2016/01/18

2016年センター試験について所感

さあ、今年もセンター試験がやって参りましたね。
毎年そうだが、社会科の出題内容のリヴューが実に楽しみで…。

たとえば、(僕自身の担当教科ではないものの) 日本史の出題リード文をちらりと一瞥してみたら、日韓併合期の朝鮮を相変わらず「植民地」と記しているのね。
そもそも世界史科教科書にても、植民地と表現し続けている。
植民地なる語義はどうも不整備なままのようですなぁ、併合(annexation)の相手国を植民地と定義すべきか否か、物は言いようであり、併合時の朝鮮が日本の植民地であったならば、日本だって朝鮮の植民地であったということに … 
いや、たかが大学入試で(しかも社会科で)論理と実体の整合性を突きつめなくともよろしい。

なにはさて、例年のように政治経済科と世界史科の出題内容について、以下にちょいと所感をしたためおく。

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<政治・経済>
例年とおり、出題の意図を吟味する上にてリード文は実に重要、速読による勘違いは禁物、今回の出題はとりわけそうである。
なお、安全保障に係る出題ありやと期待と不安に胸をときめかせていたのだが、此度の出題にはナシ。

<第1問>
問3
本問は通貨の流動性と中央銀行の裁量に係る問題で、ぱっと考えると、時局に即した対デフレ対策論とも即断しうる。
だが、正答にあたる選択肢「ウ」にては、自国通貨の為替レートを切り下げるために外為市場で通貨売り介入…とあり、これは対デフレ政策へと一貫している措置とは限らぬこと、留意されたし。
※ また、本問のリード文にては、IMFなどの国際機関により、国家の経済政策が規定されたり拘束されたり ─ とあるが、IMFは中立的な経済安定機構ではなく、ドルの中短期融資(運用)を主たる目的とした機関に過ぎぬこと、忘れぬよう。

問4
今年もまた国際収支についての出題で、今回は対GDP比の経常収支「率」を日本とギリシャで比較したコンテクスト。
経常収支は既に輸出入の確定した財貨やサービスにかかる額面、よって(期待投資などの)金融収支を含めないこと、言わずもがな。
日本とギリシャの財政状態を本当の供給力=国力において比較させる、まこと美しき良問だ。

問10
これはなかなかの難問。
スローフード(slow food) は、たまにメディアに現れる英単語で、食材の画一的な商品化つまりファーストフードへのアンチテーゼである。
ファーストフードが供給食材の生産リソースを極度に偏在させうること、かつ消費需要をも画一化させてしまうことを危惧、むしろ、供給面と需要面ともに自然選択に回帰させてこそ、自由な食材市場をも復元出来る
─ というのがスローフード運動のモチヴェーションだと僕なりに了解している。

<第2問>
問3
1967年の公害対策基本法を受けて、その具体的な実施法が1970年のいわゆる公害国会にて制定された。
公害国会前夜の衆議院総選挙における政党別の獲得議席数を、ここでは問うており、よって、60年代までの二大政党による議席占有状態をしめす選択肢Bは該当しない。

問4
これはよくあるヒッカケで、内閣から独立した行政委員会のうち、労働委員会では使用者と労働者の代表委員に加え、公益代表を自認する委員も構成要員である。

問8
再生可能エネルギーと、いわゆる低炭素社会と、ホントに直結しうるかどうか疑念の残る出題であった。
(というか、低炭素社会なるものが本当に論理定義されているだろうか?)

<第3問>
問2
待ってました!これはゲーム理論の基礎中の基礎、社会科のセンスを問う最高の大良問。
A国とB国が互いに協力/非協力それぞれの態度を選択した場合の利得点数マトリクスであり、過去数年おきに出題されてきたと同じフォーマットをとっている
リード文にて 「おのおのが自国の点数の最大化『だけ』をめざす」 と前提おいているところも、前回(2011年)までと同じ。
だが此度出題にては、「両国の合計点数の最大化」をいったんは目指しつつ、おのおのが「それは無理だわな」と悟るという、ヨリ精密な意思決定ステップが選択肢に提示されており、これが正答となっている。
此度の出題はズルい…いや、むしろ理知的な進化形ではないか。
※ なお、ゲーム理論の根本を成す期待効用や意思の収斂について、本ブログの読書メモ『ゲーム理論入門』にかーるくしたためてあるので、大学入試など飽き飽きしている諸君は参考までに。
http://timefetcher.blogspot.jp/2015/06/blog-post_9.html

