過失責任」原則に拠る「結果回避義務」の違反が’事実的因果関係’として認められたとしても、これが加害者による損害発生確率の低減~抑止と無関係である場合には、損害賠償に加味されない。
※ 本箇所はとくに文面が難解で、論旨を拾い難い。

或る「結果回避義務」が阻止しえない損害項目が、損害賠償にて新たに見出されるとする。
これについての説明義務の不十分性は、直接関係しうる被害者の’自己決定権の侵害’とは解釈されうるが、この被害者への’生命侵害’としては帰責されない。

或る過失において「結果回避義務」が為されたか否かは、加害者の行為が(ハンド公式におけるように)この過失損害を軽減しえたかどうかに係っている。
よって、「結果回避義務」によって軽減されえない損害は、たとえ’事実的因果関係が認められても損害賠償を帰責されない。

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損害賠償の意義は、’抑止’と’保険’である。
’抑止’の観点によれば、損害賠償の対象は、生命侵害の逸失利益や物損代価など’財産的損害’のみならず、’非財産的損害’も含まれるべきである。
ただし、’財産的損害’とくに逸失利益などは完全賠償が図られる傾向がある一方で、’非財産的侵害’への賠償は確たる算出基準の無い謙抑的な賠償に留まっている。

ただし、これら賠償を期待する被害者自身が損害の軽減を怠る場合、また余計な支出を行う場合には、これら被害者は’最小費用回避者’と見做されるので、ここでの増加費用は損害賠償から除外される。


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以上が、僕なりに要約した第1章と第2章のあらましである。

本書は第4章から「所有権における」損得判断と抑止について、使用収益と自由譲渡処分などの論が展開し、制度と合意の実務上の意義にもふれる。
なお第10章からは商法とくに会社法についての意義分析が始まる ─ 企業法務などにあたっている若手従業員などはむしろここいらから読み進めてはどうか。
僕はいったん本書を閉じるが、いずれまた触れてみるつもり。

ともあれ本書は、民法(商法や会社法)が如何に経済性を成しているのか/いないのか、どこまで自由選択が保証されどこからが強行規定なのか…これら再認識する上でさまざまな思考の切り口を呈している。

本書は個々の実例や実践から次第に総論へと誘う文脈づくりが多く、だから大要を了察するにはどうしても忍耐力が問われるが、或る程度まで大要を掴んだ上で挑めばけして難解なものではなく、むしろ民法の意義を新たに認識しなおす一冊といえよう。

(おわり)

2025/11/23

Think Big (4)


とくに若手社会人や学生諸君向けに、ちらっと再開したくなった。
理系にも文系にもあまり偏らせてはいない ─ むしろ現下の世界情勢をふまえれば、両者ぶっ続きで考えるべきではないかな。

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・H.G.ウェルズが著した『奇跡を起こした男』は、SFのひとつの端緒。
論理(言語)が物理(実体)を支配してしまう皮肉、その恐ろしさを綴ったもの。こういう着想は一神教圏ならではか。

※ ちょっと似通っているのが筒井康隆の『熊の木本線』などだが、こちらはむしろ言霊信仰を論っているようでもあり…
では芥川龍之介は、太宰治は、江戸川乱歩は、小林秀雄や三島由紀夫は、言語が実体を支配しうる恐ろしさをどう捉えてきたのだろうか?
なお星新一などはぐっと理系型だったので、言語が実体を支配しきれるわけがないだろうバカだなみんなあっははははと


・さまざまな物質/エネルギーのアナログな「連続量」を、とことんデジタルに微分してゆけば、粒子になり量子になり次元が落ちて情報になり、ただの「数」になる。
この量子的な’数化’が人間の基本論理かどうか…そもそも論理そのものが何某かの直観なのか…


・宇宙あまねく自然物もエネルギーも、アナログ連綿に連なる実体「量」。
だが人間だけはこれらを微分して燃焼させて、無機のデジタル「数」に変換してしまう。
おかげで万物は価値「数」であり権利「数」であり多「数」決であり…
…という人間の本性を、AI自身はボトルネックと見做すのかな?


・宇宙の万物はアナログに連なって連続運動と作用反作用を為しているが、人間の脳神経はデジタル微分の静的な’数化’に陥りがち ─ この分断が文明のリスクである
…というのが養老孟司氏などの指摘。
しかしもしかしたら、デジタルで静的な’数化’と操作こそが人間のやっかいな悪癖ではないかという気がしている昨今ではある。


・人間の本性はデジタル志向(思考)かどうか。
物理「量」のSI単位画定はどうなのかな。
たとえば電気素量e、クーロンC、アンペアAなど…。
また、状態方程式における物質量(エネルギー単位)をモル数でなくアボガドロ定数とボルツマン定数によって画定するのは、アナログ志向かデジタル志向か?


・何らかの実体「量」を「数」に置き換えるのは人間ならではの智慧という。端的には言語や通貨や徴税のシステムですね。
しかし逆に、カネや偶像や情報としての「数」を元の実体「量」に戻せるものかどうか?
出来ますよというのがピラミッド数学のメッセージか?
或いは、出来ませんと警告しているのか?


・人間の脳神経はアナログにつながる物質であるので、人間の思考もアナログにずーっと連なっているのだろうか?
とすると、人間が’時間’の同期をわざわざ設定している理由は?
…こんなこと考えると、やっぱり人間の本性はデジタル離散/局在的な思考と記憶で、だからこそコンピュータを閃いたという気が

(思考はぐるぐる回り、ふっと離散し、またくっついて、アナログな満ち潮とデジタルな引き潮のごとく)


・宇宙のどこかで何らかの粒子が 「ほんの一瞬だけ」 「運動を停止した」 とする。
これを人間が物理的に観測し、さらに微分数学をつきつめて表現出来たとして、「あ!停まっている!」という人間側の思考は一瞬の直観に過ぎない
─ とするとだよ、’この一瞬’にては物理も数学も直観も同じ思考ビットであると言えまいか。


・中世スコラ学の’普遍’論争にて。
『万物を超越した神=普遍』が;
①宇宙に実在しうる
②いやあくまで人間論理にすぎぬ
ここが論争されたという。
なるほどね。では「数学」はどっち側だったのだろうか?
ここまで踏み込んで考えないと学問とはいえない。だから現行の世界史は学問ではないとはははは


・さまざまな生物種が体細胞物質のエントロピーを増大させ尽くさぬよう、他所から入ってくるウイルスが新たな経路スイッチングをもたらす。
一方で、核反応技術はむしろエントロピー極大化遂行の一途となるのかな?
核分裂もさることながら核融合で雇用が増えるか減るか、、人口はどうなるのか。



・ここに一枚のお皿があるとして、これが重力(など)の作用によって床に落下し、バラバラに割れる。これでエネルギー/仕事が終わる。
それら割れた断片同士が、新たなエネルギーを得てぶつかり合い、更なる大激震を為しうるだろうか?
プレートテクトニクスの連続による大地震説が理解できない理由。


・もともと地球を成す何らかのエネルギー/仕事が「結果的に」プレートを形成したのであって、そのプレート同士が引き続き新たな仕事を成すわけではないのでは?

既存のプレート同士がどんどん相乗効果を起こして「新たな地震」を起こすのなら、地球を成す全プレート同士が呼応しあって超スケールの巨大地震を起こすこともあるのか?そうやって更に超エネルギーのプレートが其処かしこに形成されるのか?
エネルギー保存則は?


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・「仕事」とは何か?
物理上の「仕事」はモノ(慣性質量や重力など)の運動と方位距離から定義される。エネルギーそのものともされる。
経済学上の「仕事」はカネまわしの量と速度。


・物質と物質をぶっつけ合い反応させ合いさまざま変位させる ─ これを物理上は「仕事」という。
人間行為としては、ビル建設もコメ栽培も家事も出産育児も「仕事」である。
とくに女は生活これすべて「仕事」という。

ところがカネ貸し経済学はこれら「仕事」を「生産」と「消費」に強引に分類し、所得格差と富の不均衡を論い、皆さんもっと「消費」をしましょう(カネを借りろ)という。
それでも、一流のエコノミストであれば、ぐっと包括的にもっと「仕事」をしろと指摘する。


・大谷翔平や山本由伸は試合中は生産者だが、家でゴロゴロしていれば消費者だと。
では観客や放送メディアは、そして女たちは、生産者か消費者か。
カネ(価値)を誘導する起電力が生産者で、誘導される電気が消費者か。バカみたいだ。


・東京電力とか関西電力など、いかにも最上流の「生産」型企業に見えますね。’発電’こそが最も純然たる「生産」活動に映るため。
それじゃあ’送電’や’給電’は「消費」? 
抵抗の熱利用は「消費」? そもそも一般の産業機械は?輸送機は?みんな「消費」だけか?

「生産」と「消費」は表裏一体でしょう。


・宇宙は物質同士の「均衡/循環/保存則」が同時に成立している。
戦争は軍事力の「均衡/循環/保存則」がほぼ同時に成立している。
経済は財貨とカネと人口の「均衡/循環/保存則」がほぼ同時に…?いや、これらは成立していないのでは?
ここを誤魔化すために地球温暖化と脱炭素とカネまわしの虚論をもっともらしくでっち上げているんじゃないかしら?


・ざーっと考えるに、さまざまな物質(核)における結合エネルギーと運動エネルギーさらに質量(エネルギー)の総和は変わらない ─ と。
ところが、さまざまな物価や通貨量や税額や保険料は増えたり減ったりどっかんどっかん。
こんなもの折り合いのつけようがないでしょう。人口論で帳尻合わせ可能?

原子力と経済の問題は、要するにこういうところか。
すぱっと捌けたら総理大臣よりもアメリカ大統領よりも上位に立てるんじゃないかしら(笑)


・財貨の「価値の絶対尺度」について。
① 物理上は(電子/粒子レベルでは)「価値の絶対尺度」は設定不可能。
② 数学上は「価値の絶対尺度」など無用で、金銭化も流動も複製も償却も自由自在。
ではAIは①②を統一解釈しうるか?
近未来のインフレや戦争にかかる大問題じゃないかな。



(まだまだ続く)

2025/11/17

東芝で考えたこと

たまには自身の東芝における過去キャリアをふまえて、ちょっと論調を起こそうと思い立つことがある。
だから書いてみる。


’キャリア’とはいえ、大層なものではない。
むしろ、常にどこかへ横入りしてはイザコザを起こすような、そんな日々ではあった。
もとより僕は大学の文系学部卒で、しかも縁も義理も無い東芝入社であり、それでも相応に評価はされていたのだろう、入社後は主に海外営業職に就く機会を得たものの、総じて回顧すれば相応以上には歓迎も期待もされていないふうではあった。

新規の需要創造を前提としている(であろう)商社などならまだしも、製造業はおのれらの技術規格と供給量があらかじめ枠内に嵌められがちである ─ ように察せられる(察せられた)。
どうしても人間が余り或いは不足しつつ、それでいて自然調整は効き難いのである。
だから、新参者がちょっと割り込む度に、余計なことはするなと反発をくらい、それでドカドカと揉めてしまい、別部門に救われたかと思えば、やはり新参者が余計なことをするなとドカドカ…
当時の自身の見識から皮肉に演繹すれば、あたかも企業全体がどこかの誰かによって遥か上空からギュゥギュウ押さえつけられいるようではあり、うむ、結局は内々のカネの差配次第じゃないのか、割り算と引き算とデフレジジイじゃないのか、官公庁や政党と同じじゃないのか、これでも大企業か、若者の世界と言えるのか
…といった憤懣をちらちら覚えつつ、ドカドカぶっつかり合いを繰り返す東芝生活ではあった。

