見做されるとすれば、如何なる主体として、また如何なる法解釈に準じてのことか。
本主題はかなり抽象度の高い大テーマでありつつ、社会生活における実践面にてこんご不可避となる直接的な論題ともいえよう。
よって社会科のセンスを論理的にも実践的も問い質す絶好の主題たりうると僕なりに判断、此度ここに本書を紹介してみたい。
ロボット・AIと法 弥永真生・宍戸常寿 編 有斐閣
本書の巻頭部ほか随所に引用紹介されている法や施策の策定プロセスやガイドラインについては、ほとんど総論概況に留まっておるので精読は不要であろう。
ロボット・AIと法 弥永真生・宍戸常寿 編 有斐閣
本書の巻頭部ほか随所に引用紹介されている法や施策の策定プロセスやガイドラインについては、ほとんど総論概況に留まっておるので精読は不要であろう。
むしろ注目すべき論旨はChapter 3 以降の数章に展開されているように察せられる。
以下の僕なりの読書メモとしては、とりわけ思考意欲を触発された Chapter 3 及び Chapter 6 についてまとめおくこととしたが、それは前者がヒトの存立の根本を問い質す論題であり、後者は契約主体の何たるかを再考させる実践的な問題設定であるため。
<Chapter 3. ロボット・AIと自己決定する個人>
※ 本章はとりわけ多元的な分析箇所である。
ヒトは意思と行為と責任の連関において本当に自律的に独立した個人たりえるか、そして、ヒトの社会生活に介在しうるAIないしロボットも社会構成の同胞と見做しうるか
※ 本章はとりわけ多元的な分析箇所である。
ヒトは意思と行為と責任の連関において本当に自律的に独立した個人たりえるか、そして、ヒトの社会生活に介在しうるAIないしロボットも社会構成の同胞と見做しうるか
─ かかる複合的(かつ深淵)な論題を設定した上で、民主主義と法におけるさまざまな解釈論をも照会しつつ、ヒトのこんごの在りようを精密に導出図っているようではある。
(※ なお本箇所にては、ヒトの存立要件と社会の存在要件につきもっと整然とマトリクス化(箇条書き)されていれば、個々の論旨もヨリ明瞭になるように察せられる。)
・法定義上の「個人」は、不可分に独立した主体(個体)として、意思と行為と責任を一貫して成す者とされる。
能力からとらえれば、いかなる個人も、権利・義務の自律的な主体として「権利能力」を有し、かつ、それらにかかる私的自治や契約自由を自律的に行使しうる「行為能力」も有する ─ はずである。
ケルゼンらによる価値相対主義によれば、いかなる個人にも自律的な権利能力や行為能力が有るからこそ、万民共通の絶対的な価値基準をおくことなく民主主義が(つまり暫定的な多数決も)存続し、かつ民主主義は常に望ましいものに修正されつつ機能し続ける
民事法における過失責任主義(無過失への免責)も、刑事法における応報刑論も、個人の自律的な権利能力や行為能力を信頼してこそ成り立っている。
・しかしながら。
20世紀後半以降の認知科学や心理学は、「或る個人が或る選択環境下にて必ずしも自律的な意思決定~行為を成すとは限らない」、と指摘している。
じっさい、各主体は、何らかの制限下にて特定の行為を余儀なくされ、その行為ののちにおのれの意思決定を整合させてしまう場合がありうる。
レッシグは、そのような「各主体の行為上の制限が広くアークテクチャとして存在している」とし、とくに(民主的なはずの)国家を超えた(利益最優先の)多国籍企業等によってサイバースペース上のソフトウェア/コードが可塑的にコントロールされ続ける危険性を指摘。
それでも、例えばサンスティーンは、たとえ各主体が行為制限のアークテクチャ環境下におかれたとしても、そこで国家行政が各主体の「選択環境条件を柔軟に変えてやる=ナッジする」ならば、社会にとって良きパターナリズムとも見做すことが出来、これは結果として個々人の自律的意思決定の保障追求つまりリバタリアニズムとは矛盾しない、としている。
・さて、上の前提にて ─ 「ヒトの各主体の選択環境条件における’良き’変更(ナッジ)」を、ヒトではなくAIが行う事態につき、我々はこれを如何に諒解すべきであろうか?
このナッジがAIによって総括的になされたにせよ、あるいは部分的であったにせよ、ヒト各主体自身の自己決定によるはずの行動選択機会ないし行為責任が矮小化しないだろうか?
本旨を吟味すれば、ヒト各主体とAIロボットにてそれぞれの意思と行動とその法的責任を整然と切り分けること容易ならざると想像出来る。
もっと難度高い問題は、AIによるナッジをヒト各主体が意識すらしていないケースにおける意思と行動と責任の領域設定であろう ─ そもそもこの状況下にて、ヒト各主体が自律的にAIのナッジを受容ないし排除出来るか?
