2014/10/20

【読書メモ】 法哲学

※ 以下、第二章と第五章の要約メモを全部まとめて投稿としました。

今回紹介する本。
『法哲学 平野仁彦・亀本洋・服部高宏 共著 有斐閣アルマ』
もともと僕なりに本書を手にしたのは、法というものが人智を超えた実在系たりうるのか、人間による随時便宜的な事実解釈の論理に過ぎぬのか、法における解釈正当性は実社会の利害得失とどう関わっているのか、などと思案していたがゆえのこと。
そこで、「哲学」と冠した本書に惹かれた ─ いったい何が法を何を成し、いかなる法がいかなる理念に則っているのか、基礎観念の(再)定義と、それら構造上の関係付けと、これら同時に試みてゆけばどうしたって哲学となるではないか。

本書は、法を独自の「システム」とおきつつ、重層的なアプローチが最大の特徴、また共著のためであろうか、章立てごとに法規範といい法ルールというなど用語表現には若干の濃淡差も見受けられる
ゆえに、さらりと一辺倒に読み抜ける論旨展開のものではないが、しかし文意そのものは概して平易ゆえ、読解には大した忍耐力は不要。
出版元の有斐閣による難度(専門度)ランク付けでは本書は専門書の一つとおかれている、が、むしろ本書は法論理を隙間なく踏み固めてゆき、法の在り様につき再考を促しうる点において、じつに強力かつ総括的な教養書とふまえておきたいもの。
したがい、異業種/異分野における法律初学者にとってこそ最適な思考鍛錬書ではなかろうかと察する。

本書では特に法と正義と功利主義の拮抗について多くのページを割いて概説されている。
一方で、僕がとりわけ注目したのは、特に第2章「法システム」 と 第5章「法的思考」であり、此度の読書メモもこの2つの章のみに絞っての要約としてある。
(文面を直接抜粋したものではなく、いつものように僕なりに一層平易に丸めたつもりです。)



<第2章: 法システム>

近代以降に道徳から乖離した法は、社会統制の機能はもとより、法自身の制御機能をも有し続けるべきである。
また法は、私人間の自主的な諸活動を予測可能で安全確定なものとすべく、活動促進機能も有し続けるべきである。
さらに法は、紛争解決機能も有し続けるべきである。
そして法は、公共サービス、社会保障、所得再配分など福祉国家の在り方を維持すべく、資源配分機能も有し続けるべきである。

かかる機能要件に応じる ─ ことになっている法は、「外部の社会全般」から様々な要請を受けつつも、「内なる構造」として独自の定式化や処理方法(いわば独自のプロトコル)から形成されており、よって法を自立的な機能システムとして捉えることにより、その在りようを明確に理解することが出来る。

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法そのものは論理であるが、そこに意義と方向を与える力が 「法規範」である。
(※ …と僕なりに解釈している。さて、以下しばらくは法学経験者にとっては常識的な事項が続くが、あくまで法システムの構成要素とそれら関係付けの再定義と考えて読まれたい。)

近代以降、法は国家権力からも、また道徳や宗教などからも「自立的に」存在しているとされるが、その自立は「法規範」によって支えられるとされる。
法規範は強制力行使そのものではなく、義務付けに留まる。
なお、ドイツの法学者イェリネックは、法は最小限の道徳に過ぎぬとした、─ が、経済犯罪などに対する規定などは道徳と異なる観点からなされるもので、現在の原則としては法は個人良心の自律領域には極力立ち入らないこととされている。

法規範は、以下に分類出来る。
 まず、「義務賦課規範」 ─ 規範違反行為に対して刑罰、損害賠償など強制サンクションを規定し、一定の作為ないし不作為を義務付ける法規範。
ここでの義務は実定法を根拠とし、道徳的価値とは関係なし。
典型的な形態は、命令、禁止規範、およびそれに個々に従属する免除規範、許可規範。
いわゆる「サンクション (sanction)」は、刑罰や損害賠償など負の不利益を賦課するのみならず、むしろ国や自治体からの補助金や委託金給付など民間団体を強制的に正の効用へと誘導する場合も多い。
(※ ちなみに英単語「sanction」の二義性もこのとおりである。)

それから、「機能付与規範」 ─ 自己の所有物を他人に譲渡する権能、契約締結の権能、遺言の権能、裁判官任命の権能など、権能を付与する規範。
禁止や解除に留まらず、裁判所による強行可能性も備えている点で、義務賦課規範とは異なる。

