毎年のこと、4月が巡ってくるたびに、慶應の日吉キャンパスを思い出す。
記憶に蘇る日吉の風景と情景は、常に真っ青な晴天のもとである。
そしてそれら記憶の大半はメシばかりである。
そういえば、八重歯の女子が多かったような気もするが、このあたり、身体的あるいは心理的な'ゆらぎ’であったろう、そしてこういう’ゆらぎ’は不思議なほどに日本的な叙情感そのものでもあり、だから慶應のとくに日吉キャンパスはまさに日本晴れのイメージが今も心に湧き上がる。
(僕の文章技法はこんな程度だ、もちろん分かってんのそんなことは。)
そもそも、僕の慶應進学は大学時からである。
いわゆる一般入試を経ての入学であった。
もともと僕自身は幼少時にロンドンで育ち、ここで親族関係を通じてのちょっと凝った巡り合わせもあって、例えば 'potential'や 'entropy'や 'induction/deduction' や'intensive/extensive property' などなどの語彙と表現を子供ながらに言い回したり作文したり、そんなくらいの観念知識はあったのだ。
しかし英語の出来そのものは、立川市での学校生活通じてパッとしなかった。
高校時には、幼馴染のスーパー美少女であったN子にビシビシしごかれ、さらに超美人の教師や非常勤のお姉さまがたにもバシバシ叱責されるなど、我ながら人一倍以上に努力したつもりではあったが、それでもペーパーテストはやはりパッとせず…
こんなだったから、慶應入試本番の英語もおそらくはパッとしない出来だったろう ─ よくも合格出来たものだと未だに不思議ではある。
或いは、論説文課題の出来が図抜けて良かったのかもしれず、なんとなくそっちの方が誇らしい気もしている。
なお、もっと不思議なことには、僕はいわゆる英語教科クラスに編入されたのだった。
イギリス人講師が早口で話す内容が半分も分からず、途方にくれて辞退しようとしたら、半分でも分かればいいよと、いずれ更に半分が分かるようになるさと励まされ、それでは何時まで経ってもアキレスと亀みたいなものじゃないかなどと僕は可笑しくなって…
そんなこんなについても今さらながら思い返すことがあり、そうだあの最初の授業の日も日吉の空は真っ青だった。
そういえばこの英語教科クラスにて、英文による自由エッセイ課されたさいに、『Barefoot stones (裸足のアスファルト) 』という掌編を提出したところ、「君には文才がある。もっと書きなさい」などと激賞され、これには僕自身が面食らったものである。
舗装路を裸足で歩いて通学していた少年期の回想をちょっと物語風に膨らませただけの拙いエッセイに過ぎなかったのだが、何がどう高評価されたのか分からず仕舞ではある。
この英語教科クラスには1年時にはまともに出席し、また若干の同好会じみた交流も楽しむ機会に恵まれた。
中にはびっくりするようなインテリ名家の才媛もおり、いやぁさすが一流大学ともなるとコミュニティなりソサイエティなりもひとかたならぬものだと感心し、あるいは腰が引けるほど恐縮したこともしきりである。
尤も、このクラスも1年も過ぎてくると、そのうちにイギリスとアメリカのバランスシート会計の違いがどうこうなどと実務上の英語論が始まっていき、なんだそんなもの三田キャンパスで学べばいいじゃないかなどとうんざりしつつ、次第に参加しなくなっちゃったよ。
一方では、スポーツのクラブに入ったこともあったが、こちらはちょっと厄介な顛末になってしまったので、いずれ別稿にて。
ともあれ、大学入学時から卒業まで総じて振り返ってみれば、中高からの内部神学者の方がセンスが高く学業も優秀であった。
一人例をあげれば、『初夏のエアバス』などと小粋な異名をとっていたやつは本当にエアバス機の設計に関心高かったようで、実際の顛末はともあれ、ああいう才覚ある連中こそが世界を股にかけてゆくのかなとしばしば思い知らされたり。
一方で、大学から慶應進学のいわゆる外部生はどうってことのないサラリーマンタイプが目立ち、それどころか『バカ顔のポルシェ』などと陰口をたたかれるようなバカ息子タイプも散見される始末であった。
あくまでも大学時の話である。
卒業後ずいぶん経過し、おのおの知見も経験もさらに運命もさまざま移り変わったろう。
いずれにせよ慶應卒だ、楽しくやってるだろうな、大半の連中は。
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そういえばこれも思い出したが ─ 大学入学後まもなく、早朝の倉庫内バイトに就いていたことがあった。
某大手乳製品企業の集荷工場にて、毎朝5時~8時までの集荷作業である。
それから自転車で立川駅まで出て、日吉キャンパスの授業へと。
この集荷工場の作業は、けして身体負荷がキツかったわけではないし、僕自身も実は身体労働は嫌いでもない。
しかし、あのヨーグルトのケースをまとめてこっちへ持って来いだの、このテトラポットをとっととそっちへ片づけろだのと、毎朝毎朝、一方的に指示を受け続けているうちに、僕は次第に憤懣を鬱積させていったのである。
なんだこんな仕事、自分自身の意思決定はな~んにもないじゃないか、ロボットにやらせりゃいいじゃないか、ロボットがロボットを監視し命令し、ロボットが作ったヨーグルトをロボットが飲んで食って寝てりゃいいんだ、俺はロボットじゃねぇぞ、たとえ時給を倍に上げられたって言いなりにはならないぞ…
ああ、そうだ ─ あれは、あの7月の朝のことだ。
ほんのちょっとだけ遅刻してしまった僕は、事務所の課長と怒鳴り合ったのだった。
憤激のはずみで僕はロッカーをブン殴ると、ふてくされたまま現場に出て、器材を足で転がしまた放り投げていたのだった。
それで、とうとう年長社員たちを巻き込んでのケンカ騒動へ。
石油臭の入り混じった強烈な空冷世界、キキーッと停まったフォークリフト、残酷に照らしつける蒼色の蛍光灯、もっと残酷にギラつく灰色のヘルメット、それらの合間からギッと睨みつけてくる真っ黒な視線の数々、テメェだのオンダリャァだのの怒号飛び交う哀しい現場。
このとき諍いを収めてくれたのが年長の男性社員である。
「おい学生くんよ、あんたはバイトだから適当な心づもりだろうっけども、ここの社員はみんな生活かけて朝から晩まで仕事してんだぁ、そしてよ、あんたも俺らもよ、同じ現場で同じ商品扱ってんだぁ、これらの商品を待っててくれるお客様もたーっくさんいるんだぁ、だっからよぉ、もっと仕事に敬意払ってくれや」
この言はいわば女性的な真理であった、「実体」も「論理」も混然した世界のエッセンスそのものだった、そう僕には聞こえたのだった。
とっさに僕は、この集荷現場からトラックに積み込まれてゆく牛乳やヨーグルトが、近郊の高校や中学校の子供たちの元へ届けられてゆく、そんなさまを想像していた。
そして、言いようの無いほどのぶざまな自己嫌悪に苛まれたのである。
この朝を最後に、僕はこの工場バイトをクビになったのだった。
一方で、初夏の日吉キャンパスは青空に映え、眩いほど真っ白に輝いて見えた。
あまりにも眩くて、僕ごときには勿体無いほどであった。
人生には現場があり、また道場もあって、ここ日吉キャンパスはきっと道場のたぐいだろうが、きっとどちらもどこかで繋がっているのではないか ─ なんてことをぼやっと考えていた気がする。
(以上、思い出がてらに)