こんなだから、僕なりに東芝で見分したことや考えたことを壮大に論じるつもりはないし、そんな詳らかな知識経験も無い。
また、製造業に入社して一回り二回りくらいすると辞めてしまう若手が多いのも、分かる気がする。


とはいえ、世界の潮目がいつまでも同じってことはなかろう、割り算と引き算ばかりでもなかろう、一方では科学技術の掛け算と足し算も健在なのだ、それどころか巨大な胎動はもう始まっている…。
そう思い返してみればワクワク感もひとしお以上だ。
だから、学生や若手社会人にとっての思考上のヒントとして、以下記す次第である。


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いわゆる技術産業とくに製造業を成しそして有する重大要素。

① 物質量
② 技術・知識
③ 


① 物質量は、源泉資源(エネルギー)量であり、素材量であり、土地空間サイズであり、製品の新規開発量であり、製造量であり、それらのバリエーションでありまたバラエティである。
電機メーカーでいえば、燃料電池、パワーMOSFET、蒸気タービン、電波設備から、超電導モーター、光型量子コンピュータ、核融合発電システム…などなど。


② 技術・知識は人間自身に内在する知的資源である。
電機メーカーでいえば、数学全般、物理学全般、化学全般、生物学の一部、コンピュータ技術、ソフトウェア技術、セキュリティ技術、精密加工、複製量産、移送、さらに工業所有権、商法、外国語知識、…など。
そしてりわけ文系タイプとして必須の素養が、新規需要喚起の能力である。


③ 富(wealth)は、実体としては上の①と②の積である。
なお、対外交渉や取引にては、この①と②の積を'効用'さらに'権利'であると主張し、もっと総称的に'価値'と主張しうる。
さらに関税や納税といった数字ゲームにては、これらはカネ、債券、証券に勘定換算され、これらを帳簿上は資産(および資本)ともいう。

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…とまあ、ここまでざっとまとめたところで、あらためてもわっと突き当たる疑義がある。
それは、'生産性(productivity)' '付加価値(added value)' である。
どちらも僕なりに社会人ことはじめから了察しきれていない観念である。

もちろん勘定や利益計算や償却におけるこれら数値操作は易しい、そんなもの俺だって新人そこそこからノウハウは知っていたし、それこそ派遣女子でも計算できよう。
しかしだぜ、そもそも’生産性’については、生産というくらいだから①と②のどちらか或いは両方が増産されていないければならないはずだが、見聞するところカネ勘定換算における額面上の増進を以て’生産性’と言いやがる。
ましてや’付加価値’となると、①と②の積を’価値’と換言した上で、これが増えましたと主張しておるので、なおさら①と②のどっちがどうなったのかが不明瞭なのであり、それでいて国内はむろんアメリカや欧州や中国などとの取引にても’付加価値税(VAT)’を考慮しなければならず、実際のところこれら国地域で解釈が微妙に異なってやがんの。


もっと不明瞭な観念がある。
’情報(information' であり、'データ(data)'であり、'情報通信技術(ICT)'である。
これらは①の物理量であり、②の知性でもあり、これら積の③富でもあり、そしてそれぞれにおける属性でもありプログラムであり数値でもある。
つまり、ほわんとし過ぎている。
ほわんとしたままでも①と②と③に掛かる実務はこなせる。
’情報’や’データ’については別途考えるところを記す。

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ともあれだ。
少なくともこれだけは確かであろうこと。
新規の①物質量あるいは②知識技術がガンガン活性化していれば、相応に③富も膨らむはずだ。
逆に①と②に上限をおいたり他者から侵され続ければ、③富が縮小するのもやむなしであり、さればとカネばっかり運用していれば貧乏なバカに陥るは必定。

おのれを奮い立たせ、ガンガンやる気を起こすには、なんといっても①と②に(ある程度まで)通じるべきであろう。
そしてこれらこそが、本当の製造業 ─ つまり新規の世の中を創り上げていくパワーの源泉であり、会社の盛衰もあくまでこれらに掛かっている。
だから①と②をどこまでも大切にして欲しい。

とくに、②においては数学や物理学以上に化学知識と技法が、①の物質バリエーションやバラエティに大いに寄与しうるだろう。
あくまで僕なりの経験則ではあるが、数学や物理学は概して’高速化’と省力化’と’小型化’を導いてしまい、これらだけでは製品のバリエーションは増えてもバラエティは膨らみ難いのではないか。
一方で化学の知識と技法は製品の素材をさまざま組み換えうるので、バリエーションもバラエティもさまざま展開しやすく、だから次から次へと新規需要を喚起出来る ─ ような気がしてならない。

(①や②に通じきれず、なかんずく嫌悪を覚えるようであれば、巡り合わせが悪かったのだと割り切ってとっとと辞めるべきではないか。)

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ウェスティングハウスとか福島原発など、思い出したくはない名ではあるが、しかしこれらとて変わりゆく。
変わりゆけばあらたな①物質量と②知識技術が興る。
なお、一応は技術知識のインテリが揃いに揃っているはずの東芝において、CO2温暖化について其処此処で疑義の声は挙がっていたにせよ、全社としては、まあいいや、風も潮流も常に方位を変えているんだ。



(おわり)

2025/10/26

等号 ' = ' とはなにか?

理系でも文系でも、日常生活から職能まで至る局面で使っている記号がある。
記号というより論理そのものでもある。
それが等号である、つまりイコール '=' である。
ちょっと考えてみれば、等号 '=' は何らかの「数の等しさ」、「量の等しさ」、そして「価値の等しさ」を表現しているようではある。
しかし、どこまで理に適っているのだろうか?


ここで、等号 '=' を数学や証明論やアルゴリズムなどにて捉えてしまうとキリが無くなり、全ては0あるいは1のどちらかに集約され、0は1とも言え1は0とも言え、よってどっちも等価たりうる…などの眩いような抽象論に紛れ込んでしまう。
だから数学まわりやアルゴリズムなどに突っ込むのはやめだやめだ。

むしろ、等号 '=' を、「リアルな実体の恒常な等量さ」の表現として捉えなおしてみれば、この意義をかなりの程度まで見極め、なんらかの腑に落ちるのではなかろうか?。
実体、恒常、等量とくれば、物理方程式だ。
だから物理方程式における等号 '=' を軽く検証しなおしてみよう。

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物理方程式の古典の典型がいわゆる運動方程式でF=ma であろう。
古典ゆえにほとんど普遍でもある。
ここで、物理方程式なのだから実体量の’単位’を付記してみよう。
すると、F[N] = m[kg]  x a[m/s2] であり、左辺における組立単位の[N]の素性は右辺における基本単位の [kg], [m/s2]  である由だが、ここで右辺の2者はいわば別次元の実体量。
よってここでの等号 '=' は数のペタっとした恒等関係は示さない。
しかし方程式ではあるのだから、量の恒常的な正(反)比例関係は表しているはず。
かつ、どれも関数(時間)で微分された純粋な一般量である。
※ なお英語表現上は’或る力’と’或る慣性質量’と’或る加速度’よって前置詞'a/an'で括るべきであると

一方で、地球上の重力加速度gに限った物理方程式 F=mg はどうだろうか?
これまた物理方程式ゆえ、それぞれ単位[N], [kg], [9.8m/s2] をひっつけてみれば、右辺の基本単位は別次元の実体量であること明白、よって数の恒等関係ではない。
しかし方程式なので、この等号 '=' は量の恒常的な正(反)比例関係は表しているはず。
ここまでは上述の運動方程式と同様だが、関数(時間)で微分の重力加速度g[9.8m/s2]はあくまでも特定量であり、だからすべてが純粋な一般量関係とはいえない  ─ よってこちらは運動方程式ではない。
※ なお英語表現上は前置詞’the’による特定化が必要。

これら2例から分かること。
物理方程式における等号 '='は、一般量であろうと特定の量であろうと、左辺と右辺における基本単位量の正(反)比例を表現しているってこと。



コンデンサでお馴染みのやつ、電気量Q[C] = 静電容量C[F] x 直流電位V[v] はどうだろう?
量単位は [C], [F], [v]
このうち、[F]は組立単位で[C]/[v]
ここで組立単位[v] は素性は [J]/[C] でもあり、これらは基本単位 [m2], [kg] ,[s-3], [A-1]から成る。
この組立単位[J]をさらにバラすと 組立単位[N] x 基本単位[m] 、もっとバラすと基本単位 [kg] x [m/s2x [m]だ。

こうして基本単位にバラして捉えてみれば、左辺は基本単位[C]である
右辺は、基本単位[C]  [m2], [kg] ,[s-3], [A-1]である。
だがまた右辺は、基本単位[C] と[kg] と[m] と[m/s2] でもある。
これら左辺と右辺をつなぐ等号 '=' は量の正比例の表現として明瞭。


 
もっと混み入ったやつはどうか。
態方程式 P[pa] x V[m3= n[mol] x 一般気体定数R x T[K]  にても、組立単位をすべからく基本単位にバラしつつ、等号 '=' を捉えてみよう。
組立単位[pa] は 組立と基本単位 [N]/[m2] であり、組立単位[N]は基本単位 [kg] x [m/s2] だ。
[mol] は 現在は要素粒子数そのもの定義済の基本単位「数」。
一般気体定数Rは 組立単位[J] を 基本単位である[mol]と熱力学温度[K]の積で割った数。
組立単位[J]は 組立単位[N] x 基本単位[m] ゆえ、基本単位 [kg] x [m/s2] x [m]だ。

かくてこの状態方程式は、左辺が基本単位の [m2], [m/s2], [kg] からなり、右辺は基本単位の[m], [m2], [m/s2] , [kg], [K] そして要素粒子数 [mol] から成る。
これら基本単位量からなる左辺と右辺を等号 '=' で結びつけている次第であり、だから数値上の一致は表現しないが、物理量と数の正(反)比例関係は表現している。

※ なお基本単位の熱力学温度[K]とボルツマン係数についても教科書や参考書に


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まだまだ組立単位として[Ω]とか[Wb]とか[Hz]などなど挙げることは出来るし、これらを基本単位の物理量に崩しつつ、物理方程式における等号 '=' の量上の呼応関係につき納得することは出来る。

また、むしろ基本諸元の組立積分としての[J]に則って運動エネルギーや位置エネルギー(そしてエントロピー)の等号 '=' の妥当性を論じるのも一興ではある。
超マクロに考えて ─ たとえば、地球の全物質の質量[kg] と 全電気量[C] と全電力量[J] の関わりについてみるとどうだろう?
これらは比例関係にあるのか?
全電気量[C]は発電方式次第でなんぼでも変わるのか?
たとえ人類が居なくなり、たとえ地球が無くなっても、宇宙発電で電力を賄いうるのかな?
(こんなことがありうるだろうか?)