次に、「法性決定規範」 ─ どのような現象をどのカテゴリに帰属させるべきかを規定する規範、いわゆる定義規定(諸事情XはカテゴリYとして見られるべきである)など。
或る損害賠償請求の根拠を債務不履行におくか不法行為におくか、或いは、国際私法上どこの国の法律を準拠法とすべきか。

また、法規範は名宛人の違いからも分類出来る。
裁決規範は、裁定や紛争の解決規準を裁判官などに提供する規範で、一定の要件事実が満たされれば法的効果付与となる。
また、行為規範は名宛人に直接行為を指図するもの。
ケルゼンはあらゆる法規範が結局は裁決規範であるとしたが、「生ける法」の主唱者エールリッヒは、人間生活すべてが裁判所の前で営まれるわけではないゆえ法の本旨は各人の行為規範であるとした。
しかし、法規範は誰が名宛人たりうるかのみにあらず、外部環境の様々な要請を複合的に考えねばならぬ。

また、組織規範は各種の法関連機関の組織、権限、規準手続きを定める実務のもので、とりわけ現代は既存の裁決規範や行為規範だけでは法の柔軟な形成や運用が間に合わず、よって新たな組織規範が次々に必要とされている。

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・法規範の多くは、具体的な事例で問題となる人、物、行為などがその法規範に定められた一般的なカテゴリーに属する場合に、「要件A ならば 法律効果B」 との画一的な条件プログラムのかたちで適用される。
このタイプの法規範が、法準則(法規制)と呼ばれ、実定法の条文の多くがこれにあたる。

なお、実定法においても、法準則の解釈や運用のための抽象的な指図に留まるものもあり、このような法規範を特に「法原理」(あるいは法価値)と呼ぶ。
法原理は学説や判例として受け継がれるものが多いが、最近では公序良俗、信義則、権利濫用、正当事由など一般条項、憲法上の基本的人権の規定、個々の法律や命令の立法目的規定などとして明文化されるものも増えている。
法原理の適用は、法システムの運用者である裁判所他にも判断の余地が残され、ゆえに実社会との衡平性を大いに考慮させうる。

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・法規範と並んで法システムの重要な構成要素が法的活動である。
これは「決定」「正当化(=理由付け justification) 」からなる。
法的機関による決定活動を分類すると、「立法機関が法を制定」、「裁判所が判決」、「行政機関が行政上の決定」というのが主要な例。
但し法規範の階層性も鑑みると、或る法の定立はヨリ上位の法規範の適用や具体化ともいえる。

これら法的な決定活動においては、諸々の法規範を前提としつつ、恣意性を超えた正当化(=理由づけ)が必須となる。
恣意性を超えて正当といえるからこそ、法的決定は計算や予測可能なものたりえ、だから法的安定や平等価値の追求にもつながる。
ただし、紛争当事者に公平に接しているかという自然的正義の観点、また決定内容が実質的に正当であるかとの判断、この両面を熟慮しなければならない。

なお、いわゆる論理実証主義者は、科学における法則の正当性がその発見経緯ではなく実証実験に在る由を指摘し、法学における判決などの法的正当化もその発見プロセスではなく正当化の方法そのものが重要だと主張。
だが一方では、アメリカのニューディール時代以降のリアリズム法学が反論、たとえば保守的な連邦最高裁が伝統的な所有権と契約自由を論拠に違憲判決を濫用してきた、弁護士が陪審への感情的説得などに訴えてきた、などなど、法的正当化における過度の恣意性を指摘、ゆえに、むしろ発見プロセスこそが重要だと指摘している。
尤も、ある法的正当性の発見に至る法曹関係者の本当の心理・認知プロセスは、判決理由のみから解明することは出来ない。
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「法システム」を機能させる制度としては、具体的な紛争解決を仲裁し(交渉し)解決に導く裁定の仕組み、つまり裁判所が、特に中核的な役割を果たす。
とはいえ、そもそも仲裁による裁定を作動させるためには、社会成員に法規範の共通了解と服従が必要であり、したがい裁定者への従前の信頼も必要、名宛人の合意も必須である。
が、これにあたっては、法律の専門家(とくに裁判官)にいわゆる「法的思考(リーガル・マンド)」を委ねることになる。
法的思考とは、①あくまで過去に具体的に起こった紛争の事後的かつ個別的な解決のみを目指し、②法的規準(定立済の法準則)の権威化を担保されつつ、③決定の正当化を目指すという思考方法。
ゆえに、科学的思考とも純粋な論理思考とも異なり、決定と理由づけにおいてどうしても価値判断に則るを本質とする。