<第4問>
問1
これは意外な盲点。
たとえば高度経済成長が終わって以降の過去40年において、家計支出における食糧費の割合は減っている、が、光熱、水道、交通、通信にかかる支出割合は増えている。
いかにも保健医療費の支出負担が最大増であると早とちり、だが、こんなものは教科書にも載っている程度の、あったりまえの事実である。

問8
これも先入観をくすぐるヒッカケ問題。
地方自治体の財政支出のち、建設事業費が減っている(経済効率とデフレ)ことより、福祉行政にあてられる扶助費が著しく増えていることに着目すべきだ。

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<世界史A>
いつも楽しみにしている科目で、今回もマクロかつ学際的なセンスを問う良問をいくつか発見。
とくに<第2問>の出題リード文は、スイカの交易拡大、イラク南部土壌の塩害と奴隷労働、および、マムルーク王朝期のエジプトにおけるペスト流行と農業衰退と、どれもフィジカルな要因を歴史の動因に据えた歴史分析が素晴らしい。
世界史Aはかくあるべしと感心させられるもの。

<第1問>
問1
ソ連のバルト三国併合は、ソ連邦成立時のことではなく、第二次大戦開始の翌年。
アイルランド自由国は第一次大戦後に英国に認められた自治領、それが第二次大戦の直前に英連邦内の主権国家エールとなり、第二次大戦後には英連邦からも抜けた。
アフリカ統一機構は、アフリカ諸国の独立に応じて結成されたものであり、パン=アフリカ会議(第一次大戦直後)と混同せぬこと。

<第2問>
問2
毛皮や琥珀をつくっていたイラン北部は、イスラーム文明圏に入って交易を拡大、ヨーロッパや中国向けに輸出していった。

問3
ここに掲げられたイスラーム王朝の勢力図のうち、①はアラビア半島の西岸(メッカ、メディナ)からアフリカ北岸まで細く伸び、、ヨーロッパ東南部に深く入り込んでおり、イランは含んでいないところから、オスマン帝国である。
アッバース帝国はアラビア半島全域もイランもアフリカ北岸も抑えた。

問7
イギリス東インド会社によるインドでの徴税制度として、ザミンダーリー制(地主認定)も、またライヤットワーリー制(自作農への土地所有認定)も、地税の徴税効率を向上させたものである。

<第3問>
問2
第一次大戦後(1924年)のアメリカでの非白人移民法(出身国別の移民割当数を定めた)は、経済繁栄期にも関わらず移民の受け入れ禁止を図ったという、特筆すべき立法である。
禁酒法も、ほぼ同時期に施行が始まったが、世界大恐慌がおこると撤廃された。

問7
パレスティナ難民の発生が始まったのは、イスラエル建国と第一次中東戦争のころ。
ルワンダ内戦による難民は定義が難しいが、時系列で考えてみれば、ソ連の介入という表現は正とは言い難い。

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<世界史B>

<第2問>
問3
フランス東インド会社は、オランダやイギリスに対抗してアジア貿易に参画のため設立、リシュリューが事業推進はかったが業績が上がらず、いったん解散状態となった。
これが再建された(1664年)のは、コルベールが重商主義政策の推進を図ったため。

問9
周恩来による「四つの現代化」ヴィジョンがあってこそ、鄧小平が「改革・解放」政策を実践しえた。
周恩来と鄧小平は、ともに文革では苦汁を飲まされつつ、それでも未来志向をもって政治力を発揮し続けた。
ちなみに鄧小平は国家主席にも首相にも就いたことはない。

<第3問>
問6
コミンテルンは(共産主義)第三インターナショナルの略称で、ソビエトによる10月革命を契機としてソ連を中心に組織拡大、第二次大戦にさいしても人民戦線指導など連携戦略を継続。
だが、独ソ戦によってソ連中心の世界戦略遂行が不可能とみなされ、解散した。
一方、コミンフォルムは第二次大戦後、あらためてソ連中心に東欧などを取り込んで、共産党の連携戦略機関として結成されたもの。