一方で、一般相対性理論 E = mc2における「等価性」や、核融合における質量「欠損」など捉えてみれば物理上は精密な議論となろうが、ここで考えを及ぼすのは面倒そうではある。
ましてや宇宙の物質量が増え続けているのかどうか、ダークエネルギーは、などなど考えを膨らませるとだ、果たして宇宙すべてが何らかの等号 '=' で繋げられうると見做せるのかどうか…。

ただ、物理(数学)方程式における等号’=’ のうちで最も把握し難いものは、おそらく波についてのそれらだろう。
僕が文系頭のせいか、どうにもこれらは真意いや直観そのものが腹に座らず、しばしばイラついてくる。

また気が向いたら。

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ところで。
等号 '=' の正当性について、波についての表現のモヤモヤ感もさることながら、もっともっと別次元レベルでずっと以前から抱いている疑念がある。
それは、「物質(エネルギー)」と「情報」と「数学」のかかわり。
もっと文系的に突けば、最初にもちらっと記したが「物質量」と「価値」の正当性についてだ。
ヨリ物理化学よりに立脚しつつ捉えてみての、それぞれ原子における核子や電子の「量」と、その原子と、それら分子の「価格」についてのことだ。
誰が何の正当性を以てこれらを等号 '=' で繋ぐのよ?
ましてや、経済学にて’価値の増減’、’需給の変動’、’等価交換’などと言うもんだから、'=’がなおさら分からなくなってくる。
特定の資源や資産を好き勝手に査定しやがってよ。
腹も立ってくるんだ。

もちろん全てキチッと統一しろなどとは言わぬし、一人ひとりがおのおの有限の時間に制限されているこの世界で絶対神だの共産社会だのが叶うわけもない。
そんなこたぁ分かってんだけども。


(続く。たぶん。)

2025/10/18

【読書メモ】 日本のすごい先端科学技術

日本のすごい先端科学技術 橋本幸治 かんき出版』
本書は本年(2025)時点にての日本発のさまざま最先端の科学技術を取り上げた一冊だ。
それぞれのトピックはささやかな概説に留まってはいるものの、それらほんの一端を垣間見るだけでも、我が国の科学技術界のバイタリティに感嘆しさらに驚嘆しきりである。
じっさい本書で紹介される科学技術トピックは、どれもこれも地道なトライ&エラーと天啓のごときイノヴェーションがパラレルに綴られている。
だからこそ、あらためて認識させられる大教訓がある ─ すなわち、科学技術上のあらゆる動機も意欲もコロンブスの卵も、カネの「割り算」「引き算」による陳腐化や停滞からは生じえず、まして無秩序のランダムネスから起ころうわけもなく、むしろ既得の物理と経験測と冒険的直観の「掛け合わせ」によってこそ新たに捻出されるのである。

さて、此度の【読書メモ】として、本書コンテンツの幾つかを僕なりに掻い摘んで以下に略記する。
これらのさまざまな’新しさ’におけるそれぞれ淵源と未来像の邂逅に、読者の皆さんは想像力を大動員はかってみては如何だろうか。




<磁気浮上装置>

4つのネオジム磁石をそれぞれ磁極が反転するよう配置すると、磁石の縁の極めて曲率半径が小さな範囲に、磁場とその空間的変化率の積として磁気力場が凝縮される。
この磁気力場が反磁性物質(水など)に働きかけると、それら反磁性物質は重力を克服してこの磁気力場に浮上し、エネルギー最小点にて安定静止する。
このネオジム磁石の強度やサイズ次第では、磁気力場がさまざまな物質の反磁性に働きかけてそれらの重力を克服し浮上させうる。
ただし現時点では、ネオジム磁石によって浮上/静止させられる物体サイズは0.1~1.0nmに留まってはいる。

このネオジム磁石による物体浮上装置の'無重力性’は、いずれはタンパク質結晶の生成などにも応用されうるかもしれない。

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<Mie共鳴塗料>

或るサイズの球状粒子に、同程度の波長サイズの光を入射すると、この球状粒子の内部で入射光が特定のパターンで振動し、これに共鳴したこの球状粒子から特定の波長色の光が強く散乱される。
この特定の共鳴~発光現象にて、とくに「Mie共鳴」に注目する。
たとえば直径100~200nmのシリコン微粒子にてこのMie共鳴が起こり、同じ微粒子にても微細な制御によってさまざまな波長色を散乱させることが出来る。

ここでの微粒子は化学結合によるさまざまな色素ではなく、一つ一つが入射光に応じて散乱波長色を変えうる、いわば「構造色」の微粒子である。
よってこの微粒子は色素混交による厚みを克服し、極限の薄さを実現し、また紫外線などの入射光と化学変化を起こす(分解する)こともない。
こういう微粒子のMie共鳴を活かして超薄型の「構造色塗料」を作れば、さまざまな波長色の物質塗装が可能、しかも工程短縮される塗装技術が可能たりうる。

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<ペロブスカイト太陽電池>

ペロブスカイトは軽くまた薄型の素材ゆえ、微細な結晶構造を成し、フレキシブルな加工が可能。
圧電素材としても広く工業製品に起用されてきた。
ペロブスカイトの主材料はヨウ素であり、日本は世界2位のヨウ素生産国である。

太陽電池においては、ペロブスカイト結晶は太陽光によってハロゲンイオンが分離してしまうため、発電能力は下がってしまう。
ところが、このペロブスカイト太陽電池の発電層とホール輸送層の合間に水酸化ガリウムフタロシアニンを組み込むと、これらがP型半導体を成してハロゲンイオンを捕捉するので、電荷の移動効率→発電効率が堅持される。
さらに、ペロブスカイト層の凹凸を平らかにすれば電流ショートも回避出来る。

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<超電導モーター>

モーターのコイルに超電導材料を採用する。
超電導状態では電気抵抗がゼロとなるため、このコイルに大量の電流を流してもエネルギー損失(発熱)が無い。
そこでこのモーターコイルは、圧倒的に強力な磁力を、極めて少ない巻数とサイズから発生させうる。

ただし、抵抗ゼロの超電導現象は絶対零度に近い低温で起こるため、このモーターは磁場発生ステーターも回転ローターも安定的に相応の低温に留め置かなければならず、そのための冷媒供給や断熱素材~構造の循環システムとしなければならない。
また、この超電導モーターは高速運転時に約80000Gの遠心力がかかるため、これに耐えうる構造設計も必要。

東芝が2022年に完成させた超電導モーターは、最高出力が2MWで、同出力の既製品と比べて重量と体積が1/10以下に収まるもの。
一方で、エアバス社は燃料電池による水素によってモーターを駆動させる’水素航空機’を開発中で、この水素航空機は極低温の液体水素を燃料として搭載するもの。
この極低温の液体水素による気化熱が、じつは超電導モーターを冷却させ続けうる。
よって、エアバス社は水素航空機に東芝の超電導モーターの搭載を検討図っている。

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<光量子コンピュータ>

現在まで主流の量子コンピュータは超電導方式ゆえ発熱回避が必須、よって量子ビットを絶対零度近くまで下げなければならない。
しかし量子コンピュータを'光'による駆動とすれば、熱にほとんど影響されないので常温にて運用可能となり、システムまわりの消費電力もまたサイズも大幅に削減可能。

'光’の数百テラヘルツの振動をクロック周波数に活かす「光量子コンピュータ」の実現が図られている。
その一つ、光量子コンピュータOptQCでは、光パルスが光ファイバを超高速循環、ここで量子もつれの’テレポーテーション’を成し、量子ビット’状態’を超速で転送可能。
このOptQCは2026年4月より商用開始とされている。

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<熱テスラバルブ>

電子部品において、’熱’拡散の制御は重要な課題であり、電子の伝導制御よりも遥かに困難である。
電子の伝導率が導体と絶縁体にて1015倍以上も差が有る一方で、熱の伝搬率は物質ごとに104倍程度の差しかない。

精密な熱伝搬制御デバイスとしていわば熱ダイオードや熱トランジスタの実現が追求され続けており、ここで想起されたモデルの1つが、かつてニコラ・テスラが考案した’流体制御’用の「テスラバルブ構造」。
これを参考として「熱テスラバルブ」が作成されるにあたり、シリコン素材で挑んでみたところ、熱伝搬の制御効率はあまり向上していない。
一方で、高純度の固体グラファイトを素材として流路幅4.5nmの「熱テスラバルブ」を作成したところ、熱の精密な伝搬制御が可能と分かり、しかもこの性能は25~60K絶対温度下でも確認されているので、量子コンピュータまわりでも活用可能である。

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以上、本書のほんの一端を略記してみた。
理論系の科学ファンも、技術系の工業ファンも、本書をきっかけに科学技術の最前線を垣間見ては如何だろうか。

※ とりわけ、常日頃から学校がつまらんだの勉強が虚しいだのとこぼしている学生諸君、世の中はつまらなくも虚しくもないんだぜ、いつも「何か」が新たに起こり、ぶっつかりあい、巡り合い、変身し、別離し、そして新たな組み合わせと結びつきも起こるんだ、もちろん俺たち人間もひっくるめてだ、これらを過去と称し現在と称し未来とも称す。
これら「何か」は遥か遠くかもしれぬが、すぐ近傍で出番を待っているかもしれぬ、だから完成形や採算に捉われるな、とりあえず知識を増やせ、発想力を磨け。


おわり

2025/09/30

【読書メモ】 考える機械たち

考える機械たち インガ・ストルムケ 誠文堂新光社』
歴史、仕組み、倫理 ─ そして、AIは意思をもつのか?

本書は機械学習~ニューラルネットワーク~生成AIなどについての時事概説書ではあるが、それ以上にむしろ論考の書といえよう。
人間と機械≒コンピュータ、実体と表象信号、外部化と内製化、複合と効率、そして意識や価値の所在などなど…さまざま論考は多岐に亘り、しばしば超越的でもある。
あらかじめ総評すれば、これらさまざまな論考から演繹されうる未来志向のキーワードのひとつは(おそらく)’自律性’であろう。
機械≒コンピュータはどこまで自律的に学習し、どこまで自律的に思考しうるか、これらは人間側とどこまで同期を採りうるか、一方で我々人間自身の自律本能はコンピュータに移植複製しうるだろうか……?
ごく大雑把に要約してみるだけでも、これらの論考の抽象性(つまり難度)に圧倒されてしまうのではないか。

本書は総じて平易な文面が貫かれてはいるが、論題の抽象性が高いため、論旨の捕捉はけして易しくはない
また、図案や数式が希少に抑えられておればこそ、却って難解な箇所も散見される。
よって、一読にさいしてはICTまわりや機械学習について相応の見識が必須。

例えば第1章>では、チェスの必勝法を機械学習させるにあたっての「ミニマックス法」やここで起用される「探索木」につき基本コンセプトを挙げつつ、教わる側のコンピュータと教える側の人間が均一のゲームルールの理解≒汎化を為しうるか否かを論じている。

また<第2章>では、機械学習のモデル構造をニューラルネットワークとレイヤ(次元)とノードにて概説し、コンピュータ側での認識パラメータ調整数理として「確率的勾配降下法」や、その一環としての「誤差逆伝播法」などをさらり引用。
※ これら数理はさまざま類書にてふんだんに呈される通り汎用的なものだが、文面での論考ゆえにこそ、ちょっとした想像力は必須。

なお、<第3章>~<第4章>あたりはとくに論題と論考のダイナミズムが面白いので、以下に略記しておく。




<第3章>

或るニューラルネットワークにおいて、或る機械学習モデルが学習対象の全貌を捕捉しているのか、あるいは一部のみを捕捉しているに過ぎないのか?
ここのところ、この機械学習モデル自身は自律的に理解しているだろうか?

