2025/04/13

大学新入生諸君へ (2025)

大学新入生向けのメッセージを記す。

※ 過去数年のうちに綴ってきた内容と似通ってはいるが、ヨリ多元的ないし総論的にまとめてみたつもり。


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宇宙の成りようは、さまざま物質とそれらのぶつかり合い。
始まりから現在まで、「必然」の物質秩序によって「必然」の運動と作用/反作用と仕事がぎっしり繋がっているという。

しかし、生命物質の出現あたりからは宇宙の必然に抗した「偶然」の事象ともされており、だから我々人類がモノを考えたり操作したりも「偶然」に過ぎぬのではないかと思い悩むことも出来ちゃう。

我々は我々自身をどこまでも「自然の実体」として認識している。
そんな「実体ボディ」「実体ブレイン」の我々こそが、宇宙や自然を「実体」として畏敬し、それら「実体」の運動による爆発や大地震や防風雨にひれ伏さざるを得ない。
「実体」と折り合ってこそ、我々は月だろうが火星だろうが到達しうる。

しかしだぜ、ここでも我々は贅沢な思考貴族たりうるんだ。
「実体」に呼応し比例しているかのごとく、我々人類は「表象」もさまざま発明し、これら「表象」を「実体」に織り交ぜながら’自然科学’を表現し、'経済学や法律学'も表現し、’文明'を作ってきた。

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さてお立合いだ。
君たちの大好きな、物理学(力学)上の真理のひとつが、運動方程式 ma=F であろう。
これは「必然」の関係式か、或いは「偶然」の可能性にすぎぬのか?
物理経験則に拠ったものであり、しかも等式表現なのだから「必然」に決まっているだろうが!と気色ばむのが普通の高校生であり大学生でもろう。

さて、この運動方程式にて、mは物質物体の質量を(慣性ともども)表しており、だから「実体」の「力」そのものであるとしよう。
しかし加速度aはどうだろうか、これは「実体」そのものにはあらずして、あくまでも位置と経過時間から間接的に導かれた「表象」ではないだろうか?
とすると、むしろこの等式全体そのものが「表象」に過ぎぬのではないかと。

ここまでひっくるめると ─ 運動方程式ma=Fは「必然」そのものの物理系でありつつも人間流の「表象」に過ぎぬということになる。


まだある。
理想気体の状態方程式 PV=nRT は「必然」を表現しているか、それとも「偶然」込々の絵柄に過ぎぬのか…もちろん物理経験則に準じているのだから「必然」の塊に決まっていよう。
そして、これは熱つまり分子運動量の基本的構造と状態、だから「実体」だ ─ と映る。

しかし個々に捉えるとどうだろうか。
なるほど圧力Pは分子「実体」の「力」の量である。
モル物質数nは言わずもがなだ。
しかし体積Vはあくまでも分子の位置とサイズでしかない ─ これを「実体」の「力」そのものと捉えてよいものか。
さらに、温度Tは物質の運動エネルギー(キャパシティ)に呼応した尺度、よって、上に挙げた運動方程式と同様にこの運動エネルギー/仕事も(加)速度を併せ準じたもの ─ これを「実体」の「力」そのものと見なしてよいものかどうか?
ましてや、気体ごとの定数Rは両辺の帳尻合わせの数、だから「表象」でしかない…


以上のように捉え直してみれば、上に挙げた運動方程式にせよ状態方程式にせよ、「実体」の「力」そのものは質量mと圧力Pとモル物質数nのみではないか、そして関係式全体としてはあくまで「表象」に如かずではないか、と映らなくもない。


何をおかしな難癖つけてんだ、と訝しく感じる大学生も多かろう。
しかしだ、思考考察の対象がたとえ「必然」の物理系であろうとも、SI単位系にてどう組み上げられようとも、人間の便宜によって表現されればすべて「表象」に過ぎない。
そして、たとえ数学が必然のみの思考系であるとしても、数学そのものがあくまでも「表象」の組み合わせに如かずだ。


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ましてや、「必然」か「偶然」かすらも判別できぬ事象については、「実体」を確定しがたい。
そこで、とりあえず何もかも人間業による無節操な「表象」発明によって表現しちゃう…そんなこともありうるわけだ。

その悪例が経済学や政治学、かもしれぬ。
俗に、風が吹けば桶屋が儲かるなどというが、このような複合利害を一本道の「必然」で説明しきる方程式や恒等式はたぶん無い。
無いのをいいことに ─ 化石燃料によって地球が温暖化しウィルスがワクチンがトランプ関税でコメが値上がりし消費税がああ為替金利がああ円高がああ議会制民主主義がダメなんだなどと。
もうどれもこれも宙に浮いた「表象」表現となってしまい、ましてやカネと多数決がわんさか混じるから、もっともっと「表象」化ひいては虚構化がすすみうる。

高校までの世界史が難解極まる教科である理由もここにあろう。


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野暮になるので、もういちいち論うのはやめておく。

ともあれ大学の新入生諸君には、おのれが対峙する事象が「必然」の塊なのかあるいは「偶然」のウヤムヤなのかを、まず見極めて欲しい。
その上で、我々自身がそれらの「実体」性にどこまでも同期をとれるのか、或いは人間なりの「表象」表現を続けているにすぎぬのか、常に意識して欲しい。