問8
ヘルムホルツは19世紀中ごろから後半まで、熱力学や生物学を飛躍的に推進させた物理学者。
ガソリンエンジンはダイムラーが19世紀後半に発明した内燃機関、ライト兄弟による動力付き飛行機の有人飛行は20世紀初頭のこと。

<第4問>
問5
マニ教は古代ペルシアのゾロアスター教を主たる起源としつつ、ササン朝から広まっていった宗教だが、意外にも(?)その興りはキリスト教より新しく紀元後3世紀ごろで、むしろキリスト教の影響を取り込んでもいる。


以上

2016/01/10

新成人 2016

新成人の皆さんへ。

宇宙の動きには、方向があるだろうか?
なんらかの方向はある。
それは、人間自身の意思とは無関係に、何らかのマテリアルとエネルギーが無作為につくり続けている。

では、人類の世界には特定の方向があるだろうか?
この問いは難しい。
我々は、毎日毎日なんらかの目的をおきつつ、それなりの掟を設定して生きている。
しかし、そんな我々なりの目的と掟を全部並べてくっつけることは出来ない。
とりわけ、ここ数年の世界を見ていると、世界全体としては一定の方向など設定しようがないのだな、と実感する。
アハハハ、それこそが科学技術と市場経済のダイナミズムですよ、と言う人もいるし、なるほど、そんな偶発性こそが我々の天性のような気もする。

何が言いたいのかって?
人間が理解しようがしまいが、どんなものでもいつか必ず別の何かに変わり、それはまたバラけて、さらに別の何かがおこる。
今日の君たちを一時的に留めるものは、今日の世の中にはたくさん有るが、明日や明後日への変化までも永続的に留める「もの」など無い、そんなもの在りえない。
そして、今の君たちの直観で分からぬ「もの」は、どうせホントは今日の誰にも分かっちゃいない。
予め最終解答を想定するなかれ。
誰かの最終解答を待ち続けるなかれ。
宇宙にはなんらかの共通解が待っているかもしれぬ、でも、我々の日々の一瞬一瞬には共通解なんか無いんだ。
今日のシティは明日のゴーストタウン、そして明後日は学園都市になっている、かもしれないよ。
今日の強者は明日のバカ、そして明後日には大賢人になっている、かもしれぬ。
たとえば、大宰相チャーチルの生涯を思い出しなさい。

今日の思考の軸は今日のギヤを高速回転させ、そのギヤが明日は別のギヤを動かし、それが明後日には別の軸を回していく。
そんな、こんな、と、各人の人生はどこまでもスリルと楽しさに満ちている。
何もせずにほっといたって、ギヤだけはどんどん変わっていくよ。
どうせなら、今このときに考えていること、出来うること、遠慮せずに片っ端から取り掛かりなさい。


以上

2016/01/06

あっとランダムな酔っ払い

年が明けた。
依然として、おさまりのつかぬ思いが、次から次へと。

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① 「人類最初の人間は、いったい何を考えていたのだろうか?」
よく挙げられる問いかけだ。
この問いは、おそらくはセットでこう続く。
「人類の最後の人間は、いったい何を考えるだろうか?」
さぁ、ここで、我々の着想は以下の2つに大別されるのではないかな。

ひとつ。
現在生きている我々の知性は、これら最初と最後のうちのどこかに、何らかのかたちで存在しているはずだ、というもの。
神の意志はいつも同じだ、そして世界のGDPの総和はいつの時代でも同じだった…なんて言ってみたり。
いわば、総量と予定調和の文明論、としてみようか。
数学や経済学をたしなむ時、我々は(知力は別として)この総量と予定調和の発想を受け入れることが多い。

だが、もうひとつの見方。
この宇宙で、どんなエネルギーやどんな物質がなにをしでかすかは、すべてランダム。
そのランダム宇宙がランダムに起こし続けているのが、あらゆるエネルギーと物質であり、動植物であり、そして我々人間というシロモノ。
人間の頭脳活動に総量など設定できない、思考に必然など無い、だから、最初だの最後だのを設定すること自体、意味がナッシングだ…と。
これを(たとえば)永遠のランダム論とでもおこうか。

さて。
原発事故から5年も経過し、原爆投下から70年以上が経過した。
さらに北朝鮮が水爆実験だ。
どうも、総量と予定調和の文明論は、いよいよ旗色が悪くなった。
水爆でも原発でも、人間の防衛本能とは必ずしも一致せず物理的に存在し、ひとたび存在しちゃったからには、防衛本能と無関係の要因でドカーーンといっちまうことがありうるわけでしょう。
株価だのGDPだのは、我々の生命と直接の相関や相反関係があるわけではない。

…となると、人間としては事後対応しかないってこと。
皆を救える事後対応、といっても、皆を無償で収納できるシェルターってあるのかな?