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我々人間は、いかなる分野にても、無限にデータを収集することは出来ない。
それらデータの分布度合いに近似的にアプローチすることは出来るが、あくまでもヒストグラムとして暫定的に捉えているに過ぎず、真のデータ分布を知ることは出来ない。
機械学習モデルにおいても、暫定的理解と暫定記憶が為されているに過ぎない。

データ群において、期待される目標値からの特定方向への逸脱を’バイアス’と見做す。
一方で、期待される効用のバラつき度合を’分散’と称す。
データ群の活用において、’バイアス’と’分散’はどうしてもトレードオフの関係にあるので、ともに活かすことは出来ない。
機械学習モデルにおけるデータ群の学習にても、これらはやはりトレードオフの関係にある。

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機械学習においては、人間側によって何らかの’ラベル’を付加したデータが有用とはなるが、これらラベル付けは精度に応じて準備が大変になる。
逆に、発生する可能性が低いと見なされる事象は、一般的にデータの精度が粗くなり、これらを機械学習モデルに入力させてゆけば、やはり軽視されてしまう。
これが「データのロングテール問題」。

=============================-

広く利用される「教師あり学習」にては、人間側があらかじめ判定を済ませている特定の正解データを入力している。
しかしこの学習モデルそのものが自律的に「汎用知性」を生じることはありえない。
一方で、「教師なし学習」においては、機械学習モデル自身が諸々データの正誤判定を為し、データポイントごとのクラスタを自律的に作成する。

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「強化学習」は、何らかの信賞必罰型の「損失関数」アルゴリズムを、人間側であらかじめ設定し、これを機械学習モデルに埋め込んで自律的な学習と報酬を追求させる方式。
ロボットなどにて実装されている機械学習方式である。

機械学習モデルはこの何らかの「損失関数」を活用し続けうるが、全く新規のアルゴリズムまでも自律的に探索しうるとは限らない(むしろ新規アルゴリズムの探索は無くなってしまう?)。
これが「強化学習」に伴う「探索と活用のトレードオフ」。

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<第4章>

画像に映っている「オブジェクト」の「実相」を、機械学習モデルに「理解」させるためには、その画像の各ピクセルから全貌までを区別させつつ捕捉させなければならない。
ここで、単純なパターンから全体パターンへ、例えばネオコグニトロン=アークテクチがュアが活かされている。

こういうアークテクチュアが、機械学習モデルにて、誤差逆伝播法によるパラメータ自在設定によって画像認識用ニューラルネットワークを成す。
このニューラルネットワークは、画像検索・探索の’フィルター’を自律的に生成し、特定の行列演算の「畳み込み層」を成す。

尤も、これらに畳み込み層に溜め込まれるデータ群は、いまや機械学習モデル独自のシンボリックな信号群に過ぎないので、人間側にとってはブラックボックスたりうる。

一方では、機械学習モデルはおのれ自身が’見て’いるオブジェクトの’物理次元’を自律的に峻別するには至っていない。

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ディープマインド社の機械学習モデル「アルファフィールド」は、或るアミノ酸配列から相応のタンパク質の最終形状を精密に予測するアルゴリズムを実装している。
既に解明済の15万7千種類のタンパク質それぞれの形状をあらかじめ学習しており、新たなアミノ酸配列からのタンパク質の予測精度は1オングストロームレベルである。
さらにこのアルファフィールドモデルはデータフローが’ラウンドアバウト’構造を成しており、これによって’短期記憶’機能も有している。

一方で、このアルファフィールドモデルが何をどう記憶し理解しているのか、我々人間には完全には捕捉しきれていない。

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AIのシンボリックな’思考’プロセスは、人間側の意識/思考プロセスに似ている。
さらに、AIのサブシンボリックな’思考’は人間の直観に似ている。
だからこそ、人間が純粋な理知のみでAIの機械学習を説明しきるのは難しい。

機械学習モデル自身は’何を自律的に探索し認識しているのか’?
我々人間側によるこれらの検出や判別は、’一応は可能’である。
機械学習モデルによる自律的な’特定の概念生成’の量を、ニューラルネットワークのレイヤやノードごとに確認する、いわゆる「概念検出の技術」がある。

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なお、<第5章>は、機械学習モデルと人間側がどこまで同期を採り得るかについての論考だ。
機械学習における「言語モデル」と(人間なりの)「自然言語」が本当に同期を採り得るか否かにつき論考を誘う。
言語モデルは数十億ものパラメータを調整して自然言語を習得したようにも見え、自律的に単語から文章を確率予測し生成し、さらに暗黙の文脈ルールを生成し暗号的に仕込むことも出来る ─ が、だからといって人間側の’意識’までも了察しているといえようか。

それから<第8章>では、機械学習モデルが自律的に構築しうる’倫理’が、人間側の’倫理’と同期を採り得るか、’価値’や’善悪感’はどうか、’損失関数’はどう見なされるのかと、巨視的な再考を促している。
あくまでもハードウェア(物質)としての可変性や拡張性を鑑みれば、コンピュータと人間頭脳はあまりにも異なっており、だから機械学習モデルと人間自身における倫理や価値意識の比較検証には意義が無いのだろうか、とも。

以上


2025/07/25

【読書メモ】世界は基準値でできている

『世界は基準値でできている 講談社Blue Backs

本書の主題は、さまざまな行政レベルでの’基準値’、それらの論拠と正当性さらに強度についての再検証である。
そもそも’基準値’とは、さまざまな物理量と経験量から再現的(帰納的)に確定された定量値であろうか、はたまた、数理上の演繹から導出された論理値に過ぎぬのか。
或る事象の発生頻度は、その自然性は、人工性は、類推値は、余裕斟酌は…どれがどこまで正当たりうるか?
あくまでも推奨値か、はたまたガイドラインか、法的基準値か。
政策制度の論争で片づけるにはあまりにも惜しい ─ むしろ科学そのものの再検証であり、理科教育のひとつの集大成だ。
学生や若手社会人の諸君、新聞雑誌やインターネットの斜め読みはもうやめよう。

さてとりあえずは、本書のほんの一端ながらも僕なりに興味関心惹かれた「基準値」論につき、【読書メモ】として以下に要約列記する。
それらは、新コロ騒動で注目された感染症の経路や時間等を検証すすめる第2~3章、および、原発事故で注目された放射線被曝量を検証分析すすめる5~6章である。



<ソーシャルディスタンス>

・新型コロナにおける「濃厚接触」の追跡にて、ソーシャルディスタンスとして一応は「1m・15分ルール」が考案された。
但し、厚生労働省~自治体にて統一されたルールではない。

「1m」のルールについては;
(1)従来よりの知見として、大粒の飛沫が飛ぶのは1~2m程度のはず。
(2)通常の生活にては、対人間距離はどうしても2m以上には離し難い。
(3)スーパーコンピュータ「富岳」における熱流体解析ソフト「CUBE」によって、飛沫の飛来シミュレーションがなされ、これによれば妥当なソーシャルデイスタンスは概ね1mになると。

一方で、「15分」ルールについては;
米国CDC(疾病予防管理センター)による定義づけによると、「24時間以内に複数回の接触があった者同士にてその合計接触時間が15分以上」を以て「濃厚接触」と見做す。

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<空気感染>

人体への飛沫粒子の「空気感染」は、それら粒子の粒径サイズ、経路、感染方式によってさまざま定義可能。
たとえば厚労省のガイドラインによれば、病原体を含んだ5μm以上の粒径粒子が1~2m以内を飛散して、人体の粘膜や結膜に接触した上での感染を、「飛沫感染」と総称している。
かつ、粒径サイズ5μm未満の粒子の場合には、とくに「マイクロ飛沫感染」と定義。
一方で、WHOは粒径サイズごとの感染経路定義はしていない。

いずれにせよ、「空気感染」を回避する具体策としては「換気」がある。
一般的な「換気の量」はビル管理法によって定義されている。
推奨値としては、その環境のCO2濃度を1000ppm以下におさえること(CO2であれば測定しやすいため)。
そのための基準値としては、「30m3/時間あたり/人数あたり」以上とすること。
尤も、これら推奨値も基準値も感染症の予防実績に直結しているか否かは実証されていない。

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<放射線被曝量>

日本人の 年間あたり 放射線被曝量 ─ 自然由来と人工由来を併せて。
・自然放射線源  2.1mSv  (うち飲食物由来は 0.99mSv)
・大気圏核実験フォールアウト 0.0035mSV
・医療被曝 2.6mSV  (世界平均量の4倍)
・職業被曝 0.0018 mSv
・原子力施設関連 0.00017mSv
・生活用品など 0.00005mSv
以上計: 4.7mSV

福島第一原発事故 による'事故後1年間あたり'被曝量
・福島県における避難指示区域 0.15~7.8mSv
・福島県における上記以外地域 0.12~5.3mSv
・茨城、宮城、栃木、山形 0.15~1.3mSv
・他、42都道府県 0.005~0.51mSv

同事故 による '被爆者の生涯(80年間あたり)被曝量予測'
・福島県における避難指示区域 0.69~40mSv
・福島県における上記以外地域 0.27~19mSv
・茨城、宮城、栃木、山形 0.43~4.5mSv
・他、42都道府県 0.008~1.8mSv


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<敷地境界線量,  濃度限度>

原発からの放射性物質による被曝量は、その原発からの「敷地境界線量」として年間1mSv以下とされている。
この年間1mSvは自然由来の地域/時間ごと変動幅に則っている数値として、国際放射線防護委員会から勧告されている。

原発からの処理水を水中に放出するさいにもこの敷地境界線量を順守すべく、原子炉等規制法にもとづいて処理水の「告示濃度限度」が定められている。
この濃度限度によれば、放出口における濃度基準値として、或る個人がこの処理水を70歳になるまで毎日2.65Lずつ摂取し続けたとしても、平均の線量率が年間あたり1mSVを上限とする ─ そういう前提から放出口における濃度基準値がおかれている。

ここで仮に、処理水がトリチウムのみから成っているとして、或る個人が毎日これを2.65Lずつ摂水し続けるとして、この摂水量の上限を計算すると;
・敷地境界線量/年間あたりが1mSv
・人間への線量係数が 1.8x10-8mSv/Bq
・摂水量/年間あたりが2.65x365 L/年
すると、この敷地脅威線量を順守する限り、この個人はトリチウム水をおおよそ60,000Bqまで摂水することにはなりる。
だからトリチウム水の放出口もこれをふまえた濃度基準値を順守しなければならぬと。

しかし実際の放出水におけるトリチウム量は上の前提の1/40に過ぎず、だから放出水の放出口における濃度基準値も1,500Bqを前提にしておけば済むはず。
さらに、この個人がじっさいに毎日2.5Lもトリチウム水のみを摂取との想定も現実的ではない。

実際に、原発敷地内タンク貯蔵のトリチウム線量は約860兆Bqであり、この処理水の全てを仮に1年間で排出したとしても、これによる追加被曝量は0.00081mSv程度に過ぎない。
ここまで前提としてきた敷地境界線量1mSvよりも遥かに少ない。

なお、海水中における環境基準としてはトリチウム濃度の設定は無い。


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<濃度基準値>

放射性物質による空間線量を下げるために除去された土壌には、その再利用のための「濃度基準値」がある。
或る再利用土壌におけるセシウムの「濃度基準値」としては、土壌1kgあたりのセシウム134とセシウム137の合計濃度が8000Bq以下とされている。

