2019/12/25

ページターナー


「こんにちは先生。あたし、質問があるんです」
「ほぅ?何かね?きっとくだらない質問だろうが、一応は聞いてあげよう」
「ではお伺いします。先生は自分が人間だという自意識がありますか?」
「あ?なんだ?俺が?自分自身を?人間だと自覚しているかって?…はっははは、そんなもの当たり前じゃないか。そもそも人間とは不完全なもの。そして俺自身も不完全。そう自覚出来るのは俺がまさに人間であるからだよ」
「そうですか。まあ、なんとなく分かりました。では次の質問です」
「なんだと?」
「神さまは、自らを神さまだと自覚されているのでしょうか?」
「なになに?神はおのれ自身を神だと自覚しているかどうか?……ふーーーむ」
「先生は、分からないのですか?」
「いや、分かるぞ ─ うむ、つまりこういうことだ。神というものはあらゆる力量において完全無欠だ。それは認識能力においてもだ。よって、おのれがまさに神であるというその認識能力こそがまさに神の神たる所以なのだよ」
「はぁ、そうなんですか。まぁ、なんとなくは分かりました。さぁ!それではいよいよ応用問題です!」
「おいちょっと待て。まだ続くのか?」
「サンタクロースは、自分自身を神と考えているのでしょうか?それとも人間だと了解しているのでしょうか?」
「うぐっ……えーと、もしもサンタクロースが自らを神だと意識しているとして……いや、しかしだぜ、それが実は誤解だとしたら、そもそもサンタクロースの認識能力そのものに欠陥があることになるわけで…」
「やっぱり、先生には分からないのですか?」
「待てってば!うーーーーん……もしもだよ、サンタクロースがおのれを人間であると自覚しているとしたら、おのれ自身の超人的な能力と精神を自ら説明出来ないことになってしまう、とすると…?背理的に帰納すればやっぱりサンタクロースは神であるということに…?」
「どうしたのですか先生?降参なら降参と言って下さい」
「誰が降参すると言った?!」



サンタクロースは自らを神と見做しているのか、はたまた人間であると自覚しているのか、有効な見解を導き出すには至らず、釈然とせぬままにその少女は寝床に就いた。
そんなだったから、当のサンタクロースが夜半時にそっと出現して傍らにプレゼントを置いて去っていくさまを、彼女はそっと見届けていたのである。
そこで、彼女は無言のままで話しかけていた。
サンタさん、サンタさん、あなたは自分自身を全知全能の神さまだと信じているの?それとも人間だと信じているの?」
ここで、サンタクロースは一瞬だけ戸惑ったふうを見せたが、しかしそれもつかの間、たちまちのうちに立ち去ってしまった。
「そう、あたしの心を読みとったのね、ということは、あなたは…あなたは…いいわ、もうどちらでも構わない」
そんなことを少女はひとりごちたが、やがて、ふ、と新たな思案に突き当たっていた。
たった今、サンタクロースが届けてくれたこのプレゼントは、どちら側の存在となるのかしら…?

彼女は咄嗟に、そのプレゼントを開梱して中身を確かめてみたいとの念にとらわれ、しばらく逡巡しつつ ─ いや、これは明日のお楽しみだから開けないでおこうと一人ごちた。
そしてようやく眠り始めたが、それでも、これから待ち受けているであろう新たな人生展開はきっと想像を超えたスリリングなものとなるのではと、そんなようなドキドキするほどの期待感と緊張感はいよいよ膨らむ一方であり、やっぱりなかなか寝入ることが出来ないのだった。


(おわり)

※ 『パンドラの箱』の逸話から着想を得たもの。

2019/11/22

【読書メモ】 人類、宇宙に住む

『人類、宇宙に住む ミチオ・カク 著 NHK出版
本著者は世界的に広く知られた理論物理学者。
本書は人類がいつか宇宙に移住することになろうとの壮大な仮説を据えつつ、文字通り日進月歩の科学技術を数多く紹介しまとめあげた超・総括本、その日本語訳版である。
副題におかれた「宇宙移住への3ステップ」のとおり、第Ⅰ部「地球を離れる」、第Ⅱ部「星々への旅」、および第Ⅲ部「宇宙の生命」 の3部構成から成る。

第Ⅰ部と第Ⅱ部にては、ロケット開発史やスターシップの研究概況をはじめ、月や火星における資源探索と工業プラント構築、そのための実践的なロボットと自律オートマトンとAIとナノテクの大胆な活用アイデア、そしてトータルなテラフォーミング(疑似地球化)のための温度や気圧などの遠大な改編案、更には他天体にテラフォーミングを成すための重力や赤外線や放射線などの環境要件 ─ などなどが次から次へと紹介されている。
これらだけでも物理学や天文学の基礎教養論として知的想像力を大いに触発するものであり、また随所に引用される数多くの科学者たちの研究や探求概説はそれこそ眩いほど。

さらに、おそらくは本書着想の根幹として科学とSFの相互補完をおいたのであろうか、大家アシモフをはじめSFの引用も数多い。
一方では、実業家のビッグネームも実践的な社会経済論とも相まって、これらは文系読者のジャーナリスティックな関心も少なからず募るものであろう。

それでいて、真の総論はむしろ第Ⅲ部におかれているようにも見受けられる。
ここではドレイクやカルダシェフによる古典的な文明評価尺度を論説のベースに据えつつ、「テクノロジーが進み宇宙をゆく異星人」と「遥かに遅れている地球人類」を想定的に対比するかたちで人類の宇宙進出を大胆に推論している。
そこで、今回の僕なりの読書メモにては、本書の第Ⅲ部のうち本著者が綴ったヨリ総論的な考察につき、幾らかを以下の通り勝手にまとめてみた。



<異星人は存在するか>
60年代に天文学者のフランク・ドレイクが、地球が存在する物理条件に則りつつ、宇宙において文明段階にある星の発見確率の数式化を試みた。
以降現在までに数々の系外惑星が実際に発見されつつ、この確率方程式は補完されまた修正されてきた。
例えば天の川銀河において、太陽に似た恒星の5個に1個以上は地球に似た物理条件の惑星を持つと推定され、仮にドレイクの方程式に基づけばこの地球型惑星は銀河系に200億個以上あることになる。
ただしこの同じ恒星の系にては、小惑星や岩塊をその地球型惑星に一定以上に接近せぬよう、円軌道を描く木星サイズの巨大な惑星が併せて存在していなければならず、かつ、その地球型惑星の自転を安定させるように一定以上の重力を有する衛星も存在の必要がある。

いわゆる「フェルミのパラドックス」は、もし仮に宇宙に文明段階の異星人が存在するとしたら我が地球をこれまでに訪問したはずである、が、その物的証拠も電波も検出出来ていないではないか、と矛盾を突く。
これについての本著者の見解は、数百光年も離れた世界からこの地球に辿り着ける異星人のテクノロジーは我々地球人の能力を超越したものであろう、よって、そんな彼らが遥かに後進の地球にまでわざわざやってくる意義が無い、というもの。
だが一方では、そんな異星人はAIとロボットの融合技術によって電波不要の機械を宇宙に送り出すに至っていることも考えられ、そうであれば我々地球人の電波望遠鏡では検知出来ない、との見方もありうる。

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<文明段階とエネルギー>
60年代にソ連の天文学者カルダシェフは、エネルギー消費量をもとに文明の段階を評価する尺度を考案した。
まず「タイプI」は、惑星に降り注ぐ恒星の光エネルギーを全て利用可能な文明で、平均的なエネルギー利用可能量は約7x1017W (J/s) となる。
これは今日の地球における我々のエネルギー出力の10万倍に相当、逆にいえば我々は未だタイプ0.7程度の段階に留まっていることになる。

次に「タイプII」は、恒星が生み出すエネルギーを全て利用可能な文明であり、じっさい我々の太陽の全エネルギー出力が約4x1026Wである。
そして「タイプIII」は、銀河全体のエネルギーを利用可能な段階の文明であり、上の太陽の全エネルギーと銀河の恒星の数から、この段階でのエネルギー利用可能量は約4x1037W となる。

現時点での我々の地球におけるエネルギー出力(そしてGDP)が年々2~3%ずつ上昇するならば、我々はまず「タイプI」の段階に到達するまでに更に1~2世紀かかり、そして「タイプII」段階に至るまでには数千年かかると考えられる。
なお、我々人類が「タイプIII」段階に到達するためには最低でも恒星間の旅行能力が必須となる ─ が、ここまでテクノロジーが到達するなど我々人類は100万年かかっても不可能との見方すらある。

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<宇宙の先進文明とは>
仮に、我々人類が「タイプI」の文明段階に到達したとする。
その場合、化石燃料の使用可能量を問わず核融合エネルギーを活用しているはずであり、また宇宙空間にての太陽エネルギーも大いに活用していると想定出来る。
そして仮に、我々人類が「タイプII」の文明段階に到達するならば、それは「タイプI」段階での我が地球のエネルギーを全て使い果たした時ではないか。

「タイプII」段階であれば、我々人類は集団で地球から脱出することはむろん、地球自身をもまた接近する小惑星の進路をも曲げられるだけのエネルギーを既に手にしているであろう。
恒星からエネルギーを効率よく得るために「ダイソン球」をも活用しているだろう。
また我々自身が他の惑星に移住するにあたり、ナノテクノロジーによる資材および建造物の超軽量化が有益である。
それでも、これら機械類が放射する赤外線の熱放射は避けられないので、その惑星における長期的なエントロピー増大を回避するには更に他の天体に機械設備を分散設置してゆくことになる。

以上の推定が正しいとして ─ じっさい既に「タイプII」段階に入っている異星人がエネルギー出力を(熱量を)増大させているさまを、我々人類は未だ確認していない。
尤も、そんな異星人たちは既に反重力や重力波を既に大いに活用し、時空すら超えているかもしれない。

なお、カール・セーガンは「情報の消費量」によって文明をランク付けする方法を提唱。
「タイプA」レベル文明の情報消費量をとりあえず106ビットとおき、そして究極の「タイプZ」レベル文明のそれを1031ビットとすると、現在の我々の文明段階は「タイプH」程度ということになる。
ここで、エネルギー消費量はどこまでも不変であるとすれば、テクノロジーの進展あたりの赤外線(熱)放射量はとてつもなく少なくて済むことになり、そんな異星人の文明を我々の技術では検出できないのもやむなしである。

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<人間とテクノロジー>
ところで、我々人類がテクノロジーの進展と相まっておのれ自身の心性を変えてしまうだろうか。
この疑念につき、本著者は、人類の心性の根本は種として全く変わっていないし、こんごも変わらないであろうとの立場をとっている。
ただし我々人類の身体形状については、物理学者ポール・デイヴィスやAI専門家ロドニー・ブルックスのように人間存在の偶発性や人体機械化の必然性云々を説く見解も多い。