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② そういえば。
経済学では、市場のあらゆる財貨の需/給が続く限り、どれもこれも量的な均衡状態に向かうという。
はて?
需/給の量的な均衡とはどういう状態か?

どの人間のいかなる需/給だって、一瞬一瞬に微分すれば、どの一瞬においても量的に衡しているのさ、という論法か?
はたまた、全人類が死に絶えて、需/給が量的にゼロになった状態か?
どっちにしても、経済学など不要ということになるわな。
(ははははは。)

いや。
むしろ経済学とは需/給の不一致(市場の失敗)こそを追求する学問じゃないのかな。

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③ ところで、政治とはなにか?
それは、新規技術の研究開発のためにカネを調達する機能のことだ、という。
かつ、政治は民意の正当な反映手段たるべきだ、との主張もある。

この2つの見方をつなげると ─ 
政治は、新規技術の研究開発のために、民意を正当に反映させるもの、ということになる。
ならば、新規技術を理解出来ない国民は、政治に参加する資格はない、というわけか?
(ははははは。)

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④ 情報化が進むということは、何が真で何が偽であるか、どんどん分からなくなるということ。
ネットに登場するデータ、そして人物のほとんどは、架空の産物かもしれないよ。
そうだとしても確かめようのない時代。
情報量は知識の共有とは相反する。

とすると、他人と知識を共有しないためにこそ、ネットに没頭するのかな?

ただ、ネットについては別の見方もすることがある。
ゲームに没頭している子供は、対人関係の構築が苦手になる、という定説は真だろうか?
ゲームとは、「決まりきったルーチン世界」を誰かと共有するもの。
同じゲームをするやつがいる、あいつもやっている、こいつだってやってる、他にも必ずたくさん居るはずだ、だから僕も
…といってゲームに没頭するのだから、むしろ対人関係の構築こそを最重要目的としているんでしょう。

だから、ネットメディアで人気を博したいのなら、おのれがゲームになればいいのです。

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⑤ さて。
「個人情報」が、どんどん漏洩しているという。
むろん、IT化とはデータの複製と転送の技術。
だから、たとえ法律やカネで人為を制御しようとも、道徳心をもって抑えようとも、いつか必ず漏れ散っていく。

そもそも、「個人情報」について考えてしまう。
これは 「本人」と「名前」と「属性」の3つが全て 1:1:1  で対応しているもの。
だがIT化がすすむにつれ、この3者はバラバラになってしまうのでは。
たとえば、個人と名前と行政情報の全てが n:n:n の対応関係となったり、とすると、僕の苗字も名前も住所も社会保険番号も、毎日変わるようになる。
もちろん、本人さえ知ってりゃいいんだ。
それでこそIT化時代のセキュリティじゃないか。
ダイナミックにいこう!

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⑥ 朝日新聞は実に面白いメディアだ。
ときおり記事を読んでみるが、なんというか、主・述の入り組んだ多重構造をとる文体が目立ち、しかも読点のおきかたが他の日本語と異なっている。
もしかしたら、人間ではない何か別の知的存在が記事を書いているのかもしれない。
もちろん悪いとは言ってないよ。
メディアは多様化こそ望ましいはず、こういう新聞だってもちろん在っていい。

ただ、朝日の系列による出版物のうち、翻訳物だけは頂けない。
新聞に輪をかけて多重構造の文体が頻出し、誰が、何を、何のために、どうしたのか、何度も読み返してしまう。
じつは、これは岩波の日訳本(とくに古いもの)においても見受けられることである。
岩波新書や岩波文庫のうち日本人が著した本は、実に論旨明瞭であり、それを思い返すにつけても日訳本の読み難さは不思議なほどである。

