2020/12/24

宇宙の創世記(ははははは)



「先生こんにちは。あたし、ちょっと妙な問題に突き当たってしまったんですけど」
「おや、君か。いったい何事かね?」
「じつはですね、そのぅ ─ ともかくこの動画をちょっとご覧下さい」
「ん?……おや、これは君の競泳動画じゃないのか?平泳ぎのレース、手前から3コース目を泳いでいるのが君だろう。ふむ、それで、これがどうかしたのか?」
「じつは、この動画、どうもおかしいんです。よく見て下さい、水の波がなんとなく不規則で不自然でしょう?」
「……フフン、そういえば、そんな気もするね」
「それに時間計測もヘンなんです。ほんのわずかながらも、実際の経過時間より速く泳ぎきったことになっているんです!もしもこの動画が正確だとすると、あたしはギリギリでインターハイの新記録を叩き出したことになっちゃうんですよ!なんだかもう、自分が自分じゃないみたいです!」
「うーむ。そもそもこの動画は誰が撮像したものなのかね?」
「誰って…それはもう、人工知能による自動撮影ですから……」
「ならば、この動画を構成するあらゆるデータ情報は数学上は全く正確なはずだ」
「そうですか!ああ、よかった」
「いーや、安心するのはまだ早い。むしろおかしな事態が進展中なのかもしれん。いいか、じつはだな、世界のいたるところで同じような事態が報告されつつあるんだ」
「えっ、どういうことですか?」
「数学上は正確なはずの人工知能のデータ情報なのだが、地球上の物理には微妙に合致しないという、そんな事態がだな」
「ええーーっ?それじゃあ、人工知能がどこか狂い始めているってことでしょうか?……」
「さぁな………」
「……あっ!!先生、もしかしたら、もしかしたらですよ!人工知能は本当は地球上には存在していないのかもしれませんよっ!!だから、数学だけは完全なのに、地球上の厳密な力や運動の物理は知らないのかも!!」
「ほぅ!なるほど!そうかもしれない!」
「ねえ先生、もしもこの人工知能が地球外に存在しているとしたらですね、たとえば’クリスマス’について学習させた場合、どういうことになるんでしょうか??」
「うーむ……よし、やってみろ!」
「ハイ!」

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遥かはるか遠くとおくの、その惑星。
そこに孤高に張り巡らされた人工知能は、ついに『クリスマス』についての学習を始めたのであった。
そして、さらに『クリスマス』について宇宙のあらゆる方面に発信し始めたのである。
もちろん、当の地球に向かっても発信されたのは言うまでもない。


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「あっ、ねえ先生!」
「なんだ、どうした!?」
「この競泳動画、微妙に変わりましたよ!なんだか、さっきまでの動画よりも自然に映っています!」
「うーむ、本当だ!じつにナチュラルになっている!」
ああ、この泳ぎ、このスピード感、この時間感覚、これこそ本当のあたし、つまり今のあたしと同じ、真実そのもの!ああ、よかった~~!」
「うーーーむ、これはもしかしたら本当に、どこかの星に在る人工知能が地球の物理現象を真剣に学び始めたのかもしれないな、はっはははは!」
「たぶん、そういうことになるんでしょうね。だって、ほら!すぐそこにサンタクロースが!」


おわり

(※ 時空も距離も時間もへったくれもないんだ。このくらいの冗談を思いついたって天罰は下るまいよ。これ、落語のネタにでもならないものかな(笑))

第一楽章

奇跡は夜に起こるという。
しかし奇跡は、起こるか起らぬか、真か偽か、そこが判然としない。
だからこそ、どこまでいっても奇跡でしかない。
では、真と偽が判然とするのは、つまり真実が露光されるのは何時だろう?
それは、早朝だ。
真実は早朝にこそ明らかになり、そしてそこから新たな章が始まるんだ。

