昼過ぎからもくもくと寄せて連なっていた雨雲は、ぞくぞくするような真空の緊張を突き破り、ついに都心部にとてつもない土砂降りをもたらした。
たまたま営業まわりを続けていた僕は、これはたまらぬと、目抜き通りを素早く駆け抜け、或る有名ホテルの正面入り口に駆け込んでいた。
ずぶ濡れの気恥ずかしさから、僕はフロントのスタフたちの目に留まらぬようにと、そそくさとフロアを早歩きしつつ ─ それで、左奥面のレストランに入店したのである。
このレストランは、初めての入店ではなかった。
これまでに幾度も、イギリスなどのSIerたちと商談や交渉を繰り返してきた経緯があり、さらには科学技術論のたぐいについてちょっとした舌戦をも交わしてきた、そんな所以の店なのである。
な~んだ、そんなの、と読者諸兄は鼻でせせら笑うかもしれぬ。
しかしだ。
このホテル内の地階の或るレストランが、『我々のいわゆる'リアリティ'といわゆる'フィクション'の端境に在る』 のだと聞けば、うっ、それはいったいどういうことだと訝られる読者も少なからずであろう。
どうでもこうでも、そういうことであり、いわばそういうプロパティなのだ。
『ザ・ゲートウェイ』─ それがこのレストランの我々なりの呼称である。
本当はもっと粋な名を冠する一流レストランなのだが、僕なりに海外のエンジニアや評論家などと此処で幾度も顔を合わせ、リアリティ⇔フィクションについてさまざまプロトコルだのプログラムだのを論じているうちに、彼らともどもいわば同志の符牒として『ザ・ゲート』を用いるようになっていた。
大きく張られたガラス窓は、ところどころ上品なステンドグラスの幾何的な組み合わせ。
客はあらかた半分ほどの入りで、だから僕はお気に入りの窓辺のテーブルに座すことが出来た。
ぐしょぐしょに濡れた上着とネクタイを外しつつ、窓から外を見やってみれば、先ほどまで駆けていた目抜き通り、激しく降りしきる雨、さらに遠景の曇天まで、一様に眺めることが出来た。
あらためて店内を見やり、ふと気づいた。
ちょっと離れた右側のテーブル席に、初老の女性が1人、ワイングラスをチラチラと意味ありげに傾けている。
その都度、ワインが微妙に揺れる。
なんとなく、気になった。
ちょっと離れた右側のテーブル席に、初老の女性が1人、ワイングラスをチラチラと意味ありげに傾けている。
その都度、ワインが微妙に揺れる。
なんとなく、気になった。
そして。
たまたま今度は左側のテーブルに目を移したところで、僕はあれっと驚いた。
其処に座していたのもやはり初老の女性であり、彼女もやはり意味ありげにワイングラスを上げたり下げたりで、そのたびにワインが揺れる。
たまたま今度は左側のテーブルに目を移したところで、僕はあれっと驚いた。
其処に座していたのもやはり初老の女性であり、彼女もやはり意味ありげにワイングラスを上げたり下げたりで、そのたびにワインが揺れる。
2人とも、どういうことだろう、と僕は軽く訝っていた。
なにかの体操のつもりか、あるいは、まじないの類だろうか。
アイスコーヒーを頼みつつ、僕はしばらくこの左右両端に座する初老女性たちの仕草を観察した。
2人とも、まだ続けている、うーむ、従前からずっと続けているんじゃないか。
ならば、彼女たちは互いに何らかの交信を続けているのかもしれぬ。
アイスコーヒーをすすりつつ、僕はさらにそっと彼女たちの妙な挙動を左右そっと見やり続けていたが ─ とつぜん、僕はふっと気づいてしまった。
あっ。
右側の女性のグラスは、そしてワインは、窓を彩る紫色のステンドグラスからの採光をあたかもプリズムのごとくきらりきらりと偏光し、さまざまな波長の光線を発している ─ そんなふうに映る。
それではと、僕は次に左側の女性のグラスの運動を凝視してみた。
アイスコーヒーを頼みつつ、僕はしばらくこの左右両端に座する初老女性たちの仕草を観察した。
2人とも、まだ続けている、うーむ、従前からずっと続けているんじゃないか。
ならば、彼女たちは互いに何らかの交信を続けているのかもしれぬ。
アイスコーヒーをすすりつつ、僕はさらにそっと彼女たちの妙な挙動を左右そっと見やり続けていたが ─ とつぜん、僕はふっと気づいてしまった。
あっ。
右側の女性のグラスは、そしてワインは、窓を彩る紫色のステンドグラスからの採光をあたかもプリズムのごとくきらりきらりと偏光し、さまざまな波長の光線を発している ─ そんなふうに映る。
それではと、僕は次に左側の女性のグラスの運動を凝視してみた。
あっ、こちらは緑色のステンドグラスの窓の前だ、そしてこの緑色もこちらの彼女のグラスとワインのプリズムによって偏光を成され、さまざまな波長による信号を…
うぬ、っと僕は思い当たっていた。
うぬ、っと僕は思い当たっていた。
これは、僕らのみが仲間内で嗜んできた『フィクション→リアリティ』コンバージョン法の一端じゃないか!
幾度も幾度も挙げられそして傾けられるグラスとワイン、それらの光のヴァリエーションが、なんらかの暗号キーを以て、数次にわたる複雑な魔方陣を成し…!
うーーむ。
この見当が大当たりであるならば、彼女たちは『フィクション世界』からやってきたのではないか。
このレストラン『ザ・ゲートウェイ』を経て、我らの『リアリティ世界』に侵入してきたのでは…!
うぬぅ。
このまま彼女たちの「コンバージョン法」が展開していくと、いったい何が起こるだろうか。
さらに次々と『フィクション世界』の住人が現れて来るのではないか…!、
そして、我ら『リアリティ世界』の時間感覚がだんだん圧縮され、因果律が乱れてしまうのではないか!
僕がそんなこんなの思案に焦燥していた、そのせつなである。
とつぜん窓からとてつもない稲光が差し込み、次の一瞬には凄まじい雷撃の大音響が聞こえた。
あっ。
彼女たち2人が、嘘のように消え去っていた。
僕は弾かれたように立ち上がると、素早く勘定を済ませ、それからホテルを駆けだしていた。
さっきまでの豪雨は、文字どおり嘘のように止んでおり、正面にはじつに艶やかな虹を見やることが出来た。
そんな僕のすぐ脇を1人の娘が速足で追い越していった。
と思えば、今度は正面から別の娘がやってきて、すいすいとすれ違っていく。
僕が地下鉄の駅前にたどり着くと、さらに右の路地から別の娘が、そして更に左の斜め正面からまたまた別の娘が…
彼女たちが縦横に小走りを続ける往来のさまは、大都会の街道の地図と相まって、あたかも巨大なチェスの譜面を…
(つづく ─ いや、これはもうこれでいいかなという気も。
もともと本作は、デジタル→アナログ変換や、逆エントロピーなどなどをぼやっと考えていて、咄嗟に閃いた掌編にすぎぬ。)