また、本著者は「レーザーポーティング」なるテクノロジーを紹介しており、これは我々人類の脳における記憶や感情や感覚をコネクトーム回路として複製し、レーザー光に乗せて宇宙に放射するというもの。
こうしてどこかの惑星に辿り着くであろう我々自身のコネクトーム回路データは、そこで待つコンピュータにダウンロードされ、以降はこのコンピュータが「我々の意識上の」分身アバターを操ってその惑星で活動することになる。
これらの過程で、惑星間のハードウェアの移送はいっさい無いため、効率的でありかつ経済的でもある。

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……本書につき、とりあえず上記のあたりまでは何とか僕なりに理解は出来たつもりである。
とくに、人間自身の身体機械化や論理アバター云々などは、僕自身がちょっと前に思いついた超短編SFの着想と妙に符合するところあって恐れ入った次第。
また、遥か銀河に出ていくにあたって(いわばノイマン型の)自動複製型のロボット/探査機の活用も想定されているが、これまた何ともSFセンスを触発させるものであり面白い。

しかしながら ─ 本書は「タイプIII」文明のテクノロジー論が始まるp.364あたりから、銀河を自由に行き来する(時空を超えた)超光速航行のアイデアが展開されていく。
なんと、ビッグバン≒ブラックホールのプランクエネルギー(総計では1028eVだと!)を存分に活用し、ワームホールを通りぬける云々のくだりとなり、統一場とか、量子のゆらぎ補正とか重力子とか、ひも理論とか、さらに反物質などなど…ここまでくると極端に思考難度が上がる。
これらとて個々の概念までは何とか分からぬでもないものの、全体を了察する自信は無い、そして全貌を了察するにはなまなかな知識では済まされないのではないか。

※ とはいえ、もちろんこれらは本書全巻をとおして問われる科学知識でありえよう、したがい、本書の巨大なコンテンツと本著者の理論物理上のメッセージを理解するにあたって必須ともいえよう。

以上

2019/10/27

反抗期 Part III

しばらく以前のこと。
ある娘について、以下のような顛末があった。
彼女の実名は明かせぬので、Sという仮名を起用しおく。




9月〇〇日

S君へ
はじめまして。
君についてはお母様から聞いていますよ。
あまり喋らず、また他人の意見にもほとんど左右されぬ性格であり、しかしながら現実に対しては実に真面目に取り掛かる高校生である、云々
僕なりに君には好感を抱いています、よって挨拶がてらに声を掛けてみた次第。

さて、僕は或るライトジャズのサークルと通じておりますが、そこの連絡先をお母様に知らせてあります。
よく相談され、意欲関心が向くようであれば参加してみたらどうでしょうか。

山本

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9月■■日
山本さんへ
はじめまして!今日の夕刻、母からご紹介頂いたライトジャズのサークルに行ってまいりました。
'あの人'が是非にと奨めるのでアルトサックスを携行していきましたが、そしたら’マネージャー’の方から本当にサックス担当に指名されました。
そして実際に数フレーズを吹き鳴らすように言われたので、ちょっと気取ってスカして吹いてみたら、一丁前の恰好をするなと叱られちゃいました。
まずは身体の力を込めて真っ直ぐに吹け、ぶち抜くつもりで吹け、格好つけるなど10年早いんだ、などと仰るんですよ。
さすがに私はカッとなってしまい ─ ここだけの話ですけどレッスンが終わってからタバコを…とはいっても、家で'あの人'が不愉快な時に吸っているから真似してみただけです。
何だか早くも挫折しそう。
では、また。

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9月◇◇日
S君へ。
まず、タバコはよせ、君の「道具」に対して失礼だ。
それより何より、お母様のことを'あの人'呼ばわりするのはもっとよろしくない。
いいかね、自分の思念のみを唯一絶対の世界だなどと思いつめてはならぬ。
あらゆるモノと現象をそれぞれの相対関係でしか表現出来ないように、人間の心もやはりさまざまな相対関係から成っているんだ。
誰の心もそうだ、そして、音楽も同じこと。

なんだか説教じみたメッセージに聞こえるかもしれないが、もちろん説教のつもりだ。
期待しているぞ。
山本

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10月●●日
山本さんへ
こんにちは、今日もバンドのレッスンに加えて頂きました。
大学生奏者の人たちにとりあえず混ぜて頂いております。
毎回のレッスンは想像以上に疲れるものです。
でも頑張ります。

山本さんは、'あの人'と同じようなこと仰るんですね。
ああ、母と記すべきなんですよね。
そういえばレッスンの’マネージャー’さんも同じようなこと仰います、何だか変ですね。

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10月△△日

S君へ。
君の性格については敢えてあれこれ言わぬことにする。
実のところ嫌いではないんだ。
それよりも、君はともかくサックスを吹くことに執心すること。
ちょっと想定してみるに、レッスンで疲れてしまうのは君の体力と精神がやや貧弱なためかもしれないね。

大雑把に言えば、吹奏楽器で力強い音を出すために必要なものは2つしかない。
1つは強い身体、とくに背筋から足腰までのパワー、地と足のいわば作用反作用でバーーンと吹き鳴らすためのもの、だから下半身が太くなるくらいでちょうどいいんだ。
タバコなんかもっての外だぞ。
それからもう1つは、心を解き放つことだ、一人きりで内に秘めるのではなく、自分なりのものを付けて世界にぶちまけてやるつもりでね、さぁ、あたしはここまで成長しているんだ、今やこれほどのものなんだ、聴いて驚け見てもっと驚けって、そんなふうに全身全霊を込めてサックスを吹くんだよ。

では引き続き期待しているよ。
山本

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10月★★日
山本さん、こんにちは。
今日のレッスンで、マネージャから初めて褒めて頂きましたよ!
サックスの音色が実に直線的に押しだされるようになってきた、これなら大学生と混ぜても遜色が無いかもしれない、などなど。
全身全霊で思いきり吹き鳴らすということが私なりに何となく実感出来ました。
気のせいかもしれませんが、脚がちょっと太くなってきたような(笑)
それから、今日は母の料理の手伝いをしましたよ!
母と一緒にご飯を作ってみたのは、たぶん今回が初めてです。
それでは。
Sより。

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10月◎◎日
S君へ。
素晴らしい知らせを有難う。
いいかね、音楽はパワーだ、そして心もパワーだ、その時その場の関わり合い、そしてぶつかり合いだ。
だからこそ存分にぶちかませ、君の全てをぶっつけて突き抜けろ。
頑張れよ!
山本

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10月◆◆日
山本さんへ
あー、私はやっぱりダメです、本当にダメ、もうバンドのレッスンなんか止めちゃいたいです。
母に相談してみたら、そんなことでどうするのと叱られました。
でもレッスンを受ける度にいろいろ叱責の矢面に立たされているのは'あの人'じゃなくて私ですからね。
そんな訳でいろいろ考え中です。。。

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Sとのメール往信はここで終わっている。
彼女が何をどのように思案してきたか、そして如何なる心境の逡巡と変遷があったのか、それについては仔細を記すつもりはない。
そんな必要は無いからだ。


11月。
このライトジャズバンドのコンサートが開かれた。
Sにはソロ演奏のパートが与えられており、そして彼女は微塵ほどの逡巡も無く、びっくりするほどのパワフルなサックスをメロディアスに吹奏してみせた。
何もかもが火照り煌くそのせつなを、僕は舞台袖からじっと見ていた、そして聴いていた。
ふっと客席を観察すれば、二階席の片隅にSの母親が居り、つ、と僕と視線が合った。

聴衆たちによる拍手の豪雨がSに注がれているその間、僕はSの母親のもとへと駆け寄っていった。
「娘さん、びっくりするほどに素晴らしい演奏でしたね」
「はい、有難う御座いました」 と彼女が僕に深々と頭を下げたので、僕は慌てて制し、それから彼女に囁いた。
「娘さんが気づく前に、とりあえずここは退散させて頂きます」
「はぁ、そのことですが、あのぅ…」 と彼女は心もち楽し気に微笑み、すっと一通の手紙を僕に差し出した。
「あの娘はもう何もかも知っております」
えっ、と僕は仰天して、その手紙を手にとった。
それはSが僕にしたためたものであり、実は僕こそがレッスンの現場においてかつメールを通じて二重にSにアドバイスを続けてきた同一人物であることをとっくのとぅに察していた旨、簡素に記したものであった。
僕は唖然として舞台上のSを見つめたが、Sも高揚した風情で僕たちを見つめ返していた。
「…しかし、しかしですね、なぜこの僕宛ての手紙を貴女が持っていらっしゃるので…?」
僕が早口で問いかけるのを今度は彼女が制し、いっそう楽し気に答えてくれた。
「つまり、あの娘は本当に何もかも分かっていたんですよ。貴方と私についてのこれまでのことも、これからのこともです」


舞台上で再び演奏が始まった。
Sは先ほどよりもいっそう力のこもったサックス演奏をぶちかまし、それは何もかもを突き動かしてやまぬ強力な一瞬一瞬の、そして過去も未来も音階と旋律の奔流に溶け合わせて余りあるほどの、もはやテクニックもスタイルも脚の太さもへったくれもない、無遠慮なまでの激情そのものであった。
すっかり煽られてしまっていた僕は、笑うべきか泣くべきかちょっとだけ迷ったが、傍らにいる母親が声を挙げて泣きじゃくっているのに気づき、だから敢えて傲然と舞台上のSを見据えてやることにした。
いいぞ、小娘、おまえは実にいい、生意気なくらいに素晴らしい、その調子でいけ、気取らなくていい、スタイルに拘るなど10年も20年も早いんだぞ。


(おわり)
※ あくまで作り話だぞ。

2019/09/28

【読書メモ】数学の二つの心

数学の二つの心 長岡亮介・著 日本評論社』
本書は以前にいったん手にしつつも暫く眠らせていた一冊である。
その理由は、僕が生来より苦手としている数学本であること、また、現状批判的な文脈のためか順接/逆説がやや目まぐるしく捕捉し難かったこと、そしてその批判の主たる矛先たりうる数学教育論について僕自身は特段の関心も無いこと、などなどである。

しかしながら、先日のこと、或る数学パズルに突き当たってあれこれ思案したことがきっかけで、本書にあらためて手を伸ばすこととなった。
そのパズルとは、ざっと言えば  「単価も数量も異なる複数の商品につき、個別にバラ売りする場合と幾つかづつ組み合わせのセットで売る場合とで、売価の合算に差が生じてしまうのは何故か」 と問うものであり ─ むろん正答は、人間は価格の違いに応じて売る数量(買う数量)が異なり、それぞれのセットにおける個々の商品の売価が整数として均等になるとは限らないため、というもの。
さて一方で、本書における第二章『組み合わせをめぐって』(p.119)にては次のような一節がある;
「そもそも私たち人間が幾つかのものを選ぶとき、すべてを同時に一瞬で選ぶことはまずない。1個1個選んでいって最後にr個となる方が一般的であろう」
本旨につき、僕なりの浅薄な結びつけであることは百も承知、しかしながら、本箇所を読み直したところ平易ながらも啓発力抜群のメッセージに感嘆させられた次第。