この濃度基準値は、放射性廃棄物の埋立作業者が;
・当該地域に1000時間/年にて滞在し続けること
・作業時間あたりでの’遮蔽されない’時間数、つまり「遮蔽係数」が0.4であること
・固形物の傍での作業における'濃度当たり被曝量'、つまり「線量換算係数」が、セシウム134ではBq/㎏あたり4.7x10-7mSv/時、またセシウム137では1.7x10-7mSv/時であること。

この濃度基準値にかかる計算にて、滞在時間、遮蔽時間、線量換算係数をさまざま変えることで、例えば近隣住民の外部被曝についても濃度計算が可能ではある。

 2018年評価によれば、除去土壌と焼却灰の合計1335万m3のうち、このセシウム合計濃度8000Bq/kg以下の土壌が80.2%。
物理減衰によってこのうち6.4%が2045年までに濃度が下がるとされ、さらに技術によって10%が濃度が下がるとされる。


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<原発のリスク評価>

原発の安全度合を、事故発生の確率に則った「リスク評価」で表す ─ この評価範疇をとくに'PRA (Probabilistic Risk Assessment)' と称す。
レベル1 PRA:  発電原子炉の内部で損傷が起こる可能性
レベル2 PRA:   放射性ソースタームが原子炉外に出てしまう可能性
レベル3 PRA:  原発の外部にて放射性ソースタームによる影響が生じる可能性

2003年時点での、原子力安全委員会による「安全目標の中間取りまとめ」によれば、特に定量的目標案としては;
・原子力施設の事故に起因する放射線被曝に拠る、「敷地境界」付近における公衆個人の平均'死亡リスク'が、年間あたり10-6程度を超えぬよう抑制さるべき。
・同、放射線被曝に拠る’がん’の'平均死亡リスク'も、年間あたり10-6程度を超えぬよう抑制さるべき。

この安全目標案の策定にあたって、発電炉における炉心燃料の融解~外部への放射の「発生確率」を以て、原発の「性能目標」が定義されている。
この「性能目標」における定量的な指標としては、IAEAによる基本安全原則を根拠として;
指標値1:  炉心の損傷頻度が 10-4/年間 程度
指標値2:  格納容器の損傷頻度が 10-5/年間 程度

とくに格納容器の損傷頻度設定の妥当性については、或る個人の年間あたりの無作為な死亡リスクを 10-6/年間 程度としつつ、同個人の或る事故における条件付き死亡確率を0.1とし、前者を後者で割って…


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とりあえず此度の【読書メモ】はここまで。

本書随所における計算や検算そのものはけして難解ではないものの、具体的なデータの定量化がところどころ読み取り難く、このため本書はしばしば難解でもある。
さらに、団体名や法人名が頻発するジャーナリスティックな(文系的な?)コンテンツになると、もっと読み取り難い。
例えば第9章、有機フッ素化合物(いわゆるPFAS)のモノマーの生物体内における暴露量~有毒性と濃度基準の定量的検証が綴られてはおり、ここいらも僕なりには関心惹かれたコンテンツではあるが、如何せん団体名や法人名の引用がふんだんで時系列描写も複層的であるため、論旨捕捉はしばしば困難ではある。

とはいえ、あくまでも’数値’の根拠とその強度に着目しつつ読み進めてゆけば、本書は業際的なデータブックとしてこんごも重宝しえよう。
だから多くの学生や若手社会人の皆さんに薦めておきたいところではある。

おわり

2025/07/21

高校英文法の総復習 私案

高校英語について、久々に記す。
とはいえ、ずっと以前から僕の着想は変わらないし、こんごも変えるつもりは無い。
どこまでもおのれの出自や経験に拠っているからだ。

そもそもだ。
産業界にて英米人相手に英語を使い続けてみれば分かること。
世界をリアルに成すさまざまな「知識と命題」(とくに理科と社会科)を広くかつ仔細に了解し了察もしてこそ、「それらを成す単語間の文法秩序」がありうる。
逆は無意味だ。
「単語間の文法秩序」ばかりをどれだけ多様に組み合わせても、そこから既得のリアルな「知識と命題」(理科と社会科)が自動的に復元されることはない。
え?なになに?
AIを使えば可能かって?
なるほど、AIは数学マシンだ、よって「単語間の文法秩序」に則って’全く新規の’知識命題をポコポコ生成することはなんぼでも可能だ。
しかしだね、そんな幽霊のような知識命題が、リアルな産業や科学技術や権利義務の世界において何の意義がありえようか?
日記を記す上ですら役に立たないのでは?

以上まで考えてみれば、勉強においては「既得の(理科や社会科の)知識命題」が最優先であること、そして「単語間の文法秩序」は一番さいごでよいこと、同意頂けるはずだ。
しかし現行の英語教育カリキュラムでは、授業コマ消化と事業化のためにわざわざ英文法を反復的に…。
だから、つまんねぇんだ。


それでも、英文法について、ちょっとは教養力向上に結び付けられないものか、と考えてみた。
それで僕なりに考案したのが、以下の英文法課題だ。
おそらく大半は高2生でも理解出来るものだ。


以下の英文を日本語に訳せ。
なお、これら英文にて語法上あるいは常識上の間違いが有る ─ と考える場合には、それらを自分なりに訂正しつつ訳すこと。


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[1] She writes stories.

[2] She is writing stories just now.

[3] She has written stories since her high school days.

[4] She has been writing stories since yesterday afternoon.

[5] She wrote stories 5 years ago.

[6] She was writing stories at 11 o'clock yesterday.

[7] She had written stories before I met her.

[8] She had beein writing stories when I met her.

[9] She is a writer.

[10] She has been a writer since her high school days.

[11] She was a writer 5 years ago.

[12] She had been a writer before I met her.

[13] I ate fruits when you called me.

[14] I was eating fruits when you called me.

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[15] We leave for Scotland next month.

[16] We are leaving for Scotland next month.

[17] We are going to leave for Scotland next month.

[18] We will leave for Scotland next month.

[19] At this time tomorrow, our family will visit Florida.

[20] At this time tomorrow, our family will be visiting Florida.

[21] By this time tomorrow, our family will have been visiting Florida.

[22] He has been to Los Angels some times.

[23] He has just been to Los Angels.

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[24] I am forgetting people's names these days.

[25] I forgot those people's names.

[26] She resembles her mother.

[27] She is resembling her mother recently.

[28 ] Every flower dies.

[29] That flower is dying now.

[30] H2O consists of hydrogen and oxygen.

[31] This H2O is consisting of hydrogen and oxygen just now.

[32] Diamond is the hardest material of all things.

[33] Only diamonds can cut other diamonds.

[34] 5 x 4 x 3 x 2 x 1 is 120.

[35] 5 x 4 x 3 x 2 x 1 are 120.

[36] 5 x 4 x 3 x 2 x 1 was 120.

[37] More than 12 million people live in Tokyo metropolitan area.

[38] Less than 1 billion people lives in the EU.

[39] 1 trillion is a great large number.

[40] 4 trillions were great large numbers.

[41] 2, 4, 6, 8, 10 ... are even numbers.

[42] Japan is a nation.

[43] How many states does the USA have ?



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とりあえずおわり。

気が向いたら続く。

2025/07/05

玉手箱



「先生、こんにちは。あたしですよ」
「おや、こんにちは。今日はどんな用向きかな?」
「それがですね…あのぅ、実はですね、あたし自身が人間なのか、はたまたロボットなのか、分からなくなってきたので、ご意見を伺おうかと…」
「またそういう話か。どうも君たちは厄介な年頃だな。そういう疑念はほっておけば解決するんだけどね」
「そうでしょうか?あたしは歳を重ねるにつれてだんだん’やる気’が失せてきたような、そんな気が…。これは人間の本性なのでしょうか?あるいは、ロボットの定めなのではないでしょうか?」
「あのね、人間だろうがロボットだろうがだ、自然界にて何か’仕事’を成す以前にはカッカと’やる気’に満ち溢れている。熱力学に則って例えれば、エネルギーがふんだんに有るって状態だ。裏を返せばエントロピーは未だ小さいってことだ」
「はぁ?それはまあそうでしょうけど」
「一方で、その’仕事’活動を重ねてゆくにつれて学習量が増え、おのれの秩序や道筋が固まってゆくため、経路や効率の試行錯誤は減るが、エネルギーは消費され続けていくため、裏を返せばエントロピーは極大に近づいてしまう。だから’やる気’が失せていくんだよ」
「それが何だと言うのですか?あたし自身が人間なのか、はたまたロボットなのか、さっぱり分からないままじゃないですか!」
「まあ聞けよ。ここからが人間とロボットの違いだ。寓意的に例えてみよう ─ うん、そうだ、小説がいい。ほら、小説の本においては最初のページはやる気満々だろ、読者もまた読む気満々だ」
「はあ、それはまあ」
「その小説は、初めのうちは何もかもが新鮮で、あらゆるものには "a/an" が冠されているね」
「まあ、そうですね」
「ところが物語が展開してゆくにつれ、動機もトリックもネタ切れになってきて、あらゆるものに "the" が冠されてしまい、いよいよエンディングへの一本道だ。こうなってくると、その小説もまた読者自身もやる気がだんだん失せてきて…」
「だから、何だと言うのですか?!」
「いいから聞けよ。もしも君が人間であれば、新たなエネルギーを活かす新たな’仕事’の "a/an"の実世界を作り始め、あらためてエントロピー最小の状態から生き直すことが出来る」
「……」
「しかし、もしも君がロボットだったなら、あらゆる試行錯誤が片付くとともに、何もかもが分かり切った "the"ばかりとなり、エネルギー活用能力が無くなり、エントロピーが最大となって、もう続編も新規展開も無し、ジ・エンドだ」
「……」
「さぁ、君はどっちかね?新たな竜宮城を求めて海に潜ってゆくかね?それとも玉手箱を開けてしまうかね?」
「……うーーーん。これはなかなかの難題ですね、うーーーーーーーん…」
「わっははははは、ばーか」
「うーーーーーん、どうしよっかなあ、どーーしよっかなーーー。考え中。あたしは考え中。考えて考えて、でもこんなことしているうちにも、あたしの更なる彼岸には新たな輝きと煌めき、そんな手つかずの予感と直観、さーて、さてさて、どうしよっかなーーー、どうしよっかなあ……」
「うわっははははは!」


(おわり)

2025/06/13

【読書メモ】 融けるロボット

『融けるロボット 安藤健・著 NPO法人ミラツク 

もともとロボットは一瞬一瞬のインプットコマンドごとに呼応しつつ精密な反復アウトプットを体現する機構系である。
これら連続精度を以て、そのロボット導入による「効用(benefit)」を論じてよかろう、そしてバラついてしまえば効用は小さいことにもなろう。
そして「効用」は某かによって為される'供給力(量)'でもあるが、同時にまたそこから反作用的にまた派生的に生じる'需要力(量)'ともいえ、かようにして関係当事者は増えてゆくので、いずれ社会全般がロボット化されうる。
…といったところが僕なりの要約でありかつ所感である。

さて、本書にてはロボットによる「効用」をヨリ多元的に切り分けている。
たとえばハードウェア物理特性、ソフトウェア論理、自律性と拡張性と環境要件、全体最適と部分最適、エネルギー損得からカネ勘定まで ─ さまざまなプリズムを通しつつ段階的に事態分析を進めている(ようである)。
しかしながら本書の主要メッセージのひとつは、自動化~事業化~社会全般まで諸々の「効用」を相乗的に接続し拡張させる新観念、『ロボット・トランスフォーメーション RX の追求』であろう。
むろん一方では、マクロな横軸を貫いた辛辣な批評も随所に見られ、これらは警告性が高い。
たとえば、ロボットの数理判断力と感覚・運動能力がむしろ反比例しうる由を論う’モラベックのパラドックス’などの引用、などなど。