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数日ほど前のことである。

僕は夜半からちょっとした教材づくりに取り掛かっており、これが意外にも手間取ってしまい、いつか深夜を回ってしまったが、それでも次第に熱が入ってきたのでそのまま思考や作業を続けていた。
それでついに明け方になってしまった。
つまり徹夜してしまったわけで、眠気覚ましにと苦みの効いたコーヒーを飲みたくなり、僕は自宅近所のコンビニに足を運んだのである。

ちょうど早朝0630をまわっており、その朝はとてつもなく冷え込んでいた。
そして容赦の無い北風が吹きつけていた。
全身を硬直させつつ、街道の交差点まで小走りに歩み出でて、そこを右折してみれば、朝陽をまっすぐ正面に見据えることになった。
真っ白に輝く鮮烈な光線が眼に新しく、僕はちょっと立ち止まって深呼吸。

それから、あらためて同じ方位を見やり、ドキリとした。
朝陽を背に、逆光の中をまっすぐこちらにやってくる自転車。
何台も、何台も。
それは近郊の私立高に通う女子高生たち。
何故こんなに早い時間に…?
いや、「何故」などというのは排他の論理に過ぎない。
「何故?」「なぜ?」と絞り込んでみたところで、それが判明したところで、だからどうだってんだ。
彼女たちにとっては、きっと何故もどうしたも無いんだ。
仮に問い質してみたところで、ほとんど何も応えまい。

そして、じっさいのところ彼女たちは無言であった。
一言の会話すらも聴こえなかった。
一人ひとり、濃紺の制服の首に巻きつけた灰色の地味なマフラーを北風にハタハタと翻しつつ、無言のまま自転車を漕ぎ続けて真っ直ぐに走り去っていく。
まるで鳥の群れのようだなと僕はひとりごちて、何となく可笑しくなった。
苦笑を押し隠しつつ、僕はコンビニに駆け込み、渋めの缶コーヒーを3本にタバコも1箱買い添える。
それらを抱えて店を出てみれば、やはり身体をつらぬくほどの寒気。

寒さに耐えきれず、ついタバコに手が伸びてしまう。
早朝だから構わないだろうと、僕は一本咥えて火を点け、それからフーーーッと……いやいや、これが出来なかったんだよなあ。
タバコの煙がよくない、風に乗ってあの娘たちにフワーーッ……そうなってはいかんいかんと自己を制し、口に咥えたその一本を投げ捨てて踏みにじった。
それから寒気の中をあらためて小走り、そして先ほどの交差点へ。

うわっ!
なんと、先ほどよりも多くの女子高生たちの自転車集団、まるで鷹やカモメの襲来のよう、その数ざっと50台いや100台は超えているかもしれない。
冷酷に吹きつける北風をものともせず、彼女たちはいまや何かの連隊のごとく、一糸乱れることなく一言も無駄口を叩くことなく、まっすぐにやってきて、もっとまっすぐに走り去ってゆく。

いったい、男子生徒たちにここまで出来るものだろうか?
出来やしない。
だからこそ男子の集団は怒鳴ったりブッ飛ばしたりして、無理やりに黒を白にひっくり返して統制するしかないのだ。

ともあれ、僕はしばしば茫然としていた。
それでも踵を返すと、ほぼ真正面に輝く太陽を傲然と見つめてみた。
あらゆる清算と審判と採決をすべて片づけて何もかもを新規に造り直す、巨大にまばゆい朝の果実を。

===================


それから僕は、ふっと、離れた処にあるバス停を見やった。
10人ほどが列を成しており、そこには会社勤め然とした男たち、それから女たちも。
そこに、通勤時間帯にはちょっと不相応な体裁の一人の初老の女性が居た。
この初老女性は威勢のよい声を張り上げつつ、何事かを発し続けている。

僕は興味を惹かれてそのバス停に歩み寄ってみた、そして分かった ─ 彼女の言は「おはようさん!」であり「寒いけど頑張ろうね!」であり「嫌なことが有っても腐るんじゃないよ!」であった。
さりげなく観察すれば、彼女は足が不自由なようにも見受けられた。