それではと本書をあらためて読み返してみれば、さて数学とは自動複製型のアルゴリズムに過ぎぬのか、はたまた人間の演繹力と創造力に亘る漸進履歴か ─ そう考えさせられることしばしばであり、本書タイトルに掲げられた『二つの心』が織りなすユーモラスなほどに辛辣な現状批判も寧ろ高遠に響く。
もちろん、本書における『二つの心』のうち真意はあくまでも『裏の心』にしたためられていること冒頭部より明らかであり、よって此度の【読書メモ】では本書前半部における幾つかの『裏の心』につき僕なりに以下に概括してみた。


<定義・証明・自明>
数学にては、まず何らかの定義を数式(および言語)にて設定すればこそ、幾つかの命題も自明となる、そしてそれらについての証明もなしうる。

例えば、負数の定義として、"-aとは x+a=0 となるxのこと" かつ "-(-a)とは x+(-a)=0 となるxのこと" として記号"ー"を定める
「なぜこうするのか」は考えず、まずこう定義する。
この定義あればこそ、 "-(a)=a" となることが自明となり、これに基づいてのさまざまな証明も可能となる。
一方で、この"-"の定義がなされていなければ、いかなる具体物による例示を以てしても負数は自明とはならず、その計算を証明し了解することにもならない。


<複素数>
虚数 i2 = -1 と複素数はまず相当性(自己同一性)が定義されなければならない。
複素数 a+bia'+b'i について、この両者が等しいとすると a=a' かつ b=b' となる、と定義する。
また、実数 a と複素数 a+0i は敢えて同一と定義し a=a+0i とする。
こうして相当性が定義されればこそ、
a+bi = a'+b'i    ⇔   a=a' かつ b=b'   ⇔   (a,b) = (a',b')
として、実数a, b の順序対が平面上の点座標と同じもの、よって、実数が数直線上の点に対応するならば複素数は数平面上の2次元の実数、とも了解出来る。

複素数の方程式と解の±について。
或る数 z を正の実数とすると、2次方程式 w2=z にては w は正か負の実数となる。
一方で、この z を複素数 z=i とすると、この2次方程式 w2=z は w2=i となり、これを満たす±(1+i) / √2 となるが、この2つの解のうちどちらが「虚数 i2 = -1 」を含むのか判然とは出来ない。
とはいえ、複素数を含む2次方程式 ax2+bx+c=0  で全ての係数a, b, c が実数であるならば、解の公式から ±√b2-4ac の2つの解のうちどちらが虚数 i2 = -1 」を含むのかは決定される。
尤も、3次方程式 ax3+bx2+cx+d=0  については、複素数 3√z を代数の手法のみでは定義出来ず、これが学校数学で触れられない理由でもある。


<代数記号の意義>
数学における代数記号の意義とは、未知数の暫定的な文字表記ではなく、既知の数の創造的な抽象化表現である。

例えば、いわゆる鶴亀算の問題において、x+y=n かつ ax+by=m  と定式化出来るとする。
ここから xy を求めると、 x=(bn-m) / (b-a)  及び y=(m-an) / (b-a)
この新規の数式創造によって、与えられた条件 a,b,m,n と解 x,y の関係付けを叙述したことになり、これが中学数学以降で学ぶ代数記述の意義である。
さらに、ここでm と n を新たに定義し an<m<bn かつ m-an, bn-m b-a の倍数とすれば、x,y に正の整数解が導ける必要十分条件も叙述出来る。


<図形と証明>
図形の相似を扱う学校数学にては、比の表現 m:n 或いは m: (m+n) が用いられるが、これは mとnを自然数の比と比例の関係に限定してこそ意味をもち、それは中点連結定理があってこそ成り立つはず。
三角形の相似条件からスタートしてそこから平行線と比例や中点連結定理を導かせる現行の学校数学はおかしい。

そもそもユークリッド流の「図による視覚に頼った論証」は、現代数学から見れば欠陥がある。
例えば、半直線OX, OY の作る角∠XOY の二等分線の作図において、点Oを中心とする1つの円が半直線OX, OY とそれぞれ一点の交点を有することが自明とされている。
しかし現代数学に則れば、交点の存在はあくまで視覚的な直観によるものであり、自明からは程遠いということになる。

もとより、図形についての言語表現は数学において特に困難な分野であるし、また図形に関わる諸々の証明は直観に安易に依存してしまえばこそ安直に簡潔化されてしまう。
さらに、例えば一次関数式とグラフの幾何学的関係など図形の多義性についても学校教育では指導されていない。

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…以上、本書の前半部について興味を惹かれた箇所につき、僕なりにざっと概括してみた。
なお本書後半部では、対数方程式と不等式、三角比と三角関数、数列、漸化式、数学的帰納法、無限、微積分、と論題が続く。
こんごも更に読み進めてゆきたい啓発の書である。


(おわり)

2019/08/15

【読書メモ】もうすぐいなくなります

数学や物理学など、公理定理と論理演繹で解釈しうる(はずの)学術とは異なり、生物学は諸々の事象について「why / becauseの解釈そのもの」がかなり難解な分野ではないか?
いや、そんなことはないのかな、生物をとりまく現行の諸問題は政治も含め合わせて実にリアリスティックではないか…といったところを考えつつ、ふと手に取ってみたのが、此度紹介の本書である。
『もうすぐいなくなります ─ 絶滅の生物学 池田清彦  新潮社

ちらり、ちらりと立ち読みしてみれば、マンモスの再生とか、リョコウバトやトキの絶滅とか、ネアンデルタール人とホモサピエンスの混交とか、HIVウィルスやトキソプラズマなどなど ─ うむ、これは知っている、うむうむ、これも聞いたことがある、と安心して読み始めてみた。
だが、しかし……やっぱり難しい、とくに変異と形質変化と進化などは、人間ごときが因果の解釈をなしうる事象ではないのか、いや、そもそも生命とは何かという根元命題からして了察しきれた気がしない。
まして、サブタイトルにある「絶滅」の定義などは、本書末尾にもあるように解釈が一様で済むわけがないのである。
それでも、本書は第四章に「絶滅危惧種」を巡る状況が仔細にリスト化されており、寧ろこれらに直接の関心を抱いて本書を手に取る読者も多いのではと想像する。

ともかくも、此度の僕なりの「読書メモ」としては、たぶんこういったものであろうと理解しえた箇所につき、ぐっと掻い摘んで以下に雑記しおくことにした。


<生物の誕生と絶滅、超概略>

地球の全球凍結(スノーボールアース化)と生物
一回目は約24億5000万年前~22億年前。
少し前から興っていた光合成細菌(シアノバクテリアなど)による酸素の大量生成が、この地球全域の低温化を招いたため、との説あり。

二回目は約7億3000万年前~6億3500万年前。
この全球凍結期の地球でも、火山活動が続いており、二酸化炭素が大量に排出、この期間には海が無かったので大気中の二酸化炭素濃度は現在の400倍にまで増え、これによって巨大な氷床が溶けていき、地表が温暖化したとされる。

この過程にて、細胞ごとに機能分業を確立させた初期の多細胞生物が生まれたとされており、これらは構造上の対称性/非対称性に特色をもつもので特にエディアカラ動物群と称されている。
地質年代表では、原生代のヴェンド紀にあたる。

・生物の大量絶滅。
少なくともこれまでに6度起こったことになっている。
① 5億4000万年前、古生代のカンブリア紀に差し掛かるころ、マントルの巨大なプルーム(対流)が下降して巨大な力で諸大陸を引き寄せ、ゴンドワナなどの超大陸が形成と分裂を繰り返す中で、エディアカラ動物群は大量に絶滅してしまった。

カンブリア紀にては、生物「種」の爆発的な多様化が始まった。

② 4億4000万年前、古生代のオルドビス紀が終わるころ、地球の大規模な寒冷化が起こった。
当時、ほとんどの生物は海中に生存していたが、寒冷化によって海面が下がってしまったため浅い海の生物の約80%は絶滅。

なお、このころ太陽の近くにあった巨大な恒星が超新星爆発を起こし、高エネルギーのガンマ線がオゾン増を破壊して地球に注がれ、これこそが生物の大量絶滅の要因との説もある。

③ 3億6000万年前、古生代のデボン紀が終わるころ、プルームが高温化し上昇して火山の大爆発。
これによる大量の溶岩で、生物の多くが絶滅。
また火山大爆発は有毒ガスも大量発生させ、これによってスーパーアノキシア(超酸素不足)が引き起こされ、海中の多細胞生物のほとんどが絶滅した。

但し、このさいの大絶滅の要因としては巨大隕石の衝突説もある。

④ 2億5000万年前、古生代のペルム紀が終わるころ、また火山の大爆発とスーパーアノキシアによって生物の大量絶滅があり、この時の絶滅は生物史上の最大規模とされ、「科」の約60%、「種」の90%が絶滅した。

⑤ 2億年前、中生代の三畳紀のおわり、また生物の大量絶滅があった。

⑥ 6550万年前、中生代の白亜紀のおわり、また生物の大量絶滅があった。
巨大隕石が地球に落下し、マグニチュード11~12ほどの巨大地震が発生(東日本大震災の3万倍のエネルギー)、このさいに巨大津波や火山噴火がおこり、恐竜をはじめ体重25kg以下の陸上動物のほとんどが絶滅してしまったとされている。


・火山噴火と人類。
7万年前、スマトラ島のトバで大規模なカルデラ火山噴火、このさいの火山灰のため地球の平均気温が約5度も低下、この低温状態が最長で6千年も続いたとされる。
このため、植物の光合成量が減り、だから人間の食料も減り、当時は数十万人は居たはずの人類がわずか7千人程度にまで減少してしまった!
このさい、人類の遺伝上の多様性も極度に狭まったことになる。

阿蘇山は過去40万年の間に4度のカルデラ大噴火を起こしているが、日本列島に日本人が集住する以前のこと。
とはいえ、7000年ほど前、屋久島北方の鬼界でもカルデラ噴火があり、このため縄文時代先期の日本人は難を逃れて移住している。



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<主要な論題 - 生物の系統、個体数、遺伝多様性など>
・諸々の生物の系統/分類につき、下位から上位へ概略すると;
亜種<種<属<科<目<綱<門<界
(ヒトの系統分類は、ヒト種<ヒト属<ヒト科<霊長目<哺乳綱<脊索動物門<動物界<真核生物)

このうち、現存する生物は「種」「属」「科」の数においては生物史上最多である。
ただし、ヨリ上位の大分類たとえば「門」までで括ってみると、すでに絶滅してしまった生物「門」が極めて多いともいえる。

ただし、生物系統そのものが連続的に変化しており、異なった「種」の混交もあり、さらにミトコンドリア系列による個体分類などさまざまなレベルでの分類がありえる。
よってこれらの整理はけして容易ではない。


・あらゆる自然環境は必ず変わる、そして、生物はそれら環境に応じて変異する。
変異により興った新たな系統の生物は、DNA自身が変化しやすいのか、DNAのマネジメント能力が高いのか、ともかくも環境に応じて進化しやすいフレキシブルな形質をもっている。
感染症のウィルスでさえも、人体などの環境に応じて変異し、その環境と共存しやすい形質となって生きながらえるものがある。