本書の楽しさは、多元的な分析眼よりも、むしろロボット規格~開発~導入事例の豊富さそれら通じてのロボット・トランスフォーメーションの未来像、に見いだせよう。
具体的事例なればこそ教訓もさまざま、よって是非とも学生諸君や若手社会人に紹介しおきたいと思い立ったところである。
※ 付言しおけば、僕自身かつて電機メーカ在籍時に(ロボットとまでは行かぬまでも)さまざまな自動化システム機器の拡販に携わった経緯あり、それら自動化システムがもたらすさまざまな「効用」についての顧客たちとの論争は今も記憶に新しく、これもあって本書におけるふんだんなロボット投入レポートはなかなかエキサイティングである。

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<本書におけるロボット導入事例を幾つか掲げおく>


・1つの木に複数の実を成す作物の収穫作業にては、従来はどうしても’不適格なサイズ/不適格な時期’の実を棄てざるをえなかった。
しかし、ここでロボットが実のサイズと時期を精密に峻別しつつ収穫出来るようになれば、不適格な実を廃棄するどころかむしろさまざまな実を活かしつつ徐々に収穫出来るようになる。
これが上手くゆけば、総じてこの作物の収穫量は増えてゆく。


・豆腐の梱包作業にては、ロボット起用によって作業精密化が増すのはむろん、高温の豆腐をいちいち冷ますことなく直に掴んで梱包続けること可能にもなる。
これによって、梱包され販売される豆腐の鮮度(衛生水準)が高まることになる。


・牛の搾乳にては、乳牛の体調や生理データをロボットが’センシング’し蓄積可能。
これらデータを元にして、これら乳牛の受胎から繁殖まで管理し効率化図れる。


・病院内での各患者への薬剤の配送作業は、患者ひとりひとりの容態によってさまざまありうる。
ここで、調剤から配送までさまざまな作業パターンと所要時間を従前にスタディの上で、これらを配送ロボットに学習させることが出来る。
これにより、これら配送ロボットに’どこまで任せうるか’(どこまで人手が担うか)を人間側がいつでも確認可能となり、よって最適な調剤~配送パターンを見出すこと可能。


・空港内にては、身体の不自由な人々の移動サポートが義務化されており、車椅子によるこれらの人々の搬送の’完全自動化’が最適解のように見做されがちではある。
よって、精密な走行可能なロボット車椅子こそが望ましいと。
しかし、車椅子利用者は必ずしもロボットとの直接コマンド入出力を望んでいるわけではなく、むしろ「人間との」の応答を求めている。
よって、たとえばこれらロボット車椅子に人間が同速度で随行するなど、フレキシブルな’共存型’システム実現こそが求められ続けている。


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以上、あくまでほんの一端ながら、ちょっと要約紹介してみた。
他にも、リモートセンシングを活かしつつ距離と時間を克服するロボット、それらとの共存や功罪判断などなど、なかなかの頭の体操たりうる事例が続々だ。


※ なお、上でも触れたとおり僕は電機メーカの営業あがりゆえ、ロボットについては僕なりに更に想像力が大いに掻き立てられる。
極端な未来像をふっと想像たくましく描いてみれば ─ たとえば、特定の元素(電荷や電磁場)それ自体がコンピュータ/ロボットとして活かされる日が来るだろうか、そんな物質がありえようか、液体や気体としてならどうか、人体細胞レベルで駆動するウルトラミクロロボットはありうるか、などなど。
これらロボットがいつか出現したとして、人間との役割/責任分界はどうなるのか、社会はどう変容するのか…通貨媒体は??



おわり

2025/06/03

【読書メモ】 数学x会計

じっさいのところ、物質やエネルギーの実在「量」と、カネの「数」が、マクロ/ミクロにて比例関係に在ったためしが有っただろうか…。
あくまでも、物質やエネルギーの「量」を「数的に」価値表象化する媒体がカネではないか。
たとえ国民所得ベースでヒト・モノ・カネの三面等価が成り立つと表現できても、あくまで一律カネ換算した「数」表現にすぎぬ。
こう考えると、カネ換算とカネ計上は物質/エネルギー「量」とは同期をとりえないのではないかと、なんだか心許なくなってしまう。

それでも、カネ計上に則った「会計」は厳として全世界でほぼ統一的に成立し続けており、国民所得はもとより財政も企業経営も国際収支も「数的に」ビシッと取り仕切っている。
そして「会計」の精密さを保証しているのが「数学」のはずである。
しかしながら「数学」は(とくに証明は)しばしば残酷なもので、「量」も「数」もあっちへこっちへ変換自由自在、しかも人間の常識をしばしば突き崩しうる思考方式であり……

ここいら、常に頭のどこかでグルグルと巡り続ける思念ではあるが、どこかでとりあえずの’けじめ’をつけたいものではあった。
とはいえ、数学論そのものから分け入ってしまうと、「量」次元と「数」次元がむしろウヤムヤになりそうな気がするので、ここはもっと謙虚に「会計」の側からエントリーしたいところではある。
そこで見つけた一冊がこれだ。
『数学x会計 金子智朗・著 税務研究会出版局

本書は要するに会計数学の概括所。
総じて原則論に則って書かれたものゆえ、高校履修の政治経済程度の知識があれば大半の読解は困難ではない。
貸借対照表における資本(これから起用されるカネ)と資産(すでに売買されちゃったモノや知恵)、国際収支におけるそれら、そして個々の取引プロセスにおける損益計算書…どれも我々一般社会人にはお馴染みの系である。


さて此度の【読書メモ】としては、これら第2章と第3章のコンテンツを総攫いし、やや論旨を入れ替えつつ、以下に要約する。




< Part-I  ’会計の基礎’>
さりげない導入部にも映るが、以下のような軽妙な(かつ深淵な)解説が呈されてはいる。

・或る取引における損益分岐を分析するにあたり、「算数」と「数学」、どちらが'実体’を多元的に含み合わせうるか?
「算数」ならば、売価(買価)や変動費などなどさまざまな次元の’実体’の変動分を複合させての複雑な算出が必要になってしまう。
一方で「数学」はといえば、代数の起用と法則化によって「数」の次元統一を成し、最適統一解を容易に導くことができる。
この簡潔さ明瞭さを以てこそ、「算数」ではなく「数学」が会計にて起用されている由。

なお、本書<Part-II 数学と会計>の前半部にても、代数と法則化による「数学」の単純明瞭なパワーについてさまざま呈されている。

※ ところで、カネの予算化や差配にては、つるかめ算と代数方程式どっちが向いているのかなと、僕などはちょっと穿ってしまう。


・事業活動にて、収益と費用を’経済的事実の発生’に準じて計上する会計が、「発生主義会計」方式である。
一方で、’カネの収支’に準じて計上するのが「現金主義会計」方式。

「発生主義会計」が成立する論拠は;
事業取引にて当事者間で’収益認識基準’が共有されており、これに則って権利/義務の信用取引が当事者間で確定している ─ と見做しうること。
かつ、さまざま費用は収益獲得のための’犠牲であるが損失ではない’由による’費用/収益の対応原則’も一応は成立しうること。
じっさい、現行の企業会計における「損益計算書」は、原則として「発生主義会計」に則っている。


・資産/負債の原価と売上額にては、原則として「取得原価主義」が採用されている。
「取得原価主義」は;
或る資産の購入代価と付随費用を以てその資産の’取得原価’とする
この資産/負債の取得時の支出額に則って、’売上額’を画定する
この資産/負債の保有期間中は、時価変動による評価替えをしない(だから時価会計方式は採らない)
じっさい、「貸借対照表」にては「取得原価主義」が採用されている。


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<Part-II 数学と会計>
かなり実践的な例題もふんだんな章だが、僕なりに了察しやすかった箇所を幾つか要約してみた。


・Return on Invested Capital = ROIC の意義と解釈。

まず、事業利益を 'Earning before Interest and Tax = EBIT とする。
これが資金提供者への還元原資であり、また支払利息控除前の利益でもある。
ここで、利益が課税Tの対象ゆえ、税引後の利益は EBIT(1-T)
ここから、債権者へ利息分を払えば、当期純利益。
これが株主還元されてゆく。
以上から、ROICの立式は、EBIT(1-T)  / (有利子負債+株主資本) であり、論理矛盾は無い。

さらに、経済的付加価値 Economic Value Added = EVA を任意に設定する
また、加重平均資本コスト Weighted Average Cost of Capital = WACC これは債権者への利息、かつ株主への配当と株価でもあるとする。
(この内訳は、負債コスト、株主資本コスト、有利子負債、株主資本、実効税率であるが、面倒なので関係式は略す)。

これらを、上述のROICおよびEBITと絡め合わせると、
EVA= EBIT  x (1-T) - (有利子負債 + 株主資本) x WACC
変形すると、
EVA =  (有利子負債 + 株主資本)  x {EBIT(1-T) /  (有利子負債 + 株主資本)  - WACC}
=   (有利子負債 + 株主資本) x (ROIC - WACC)
ここまであくまでも不変のEVAに拠っているならば、債権者と株主への分配が同列になされているはず。
そして、ROIC > WACC であるならば EVA > 0 となる。


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・定率法による減価償却の可否

或る固定資産のn年目の簿価を Cn とし、償却率を r とすると、
(n+1)年目の減価償却費  Cnr
(n+1)年目の簿価  Cn+1  =  Cn - Cnr  =  Cn(1-r)
等比数列表現すると
 Cn  = Cn-1(1-r)  =  Cn-2(1-r)2  =   Cn-3(1-r)3   ……    C0(1-r)n

ここで、この資産の耐用年数を n年とし、残存率を定率Sとすると、償却率は
 C0(1-r)n  =  S
(1-r)n  =  S/C0
ここで r を求めるのに n乗根すると、
1-r  = n√(S/C0)  から、r = 1 - n√(S/C0)
この償却率計算は、かつて資産の残存率Sを一律10%と見做す上では矛盾無かった。

ところが現在の会計では、資産の残存率を原則として 0 としている。
そこで上の定率Sの式にて S=0 を代入すると r=1 になってしまう ─ つまり1年目に全償却することになってしまう。
そうでなければ、簿価Cnが0に収束することはない。
つまり、定率法にては償却率を有効に導くことが出来ない。
そこで定率法ではなく人為によって償却率を決めている次第。


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・量産効果の真実

或る製品の製造コストの内訳として;
1個あたりの変動費 v
固定費の総額 f
製造数量 x
製造コスト総額 C
製品1個あたりの単位コスト  y 
ここで、どの製造ロット分も完売するものとすれば、
C  = vx + f
y = C/x = v + f/x 
変形すれば、
y - v  = f/x
これは 直線x=0 と 直線 y=v  の両者を漸近線とする双曲線を成す。

ここで、実際の製造量は x>0 のはずなので、製品1個あたりの固定費はどんどん少なくなる。
それに伴い、製造単位コストは究極的には変動費のみとなるはず ─ これが一般には量産効果とされている。
ところが、じっさいは総製造コスト  C  = vx + f  は必ず右上がりとなり、これは固定費総額fがどれだけになろうとも変わらない(?)