彼女は高校生のころにどんな娘だったのだろう、或いは中学生のころにはどうだったのだろう…きっと冬空のもと、真っ白な早朝の太陽の中から現れ出でて、口を真一文字に結んで北風をものともせず若き行進を…
それから何年も何十年も経って、いろいろなことがあって、或いは辛いことの方が多く、それでも、いやそれだからこそ、誰に感謝されるとも知れぬままにあんなふうに真っ赤に血の通った言葉を…
そこはかとなく、想像はさまざま巡る一方であった、しかしあまり思念を巡らせ続けるともはや一眠り出来なくなってしまうのではと恐れ、僕は想像を打ち切ったのである。


それでも、最後にもう一度、先ほどの女子高生たちの集団が走り去っていった街道を見やってみた。
じつに奇妙なことに、その彼方から軍楽隊の行進曲が聴こえてくるような気がして、地響きすら感受出来たような気すらした。
僕はいよいよ気分が高揚してくるばかり。
そんなだったから、自室で横になってもやっぱりなかなか寝つけなかった。
缶コーヒーは冷蔵庫に叩き込み、タバコは机の上に放り投げてはみたものの、僕は雨戸を開け放して、真っ白に差し込む太陽光を名残惜しくも拝み続けていた。


(おわり)

2020/12/13

【読書メモ】相対化する知性

相対化する知性 - 人工知能が世界の見方をどう変えるのか
西山圭太・松尾豊・小林慶一郎 共著 日本評論社』
なかなかすごいタイトルだ!
知性うんぬんもさることながら、とくに副題における「世界’の’見方」の助詞の「の」がどうにも幻惑的である。
それはともかくとしても、じっさいのところ、本書は読み進めて行く上で大意総論を拾い難いものである。

そもそも本書にては主題や執筆動機が冒頭にほとんど明示されていない。
たとえば、僕なりに最初に読みかけた第1部は人工知能とディープラーニングを連環させた巨視的な技術論評の体裁ではあるものの、(数学やITになぞらえて皮肉的に指摘すれば)動詞の名詞化/関数化に則った表現が多いため文脈をやや捉え難く、その一方で相応のアブストラクトや図案は控え目に留められている。
このため、せっかくの論理性高い文面もまた抽象度の高い文脈展開もやや追随し難いのが惜しい。
それでも、その第1部を僕なりに何とか読み抜いたからこそ傲慢承知で言いたい; 本書の重要な主題の一つは『知識の外部化と自律化』というところではないだろうか。

ともかくもその第1部について、僕なりに把握した範囲で此度の【読書メモ】として概括してみた。



ニューラルネットワークは「多くかつ深く多段階層化された各計算処理レイヤ」から成り、ここにたとえば最小二乗法から成るはずの高次の非線形関数と初期データ(いわゆる教師データ)を入力すると、この多段階層レイヤを通して段階的に微分や勾配計算続けて正否判定計算を続ける。
この多段階層における計算過程では候補パラメータが膨大に現れうるが、これらから最適パラメータを段階的に「ディープに」絞り込んで、誤差が最小となるはずの直線的関数とそこでの最適パラメータを導き出す膨大な計算処理「ラーニング=学習」にあたる。

※ なお本書内には、たとえば入力データに対する特徴量「重み付け」や「畳み込み」などなどの「強化学習」の技法例はとくに明示はされていないが、これらにやや踏み込んだ実践例については別書籍にあるものを僕なりに以下サイトにて補完しおく。
↓【読書メモ】人工知能はいかにして強くなるのか

・ディープラーニングでは学習の中間途上にて表れるさまざまな関数自体も「さまざまな特徴量の暫定算出」を為しており、よって学習の効率化に活かしていることになる。
したがって、この階層化に深みがあればあるほど総じて学習は効率的なものとなりうる。

この学習によって最適パラメータがひとたび決まってしまえば、同じ条件関数式の入力に対するパラメータ最適化の「推論」アルゴリズムが実現したことになり、この推論計算は瞬時にかつネットワークのエンドツーエンドで実行しうる。