出来ないとしたら、法の適用をどうすればよいのか。
そして、AIがそこまで了察した上でヒト各主体をナッジしているとしたら、それどころか、ヒト社会の側がそこまで了察した上でAIにナッジさせていたら…
・サヴィニーやカント以来、民法学ではヒトを自律的な人格としつつ、モノをヒトの意思と行為の対象物と見做して切り分けてきたが、この伝統的な切り分けでは自律的知性を有しうるAIをモノと見做しおくことはもはや難しい。
ヒト/AIにわたる法解釈上の主体峻別が出来ぬ以上は、意思ー行動ー責任の連関におけるそれぞれの主体をヒト/AIのいずれかに一律に帰することも困難となる。
よって、行為の主体がヒトであろうとAIであろうと、あくまでその行為の結果そのものに対して責任が生じるとの見方もやむなし、国家による=刑法上の事前抑止力の早期化重視にもつながりうる(新派刑法学の観点)。
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<Chapter 6. AIと契約>
※ 本章も多元的な分析眼を触発しえよう素敵なコンテンツ (それでいてやや散文的な文脈展開のため、読者として本当に文脈を捕捉しているか否か不安は残る。)。
本章の論旨を僕なりに乱暴に箇条書きするかぎり、おそらくは以下のようなものであろうと察する。
① 事業(販売)契約にて発生しうるアクション
・契約の主目的の定義
・契約の申込み
・契約の承諾(名義と利益帰属において)
・特定事業者間での「基本契約」の合意
・契約締結における代理行為
・契約履行における諸実務の表意
・表意に因る錯誤行為
・契約履行における瑕疵(誤動作など)
② 事業(販売)契約における「機械/コンピュータの介在」レベル
・自販機が介在する契約
・EDIなど、特定事業者間のクローズド・ネットワークの契約
(基本契約が当事者間で合意されやすい)
・インターネットなど、オープン・ネットワークでの契約
(不特定多数間のため基本契約が共有されにくい)
・AIが介在する契約
③ 上の①と②の組み合わせにおける、判断者あるいはリスク負担者;
・自律的なヒト
・機械/コンピュータの介在を知らされていないヒト
・機械/コンピュータの機能を開示されていないヒト
・ヒトの指示に迎合するのみの機械/コンピュータ
・ヒトの指示を超えて自律的に学習し演算処理しうるAI
※ なんと、コンピュータとくにAIを、契約の合意や実務履行や代理行為の当事者とする見方もある!
上の①~③のどの組み合わせにおいても、理論上の最適解は呈されておらず、また世界的にも共有されていない。
それゆえにこそ、さまざまに深淵な考察が為されうる。
例えば、以下のようなもの。
インターネットにおける販売契約の入力端末にて消費者(ヒト)が錯誤によって誤入力をした結果、不本意な契約ないし重過失に至ったとする。
この場合、あくまで販売事業者(ヒト)が事態回避のための努力を怠っていた(あるいは悪意すらありえた)とされ、この契約は無効となる。
尤も、事業者による意思表示の妥当性は個別には司法判断されやすいが、意思表示の要件そのものまでが厳密に定義されているとは言い難く、さらに、真意の「表示の意思」がたとえ事業者に有ったとしてもそれを意思表示の構成要素そのものとは見做さない傾向が強い。
契約履行における意思表示にさいして「表示の意思」自体が必須か否か。
コンピュータ/AIには何ら自律的な意思そのものは無いとしても、形の上では、これらが意思表示を為しうるとされてはいる。
それでいて、ここがウヤムヤだとヒトとAIとの間における帰責意識が希薄たりうる。
民法に則ったリスク配分理論も、コンピュータ/AIについてはヒト同様には適用できない。
インターネット時代にて契約が増大する中、ヒトの実務軽減のため、(自律的意思はなくとも)意思表示だけは可能なコンピュータに「契約締結の代理人」の機能までは期待する、との見方もおこりうる。
しかしそれでも、コンピュータ自身にはなんら責任能力が無く(無権代理人とするならばなおさらのこと)、そして、仮にそのコンピュータが何らかの不具合や不法行為を為した場合、それを代理人として介在させたヒトのみが契約当事者として全責任を負うことは出来ない。
つまり、コンピュータを活用する契約においては、ヒト同士のように「契約当事者」と「契約締結の代理人」を明確に分界することは不可能で、よって欧米では概してコンピュータを代理人とは解釈していない。
AIは従来のコンピュータと異なり、いわばインテリジェント・エージェントやモバイル・エージェントとしてネットワークを介しつつ、人間に成り代わって自律的に学習し契約履行実務の最適化判断まで行いうる。
AIによって、ブロックチェーン技術などを活かして仮想通貨決済にかかる契約の合意から履行までを自律的に遂行する、いわゆるスマートコントラクトも可能となってきた。
それでは、AIは契約締結の代理人機能を果たせるか、それどころか、AIを契約当事者そのもの(法人格)であると見做してもよいものか??
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……ざっと、このあたりまで読んで、まとめてみた。
AIを契約当事者そのものと見做しうるかについては、コンピュータと代理人の論とほとんど似たかたちで、今のところ学術的には否定論が強いようである。
なお、上に概括した本書の第3章にせよ第6章にせよ、文面はじつに精密であり、かつ法学上の引用もふんだん。
さらに他の章立てとしては、ロボットによる自動運転や手術、産業技術と競争と知財権、民事から刑事まで、そして国家政府から民間、などなど。
さて、機械とコンピュータは(とりわけAIは)我々人間にとって何を省力化し、どこまで代行し、何をもたらしうるか、これほど理論的にチャレンジングであり、現実との折り合いつけ難い学術領域はそうは無かろう、或いは、知性と権利の分離をもたらす新種の「自己同一性意識」さえもがいずれ興るかもしれぬ
─ そう捉えてみれば本領域は緊張感バツグンな新分野ともなりえよう、よって、とりわけ法律分野に何らかの志をおく学生諸君に一度は手に取って欲しい一冊である。
以上
(なお、つまらぬことだが本書の英訳タイトルである'The Laws of Robots and AI' については 'of'より'on'の方がヨリ本書主旨に近いような気もしている。)
以上
(なお、つまらぬことだが本書の英訳タイトルである'The Laws of Robots and AI' については 'of'より'on'の方がヨリ本書主旨に近いような気もしている。)