じっさい、法準則をふまえた法的思考プロセスをみれば、まず、法準則を普遍的な大前提とおき、その大前提の要件内で認定された事実を個別的な小前提とし、ゆえに法的結論が導出される…という三段論法の推論と言うことも出来る。
この三段論法への肯定的な見方としては、全てのステップおいて成立する論理はどの一つについてもあてはまる、という論理法則にのっとった説明がある。
だが、そもそも普遍的な法規範(全称命題として)などはありえず蓋然的な規範でしかない、とみれば、この三段論法は論理的に成立しえない。
ただ、たとえ或る法規範に普遍性など無いとの前提に最初は立つにしても、それが個々の事件で普遍的なものとして定式化されうるわけで、そうなると以降は裁判官の法的思考において上の三段論法が成り立つことになる。

なお、上の三段論法の推論過程で、陪審員は事実問題のみに決定権限があり、法学者はむしろ事実認定は行わない(そういう教育制度にすらなっていない)。
裁判官にとっても、「事実の完璧な証明」は不可能であり、一定の経験則における蓋然性を許容した上で推論し、事実認定をせざるをえない。
そうして裁判官が或る事実認定に至った場合、その事実認定を否定する側はその否定の所以の証明責任を負うことになる。
概して、事実の証明よりは反証の方が容易(アリバイ証明のように)。
なお、K.R.ポパーによる反証可能性についての言によれば ─ 
科学は、或る理論を普遍的なものと前提しつつ実験観測で個別事例に適用し、その理論が普遍的に真であることを帰納出来る、が、逆に個別の証明事例をいくら積み上げても元の理論が普遍的に真であるとはいえず、むしろ偽を反証することになりうる。
この反証可能性こそが科学の意義でもあり、反証可能性すら無い理論は科学的なものではない(だからプラトンもヘーゲルもマルクスも有害な歴史法則主義である)、というのがポパーの主張であった。

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・法的思考を専門化に一任しているとの認識ゆえにこそ、一般人の間には、裁判などは裁定者たちによる紛争処理過程に過ぎぬとの見方も根強く残ってきた。
じっさい紛争当事者によるヨリ主体的な相互交渉が求められる中で、最近はいわゆる裁判外紛争処理(ADR - Alternative Dispute Resolution)も増えている。
ADRは、中立的な第三者が仲裁者として紛争過程に介入し、当事者間の合意解決を導く制度、ないしはその機関であり、行政機関や諸業界の窓口サービスの他、弁護士仲裁センターなどがこれにあたり、安価かつ柔軟な仲裁サービスを展開している。

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「権利」「義務」という概念は人間関係を法的に捕捉し、法システムを支えている。
権利とは、利益と享受を法的に認めさせる力、たとえば資格や能力のこと。
具体的には、権利は「公権」と「私権」に分けられ、さらに公権は立法、私法、行政の基本三権など国または公共団体として有する公権と、参政権、自由権、平等権、請求権など私人として有する公権がある。
また、私権はその目的から財産権と非財産権(人格権、身分権、社員権、相続権)に分類され、また作用からは支配権、請求権、形成権、抗弁権などに分けられる。

そもそも、権利の本質は何か。
カントやサヴィニー等は、権利を法によって付与された意志の力ないしは支配のこととした。
だがベンサムやイェーリングは、権利を法によって保護された利益であるとした。
またサレイユなどは、権利を生活利益の享受達成の手段とした。
ホー フェルドの分析によれば、権利とは ─ 請求権(私法上の契約など)、自由権(他人の請求権から逃れ義務を負わないこと)、権能(自己の意思により自己お よび他者の法的地位を変更する能力で、法案議決、大臣指名権、私人間の譲渡や遺言や契約締結能力など)、免除(他人から一定の義務を課されない法的保障、 古典的な自由権など)。
ハートはこれら請求権、自由権、権能それぞれから得られる利益における、個人の選択可能性を主唱しているが、免除の権利性を説明しきれていない。

いっぽう、義務とは法の規範を根拠に人間の意志や行為を拘束する力のこと。
たとえば一定の売買契約においては、この権利と義務は法的に売り手にとっても買い手にとっても表裏一体の力である、が、行政上の届出義務などはそこに応じた権利はなく、取消権や解除権などはそこに相応の義務は発生しない。

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法の妥当性がどこに所在するかについての議論は、統一解釈は未だなされていない。
ケルゼンのように、憲法に最上位の根本規範を論理的に据えた法段階説をおけば、法規範の妥当性は上下相互の法規範自体のみで決せられるので、道徳的ないしは政治的な価値判断の排除は明瞭である。
ただしこれでは、たとえばナチス立法下における合法的行為を、ナチス政権崩壊後にどのように裁くかという「悪法問題」には対処しきれない。
法学者のラートブルフは、正義との矛盾に堪え難い制定法は妥当性も資格も無いとし、この正義解釈は旧東ドイツの非人道的行為を東西統一後のドイツで裁くにあたっても貫かれている。
一方、ハートは法規範の秩序を、人に債務を課して行動を律するという一次的な規範と、それら規範秩序全体の承認にかかわる規範という、二段階の規範体系から成り立つとするが、ここでは法秩序の妥当性は社会成員の承認(心理)に在るとする。