変異によって系統の分離を繰り返し、新たな生命システムを体現し ─ この結果として現在のさまざまな系統の生物がある。
変異しなくなった生物は、環境の変化に応じることが出来ず、いつか絶滅してしまう。
こうして連続的にみると、あらゆる突然変異を偶然発生の事象として捉えるのはおかしい。

生物の形質や生活様式には、生命活動の上でスペシフィックなもののみならず、(少なくとも人間が観察するかぎりでは)無駄なものも含まれている。

必然とみえる遺伝子もまた形質も、その個体群が絶滅に瀕した時には有益とは限らず、むしろ無駄と見える遺伝子や形質が他の個体群(いわばメタ個体群)との混交にさいして有益となりうる。
これによってこそ、その生物は絶滅を回避しうる。

・あらゆる生物において、それぞれの個体数とそれぞれの遺伝上の多様性は比例的には増大しない。
ある生物種が何らかの理由でいったん隔離されるか、あるいは絶滅に瀕すると、生き残った個体は遺伝上の多様性がむしろ減少してしまうことになる。
生物が近親交配を嫌う理由もここにあるのではないか。

・ある生物「種」と別の生物「種」が拮抗する場合、古い種ほど絶滅しやすく、新たな種ほど生き残っていく。
しかし、最近のアプローチによれば、生物はじっさいには異なった種同士が混交しつつまた分岐してきたことも分かってきた。
さらに、単為生殖の生物はクローンともいえ、だからその種および個体が絶滅したか否かは判断しやすいが、有性生殖の生物ではどの段階でのどの種が絶滅したか(していないか)判断は難しい。

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※ なお、本書はあくまで一般向け書籍とはいえ、論旨展開が其処ここに重層的であるため、しばし主旨を捕捉し難いことは否めぬのではないか。
勝手に想像するに、口述筆記に多くを依っているためであろうか、或いは出版社の書籍編集上の意図によるものか…いずれにせよ具体的な苦言として呈しておきたい。
本著者である池田清彦氏の卓絶した学識から着想センスまで概ね存じ上げているだけに、なおさらのことである。

以上

2019/08/04

ガリバーの惑星


「皆さん。ちょっと私の話を聞いて下さい!」
「えーっ?何ですと?…あんたはー、いったい誰なんだ?ぐぉーっ、ぐぉーっ」
「私は、探検家です」
「あーーっ?何だってー?ぐぉーっ、ぐぉーっ、すまんが、もう一度、大きな声で繰り返して下さらんか?ぐぉーっ、ぐぉーっ」
「私は探検家であり、皆さんにお知らせしたいことがある、と申し上げているのですよ!」
「あー?…んーーん、なんだか、あなたの言葉は聞き取りにくいなぁ…ぐぉーっ、ぐぉーっ」
「そうですか、ではズバリ要点を言いましょう!皆さん、私はですね、xxx元素の鉱山をついに発見したのですよ!」
「あーっ?なになに?xxx元素だってーー??ぐぉーっ、ぐぉーっ」
「そうです!xxx元素はですね、原子核の半減期が宇宙の歴史そのものを超えるほど長いものであり、したがい、宇宙のありようを調べる上で、もっとも根元的な尺度たりうるわけで…!」
「うーーむ、あんたの話はどうにも聞こえにくい…ぐぉーっ、ぐぉーっ。あのね、探検家くん、xxx元素はあっと言う間に核崩壊を起こして変化してしまう、じつに不安定な物質だよ、あっははは。ぐぉーっ、ぐぉーっ」
「ばかな!何が不安定なのですか?何があっという間なのですか?!
「あーーっ?……君こそなにをニャォニャォと言っているのか…どうも聞き取りにくくていかん…。ねえ探検家くん、この宇宙は君の想像よりも遥かに深くて遠大なものなんだよ。もっと大志を抱きたまえよ、ぐぉーっ、ぐぉーっ」
「何が大志ですか?!僕はいつだって、おのれの想像力に挑戦するほどに全力をふり絞って、精いっぱいに生きているんだ!うむっ、あんたたちこそがおかしいんだ!」
「……なんだか、どうにも分からんな君は……さて、わしらはそろそろ昼寝の時間だ、もうつまらん話で煩わせないでくれよ。じゃあ、おやすみ……ぐぉーっ、ぐぉーっ、ぐぉーっ、ぐぉーっ、ぐぉーっ、ぐぉーっ、ぐぉーっ、ぐぉーっ……」



(あはははは)

2019/07/23

少年相撲の思い出

小学校5年生の頃だったかな。
夏休み前後の時節と記憶しているが、市内の相撲大会に駆り出されたことがあった。
僕は当時から身体が大きい方だったし、ずんぐり体型だったし、何に対しても一所懸命だった(ように見えたらしい)ことから、ちょっと相撲を仕込めばそこそこ活躍出来るのではと期待されてのことだった。
そうはいっても、所詮は子供の時分のこと、近所の大柄な女子高生にドッジボールをぶつけられて暫く息が出来なかったほどの、ちっちゃな身体ともっとちっちゃな世界観。

さて、少年相撲につき、思い出しがてらに記す。

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自宅近郊の公民館の庭に、土俵が盛られており、そこが相撲の稽古場となった。
町内の有志の大人たち、公民館の職員だったか他校の教員だったかが繰り出してきて、相撲の実技指導にあたってくれた。
夕方7時頃から、数人の同級生たちとともに館内でまわしを締めて(締められて)、照明灯のもと土俵脇に集められ、念入りに体操、ずずんと四股を踏み、どっせぃ!とぶつかり稽古、そして、おっかなびっくりの立ち合い稽古まで。
ざっと小一時間の稽古だったか、いや、2時間ほどだったかな、そういえば、稽古は1日おきだったか、週に2日だったか ─ 
ともあれ、土くれと畳と木材の混じり合ったようなあの一連の臭いは今でもハッキリ覚えている。


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ここで、よし俺も手伝おうと意気込んだのが、いまは亡き父親であった。
格闘技経験のあった亡父は、僕がスポーツでは大成しないだろうとふんでいた節があったものの、子供の心身の鍛錬には相撲がふさわしいなどと言いだして、稽古日のたびに土俵脇から叱咤激励してくれた。
じっさいに胸を貸してくれたことも、度々である。
「やるからにはきちんとした体術を覚えるべきだ。相撲で覚えた体術は必ず立派な身体をつくる」
「他の人間を土俵の外に押し出し、そうかと思えば逆に投げ飛ばされる、これは生きていく上で最も大切な勉強なんだ」
「ニヤニヤするな、遊びじゃないんだぞ、怪我したくなかったら真剣にやれ!」
「ひるむな!男ならドーンとぶつかってこい!ドーンと!」


ドーンとぶつかってこい。
これが、なかなか怖かった。
「頭から、突っ込むんだ!そうすればきっと相手はのけぞって直立姿勢になる。そこで同時に相手のまわしをひっつかんで、ぐいっと引きつける。もう相手は動けない。そこで、一気に押し出す!これが相撲の王道ってもんだ!」
王道だなんだと言われても、そんなのは大人の理屈だ、子供の僕たちにはもっとソフトな技を教えて欲しいもんだ ─
そんなふうに考えてみたりしたのだが、そういう僕たちの弱気をとっくに察してのことか、父などは土俵に上がってきて僕に胸を貸しつつ、何度も叱りつけてくる。
「まだ、ダメだ!頭からドーンとぶつかってこいと言ってるんだ!逃げるな、それでも男か!ほらっ、もう一回!」


そんなぶつかり稽古を幾日か続けて、頭から突っ込む姿勢と格好だけは何とかサマになったと思う。
なるほど。
確かに大人たちの言うとおりで、前傾姿勢のままズンズン押し込んでいけば力も入るし、相手のまわしを掴みやすい、そして、相手はこちらのまわしが掴みにくい。
さは、さりとて。
ここからがいよいよ問題だった。
「もちろん、相手だって頭から突っ込んでくるに決まっている。だからって逃げちゃダメだ。相手の頭に、ガーンとぶっつけてやれ。それが相撲の王道だ」
ドーン、はまだしも、ガーン、は恐ろしかった。
頭突きの正面衝突じゃないか。


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或る夕刻のこと。
いよいよ、立ち合い稽古の段に入った。

僕は隣町の小学校の同年生と実践的に取っ組み合うこととなった。
その少年は僕とほぼ同じくらいのずんぐり体躯で、しかも、「頭からぶっつけにいく」突撃を僕と同程度に恐れている少年であった。
「ホンモノの相撲は、頭と頭がガーンとぶつかる、そういうもんだ。怖がるな、さぁ頑張れ!」
そんなような諭しの言葉が、彼に投げかけられていた。
こなた、僕の背後からも父の声が聞こえる。
「いいか、相手は頭をぶっつけてくるぞ、ビクビクしていたらこっちの鼻にぶつけられるぞ。そしたら土俵で鼻血ブーだ、バカみたいだろ!」
どこが面白かったのか、土俵をとりまく大人たちが、はははははと哄笑。
だが、土俵上の僕にとっては、いまや処刑台にのぼった気分。
さては、と相手の少年をあらためて見やれば、おや、彼も悲痛な面持ちを引きつらせて立ちすくんでいるのだった。


ともあれ、僕たちは仕込まれたとおりに四股を踏み、真正面から蹲踞で向かい合い…さぁてお立合い!
咄嗟に、僕はひとつの思いつきに駆られていた。
相手を見るから、怖いんだ、相手の頭突きを想像するから、怖いんだ ─ はい見合って ─ それならば ─ 待ったなし ─ いっそのこと ─ 手をついて ─ 目を瞑って ─ はっけよい ─ このまま突っ込む ─ のこった!
僕は闇の中に突っ込んでいった。
虚空、鼻息、すり足、あっ!右側に!あっ!しまった!
僕はぱっと目を見開いて、右に体をかわしつつのけぞっている相手の足を一瞥し、と思ったその時には僕は土俵上でつんのめって両肘から倒れ込んでいた。
「ばかっ、目をつぶっただろう、そんな相撲があるかっ!」
父の怒声が響いた。
同時に、相手の少年に対しても大人たちの怒声が浴びせられていた。
「逃げるなと言っただろうが!逃げたら相撲は勝てないんだぞ!」
僕もそして彼も、土俵脇で正座したまま、相撲を心底から呪いつつ、砂を噛む思いで黙りこくっていた。


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そのごの稽古日においても、僕たちは幾度となく立ち合い稽古を課せられたが、ついぞ頭からの正面衝突ガッツンコに踏み切ることが出来なかった。
けして示し合わせたわけではないものの、お互いに頭をぶっつけないよう、極端な右構えで組み合って押し合ったり投げを打ちにいったりしたのは、いま思い返してみれば面白い同調ではあった。


相撲の稽古はさらに幾度か続けられたが、市の大会のほんの数日前のこと、僕は右ひざを捻って痛めてしまった。
「子供の怪我だから、大したことはないわ、すぐに治るわよ」
「でも、無理はしない方がいいんじゃない?」
「そうね、今日は稽古はやめたら?」
そんなふうに優しいやさしい声を掛けてくれたのが、公民館や自治会の'オバさま'たちである。
すかさず、僕は彼女たちの眼前でひ弱な鼻声を聞えよがし、あー膝が痛い、痛いなあ、やだなぁ相撲なんか、もうやめたいなー、と小声で呟いてみたり。
きっとこれは何らかの効果はあったのだろう、最終期間における稽古はほとんどが柔軟運動のごときであった。
尤も、父を含め大人たちはどことなく失望したようではあったものの。