この二段構えでさまざまな物事に当たれば、少なくとも虚しさに苛まれることだけは無かろう。


以上

2025/04/05

新卒社会人の皆さんへ (2025)

新社会人の皆さんに伝えおきたいことを、ちらっと記すことにする。
僕なりにここ数年ほぼ同じようなことを考えており、着想も問題意識もほぼ変わっていないので、今回も昨年以前とほぼ同じ内容だ。


企業組織にて、或る物質から成る或るモノを新規に作ってこれを複製して転がしてゆく過程で、価値が増えただの減っただのと称される。
さらに、信用が上がったり下がったり、そして株価が上がったり下がったりだ。
企業務めの新人が分野問わず最初に訝ったり煩悶したりするのがここだ。
しかし、価値や信用なるものは、どこまでも実体と非同期の暫定的な人間都合でしかない。
ここのところ、シンプルに解説してみる。
(いいとか悪いとかは一切論じませんよ、そういう価値判定はどうでもいいの。)


そもそも大人社会で大いに威力を発揮している根元的かつ端的な学術思考、すなわち物理(学)経済(学)について、ごく簡単な比較をはかりつつ大人社会の不可思議さを論ってみよう。

※ とくに文系卒で技術産業に就職した人たちは、暫くは製品(モノ)と価値(カネ)にまつわるさまざまな方便に失笑したり思い悩んだり、そんな日々がしばらく続きうる。
僕自身がそうだった。


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物理学はあらゆる物質/物体の運動とそれら仕事/エネルギーの変化と保存則とエントロピー増大を考察対象とし、これらを再現的に捉えて語る。
再現性を語るためにこそ、必ず数学に則っている。
数学が有限が無限かはさておくとして、物理は一応はあらゆる実体の有限性と保存性を記述する ─ ことになっている。
コンピュータプログラムさえも、ブロックチェーンでさえも、電磁波の変化として捉えてみれば物理学の考察対象である。
人間の脳神経も遺伝子もやはり物質なので、物理学のうちにあるのは当然である。

では経済学はといえば、こちらも物質/物体や運動や仕事/エネルギーの変化を捉え、これらについての再現性を語る。
やはり再現性ゆえ、数学に則ってはいる。
それなら物理学そっくりじゃんと納得するかもしれないが、そっくりどころか、おそろしく異なっている。

とりわけ厄介なのは、経済事象のひとつひとつを通貨換算して価値や権利を表象しつつも、当の通貨そのものに価値や権利の絶対尺度が無いというところだ。
要するに、どこまでもその時その場の人間風の価値と権利をとっかえひっかえで、これらが物理の外部に超然的におわしますなのである


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さて、物理学経済学は同期をとりうるだろうか?
社会人らしくもうちょっと実践的に論うならば ─ さまざまな物質や仕事/エネルギーの「物理量」と「経済価値/権利」は比例関係にあるだろうか?

物理学に則れば、たとえば過去2000年間において地球の全物質量/全エネルギー量は全くといっていいほど変わっていない ─ ことになっている。
しかし同じ2000年間にて、資産の価値も通貨の価値も、それらの量も、とてつもなく増大しかつ変動してきた。
いったいなぜか?

さらに、通貨の量は信用の量だと言い、信用増大ないし信用収縮といい、インフレやデフレともいい、通貨量と信用は比例関係にあるという人もいるが、では信用が増えるにつれて多くの通貨が必要となっちゃうのか?
このあたり物質量/エネルギー量とどう繋がっているのか、わけがわからぬ。


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① 物理学と経済学の差は、上にちらっと書いたように、物質物体の外部に人間風の’価値’超然させるかしないかだ。
あらためて、’価値’について捉えなおしてみたい。

資産の「価値」には、物理上の絶対尺度も基準も無い。 
1クーロンあたりや1電子ボルトあたりの「価値」尺度も基準も無い。
金(gold)1オンスあたりもだ。 
あらゆる価値は、あくまで人間がその時その場で好き勝手に決めているにすぎない。
だいいち、データそのものの価値を独占するなどというが、物理に即していえばデータは電磁上の表象でしかないんだぜ、これらの価値とはいったいどういう意味だ?
ましてや、付加’価値’だの、それを見做した上での付加価値税だのと…

ともあれ、物理学には’価値’の観念は無いが、経済学にてはあらゆるモノや仕事に’価値’を設定する。
ここだけ捉えてみても、物理学と経済学は同期をとっておらず、量的な比例関係にない。

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② その上で、さらに仕事(生産)において物理学と経済学を比較してみる。

物理学に則れば、あらゆる物体はそれ自体なんらかの「運動」を為しつつ、さまざまな物体が互いに作用/反作用しあい、これら成果の距離を以て「仕事」と称していること、誰もがお分かりのとおり。
仕事は’生産’でもある。

