もしもの話だ。
タイムマシンに乗って縄文時代にゆき、充電済みのスマホを1台、置いてきたとする。
この場合、縄文人にはそれが何のためのデバイスなのか、さっぱり分からぬだろう。
だからすぐに破損して、おしまい。
だが、やはりタイムマシンに乗って同じ縄文時代にゆき、充電済みのスマホを2台置いてきたらどうだろうか?
この場合、縄文人たちは極めて多くを知るだろう。
まず、同じ物質、同じ加工、つまり複製というものを可能とする工業技術が存在すること。
しかも、電気を使っているらしいこと。
そして ─ もしかしたらだが、これら2つのスマホで無線の通話が出来ることも、知ってしまうかもしれない。
ただし、仮にそこまで知れたとしても、浅はかな誰かが1つを解体し復元不能にしてしまうかもしれぬ。
それに、文字を知らぬとしたら、データ通信の意味は分かるまい。
ここまでだ。
さて、それでは、同じ縄文時代に今度は3台の充電済みスマホを置いてきたとする。
縄文人たちは、やはり2台間で音声通話が可能だと知り、そこで残る1台を解体することになろうか。
そこで彼らは、ハードウェア素材としてプラスティックも液晶も知り、また導線や半導体も知ることになる。
そして、このスマホ内部の導線や半導体は、電気を或る位置から別の位置に変位させる回路らしい、と見当をつけうるだろう。
そして閃くだろう ─ この電気は、とてつもなく小さな信号であろうが、一定のアルゴリズム(つまりプログラム)なのだと。
そこでさらに気づく、音声を無線で交わすアルゴリズムの信号があるのなら、画面にチラチラと現れる小さな記号も何らかのアルゴリズムの信号に違いない ─ うむ、これは文字だ、と。
残すは電気容量についての問題だが、これは一番最後にまとめて了解すればよい派生技術だ。
かくして。
スマホが3台もあれば、縄文人たちは電気を知り、半導体や導線やプラスティック素材を知り液晶も知り、信号を知り、アルゴリズムつまり数学を知り、音声の情報変換を知り、文字をも知ることになって……
そういうわけで、スマホは縄文時代の日本にて既に沢山製造されていたとしても、おかしくはないのだ!!
そうだとしたら、現在の日本においてもまだスマホは使われているだろうか?
「くだらないなあ、わざわざこんな不便なもの使って。だって大気の粒子転送などによるテレパシーの方が遥かに正確だし便利じゃないか」
「いやいや、それでもこれは多くの人間を製造に従事させ、また多くの指示を転送するための道具だったかもしれないよ」
ということになるのかな。
(尤も、どこかの王さまが、自分自身の知識「以外」を全て消滅させてしまえば、そこで何もかもおしまいだが。)
以上