法の妥当性を、その名宛人への義務付け機能に絞って据え置くか、その実効性まで注目するか、順守慣行のみに注目するか、法規範が目指す価値や理念を察して考えるべきであるか、などなど、法の妥当性の論拠は様々に提唱されている。

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・法システムの領域は、実社会におけるどこまで及ぶべきか(及びうるか)。

まず、法はその「存在形態」によって、概ね以下の3つに類型化するのが常である。
「自立型法」は、普遍的形式として存在する法を指し、裁判過程での実現および一般的規範における適用を基本とし、個別事案ごとに処理が為され、概して「要件→効果」図式における「全て適用か或いはゼロか」の論理による結論正当化をはかる…などの特性を有する法である。
つぎに、「管理型法」は、公権力機関による特定の政策目標の実現過程で「目的→手段」の図式にて制定され、行政過程において作動する特性を有する法である。
さらに、 「自治型法」は、私的な団体組織による自主的な取り決め、インフォーマルな社会規範によって生成されていく法(機能)であり、日照権など私的利益が自主的に定められたり、インターネットの利用規範が自主的に生成されるなど、既存の制定法の規制の隙間を埋めていく特性がある。

これらのうち、とりわけ現代は福祉国家の実現のため、管理型法の制定や改正が増え続けている。
─ つまり社会保障立法、労働関係立法、経済社会政策立法、(所得再分配のための)租税法制が数において民法や刑法を圧倒しており、この傾向を特に社会の「法化(legalization)」と呼ぶ。
社会生活領域に法規制がどんどん介入していく状況であり、ゆえに制度として複雑化するほか、人々の意識行動が過度に法的になったり依存心が増す状況をもたらしている。

あわせて近代以降とくに指摘されている、過度のモラリズム(道徳の理念的偏重)やパターナリズム(公権力による正義の押しつけもまた、法を独自システムとして捉えてこそ明らかになる。 


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<第5章 法的思考>

英米法系(コモン=ロー系)は法源としていわゆる「判例法主義」をとり、ドイツ、フランス、日本など大陸法系(ローマ法系)は法源として「制定法主義」をとっている。
ただこの系譜と法源の関係は一様ではなく、たとえばインドは英米法系に属しつつも法源としては制定法主義をとっている。

・英米などは判例法主義の下で、過去の裁判における「先例」が第一義的な法源であるとされる。
先例とは、過去の事例において裁判所で採用された法規範で、これを現在の事件における第一義的法源とする ─ ここに一貫している発想が、「先例拘束の法理」。
ただし、いずれかの先例を探し出し、此度の法源にふさわしい法規範であると判断するのは、あくまで「現在の裁判官」であり、つまり先例は実質的に変更解釈され続けている。
ともあれ、現在の当該事件それ自体が新たな判決を下されれば、それが新たな先例つまり法規範となる。

もちろん議会制民主主義のもとでは議会制定法が裁判先例に優先される、が、それでも伝統的な司法権独立の観念にのっとり、法は本来裁判で解釈適用すべきとの見方が強い。

アメリカ法学では、ニューディール期以降、要件・効果の明確な法規範とは別に、「一般基準 (standard)」および「原理 (principle)」という法規範の範疇が在ること強調されるようになった。
「一般基準」は、当該問題に関して法的判断を下すさいに、諸々の観点の比重をその時々の法曹担当者に委ねるという規範をさし、いっぽう 「原理」とは出来るだけ○○せよという構造をもつ規範で、他に考慮すべき事情が無い場合に則る規範。

さらに、70年代にアメリカの法哲学者ドゥオーキンがこの「原理」をなおも分類、そのうち個人の権利擁護を狙いとする「狭義の原理」が、社会全体の目標実現を狙いとする「政策」を優先するとし、また裁判がこの原理に則る以上は、法的判断における理由づけの整合性を図らせるため、むしろ裁判官には個別裁量の余地が無いとまで言った。