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大会本番には、僕は出場はしたものの、3回戦だか何だかで頭から倒れ込んで負けてしまった。
そのさい、土俵で頭を打ってから15分程度の記憶が無く、ふと我に返ってみれば土俵脇で膝を抱えてこじんまりと座り込んでおり、おい何をしているんだ、君は違う町の子だろう、ほらそこをどきなさいなどと運営担当に促されたのだった。
うろうろと立ち上がりつつ、僕はふっと振り返った、そしてわが町内の大人たちが僕を探し続けていたのをみとめた ─
そのせつなである。
どうも、自分はなんだかんだと逃げをうってきたのでは、と、そして、それゆえ何か天罰(のごときもの)が当たったのでは、といった自己嫌悪を覚えていた。


僕はこれを最後に相撲をやめてしまった。

自分のような小心のちょっと卑怯な少年は、きっと大人になってもそういう性分を引き摺ったまま、それでも小理屈だけは達者になり、知識だけは一丁前に増え続け、いずれはそこいらの大人たちと拮抗してゆくことになろうか…。
そんなふうなことをチラチラと想像めぐらせつつノホホンと過ごしてきた青年期、なーるほど、確かに理屈通りの人物にしかなれなかった。
土俵におそるおそる足を踏み入れつつ、膂力の活かし方も分からず、突進には威勢ともなわず、がっちんこの格闘からもホンモノの闘争から一回りも二回りも身をおいたまま、そんな程度のおのれはやっぱりそんな程度の大人どまり。

もう一度少年期に戻ったら何をしてみたいかとの問いかけがあるが、そうだな、とっておきの投げ技のひとつでもそっと修練してみたかったもの
─ いや違う、そんなもんじゃない、そうではなくて、何も思案せずどかーんとぶっつかってゆく勇気、そうだ勇気だ、少年期に必要なものは勇気だけだったのだろう。


さて、民館にはそのごも本を借りに行ったりしたものだが、'オバさま'たちに顔を合わせるのは何とも気恥ずかしかったものである。


※ なお、立ち合い稽古でお互いに頭突きゴッツンコを回避しあった'戦友'の彼とは、中学校で再会することになる。
彼はちょっと悪い仲間に入り、タバコを吹かしたり器物を損壊したりを繰り返す学生になってはいたものの、僕と目を合わせるとお互い決まり悪くなり慌てて視線をそらすのであった。

(おわり)

2019/07/03

世界史の理解は極めて難しい

世界史をひとつの学術分野と見做すならば、世界史科こそは最も思考難度の高い(高すぎる)学術ではなかろうか?
我々人類の人知と能力は時間経過を伴って合目的に蓄積されてきたものか、はたまた、全ては無目的にして雑多な偶然に過ぎなかったのか、判断が極めて難しい上に、一貫した判断論拠さえも呈されていないからである。

一ファンとして考えるに、世界史科は少なくとも以下について思考の方式を明示していないように見受けられる;

①過去における諸事実が虚偽ではなく真実であると実証出来るか?
②実証されうる複数の事実間にて、何らかの動因と効果についての普遍法則が見いだせるか?
③それらは物質上の変化の法則か?勢力間の貸借や権利の法則か?
④普遍法則があるとして、それらから未来まで予期させうる理論を編み出せるか?
以上の①~④を検証し続けていけば歴史上の事実についての功罪を判定しうるか?


*  *  *  *  *


政治経済や地理の学校教科書を一瞥すれば、人間の文明をつらぬいて説明を図る法則と理論が幾つも呈されている。
だから基礎教養と冠してもよかろう。
その目的は、どこまで真理であるかはさておき、「たとえば」以下の諸論題を説明はかるべきものであろう。

・国家領域の体積と人口に必然的相関はあるか?
・需要とは何か?いかに定義出来るか?
・エネルギーとは何か?仕事とは何か?
・コストとは何か?生産性(プロフィット)とは何か?
・技術(テクノロジー)の進歩とは何か?

・通貨決済は文明の必然か?
・ネット/AI化によって物々交換経済は充足しうるか?
・通貨は全世界にて統合されるべきか?

・政府とは何か?税とは何か?
・代議制による意思決定の移譲は人類の真理か?
・コモンローとシビルローはどちらが人類にとって望ましいのか?
・開発独裁は民族性によるものか、或いは経済事由によるものか?

・人種とは何か?民族とは何か?
・宗教は人為正当化のために必須の思想系か?
・言語は世界統一が望ましいのか?
・戦争とは何か?平和とは何か?

さて、世界史科はこれら論題について合目的な因果関係と普遍性を提示しつつ解説しうるだろうか。


*  *  *  *  *


いやいや、そんなかたっ苦しいことはいいんだよ、過去におけるすべての事象は無目的な偶然の(非)連続なんだ、だから歴史の解釈に一貫性など不要なのだ ─ というかもしれぬ。
うむ、すべての事象について相対化と論理化を決め込むのなら、そういう見方もありえよう。
しかしだぜ、そこまでニヒリスティックに達観を気取るのであれば、経済活動の目的は資産の再配分であるべきだの、選挙権拡大や議会政治こそが政治の真理のはずだなどという「must論」は口が裂けても発せられぬはず。
このように、社会主義思想を突き詰めていくと歴史に普遍性も継続性も無いことになる、にもかかわらず現在生きている我々には多くの権力と義務が必然となってしまう。
まこと、イラつくばかりだ、よって、少なくとも社会主義信奉者には世界史科から早々に立ち去って欲しいものである。



「世界史を学べば国際社会で活躍出来る」 などと公言して憚らない教育関係者もいる。
しかし、軽薄短慮この上ない。
このような人物が本当に国際社会に出て行って活躍しているのか、いやそれ以前に「国際社会たるものの実存性と普遍性と継続性」について真面目に考えたことがあるのか、どうにも疑わしい。

目下のところ、僕なりに世界史を一通り学んでおぼろげながら分かったことがある。
なるほど歴史上の事象は千差万別であろうが、人為による取捨選択は過去の経験に則るがゆえに千差万別ではないこと、かつ、取捨選択の自由は無視や拒絶の自由でもあること。
なんだ、要するに歴史上のあらゆる事象は効用追求の連続ということか、それでは過去は合目的に説明つくとしても未来は導けないではないか、などと笑われるかもしれない。
だから、極めて難度の高い学術分野だと言っている。

以上

2019/06/17

ムーミン


ムーミンの谷に、川が流れている。

その川に、一艘の船が漂着した。
その船に乗っていた男が、なんと、自分は「かの」アーサー王であるという

さっそく、ムーミン谷の仲間たちは協議に入った。
「我々は、あの漂着者をかの英傑名高き『アーサー王』と見なして受け入れてやるべきか?」
ここで、「諸君、私に意見があるのだが」 と颯爽と口火を切ったのが、ムーミンパパである。
「ははん?聞こうじゃないか」 と促す声があがる。
「うむ。いいかね諸君、学校に行った者であれば誰もが、希代の英雄たる『アーサー王』の数々の武勇について知っていよう」
「それはむろんのこと」
「かつまた、『アーサー王』と自称する人物が我がムーミン谷に漂着したことも、諸君らが知っているとおりだ」
「で?」
「だから、あの自称『アーサー王』氏こそ、我らが親しみかつ慈しみ続けてきた世紀の大英雄アーサー王陛下その人であらせられると、こう了察することも可能なのである。ならばだ、諸君!陛下に対して出来るかぎりの支援を供すること、これまさに我々の誇りの至高的な発動たりうるではないか!」
わぁ、と歓声があがり、パチパチと拍手する者も多かった。
ムーミンパパは目を細めつつ、パイプをくゆらせ、満足そうにふぅーと煙を吹かした。

「皆さん、ちょっと待って下さい」
そういって話に割り込んできたのが、賢人を以て鳴るスナフキン。
「ハハン?」と冷やかすような声がそこここから挙がった。
スナフキンはどこ吹く風で語り始める。
いいですか皆さん。まず、私も皆さんと同様、かの『アーサー王』の武勇について存じ上げております」
「ふふん?それで?」
「かつまた、この谷のもとに漂着した人物が『アーサー王』と名乗っていることも聞きました」
「だから、なんだ?」 クスクスと嘲笑がそこここから上がった。
「皆さん!」 とスナフキンはかすかに語調を強めた。
よろしいですか皆さん!これらの命題は別個に独立したものにすぎません。そうである以上、これらを1つの事実にまとめてはならぬのですよ!
これには一同がうぬぅと絶句し、しんと黙りこくった。

「待ちたまえ、スナフキン君」 と言葉を返したのが、さきほどのムーミンパパである。
「ねえスナフキン君、君のご高説に準ずればだよ、かの人物を'アーサー王ではない'と断ずることも不可能じゃないかね?」
「さようで」 とスナフキンはムーミンパパに向き直る。
「いずれにせよ、我々は思念のみを恣意的にはたらかせて事実関係を演繹してはならぬと申し上げているわけでして
「はっ!事実関係かね!事実、事実か!君はなんともつまらん男だな!スナフキン君、我々は大いに憂慮しているよ、これからの世界は、君のような男たちのおかげでさぞやつまらないつまらない時代を迎えることになるだろうと!」

スナフキンはちょっとだけ寂しそうに肩をすくめ、それでも颯爽と胸を張り、無言で立ち去っていった。
ムーミンとフローレンが、大声で何事かを叫びつつ、スナフキンのあとを追って駆け出していった。
太陽の西日が傾きかけていたが、いつもと違う彩色の光線がムーミンとフローレンの面影を新たな色合いに染め上げてゆく。
スナフキンはちらと振り返ってこれに気づくと、そっと微笑みを浮かべつつも、ぐんぐん決然と歩み続けてゆくのだった。


☆   ☆   ☆



シェヘラザード王妃が、宮中で一冊の本を開いて、そっと囁いた。
「シンドバッド、シンドバッド、さぁ出ておいで、我が許へ」
その本の中から、シンドバッドがひょいと姿を現した。
「お呼びでございましょうや?王妃さま」
「おお、我がシンドバッド。そなたに伺いたいことがあるのじゃ
「ははぁ、いったいどのようなことで?」 
シンドバッドはカン高い声を返しつつ、くるりと宙空を回転し、シェヘラザード王妃の掌中にすたりと降り立った。
「シンドバッド、そなたは更なる冒険を所望か?」
「はぁ、それはもう、私は夢の冒険家でありますがゆえ。世界には多くの子供たちが私の次なる冒険譚を待ち望んでおりますです、はい」
「なるほど…」
「ねえ王妃さま。聞くところによりますれば、ヨーロッパには『ムーミンの谷』と称す村落があるそうで。是非ともそこを訪ねてみたいものです。ですから、そのように描いて下さいませよ、王妃さま」
「ほぅ?『ムーミンの谷』、とな?しかし、そこは実在するや否や知れぬ処じゃぞ」
「だからよろしいのですよ、王妃さま。もしも私がムーミンの谷にたどり着くことが出来れば、ムーミンの谷は実在することとなりましょう」
「…」
「それで、どうせなら、私にかの勇名馳せるアーサー王を名乗らせて下さいまし。その私がムーミンの谷の連中に受け入れられるならば、アーサー王の実在もまた認められたことになりますですよ。これぞ夢の冒険、夢物語で御座いましょう」
「ふーむ」 
シェヘラザード王妃は軽く頷いた。