ついでに。
僕の文体は平坦で気持ち悪い、浅薄で含みが無い…などと言う人もいる。
しかし、僕は出来るだけ直列的に書くことを心がけているので、どうしてもこうなってしまうのだ。
頭の中までが単線構造なのではないぞ。

以上

2016/01/03

バベルの塔

① ある事故が起こったとする。
Aさんが 「大事故」 だといい、Bさんが 「大したことはない」 といい、Cさんが 「ありふれている」 という。
このように言い方が違う場合、Aさん、Bさん、Cさん、みんな見識が不完全なのだろうか?
いいえ、各人の思念を代弁している「言語」の方が不完全なのですよ。

なぜ、言語が在るのだろうか?
それはお互いを理解しあうため ─ ではなくて、本当はカネや法や代議制と同様、イヤなやつを遠ざけて分断するために捻出された仲介ツールじゃないかしら?

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② 言語、というと、バベルの塔の伝説を思いだす。
そこでちらっと考えること。

人間はみな、「好き(嫌い)なもの」というのは、おのれを形成している「なにか」が決めている。
だから本来は誰もが、好きなものが身近などこか、或いは世界のどこかに在って、それらが引っ張りダコになってきたに決まっている。
きっと、そういう好き放題の頑張りが、いわゆる経済成長ってやつも、景気活況ってやつも実現したんでしょうな。
そして、その一方では。
ああ、こんな仕事は外注しよう、そうだ彼我の居住区を変えてしまおう、だから法律を新たに定めよう、決済通貨も新規に定めよう…いっそのこと言語も新たに作ってしまえ ─ などというズルい新発明に至る。

こうやって言語が次々と起こってきた、うむ、これこそがバベルの塔伝説の真意なのではないかな?

それでもなお、ずっと万民共通で残留し続けてきたのは、人間がもともと有する 「言語以前の思念」。
となると、道徳と藝術とスポーツと数学ってことか。

(なお、最近は 『心はすべて数学である』 という本を読んでいる。
これについては近々、また読書メモとしてここに記すつもり。)

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③ 僕なりに、工業技術製品の海外顧客向け営業をこなしてきた。
その技術提案書は、とりわけヨーロピアンに提示する場合、言葉数が少ないものほどリスポンスがよく、英語(ないし客先言語)でずらずらと記したものほど不評だった。

とくにアングロサクソンは、技術提案書に英語をずらずらと書くことも、また書かれることも非常に嫌がる。
ハハン、それはこちら側の英語が下手だからだろう、と謙遜し、そこで超大手商社から薦められた英語業者に依頼して、技術提案書を英訳させたことがある。
それでも、アングロサクソン技術者はしかめっ面のまま。
そこで今度は、英文をほぼ全部削除し、システム図案と数式のみを丁寧に練り上げて再提示。
すると!彼らはものすごい勢いで全て読みとおし、更に彼らなりの図案や数式をつらつらと明記して返してきた。

ましてや。
研究開発の現場、医療の現場、スポーツの現場など、緊急性の高いシチュエーションにおいては、常に非言語的な思念そのものをぶつけ合うようだ。
外国人との協業機会が増えれば、なおさらそうなるかな。

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④ さて、ここまで書いていて閃いたこと。
男性と女性は、たぶん言語の「意義」が違う。

男なりの発想に根付けば、上に記したように、言語というものは自己の思念 「以外の物事」 を定義し、比較し、分離するためにこそ在る。
一度に多くをどかんとまとめて語りたいのも、たぶんそのためだ。
だが、女のセンスによると、世界の万物はみなどこかで繋がっており、思念と言語にも区別など無い ─ ことになっているらしい。
そこで、女性の言語は 「世界の思念を繋ぎとめる」 ためにこそ在るのではないかな?
そのためか、分かりきったことをいつまでも散文調で、小鳥のように小枝を摘まんでは、ピーチクパーチクとそこいら中に撒いてまわっている。

もしかしたら。
男がぶっ壊してしまったバベルの塔を、女たちが作り直しているのか。
そんなふうに考えると、女子が外国語を面白がって勉強する理由も、分からなくもない。
そして、緊急性に応じて非言語的な思念を発現させるのも、じつは女性の方が得意なのかもしれない。

以上