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制定法主義のもとでは、裁判において第一次的に制定法が採用され、我が国でも実定法学に則る以上は制定法(もしくはその条文)以外の法源は原則認めていない。
日本法でいう「判例」は、通例では最高裁の判決理由のうち、制定法の解釈をルールとして定式化したものをさし、ただし、判例には事実上の拘束力はあるが法的な拘束力はないと説明されることが多い(憲法上も、裁判官は最高裁判決に拘束されるわけではない)。
我が国はじめ大陸法系の国々では、たとえば裁判官を高級官僚同様にキャリアシステムで要請するため、司法が議会や大統領から独立した権力機関であるとの意識は弱い。

・制定法の解釈は、その解釈の基準時を立法当事者の立法時点におく「法律意思説」に則るべきか、それとも、制定時の文言に対する随時の客観解釈に留まる「制定時客観説」に則るべきかについて、議論が続けられている。
ただし、仮に或る制定法への解釈に齟齬が見出されたとしても、立法当事者の意思はあくまでその制定法の当初の解釈目標であったと了察しつつ、実際には現行の運用や機能における正当性をふまえるべき、ゆえに法律文言の客観的理解に依るしかない。
そこであらためて、制定法はその「適用時客観説」が妥当であるとする。
おのおの制定法の適用時に、その客観的解釈を追求すればこそ、実際の裁判時にいかなる制定法も妥当な法規範たりえない事態(法の欠缺)もまた詳らかになる。

なお刑事事件においては、妥当な法が欠缺している時点で、罪刑法定主義に則り被告人は無罪となる。
だが、近代的な民事裁判で制定法が欠缺している場合は、裁判官が適用すべき法規を補充(創造ないしは発見)する。
制定法が欠缺しているかどうか、裁判において一様に合意されるとは限らず、裁判を原告優位に運ぶか被告優位に運ぶかといった実践的な狙いによって争点となる。

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「法と経済学」 と称されるアプローチは70年代以降のアメリカで活発になり、 法規範、制度の意義について論じる経済学として規範的経済学とおかれる。
経済主体の合理的行動を前提とするミクロ経済学を分析手法に起用して、社会全体の厚生の最適化を考察する手法で、本来は功利主義思想(ベンサムなど)の系譜である。

ここでは、個々人おのおの価値観によるであろう効用を単純に全体化せず、「誰の効用も低下させぬまま誰か一人以上の効用を増加させうるという選択肢の採用」、つまり「パレート改善」の概念も借用しうる。
このパレート改善型の選択を社会で繰り返していけば、何らかのかたちでいわゆる「パレート最適」な社会が実現することになっている ─ が、むろんここに至る選択経路は何通りでも有り得、それら経路のうちには個々人間の経済格差の拡大も起こりうる。
また、パレート最適化に至る各選択において、社会構成員おのおのの「費用と便益の差」をそれぞれ金銭価値におきつつ、その差(純便益)の集計を図ることも出 来る ─ 但し、いわゆる「囚人のジレンマ」のゲーム理論にて例示されるとおり、各人が独自判断で追求するおのれの便益/費用の総和は、必ずしもその社会 全体の便益/費用とは一致しない。

じっさい、「法と経済学」による社会全体の厚生最適化の追求を促してきたのは、むしろ法規範が無用である由を指摘した発想。
すなわち、「もし取引費用がゼロならば、法は資源配分の効率化には影響しない。どのような法のルールの下でも経済主体が合理的に行動するかぎり社会の効率は達成される」 という、ミクロ経済学の公理にのっとった定理である。
これがいわゆる「コースの定理」であり、コースとは発見者である経済学者の名前。

たとえば、異なった2つの事業者がおのおのの利害を賭けて競合し、それが訴訟にまで至るケースを考える。
おたがい、何らかの法的判決によるおのおのの勝訴の場合、あるいは敗訴の場合(つまり、それぞれの利益ないしは損失)を計算している。
だが更に、判決後のおたがいの交渉にかかる何らかの取引費用もあわせて勘案するはずである。
ここで、その何らかの取引費用が、おのれの勝訴による最終利益よりも高くついてしまうと悟ったら、その勝訴判決のみに従う方が経済的に合理的であるといえ、逆にその何らかの取引費用の方が安くて済むと知ったら、法的判決はむしろ許容しがたいものとなりうる。
経済学の観点からすれば、概して裁判所の判決は双方の交渉を阻害しないことに留意すべし、となる。
 (※ …という主旨だと思うが、ここのところちょっと込み入っており、さすがにアゴが上がってしまった。)

経済学には、或る選択による効用の獲得は別の選択による効用の喪失を伴うとの原則があり、これが機会費用という考え方。
これは社会正義の通念からは犠牲ともいえ、つまり、法学における規範や制度を、それらの効用という観念からヨリ実践的に踏まえる上で、経済学の採用は有用ともいえる。

以上