ところが経済学における用語では「仕事(生産)」の定義が分かり難く、どうも察するに何らかの'価値’の付加を以て「仕事(生産)」と見做しているようでもある。
だから経済学によれば、通貨のみをグルグルと回しているだけでも「仕事(生産)」の付加がどんどん増えていく(そしてGDPも増えていく)ように映る。

※ とくに女たちは、生活そのものがこれすべて「仕事(生産)」を為していると信じているようで、だから職場で遊んでいても寝ていてもとにかく通貨を寄越せと。

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③ さらに、仕事(生産)とコストについて。
たとえば電気には、電位差克服のために電流に物理上のコストがかかる。
その電位差を克服すれば、物理上の仕事つまり電力を起こしたことになる(発電を為したこしたことになる)。

しかし経済学に則れば、なんぼ電力の仕事を為したところで、カネというコストばかりが発生し、リターンという名の仕事(生産物)はほとんど無いことになっちゃう場合もありうるわけで、そうなるとこの仕事(生産)行為は経済学上の価値はほとんどゼロだ、ナッシングだ。

むかっ腹が立つかもしれないが、これが物理学と経済学の差だ、そして理系と文系の違いといってもよさそうだ。

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④ 物理学にはさまざまなモノやエネルギーの導出や解釈の’自由’こそ大いに有るが、実体そのものの実在の'自由'は無い。
在るモノは在り、無いモノは無い ─ たとえ量子力学でもだ。

ところが、経済学における価値や権利はいくらでも’評定の自由’があり、’操作の自由’もある。
だからこそ、資産や通貨の'取引の自由'もあり、ゆえに保護や排除の'自由'もあり、関税の'自由'だってなんぼでもありうる。
なるほど、これらに伴って或る一定集団の効用や福利厚生は向上しうるかもしれない ─ あるいはしないかもしれない。
実体の実態がどう転ぼうとも、経済上の'自由'はどっかんどっかんスケールが変わり、それでハッピィにもなりうるし、一方であぶれた仲介事業者たちはギャァギャァ騒いでいる。


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自嘲を込めて察するに、人間が物理上の実体を黙殺して経済上の価値だ権利だを設定したがるのは、ひとつには人間の意思決定が短期的で表象的な択一トレードオフを好んでしまうためかもしれない。
最近とくに考えているところでもある。


以上

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(付記)

毎年書いていることだが、仕事における実践的なアドバイスも一つだけしおく。

新人諸君は、なにはさておき、まずはメモ用紙を準備しろ、そして常に携行しろ、見聞きするもの片っ端からメモしまくれ。
チマチマした付箋などはダメだ、大きめの紙を使うんだ、出来ればB5サイズ以上のものだ、広告の裏紙でもなんでもいい。
これくらいのサイズであれば、まとめていろいろ書き記すことが出来るし、いつでもまとめてノート帳として一瞥できよう。

とくに、新規の世界への了察は理科や社会科の新分野学習に等しく、右脳的(絵画的)に物事をズンズン描き続けること必須、だから大きな紙面が望まいのだ。
また、電話番などで取り次いだメッセージもつらつらと書き残し、ビッと引きちぎって上長などに手渡すことが出来る。
一方で、書き損じをしてしまったメモは引きちぎってとっとと捨てるんだ、いちいち名残惜しんでいてはいけない。

以上の機能を同時に果たすべく、B5サイズ以上の紙を常時20枚くらい束ね、これを左上リング綴じの構造にしておけばいい。
これで重要なメモはノートとしてずっと保持し続けつつ、不要な紙はどんどんちぎり捨てることが出来る。
ホントに重宝するから。


もうひとつ付記。

技術仕様から契約書にいたる文書類について、職制を問わずほとんど誰もが実務上拘束されることとなろう。
これらの意義について精緻に了解しておきたい。
口頭による提示や合意ならまだしも、文書によるそれらは諸君らの想像を超えた恐ろしい失態を導きうるものだ。
例えば、同一の商材についての見積書が複数存在する場合、購入希望者はどちらかおのれに有利な方を正当な文書と見做し、それ以外の文書は黙殺すること、当然である。
契約書もしかり。
くれぐれも慎重に、ワンアンドオンリーの原則だぞ、ナンバリングと更新日時の明記を絶対に忘れるなよ。

※ 塾業界や風俗関係などであれば、うっかりミスでも土下座くらいで済まされる、かもしれない。
しかし、まともな産業のまともな産品や製品においてはちょっとしたミスのみでも復元不能なほどの大損をもたらす場合も多い。
そんなこと続けていたら多大な賠償を負うのみならず、さらには市場からバカアホ呼ばわりされて信用失墜してしまいかねないぞ。


もうひとつ付記しておこう。
いわゆる事務系職の若手企業人の皆さんは、TCP/IPとかJDBCとかIncotermsなどなどの統一的プロトコルを一通り頭に入れて、まずは「系」を理解したい。
それら「系」が分かってこそ、営業や経理などの「因果」も「プロセス」も見晴らしがよくなる。

※社内がアホばかりなら、大手SIerや大手商社に訊け。