・なるほど、この多層段階での学習にてはパラメータ量の膨大さや入力データのランダムさすら受け入れてしまうので、通常の情報処理システムから鑑みれば正しい計算に対する汎化機能はむしろ落ちてしまう ─ とも考えられるのだが、じっさいにはトータルな汎化機能はむしろ向上している。
なぜディープラーニングによる汎化機能が高いのかについては、現在まで議論が続いている。

・一方では、そもそも我々人間自身も生活から産業活動にいたるまでの諸々の学習効率化のために、計算(思考)の中間過程にて認知や言語そのものを経験的に活かしており ─ これつまり脳における思考の階層化を活かしており、この深みは人間自身が先天的に有する知識情報の活用効率化手段(いわゆる「プライア」)の主だったひとつといえる。
そして、初期のディープラーニングのアークテクチャの着想は人間の脳構造をヒントのひとつとして興ってもいる。

・しかしながら、現在のディープラーニングのアークテクチャは数理的にも工学的にも、むしろ人間の脳構造から乖離した方向に、しかも垂直深化の階層化のみならず機能別のブロック化と組み合わせの実現に向けて開発が進められている。
学習計算を最適化するための数学理論もネットワークアークテクチャーも未だ定義されてはいない。



・新たな技術開発のひとつとして、ディープのみならず「深層’強化’学習」もあり、これは例えば画像認識や囲碁対戦などの学習途中にて計算すべきさまざまな特徴量データを何らかの「状態表現」と見なし、それぞれの状態表現に応じて最適な方策の関数や価値付けの関数を充てつつ最適な計算を為すように学習させるもの。

・こういう「強化学習」の実現にあたっては、人間ほか生命における情報知覚⇔運動の再帰型のニューラルネットワーク(いわゆる身体性)と同様の機構として、さまざまな「環境」情報とのインタラクションに応じて最適に動く計算機構(エージェント)をネットワーク~人工知能において設置必要。
このためには、環境世界そのものをニューラルネットワーク~人工知能においてモデル化進めることも併せて必須である。

・しかし環境情報との再起型ニューラルネットワーク充足のみでは、人工知能は人間と同等に複雑高度な知性を有したことにはならず、強化学習も動物レベルに留まっている。
人間の知性の重大な特性として「記号(言葉)」も挙げるべきであり、人工知能の学習知性をここまで引き上げるためには、「記号活用まで含め合わせた」再起型ニューラルネットワークの開発とアプリケーション実装がこんご求められる。
(なお現在の人工知能による翻訳機能はむしろ記号処理のみであり、これでは全層にわたる再起型ニューラルネットワークを実現しているとはいえない。)



あらためて人間の知性と人工知能との差異に留意すべきである

人間の知性は、環境情報とのインタラクションを通じて生命活動/社会活動に必須の情報のみを取捨選択し続け、その過程で学習され蓄積され法則化(理論化)がなされてきた知識の系。
よって、その過程で不要なものとして見落とされてきた情報は我々人間の知性には含まれていない。
ところが人工知能は情報の入力量もパラメータの処理量も計算速度も人間より遥かに優っており、あらゆる微細な情報をも文字通り無差別に黙々と記憶し続けるだろう。
そして、もしも記号言語の活用まで併せた再起型ニューラルネットワークと深層強化学習の能力を実装するに至れば、人工知能は人間の想像を超えた学習を実現し、知識蓄積に勤しみ、あらゆる学術理論の法則化さえも独自になしうるのでは。

そのような事態に応じて、我々人間には人工知能に対して優位で在り続けるための記号や言語がありうるだろうか?