だが、シェヘラザード王妃は同時に考えを推し進めていた ─
あたしの創作人物であるこのシンドバッドがアーサー王となり、そのアーサー王がムーミンの谷にたどり着く…とっても楽しい思いつき!夢物語とはこういうもの!…でも、でも、そんなことがあっていいのかしら……いいえ!いいえ!思念のみを恣意的に結び付けて事実を導いてはならないんだわ!
シェヘラザード王妃はこんなふうに心中で叫び声をあげつつ、シンドバッドを決然と見下ろした。
「よくお聞き、シンドバッド。これからは別の章が始まるのじゃ。新たな世界の新たな子供たち、その子供たちの未来の物語」
「えっ」
「だから、そなたの夢物語は終えることとする。そなたは過去へお帰りなさい」
本はぱたんと閉じられ、シェヘラザード王妃はこれを書架に戻すと、それから新たな物語に取り掛かり始めたのだった。


(おわり)
※ 或る合同式からインスピレーションを得たもの。

2019/05/31

【読書メモ】ロボット・AIと法

AIやロボットは、ヒトと同様に独立自律の意思ー行為ー責任主体と見做されるべきだろうか。
見做されるとすれば、如何なる主体として、また如何なる法解釈に準じてのことか。
本主題はかなり抽象度の高い大テーマでありつつ、社会生活における実践面にてこんご不可避となる直接的な論題ともいえよう。
よって社会科のセンスを論理的にも実践的も問い質す絶好の主題たりうると僕なりに判断、此度ここに本書を紹介してみたい。
ロボット・AIと法 弥永真生・宍戸常寿 編 有斐閣

本書の巻頭部ほか随所に引用紹介されている法や施策の策定プロセスやガイドラインについては、ほとんど総論概況に留まっておるので精読は不要であろう。
むしろ注目すべき論旨はChapter 3 以降の数章に展開されているように察せられる。

以下の僕なりの読書メモとしては、とりわけ思考意欲を触発された Chapter 3 及び Chapter 6 についてまとめおくこととしたが、それは前者がヒトの存立の根本を問い質す論題であり、後者は契約主体の何たるかを再考させる実践的な問題設定であるため。


<Chapter 3. ロボット・AIと自己決定する個人>
※ 本章はとりわけ多元的な分析箇所である。
ヒトは意思と行為と責任の連関において本当に自律的に独立した個人たりえるか、そして、ヒトの社会生活に介在しうるAIないしロボットも社会構成の同胞と見做しうるか
─ かかる複合的(かつ深淵)な論題を設定した上で、民主主義と法におけるさまざまな解釈論をも照会しつつ、ヒトのこんごの在りようを精密に導出図っているようではある。
(※ なお本箇所にては、ヒトの存立要件と社会の存在要件につきもっと整然とマトリクス化(箇条書き)されていれば、個々の論旨もヨリ明瞭になるように察せられる。)

・法定義上の「個人」は、不可分に独立した主体(個体)として、意思と行為と責任を一貫して成す者とされる。
能力からとらえれば、いかなる個人も、権利・義務の自律的な主体として「権利能力」を有し、かつ、それらにかかる私的自治や契約自由を自律的に行使しうる「行為能力」も有する ─ はずである。

ケルゼンらによる価値相対主義によれば、いかなる個人にも自律的な権利能力や行為能力が有るからこそ、万民共通の絶対的な価値基準をおくことなく民主主義が(つまり暫定的な多数決も)存続し、かつ民主主義は常に望ましいものに修正されつつ機能し続ける
民事法における過失責任主義(無過失への免責)も、刑事法における応報刑論も、個人の自律的な権利能力や行為能力を信頼してこそ成り立っている。

・しかしながら。
20世紀後半以降の認知科学や心理学は、「或る個人が或る選択環境下にて必ずしも自律的な意思決定~行為を成すとは限らない」、と指摘している。
じっさい、各主体は、何らかの制限下にて特定の行為を余儀なくされ、その行為ののちにおのれの意思決定を整合させてしまう場合がありうる。

レッシグは、そのような「各主体の行為上の制限が広くアークテクチャとして存在している」とし、とくに(民主的なはずの)国家を超えた(利益最優先の)多国籍企業等によってサイバースペース上のソフトウェア/コードが可塑的にコントロールされ続ける危険性を指摘。
それでも、例えばサンスティーンは、たとえ各主体が行為制限のアークテクチャ環境下におかれたとしても、そこで国家行政が各主体の「選択環境条件を柔軟に変えてやる=ナッジする」ならば、社会にとって良きパターナリズムとも見做すことが出来、これは結果として個々人の自律的意思決定の保障追求つまりリバタリアニズムとは矛盾しない、としている。

・さて、上の前提にて ─ 「ヒトの各主体の選択環境条件における’良き’変更(ナッジ)」を、ヒトではなくAIが行う事態につき、我々はこれを如何に諒解すべきであろうか?
このナッジがAIによって総括的になされたにせよ、あるいは部分的であったにせよ、ヒト各主体自身の自己決定によるはずの行動選択機会ないし行為責任が矮小化しないだろうか?
本旨を吟味すれば、ヒト各主体とAIロボットにてそれぞれの意思と行動とその法的責任を整然と切り分けること容易ならざると想像出来る。

もっと難度高い問題は、AIによるナッジをヒト各主体が意識すらしていないケースにおける意思と行動と責任の領域設定であろう ─ そもそもこの状況下にて、ヒト各主体が自律的にAIのナッジを受容ないし排除出来るか?
出来ないとしたら、法の適用をどうすればよいのか。
そして、AIがそこまで了察した上でヒト各主体をナッジしているとしたら、それどころか、ヒト社会の側がそこまで了察した上でAIにナッジさせていたら…


・サヴィニーやカント以来、民法学ではヒトを自律的な人格としつつ、モノをヒトの意思と行為の対象物と見做して切り分けてきたが、この伝統的な切り分けでは自律的知性を有しうるAIをモノと見做しおくことはもはや難しい。
ヒト/AIにわたる法解釈上の主体峻別が出来ぬ以上は、意思ー行動ー責任の連関におけるそれぞれの主体をヒト/AIのいずれかに一律に帰することも困難となる。
よって、行為の主体がヒトであろうとAIであろうと、あくまでその行為の結果そのものに対して責任が生じるとの見方もやむなし、国家による=刑法上の事前抑止力の早期化重視にもつながりうる(新派刑法学の観点)。

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<Chapter 6. AIと契約>
※ 本章も多元的な分析眼を触発しえよう素敵なコンテンツ (それでいてやや散文的な文脈展開のため、読者として本当に文脈を捕捉しているか否か不安は残る。)

本章の論旨を僕なりに乱暴に箇条書きするかぎり、おそらくは以下のようなものであろうと察する。

① 事業(販売)契約にて発生しうるアクション
・契約の主目的の定義
・契約の申込み
・契約の承諾(名義と利益帰属において)
・特定事業者間での「基本契約」の合意
・契約締結における代理行為
・契約履行における諸実務の表意
・表意に因る錯誤行為
・契約履行における瑕疵(誤動作など)

② 事業(販売)契約における「機械/コンピュータの介在」レベル
・自販機が介在する契約
・EDIなど、特定事業者間のクローズド・ネットワークの契約
(基本契約が当事者間で合意されやすい)
・インターネットなど、オープン・ネットワークでの契約
(不特定多数間のため基本契約が共有されにくい)
・AIが介在する契約

③ 上の①と②の組み合わせにおける、判断者あるいはリスク負担者;
・自律的なヒト
・機械/コンピュータの介在を知らされていないヒト
・機械/コンピュータの機能を開示されていないヒト
・ヒトの指示に迎合するのみの機械/コンピュータ
・ヒトの指示を超えて自律的に学習し演算処理しうるAI
※ なんと、コンピュータとくにAIを、契約の合意や実務履行や代理行為の当事者とする見方もある!

上の①~③のどの組み合わせにおいても、理論上の最適解は呈されておらず、また世界的にも共有されていない。
それゆえにこそ、さまざまに深淵な考察が為されうる。
例えば、以下のようなもの。

インターネットにおける販売契約の入力端末にて消費者(ヒト)が錯誤によって誤入力をした結果、不本意な契約ないし重過失に至ったとする。
この場合、あくまで販売事業者(ヒト)が事態回避のための努力を怠っていた(あるいは悪意すらありえた)とされ、この契約は無効となる。
尤も、事業者による意思表示の妥当性は個別には司法判断されやすいが、意思表示の要件そのものまでが厳密に定義されているとは言い難く、さらに、真意の「表示の意思」がたとえ事業者に有ったとしてもそれを意思表示の構成要素そのものとは見做さない傾向が強い。

契約履行における意思表示にさいして「表示の意思」自体が必須か否か。
コンピュータ/AIには何ら自律的な意思そのものは無いとしても、形の上では、これらが意思表示を為しうるとされてはいる。
それでいて、ここがウヤムヤだとヒトとAIとの間における帰責意識が希薄たりうる。
民法に則ったリスク配分理論も、コンピュータ/AIについてはヒト同様には適用できない。

インターネット時代にて契約が増大する中、ヒトの実務軽減のため、(自律的意思はなくとも)意思表示だけは可能なコンピュータに「契約締結の代理人」の機能までは期待する、との見方もおこりうる。
しかしそれでも、コンピュータ自身にはなんら責任能力が無く(無権代理人とするならばなおさらのこと)、そして、仮にそのコンピュータが何らかの不具合や不法行為を為した場合、それを代理人として介在させたヒトのみが契約当事者として全責任を負うことは出来ない。
つまり、コンピュータを活用する契約においては、ヒト同士のように「契約当事者」と「契約締結の代理人」を明確に分界することは不可能で、よって欧米では概してコンピュータを代理人とは解釈していない。

AIは従来のコンピュータと異なり、いわばインテリジェント・エージェントやモバイル・エージェントとしてネットワークを介しつつ、人間に成り代わって自律的に学習し契約履行実務の最適化判断まで行いうる。
AIによって、ブロックチェーン技術などを活かして仮想通貨決済にかかる契約の合意から履行までを自律的に遂行する、いわゆるスマートコントラクトも可能となってきた。
それでは、AIは契約締結の代理人機能を果たせるか、それどころか、AIを契約当事者そのもの(法人格)であると見做してもよいものか??