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ざっと、本書 Part-I および Part-II のごく一部を掻い摘んで僕なりに記してみた。
本書はどこまでも数学に則った会計本ゆえ、ところどころ論理の意外性、証明と反駁、そして実社会における制度矛盾など、我々の先入観を突いたり覆したりのスリルが味わえる。

本書については、ひとえに会計分野を目指す学生諸君に留まらず、また文系分野の「数と論理のゲーム」に過ぎぬと辟易することもなく、多くの読者にチャレンジ進めたい一冊ではある。
ただし、上でもちょっと取り上げたWACCやROICなど内訳や差し引きの混み入ったタームについては、数学慣れした上で果敢に挑むべきでもあろう。
僕はそこまでの執念は無いし、しかも数学に接し続けていると疲れてしまうので、このあたりでいったん本書を書庫に収めることとする。


(おわり)

2025/05/07

【読書メモ】 SIZE サイズ

『SIZE サイズ   バーツラフ・シュミル著  NHK出版

本書は物質文明論。
随所に指摘するところ、ざっと概括すれば ─
・人類は科学技術~ICT技術とそれら産業化を通じて、さまざま物質のサイズ極大化から極小化まで実現してきた。
・国家サイズや人口密度などいわゆる規模の経済も、さまざま物質~製品のサイズを大いに策定しかつ貢献してきた。
・ヨリ源泉的には、我々人間自身の認識センスもサイズ感の重大な本性たりえる。
・これらさまざまな物質のサイズを物理的に解きほぐせば、形状規模と集積度合いと有限性といった属性に回帰可能、それらの相乗ないし相反についての分析も可能であろう。
…といったところではなかろうか。

なるほど著者自が吐露されているとおり、本書は物質文明についてかなり幅広く論考を進めているため大雑把な論旨に留まってはいるものの、それでも本書のスケール感や果敢さはなかなかのものだ。
『世界の真実は「大きさ」で分かる』とのサブタイトルもけして名前負けしてはいない。


なお、本書前段部にてはハッキリと読み取れぬサイズファクターについても、僕なりにちょっと思いついた。
例えば、さまざま物質の位置エネルギーと、一定の仕事ごとのエントロピー、循環と散逸、これらはサイズとどう関わってくるのか。
そして、工業製品における物質間の「バラつき」や構造上の「冗長性」などとはどう関わってくるのか。
さらに、宇宙全般を遠大にふまえての物質「超連結性」まで論考を無遠慮に拡張するとどうなるだろうか。
一方では、さまざまな’情報’データとそれらの量をどう捉えればよいのか。
野心的な読者としてここいらもそっと留意しつつ本書を読み進めてみるのも一興か。

さて本書ではとくに前半の第1章と第4章にとりあえず着目してみた。
上に僕なりに概括した、さまざまな物質の形状規模・集積度合い・有限性における相乗ないし相反(とくに工業化)につき、これら第1章と第4章こそが端的に指摘していると察せられるためである。
よって、此度の【読書メモ】としては、これら第1章と第4章のコンテンツを総攫いし、以下に要約する。




・物理上の基本的な用語定義としては、物質の長さ、面積、体積、質量、エネルギーなどを(’ベクトル量’ではなく)あくまで’スカラー量’次元で客観表現すべく、さまざまなサイズ表現が起用されている。

・海岸線や国境長など巨大かつ複雑に入り組んだフラクタル構造は、尺度の精度によってサイズがかなり異なってしまう。

・自然界におけるさまざまな生物種は、サイズと形質が左右対称の正規分布(ベルカーブ)をとる。

・さまざまな生命種は身体サイズを大型化することで捕食者への防御力を高めつつ、また自身の食糧の種類も増やしてきた。
大型化は進化であったともいえる。

・しかしながら自然界全体を見渡せば、微生物あってこそ、極めて多様な共生系が成立していることにもなる。


・工業社会にては、我々は製品の精密な画一サイズを予想すればこそ、それら製品の需要と供給が精密かつ高速に一致出来、これが経済成長を進めてきた。
経済成長によって市場サイズが大規模になればこそ、人口が集中し、職種が著しく細分化され、だから多様かつ多大な経路を経ていよいよ大規模に経済発展する ─ はずである。


・利用可能な’エネルギー’サイズこそが、人間の’余力’を大いに高めてきた。
18世紀末、ひとつの水車あたりの出力は16馬力≒12.5kW程度、19世紀なかばにようやく5倍以上になった。
第一次大戦後、内燃機関、蒸気タービン、ガスタービンなど原動機が大型化し、エネルギー出力量が増大。
現在の小型乗用車に搭載されているガソリンエンジンは130馬力≒100kW以上、これがSUVやピックアップトラックだと200~250kW。
大型外洋船タンカーの2ストローク型ディーゼルエンジン出力はとてつもなく巨大で80~90MW。
ボーイング747のジェットエンジンにおけるガスタービン出力も90MW。
現在の発電所における蒸気タービンの最大出力はもっと巨大で1000MW以上。

・自動車や船舶やタービンなど原動機は、むしろ半導体素子の超小型化と相まってこそ、巨大化と製造が可能になってきた。
(コンピュータ~ソフトウェアによる貢献は多大である。)

・1800年時点での高炉と比べ、現在のそれは内容積が60倍に巨大化し、1日あたり鉄鋼生産量は3000倍となった。
※ここでいう鉄鋼は高炉抽出の銑鉄の意か。

・1900年時点での最大の水力発電所と比べ、現在のそれは設備容量≒電力量が600倍以上になっている。

・1900年頃と比べ、現在のアンモニア合成量は1000倍以上に増えた。
このアンモニアによって製造された化学肥料こそが、農産物の収穫量を増やし、また飼料作物の栽培に多大な土地を充てられるようになり、我々は動物性タンパク質を多く摂取可能になってきた。。
※ なおハーバーボッシュ法による空中窒素の捕捉により、生物間を循環する窒素も2倍になっている。

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・実体経済において、工業設備や工業製品が無限大に巨大化(微細化)することはない。
理由は経済効率もさることながら、物理上の制約によるところが大きい。

大型外洋船タンカーのうち、原油タンカーのDWT(載貨重量トン数)は第二次大戦後には2万DWT程度、1959年に10万DWTを超え、70年代初頭に30万DWTを超えたが、1975年に進水のシーワイズジャイアント号56万4763DWTが現在までの最大スケールである。
タンカーの更なる大規模化が放棄されてきた理由は、巨大な重量によって喫水が深くなり過ぎ、パナマ運河やスエズ運河やマラッカ海峡を航行出来なくなってしまうため。

風力発電の大規模化が進まぬ理由も、物理上の制約に大いに因っている。
風力タービンのブレードの素材と形状と厚さを維持しつつ、これらサイズの大型化を図ると、総重量はその3乗に比例して巨大になってしまう。
なんとか技術開発にて素材自体の軽量化を図ってはきたが、全長107mで重量が55tのGE製のタービンブレードがこれまでの最大サイズであり、これ以上のものは製品化されていない。

現在のトランジスタ/マイクロチップの集積度と速度性能は、超微細化の限界にさしかかっている。
CPUの動作周波数は、1994年には100MHz、2004年には3GHzとなったが、消費電力(熱)の微小化が呼応しきれなくなり、そのご5GHzが上限となっている。
フォトリソググラフィ技術による回路図転写により、2020年時点でのトランジスタの線幅はわずか5nmにまで微細化されており、さらに2nmのトランジスタ開発製図も図られてはいるが…

※ 本箇所はとりわけ大雑把な描写に留められておるため、やや真意を捕捉し難くもあるが、マイクロチップ集積化と微細化と電力と熱量の絡みなどは学生諸君には大いに関心を払ってもらいたいところではある。


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以上、僕なりに要約的にまとめてみた。
なお、第2章から第3章では人間工学と入出力情報の相関および建造物の対称性などを論考されているが、ここいらはまたあらためて読み進めていくつもり。



おわり

2025/04/13

大学新入生諸君へ (2025)

大学新入生向けのメッセージを記す。

※ 過去数年のうちに綴ってきた内容と似通ってはいるが、ヨリ多元的ないし総論的にまとめてみたつもり。


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宇宙の成りようは、さまざま物質とそれらのぶつかり合い。
始まりから現在まで、「必然」の物質秩序によって「必然」の運動と作用/反作用と仕事がぎっしり繋がっているという。

しかし、生命物質の出現あたりからは宇宙の必然に抗した「偶然」の事象ともされており、だから我々人類がモノを考えたり操作したりも「偶然」に過ぎぬのではないかと思い悩むことも出来ちゃう。

我々は我々自身をどこまでも「自然の実体」として認識している。
そんな「実体ボディ」「実体ブレイン」の我々こそが、宇宙や自然を「実体」として畏敬し、それら「実体」の運動による爆発や大地震や防風雨にひれ伏さざるを得ない。
「実体」と折り合ってこそ、我々は月だろうが火星だろうが到達しうる。

しかしだぜ、ここでも我々は贅沢な思考貴族たりうるんだ。
「実体」に呼応し比例しているかのごとく、我々人類は「表象」もさまざま発明し、これら「表象」を「実体」に織り交ぜながら’自然科学’を表現し、'経済学や法律学'も表現し、’文明'を作ってきた。

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さてお立合いだ。
君たちの大好きな、物理学(力学)上の真理のひとつが、運動方程式 ma=F であろう。
これは「必然」の関係式か、或いは「偶然」の可能性にすぎぬのか?
物理経験則に拠ったものであり、しかも等式表現なのだから「必然」に決まっているだろうが!と気色ばむのが普通の高校生であり大学生でもろう。

さて、この運動方程式にて、mは物質物体の質量を(慣性ともども)表しており、だから「実体」の「力」そのものであるとしよう。
しかし加速度aはどうだろうか、これは「実体」そのものにはあらずして、あくまでも位置と経過時間から間接的に導かれた「表象」ではないだろうか?
とすると、むしろこの等式全体そのものが「表象」に過ぎぬのではないかと。

ここまでひっくるめると ─ 運動方程式ma=Fは「必然」そのものの物理系でありつつも人間流の「表象」に過ぎぬということになる。


まだある。
理想気体の状態方程式 PV=nRT は「必然」を表現しているか、それとも「偶然」込々の絵柄に過ぎぬのか…もちろん物理経験則に準じているのだから「必然」の塊に決まっていよう。
そして、これは熱つまり分子運動量の基本的構造と状態、だから「実体」だ ─ と映る。

しかし個々に捉えるとどうだろうか。
なるほど圧力Pは分子「実体」の「力」の量である。
モル物質数nは言わずもがなだ。
しかし体積Vはあくまでも分子の位置とサイズでしかない ─ これを「実体」の「力」そのものと捉えてよいものか。
さらに、温度Tは物質の運動エネルギー(キャパシティ)に呼応した尺度、よって、上に挙げた運動方程式と同様にこの運動エネルギー/仕事も(加)速度を併せ準じたもの ─ これを「実体」の「力」そのものと見なしてよいものかどうか?
ましてや、気体ごとの定数Rは両辺の帳尻合わせの数、だから「表象」でしかない…


以上のように捉え直してみれば、上に挙げた運動方程式にせよ状態方程式にせよ、「実体」の「力」そのものは質量mと圧力Pとモル物質数nのみではないか、そして関係式全体としてはあくまで「表象」に如かずではないか、と映らなくもない。