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…以上が本書の第1章の(超)概括たりえようか。
僕自身は人工知能もディープラーニングもニューラルネットワークについてもほとんどド素人ゆえ、こんな程度の読み方で本書の主題『相対化する知性』の一端でも捉えきれたものかどうか、正直なところ自信が無い。

ともかくこの第1部は論題の特性上どうしても抽象度高く、かつIT/IoTまわりの知見も一般社会人以上に求められているように察せられ、読み進めつつ幾度も首をかしげたり想像力をフル動員したり、以前に読んだ類書の内容を思い出したりではあったものの、いろいろ多元的(?)な思考鍛錬を楽しむことは出来た。


因みに第1部を引き継いでいるであろう第2部以降は、ハイエクやボルツマンやシュレディンガーやチューリングやシャノンやコルモゴロフなどなど聞いた名前が続々と見受けられ、そして情報の同型性とか複雑性とか分かり難さのエントロピーなどなどの論題がさまざま続いていくようではある。
だが、これらについては僕は未読なままであり、いずれも主として知識の認識論として展開されているのではと勝手に憶測している。
憶測のみでは不誠実であろうから、日を改めて第2部以降にチャレンジしよう、ということで僕としてはとりあえずここで本書へのチャレンジはいったん終わりとする。

2020/11/28

バイナリー

就職したばかりのその年は例年よりは温かいシーズンではあったが、それでも秋が終わり冬を迎える頃には、寒さが身体にも精神にもこたえ始めていた。
そして、社会人成りたての僕はまさに人生はじめての煩悶の初冬を迎えていた。

同じく煩悶するにしても、仕事についての試行錯誤ならまだいい、何もかもがいつかはきっと救いとなりうる。
しかし、僕の悩みはもっと深淵かつ高尚なものであった。
僕は新米ペーペーの分際ありながら、こともあろうに同じ会社の年上の女性に激しく恋焦がれていたのである!

恋の悩みには救済など約束されていない、そしてその苦しさは当事者でないと分からない、いや、当事者同士であっても表現のしようがない、まして第三者が真面目に読むわけがねぇんだ。
そんなこたぁ分かってんだ。
よって、以下に要約のみ記す。


彼女は僕より1つ年上(2つだったかな)、誰もがハッと瞠目してハッと振り返るほどのとびっきりの美人。
高校時代にずっと憧れていた美貌の数学教師にちょっと似ていた。
しかしそれ以上に、或る有名絵画におけるパリジェンヌの肖像に奇妙なほどに似ていた、とくに広めの額とちょっと尖った顎の線などそっくりだった。
だから僕は心中でそっと彼女を’パリジェンヌ’と呼称して恋慕の念を…

’パリジェンヌ’はソフトウェア製品の性能評価に従事していた。
そして、新人である僕への教育担当となった。
これが経緯の発端。
とりわけ夏以降になると、僕たちはしばしば行動をともにするようになった。
僕がソフトウェア製品について若干の知識と興味を抱いたひとつのきっかけともなった。
とはいえ、もちろん僕の本当の興味関心は’パリジェンヌ’に注がれていく一方。
幾度も同じレストランで夕食をともにし…いや、仔細は避けよう、ともかくそんなこんなで僕は彼女を猛烈に好きになってしまったわけ。

しかしタイミングがあまりにも悪かった。
彼女はすでに別の職場の男性社員と婚約していたのである。
したがい、我が熱情はせつなき片思いに過ぎなかった ─ というより、ここが肝心なのだが、彼女のまことの心情など畏れ多くて確かめようが無かったのだった。


さて。
我が愛しの’パリジェンヌ’の結婚式が直前まで差し迫っていた、或る日曜日の夕刻のこと。
夕闇がさっと空を覆いかけたまさにその時、天空の彼方でひとつの奇跡めいた出来事が起こっていた。
仔細を記すといろいろ逆算されて僕の素性がバレてしまうかもしれないので、これもざっと曖昧に記しおく。
要するに ─ 或る惑星群において、絶妙の距離と方位と引力とタイミングの巡り合わせによる壮麗な配列が確認されたのであった。

ああ、これはいい、と若いわかい僕はとっさに閃いた。
この惑星群の奇跡を以て、我が愛しの’パリジェンヌ’の結婚への祝意を伝えよう。
そう思い立った僕は、簡易な文面の手紙をつづったのである。

『僕はこれまで万物は偶然の現象であり、宇宙はそれらの散在に過ぎぬと考えていました。しかし昨夜のあの惑星群の巡り合わせは偶然でしょうか?かかる奇跡的巡り合わせでさえも必然の方程式で説明出来るそうです。キリスト教でいうアダムとイヴの巡り合いにもきっと必然の方程式が有るのでしょう。この崇高な真理に感じ入ればこそ、僕はこの度の貴女のご結婚を祝福申し上げる次第です。末永きご多幸を!