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……ざっと、このあたりまで読んで、まとめてみた。
AIを契約当事者そのものと見做しうるかについては、コンピュータと代理人の論とほとんど似たかたちで、今のところ学術的には否定論が強いようである。

なお、上に概括した本書の第3章にせよ第6章にせよ、文面はじつに精密であり、かつ法学上の引用もふんだん。
さらに他の章立てとしては、ロボットによる自動運転や手術、産業技術と競争と知財権、民事から刑事まで、そして国家政府から民間、などなど。

さて、機械とコンピュータは(とりわけAIは)我々人間にとって何を省力化し、どこまで代行し、何をもたらしうるか、これほど理論的にチャレンジングであり、現実との折り合いつけ難い学術領域はそうは無かろう、或いは、知性と権利の分離をもたらす新種の「自己同一性意識」さえもがいずれ興るかもしれぬ
─ そう捉えてみれば本領域は緊張感バツグンな新分野ともなりえよう、よって、とりわけ法律分野に何らかの志をおく学生諸君に一度は手に取って欲しい一冊である。

以上
(なお、つまらぬことだが本書の英訳タイトルである'The Laws of Robots and AI' については 'of'より'on'の方がヨリ本書主旨に近いような気もしている。)

2019/05/30

縄文スマホ

もしもの話だ。
タイムマシンに乗って縄文時代にゆき、充電済みのスマホを1台、置いてきたとする。
この場合、縄文人にはそれが何のためのデバイスなのか、さっぱり分からぬだろう。
だからすぐに破損して、おしまい。


だが、やはりタイムマシンに乗って同じ縄文時代にゆき、充電済みのスマホを2台置いてきたらどうだろうか?
この場合、縄文人たちは極めて多くを知るだろう。
まず、同じ物質、同じ加工、つまり複製というものを可能とする工業技術が存在すること。
しかも、電気を使っているらしいこと。
そして ─ もしかしたらだが、これら2つのスマホで無線の通話が出来ることも、知ってしまうかもしれない。
ただし、仮にそこまで知れたとしても、浅はかな誰かが1つを解体し復元不能にしてしまうかもしれぬ。
それに、文字を知らぬとしたら、データ通信の意味は分かるまい。
ここまでだ。


さて、それでは、同じ縄文時代に今度は3台の充電済みスマホを置いてきたとする。
縄文人たちは、やはり2台間で音声通話が可能だと知り、そこで残る1台を解体することになろうか。
そこで彼らは、ハードウェア素材としてプラスティックも液晶も知り、また導線や半導体も知ることになる。
そして、このスマホ内部の導線や半導体は、電気を或る位置から別の位置に変位させる回路らしい、と見当をつけうるだろう。
そして閃くだろう ─ この電気は、とてつもなく小さな信号であろうが、一定のアルゴリズム(つまりプログラム)なのだと。
そこでさらに気づく、音声を無線で交わすアルゴリズムの信号があるのなら、画面にチラチラと現れる小さな記号も何らかのアルゴリズムの信号に違いない ─ うむ、これは文字だ、と。
残すは電気容量についての問題だが、これは一番最後にまとめて了解すればよい派生技術だ。


かくして。
スマホが3台もあれば、縄文人たちは電気を知り、半導体や導線やプラスティック素材を知り液晶も知り、信号を知り、アルゴリズムつまり数学を知り、音声の情報変換を知り、文字をも知ることになって……
そういうわけで、スマホは縄文時代の日本にて既に沢山製造されていたとしても、おかしくはないのだ!!

そうだとしたら、現在の日本においてもまだスマホは使われているだろうか?
「くだらないなあ、わざわざこんな不便なもの使って。だって大気の粒子転送などによるテレパシーの方が遥かに正確だし便利じゃないか」
「いやいや、それでもこれは多くの人間を製造に従事させ、また多くの指示を転送するための道具だったかもしれないよ」
ということになるのかな。


(尤も、どこかの王さまが、自分自身の知識「以外」を全て消滅させてしまえば、そこで何もかもおしまいだが。)

以上

2019/05/27

大学入試の英文は誰でも読める

アメリカ合衆国のトランプ大統領が、目下のところ訪日中である。
トランプ大統領に、日本の大学入試問題をご確認頂いた。

まずは数学の入試問題を大統領にご覧頂いた。
「ほぅ、日本の数学教育はわが国のよりも概して水準が高そうだな」、と、大統領は嘆息された。

次に、美術や音楽の資料集および授業を、大統領に参観頂いた。
「ほぅ、日本の芸術教育はかなり高尚なものだね」、と、大統領は感嘆の声をあげられた。

次が、英語の(いわゆる)長文読解問題である。
すると大統領は、「おぃなんだこれはキッズの知能テストか」と失笑された。
さすがにこれにはこちらもカチンときて、こんどは早稲田や慶應の入試英文をご覧頂いたが、大統領がちょっとだけ感心の風を見せられたのは早稲田理工および慶應SFCと文の入試英文のみであった。


…以上はすべて空想による冗談である。
じっさい、僕ごときの問いかけが畏れ多くもアメリカ合衆国大統領に相手にされる由もなかろう。

ただ、本稿で言いたいことは極めてシンプルだ。
日本の大学入試における英文読解のごときは、18歳の青少年が理科や社会科を犠牲にしてまで深く掘り下げるような代物ではない。
たかだか6000語かそこいらのヴォキャレベルだぜ、こんなもの英米では10歳のキッズのヴォキャ数にも満たない、それで、高尚ないし深淵なコンテンツの文面が展開されるはずもなかろうが。
ほほぅ?と、日本語訳を一瞥してみれば、うむ、数学や現代文の1/10程度の思考動員で片付いちゃいそうな代物であると知れる。

さぁ、日本の大学を受験する青少年たちはきけ。
どうせ6000語程度で済んじまうキッズの世界だ、英単語と熟語をとっとと覚えりゃいいんだ、それでほぼ全ての入試英文を読める。
どの参考書にも典型的な例文が載っている、どの参考書も似たり寄ったり、あたりまえだ。
こんな程度のちっちゃな世界で、英文の構造ごときをいちいち探求するな、いちいち悩むな、時間のむだむだ。
探求心があるのなら理科や社会科で存分に発揮すればいいんだ、悩みたいのならば難解な数学や現代文で身をよじって苦しめばいいんだ。
そして、本当に高尚な英文にぶち当たりたいのならば、大学に入ってから大人向けの本格的な学術英語を存分に読み漁ればいい。


…と、まあ、こんなふうに考えると、むしろ理科や社会科で優れた成績をおさめ大学に入学した子が、それから初めて英語学習にとりかかっても十分じゃないか、とも考えられる。
この由については、語学と知育の関係も要考慮であろうから、別にまた記すこととする。


以上だ。

2019/05/11

A.I.U.


「先生、聞いて下さい!あたし、必殺のサーブを習得しちゃいました!」
「ほぅ、そうか。で?」
「だから受けて下さい!」
「なんだ、そんなもん、顧問のxx先生に相手してもらえばいいじゃないか」
「だって、あの人イヤなんだもん」
「それはそうかもしれないが、だからって、なぜ俺が?」
「お願いしますよ~、あたしのサーブを受けて下さい、ねえ、きっとビックリするから」
「…うぅむ、それならちょっと相手してやるか」



「先生、いいですかー、それでは打ちますよ、凄いボールだから腰を抜かさないようにね」
「そうかね。さぁ、遠慮せずに思いきり打ってきなさい」
「ハイッ!」
「うわっ!…消えた!…ボールが消えてしまった…これはなんということだ!」
「ねえ、すごいでしょう!」
「おい!これは只事じゃないぞ!君はとんでもないことをしでかしてしまった!いいか、『消えるボール』は在ってはならないものなんだ」
「ふーん?でも、あたしは使えるんだけど~~、ふふふん♩」
「しかし、これは起こってはならないことなんだよ……うーむ…よし!こうしよう。いいかね、ほら、ここに人工知能があるね」
「はぁ、ありますね~」
「人工知能で『消えるボール』について検索してみようか。すると…ほらっ、見てごらん、『消えるボールは物理上も数学上も存在しないことになっている』と書いてある。ね、人工知能が存在を否定するくらいなんだから、そんなものは在ってはならないんだ。分かるね」
「はぁ??そうなんですか?……でも、おかしいなあ、その解説は誰が書いたんですか~?
「誰って…だから人工知能が書いたんだよ、つまり、間違いなしだ」
「はぁ~??それじゃあ、あたしはどうすれば」
「何も心配することはないよ。いいかね、人工知能はこう続けているぞ、『消えるボールを競技者が打ち込んだとして騒動が起こる場合もあるが、これは大いなる錯覚及び勘違いである』 だって」
「な~んだ、あたしの勘違いだったのね。ばかばかしい……」
「さぁ、納得したところで、ひきあげるとしようか」


「あれっ?ねえ先生!人工知能の記述がいつの間にか変わってます!」
「なんだと?!で、なんと書いてあるんだ?」
「えーと、なになに? 『いまや、消えるボールは通常の技法として広く認知されており、世界各地のプレーヤーが試合において大いに活用するものである』 だって」
「……ウーム、そう言われてみれば、そんな気もする……うぬっ!そうだ、人工知能が言う通りだ!『消えるボール』は確かにありきたりの技法だ、だから君が習得したところで不思議でもなんでもない。ははははっ、あったりまえのことなんだ」
「やっぱりそうなんですね ─ ところで、ねえ先生、いったん消えたボールが数分後に再び出現する現象について、人工知能の説明によるとですね」
「あ痛っ、おお?突然ボールが出現したぞ!」
「はい、そんなふうなありふれたアクシデントに驚かされてはならないと警句を発しています」



(おわり)
※ 落語のネタとして使えないものかな

2019/04/30

フルハウス

「ねぇ、先生?」
「ん?」
「カクテルって、美味しいの?」
「カクテルか…あのな、カクテルというものは、蒸留酒にいろいろな食材を調合して作る、要するにアルコール飲料で、中には飲みごたえのあるものもあるんだが ─ いや、しかし、この話は未成年の君たちにはふさわしくない」
「ふーん。でも材料が決まっているのなら、出来るものだって決まっているんでしょう。何が楽しいんだかぜんぜん分からない」


「おい、ちょっと待て。君の考え方はおかしいぞ」
「どうして?」
「どうしてって…うーん、そうだな……よし、こうしよう。おい、ここにトランプが1組ある」
「うん、あるね」
「これを、マーク別にかつ数字順にそこへ表向きに並べろ、ずらーーっとだ」
「はぁ ── ハイ、やったよ」
「よし。全部で52枚だな」
「当たり前じゃん」
「当たり前かどうか、それをこれから試してみようじゃないか。さぁ、よく見ていろよ。いま、ここにジョーカーのカード1枚を、こうして混ぜて、さぁこれを念入りに、こうして何度もなんどもくってから…」
「ねぇ、何やってるの?」
「いいから見ていろ。こうして混ぜ合わせたこの掌の中のトランプ、この中にカードは全部で何枚あるか?」
「ばっかみたい!そんなの53枚に…」
「…決まってるじゃん、と言いたいんだろう。ところがだ、ほーーーら、なんと!ジョーカーが無くなっている!」
「へーー!おかしいなあ!……ねえ先生、さっきのジョーカーをこっそり隠したんでしょう?」
「違う。そうじゃないんだ。ジョーカーは他のカードたちと混じり合ってしまったんだよ。したがい、これらのカードはもう元に戻せないんだ」
「だけど、だけど…そんなのヘンだよ。混ざったものはまた分離すればいいじゃん」
「それは数学ではそうだろうが、実際に存在する物は運動や化学反応が不可逆にどんどん進んでしまうんだよ。知ってんだろ。だから、俺が同じこの手でトランプを操作しても、いったん為された仕事を元に戻すことは出来ないわけで……」
「ふーーーん!それじゃあ、もしもあたしがやってみたら、どうなるんだろう!?」
「あ?何を言っているんだ君は。おい!ちょっと待て!」
「やだよーだ」
「待てっ、何が起こるか分かったもんじゃないぞ!待てッ!こらッ!