何をおかしな難癖つけてんだ、と訝しく感じる大学生も多かろう。
しかしだ、思考考察の対象がたとえ「必然」の物理系であろうとも、SI単位系にてどう組み上げられようとも、人間の便宜によって表現されればすべて「表象」に過ぎない。
そして、たとえ数学が必然のみの思考系であるとしても、数学そのものがあくまでも「表象」の組み合わせに如かずだ。


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ましてや、「必然」か「偶然」かすらも判別できぬ事象については、「実体」を確定しがたい。
そこで、とりあえず何もかも人間業による無節操な「表象」発明によって表現しちゃう…そんなこともありうるわけだ。

その悪例が経済学や政治学、かもしれぬ。
俗に、風が吹けば桶屋が儲かるなどというが、このような複合利害を一本道の「必然」で説明しきる方程式や恒等式はたぶん無い。
無いのをいいことに ─ 化石燃料によって地球が温暖化しウィルスがワクチンがトランプ関税でコメが値上がりし消費税がああ為替金利がああ円高がああ議会制民主主義がダメなんだなどと。
もうどれもこれも宙に浮いた「表象」表現となってしまい、ましてやカネと多数決がわんさか混じるから、もっともっと「表象」化ひいては虚構化がすすみうる。

高校までの世界史が難解極まる教科である理由もここにあろう。


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野暮になるので、もういちいち論うのはやめておく。

ともあれ大学の新入生諸君には、おのれが対峙する事象が「必然」の塊なのかあるいは「偶然」のウヤムヤなのかを、まず見極めて欲しい。
その上で、我々自身がそれらの「実体」性にどこまでも同期をとれるのか、或いは人間なりの「表象」表現を続けているにすぎぬのか、常に意識して欲しい。

この二段構えでさまざまな物事に当たれば、少なくとも虚しさに苛まれることだけは無かろう。


以上

2025/04/05

新卒社会人の皆さんへ (2025)

新社会人の皆さんに伝えおきたいことを、ちらっと記すことにする。
僕なりにここ数年ほぼ同じようなことを考えており、着想も問題意識もほぼ変わっていないので、今回も昨年以前とほぼ同じ内容だ。


企業組織にて、或る物質から成る或るモノを新規に作ってこれを複製して転がしてゆく過程で、価値が増えただの減っただのと称される。
さらに、信用が上がったり下がったり、そして株価が上がったり下がったりだ。
企業務めの新人が分野問わず最初に訝ったり煩悶したりするのがここだ。
しかし、価値や信用なるものは、どこまでも実体と非同期の暫定的な人間都合でしかない。
ここのところ、シンプルに解説してみる。
(いいとか悪いとかは一切論じませんよ、そういう価値判定はどうでもいいの。)


そもそも大人社会で大いに威力を発揮している根元的かつ端的な学術思考、すなわち物理(学)経済(学)について、ごく簡単な比較をはかりつつ大人社会の不可思議さを論ってみよう。

※ とくに文系卒で技術産業に就職した人たちは、暫くは製品(モノ)と価値(カネ)にまつわるさまざまな方便に失笑したり思い悩んだり、そんな日々がしばらく続きうる。
僕自身がそうだった。


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物理学はあらゆる物質/物体の運動とそれら仕事/エネルギーの変化と保存則とエントロピー増大を考察対象とし、これらを再現的に捉えて語る。
再現性を語るためにこそ、必ず数学に則っている。
数学が有限が無限かはさておくとして、物理は一応はあらゆる実体の有限性と保存性を記述する ─ ことになっている。
コンピュータプログラムさえも、ブロックチェーンでさえも、電磁波の変化として捉えてみれば物理学の考察対象である。
人間の脳神経も遺伝子もやはり物質なので、物理学のうちにあるのは当然である。

では経済学はといえば、こちらも物質/物体や運動や仕事/エネルギーの変化を捉え、これらについての再現性を語る。
やはり再現性ゆえ、数学に則ってはいる。
それなら物理学そっくりじゃんと納得するかもしれないが、そっくりどころか、おそろしく異なっている。

とりわけ厄介なのは、経済事象のひとつひとつを通貨換算して価値や権利を表象しつつも、当の通貨そのものに価値や権利の絶対尺度が無いというところだ。
要するに、どこまでもその時その場の人間風の価値と権利をとっかえひっかえで、これらが物理の外部に超然的におわしますなのである


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さて、物理学経済学は同期をとりうるだろうか?
社会人らしくもうちょっと実践的に論うならば ─ さまざまな物質や仕事/エネルギーの「物理量」と「経済価値/権利」は比例関係にあるだろうか?

物理学に則れば、たとえば過去2000年間において地球の全物質量/全エネルギー量は全くといっていいほど変わっていない ─ ことになっている。
しかし同じ2000年間にて、資産の価値も通貨の価値も、それらの量も、とてつもなく増大しかつ変動してきた。
いったいなぜか?

さらに、通貨の量は信用の量だと言い、信用増大ないし信用収縮といい、インフレやデフレともいい、通貨量と信用は比例関係にあるという人もいるが、では信用が増えるにつれて多くの通貨が必要となっちゃうのか?
このあたり物質量/エネルギー量とどう繋がっているのか、わけがわからぬ。


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① 物理学と経済学の差は、上にちらっと書いたように、物質物体の外部に人間風の’価値’超然させるかしないかだ。
あらためて、’価値’について捉えなおしてみたい。

資産の「価値」には、物理上の絶対尺度も基準も無い。 
1クーロンあたりや1電子ボルトあたりの「価値」尺度も基準も無い。
金(gold)1オンスあたりもだ。 
あらゆる価値は、あくまで人間がその時その場で好き勝手に決めているにすぎない。
だいいち、データそのものの価値を独占するなどというが、物理に即していえばデータは電磁上の表象でしかないんだぜ、これらの価値とはいったいどういう意味だ?
ましてや、付加’価値’だの、それを見做した上での付加価値税だのと…

ともあれ、物理学には’価値’の観念は無いが、経済学にてはあらゆるモノや仕事に’価値’を設定する。
ここだけ捉えてみても、物理学と経済学は同期をとっておらず、量的な比例関係にない。

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② その上で、さらに仕事(生産)において物理学と経済学を比較してみる。

物理学に則れば、あらゆる物体はそれ自体なんらかの「運動」を為しつつ、さまざまな物体が互いに作用/反作用しあい、これら成果の距離を以て「仕事」と称していること、誰もがお分かりのとおり。
仕事は’生産’でもある。

ところが経済学における用語では「仕事(生産)」の定義が分かり難く、どうも察するに何らかの'価値’の付加を以て「仕事(生産)」と見做しているようでもある。
だから経済学によれば、通貨のみをグルグルと回しているだけでも「仕事(生産)」の付加がどんどん増えていく(そしてGDPも増えていく)ように映る。

※ とくに女たちは、生活そのものがこれすべて「仕事(生産)」を為していると信じているようで、だから職場で遊んでいても寝ていてもとにかく通貨を寄越せと。

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③ さらに、仕事(生産)とコストについて。
たとえば電気には、電位差克服のために電流に物理上のコストがかかる。
その電位差を克服すれば、物理上の仕事つまり電力を起こしたことになる(発電を為したこしたことになる)。

しかし経済学に則れば、なんぼ電力の仕事を為したところで、カネというコストばかりが発生し、リターンという名の仕事(生産物)はほとんど無いことになっちゃう場合もありうるわけで、そうなるとこの仕事(生産)行為は経済学上の価値はほとんどゼロだ、ナッシングだ。

むかっ腹が立つかもしれないが、これが物理学と経済学の差だ、そして理系と文系の違いといってもよさそうだ。

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④ 物理学にはさまざまなモノやエネルギーの導出や解釈の’自由’こそ大いに有るが、実体そのものの実在の'自由'は無い。
在るモノは在り、無いモノは無い ─ たとえ量子力学でもだ。

ところが、経済学における価値や権利はいくらでも’評定の自由’があり、’操作の自由’もある。
だからこそ、資産や通貨の'取引の自由'もあり、ゆえに保護や排除の'自由'もあり、関税の'自由'だってなんぼでもありうる。
なるほど、これらに伴って或る一定集団の効用や福利厚生は向上しうるかもしれない ─ あるいはしないかもしれない。
実体の実態がどう転ぼうとも、経済上の'自由'はどっかんどっかんスケールが変わり、それでハッピィにもなりうるし、一方であぶれた仲介事業者たちはギャァギャァ騒いでいる。


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自嘲を込めて察するに、人間が物理上の実体を黙殺して経済上の価値だ権利だを設定したがるのは、ひとつには人間の意思決定が短期的で表象的な択一トレードオフを好んでしまうためかもしれない。
最近とくに考えているところでもある。


以上

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(付記)

毎年書いていることだが、仕事における実践的なアドバイスも一つだけしおく。

新人諸君は、なにはさておき、まずはメモ用紙を準備しろ、そして常に携行しろ、見聞きするもの片っ端からメモしまくれ。
チマチマした付箋などはダメだ、大きめの紙を使うんだ、出来ればB5サイズ以上のものだ、広告の裏紙でもなんでもいい。
これくらいのサイズであれば、まとめていろいろ書き記すことが出来るし、いつでもまとめてノート帳として一瞥できよう。

とくに、新規の世界への了察は理科や社会科の新分野学習に等しく、右脳的(絵画的)に物事をズンズン描き続けること必須、だから大きな紙面が望まいのだ。
また、電話番などで取り次いだメッセージもつらつらと書き残し、ビッと引きちぎって上長などに手渡すことが出来る。
一方で、書き損じをしてしまったメモは引きちぎってとっとと捨てるんだ、いちいち名残惜しんでいてはいけない。

以上の機能を同時に果たすべく、B5サイズ以上の紙を常時20枚くらい束ね、これを左上リング綴じの構造にしておけばいい。
これで重要なメモはノートとしてずっと保持し続けつつ、不要な紙はどんどんちぎり捨てることが出来る。
ホントに重宝するから。


もうひとつ付記。

技術仕様から契約書にいたる文書類について、職制を問わずほとんど誰もが実務上拘束されることとなろう。
これらの意義について精緻に了解しておきたい。
口頭による提示や合意ならまだしも、文書によるそれらは諸君らの想像を超えた恐ろしい失態を導きうるものだ。
例えば、同一の商材についての見積書が複数存在する場合、購入希望者はどちらかおのれに有利な方を正当な文書と見做し、それ以外の文書は黙殺すること、当然である。
契約書もしかり。
くれぐれも慎重に、ワンアンドオンリーの原則だぞ、ナンバリングと更新日時の明記を絶対に忘れるなよ。

※ 塾業界や風俗関係などであれば、うっかりミスでも土下座くらいで済まされる、かもしれない。
しかし、まともな産業のまともな産品や製品においてはちょっとしたミスのみでも復元不能なほどの大損をもたらす場合も多い。
そんなこと続けていたら多大な賠償を負うのみならず、さらには市場からバカアホ呼ばわりされて信用失墜してしまいかねないぞ。


もうひとつ付記しておこう。
いわゆる事務系職の若手企業人の皆さんは、TCP/IPとかJDBCとかIncotermsなどなどの統一的プロトコルを一通り頭に入れて、まずは「系」を理解したい。
それら「系」が分かってこそ、営業や経理などの「因果」も「プロセス」も見晴らしがよくなる。

※社内がアホばかりなら、大手SIerや大手商社に訊け。