===================

「─── はっ。うっかり寝入ってしまった。なんともヘンな夢をみたもんだ……。こりゃぁ、二日酔いだな、昨夜のカクテルが効いたか。やれやれ」
「あのぅ、先生、こんにちは」
「ん?やぁ、君か。なんだ?何か用でも?」
「あのね、じつは不思議なトランプがあるんだけど、見せてあげよっかなって思って」
「ほほぅ?…なんとも、面白そうだな。いったいどんなふうに不思議なんだ?」
「ほら、ここにトランプが一組あるでしょう」
「ああ、あるね」
「これを ─ こうして、13枚の4段にずらりと並べるの。全部で52枚、きっかり」
「うむ」
「さぁ、これを束ねて、このように ─ 何度もよくきって、はい、混ぜ合わせましたね。いいですか?」
「ああ」
「さーてお立合い…ほらっ!なんと!ジョーカーが1枚入っているの!」
「ほぅ?面白いな。いつの間に混ぜたんだ」
「混ぜたんじゃないの。このジョーカーは他のカード達から分離して生まれてきたのよ、ねえ、すごいでしょう!」
「……」


俺はなんとも奇妙な気分に捉われていた。
まるで、身体から酒がすーーっと抜けていく不思議な緊張感、あるいは爽快感のような…


(おわり)

2019/04/12

特許法/特許権についての概説 (1)

総じて、知的財産法は、技術や成果物や方法論の産業発展への寄与を大命題としつつも、その独占性と共用性という二律背反した理念への同時的なアプローチが常に問われる。
それでも、それらコンテンツを具体的な性能仕様に則って個別定義するならばまだ易しい、だが一方で、これらを文言によって観念的に定義しようとすれば、かなり精密な場合分け表現が必然となろう。
なにはさて、私的な由もあって、今回はとくに特許法と特許権について概括書などを参照しつつざーっとまとめてみることにした
※ こんな程度のものはちょっと本気出せばすぐに投稿出来るんだ、あんまり舐めるんじゃない(笑)。



【特許法】
「発明」を保護する。

<「発明」について、基本的な要件>
「発明」 とは、自然界で経験的に見出される自然法則を利用した、「技術的思想」 の 「創作」行為である。
「技術的思想」 とは、具体的な技術(手段)を支える抽象的なアイデアで、有用性があり、利用可能性があり、反復可能性があるもの。
・とくに、「物の発明」 とは、「技術的思想」 が形象により具体化された発明を指す ─ 現在では(2002年改正以降)、無体物としての「プログラム等」も含み、電子計算機に対する計算指令と処理用データ(構造)も 「物の発明」 に該当。
・一方で、「方法の発明」 とは、「技術的思想」一定目的の系列的な行為/現象によって(経時的に)具体化された発明を指す。

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<「発明」および「技術的思想」における主な解釈(判例)事例>
全体として自然法則を利用しているものは、「発明」といえる。
が、全体として自然法則に反しているもの(いわゆる『永久機関』など)は、「発明」とはされない。

・コンピュータやネットワークを活用した歯科医療システムは、対象は人間ではあるが、その技術的手段にて自然法則を利用、よって「発明」といえる。
・『辞書を引く方法』 は、人間の子音識別能力に着目したもの故、「発明」といえる。
・ネットオークション参加システムは、目的が人為利害とはいえ、ネット媒体とコンピュータ(いずれもハードウェア)の協働によってこそ実現可能、だから、全体としては「発明」である。
・味の素について、グルタミン酸塩自体は既知であった、が、それを調味料の製造に用いた=用途「発明」をした味の素は「創作」を成したこととなり、だから「発明」である。
・藍藻類には錦鯉の斑紋や色調への効果があり、これも既知ではあったが、この特性を活かした鯉の飼育方法は「創作」といえ、よってこの方法も「発明」といえる。

・ビットデータを短縮するハッシュ法計算は、自然法則を利用してるとはいえず、だから「発明」とはされない。
・字表なども、人間心理に則ってこそ意味をもつため、「発明」とはされない。
・原子力エネルギー発生装置(昭和41年の事件のもの)は、危険除去が技術的に不可能、つまり利用可能性に不十分であり、「発明」の完成とは見做されなかった。

なお、二つ以上の発明が、同一ないし対応する特別な技術的特徴/関係を有する場合、発明の単一性要件を満たすとされる。
よって、同一の特許出願書として特許権を請求出来る。

たとえば、特許出願請求の1項にて、或る高分子化合物を明記し、2項にてはその物質からなる食品包装容器について明記したとする、と、この1項と2項は発明の単一性が認められうる。
また、或る物の発明とともに、別項にてその生産方法や生産用機械、その物の特定仕様を活かした別の物を明記してあるとしても、まとめて単一の発明と認められうる。

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<特許権取得のための実体要件 以下①~③全て>
① 産業上の利用可能性が有ること
特許法解釈では、「発明」 の実体成果物が供される 「産業」 の厳密な定義は無い (金融や保険さえも経済市場と関わりがあれば産業とされている)。
医療行為自体は、人体を構成要件としているので産業ではない、ともされるが、治療の医薬品は生産品であり、これについての 「発明」 は産業上の利用可能性要件を満たすとも見做される。
逆に、利用可能性さえあれば、その結果物が戦争用途であろうとも、産業上の利用可能性が有るとされる。

② 新規性が有ること
特許権は排他的な独占的権利を有するため、新規性無きものに特許権を乱発すると却って自由な経済活動を阻害しうる、との憂慮から、特許権取得にさいしてはその 「発明」 が未だ社会に知られていないことが要件。
或る「発明」の特許出願前に、それが日本ないし海外にて公知のもの(かつ守秘義務が課されていないもの)と同じであれば、その発明はもはや新規性が認められない、だから特許権を獲得出来ない。
やはり特許出願前に、日本ないし海外にて、公然と実施されているか、刊行物に記載済みか、電気通信や電子媒体にて閲覧可能となっている発明も、新規性は認められない。

或る発明に対して、唯一の特許権付与がなされるべき、との原則解釈が概ね普遍的である。
よって、特許出願は「先願主義」が普通である ─ 日本でも2013年の包括改正法から先願主義がとられている。

③ 進歩性が有ること
或る出願「発明」に進歩性が有るか否か ─ その出願内容と最も近いと考えられる公知の先行技術(最低でも2つ)を「引用発明」とおいて比較対照し、その出願発明の構成が「引用発明」から容易に導かれうるか否かを判定。

もし、「引用発明から容易に導かれない異質の効果を有するもの」であれば、その出願発明には技術的な進歩性があるとする、よって特許権が認められる。
たとえば化学物質の特許出願にて、化学構造が既知の物質構造と著しく異なり、先行技術からは予測されえない性質を有している場合、進歩性が認められ、よって特許権が認められる。

なお、上の①~③以前に、もとより「不特許事由」もあり、それは、出願された発明が公序良俗や公衆衛生に反する恐れのある場合。
一方で、或る「別の取締法則」の下にて製造・販売が禁じられている発明であっても、その取締法則そのものが特許法上の「不特許事由」となるわけではない。

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<発明者・特許を受ける権利>
「発明者」 とは、発明=技術的思想の創作にて、その新たな着想を得た者、あるいは、その着想を一定の解釈原理を前提に具体化した者。
特許法にては、「発明」 は自然人のみが為し得るとの前提にて、自然人たる 「発明者」 に 「特許を受ける権利」 を原始的に帰属させている (この精神が「発明者主義」である)。

二人以上の連続的な創作的寄与にてなされた発明は、とくに共同発明という。
ここで、或る発明にかかる着想者とその具体的実行者が別人である場合でも、この両者が共同発明者である、ただし、前者がその発明を公表ののちに後者がこれを具体化したならば、後者のみが発明者となる。
なお、組織にてその「発明者」に研究テーマを与えただけの者、そのテーマに関わるデータ整理と実験を行っただけの者、さらに、その「発明者」に資金や設備を援助し発明を委託したにすぎぬ者、これらの者は発明者とは見做されない。

「発明者」 にこそ、原始的に「特許を受ける権利」 が帰属し、かつ、発明者人格権も生じる。
「特許を受ける権利」 は、じっさいにその発明が特許権を得た時に消滅、しかも、特許権の拒絶査定によっても、特許取得を放棄しても消滅する。
「特許を受ける権利」 は、発明者から継承者に移転することが出来る (ただし、このさいに継承者がその特許出願する)。
また、第三者に一部譲渡も出来、相続によって複数の相続人に移転も可能、もし共有者がいなくなったら、この権利は消滅する。

雇用関係にて、使用者 ─ 法人、国、または地方公共団体を、総じて 使用者等」 と称す。
また、従業者 ─ 法人の従業員、役員、国家公務員、地方公務員を、総じて 「従業者等」 と称す。
従業者等が発明を為した場合、その発明が従業者等の現在または過去の職務に属するならば、「職務発明」 とされる。
現代の発明は、組織にて使用者等の人的ないし物的な寄与のもと、その従業者等によってなされる場合が通常であり、そこで、特許法では 「発明者主義」 と 「職務発明」 行為の利害調整が図られ続けている。
現行法の理念にては、従業者等の発明を認めた使用者等が、その発明への対価を支払い、権利を継承。

長年に亘る疑義としては;
職務発明への対価を使用者等のみが定め、しかも従業者等がこれを不足としても追加額を請求出来ない
かつ、裁判所による裁定金額は、使用者等による経済効果の予測と必ずしも合致しえない
などなど。

因みに、青色発光ダイオードは退職従業員による職務発明であり、この発明者が発明対価の追加払いを請求、企業側も経済判断からこの請求範囲内にて対価額を容認した、が、そのご東京地判にてかなり減額された上で和解させられている。
平成16年に特許法改正がなされ、職務発明における妥当な対価額の判断にては、使用者等と従業者等における開示的な手続が重視されるようになり、裁判所も使用者等による発明まで/発明後の貢献努力を考慮すべしとなった。
(…とはいえ抽象的な解釈改正に留まっているのでは…?)

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※ 次段にては、「発明」の経済的価値を実現する行為すなわち「実施」、その実施行為を排他的になしうる「特許権者」、発明報奨規則や報奨請求権などなどについても記す。
また実務上は、特許法のほか経済産業省令なども適宜照会の必要があり、そこんところも。

以上