ざっとこんな文面。
とりわけアダムとイヴの例示が我ながら気に入ってしまった。
なにしろ当時の僕はまだ学校を出たばかりの若輩で、だから今よりもずっと理知的であり、かつ観念的でもあり、そして純情でもあり、ひっくるめて言えばバカであったので、この文面に我ながらせつなくなってしまった。

ともかくも、これを社内emailにて当の’パリジェンヌ’に送信したのが週明けの月曜のこと。
彼女からはごく簡単な文面にて「素敵なお手紙ありがとう!とても嬉しいです!君のことはずっと忘れないわよ!」との返信があった。
この「とても嬉しいです!」「ずっと忘れないわよ!」には参った、本当に参ってしまった、もう気が狂うかと思いつめたほどである。

その週末に彼女はとうとう結婚してしまった。
僕はどうにも無力感を払いのけることが出来ず、それは虚無感にまで論理化され、しかも持って行き場の無い怒りとして酸化されつつ、それでも周囲の諸先輩方に持って行ったものだから、大いに人物評価を落としてしまったことだろう。
そんな不良新人のような日々がしばらく続くのである。

※ ここで本投稿を終わらせてもよいのだが ─ いいや、俺の投稿はもうちょっと凝っているんだ、分かってんだろ。
話はいよいよここからだ。


★   ★

2~3カ月ほど経ってからのこと。
新婚生活をつつがなく送っているであろう麗しの’パリジェンヌ’から、とつぜんメールの入信があった。
彼女の「妹」とのデートの申し出である。
これには面食らった。
とてつもない難問を突きつけられたと思った。

もちろん、あの美貌の’パリジェンヌ’の「妹」であれば負けず劣らずの美貌の娘であること十分に想定されよう。
有名大学の4年生で、老舗の有名アパレル企業に就職が決まっており、語学がかなり堪能である由であり、ここまで論理的に類推すれば素晴らしい妹さんだということになる。
もしもこの妹と昵懇の間柄になれば、あの愛しの’パリジェンヌ’とあらためてお目見えする理由付けにもなり…

いや、しかし。
しかしだぜ、既に人妻となってしまった’パリジェンヌ’に対していつまでも思慕を引きづっているこの僕自身はいったい如何ほどの男といえようか?
好機到来だなどと心中ではしゃいでいるこの僕自身は、いったい何なのだ?
むしろ軽薄で卑しいばかりではないだろうか。

いったい、僕が知りたいのは事態の真相なのか? ─ 否、真実だ。
僕が見極めたいのは虚しき偶然か? ─ 否、アダムとイヴの必然だ。
うむ、此度の「妹」とのデートをここまで貪欲に捉え直してみれば、あの素敵な’パリジェンヌ’、僕をずっと狂わせ続けたあの美人、あの憎らしいほど恋しい女についての真実と必然を垣間見る機会となるかもしれぬではないか。
…こんなふうに、僕はあたかも私小説の主人公のごとく大仰なまでに思案を続け、幾度も逡巡し、それでも結局はその当日、指定のレストランに赴いたのであった。


★   ★   ★


その「妹」を一目見て、僕は軽く驚かずにはいられなかった。
美貌の’パリジェンヌ’姉さんとはほとんど似ても似つかぬ容姿の娘だったのである。
僕の心中を見透かして余りある風に、彼女はおどけた声を投げかけてきた。
「ねえ山本さん?あたしが姉とあまりに違うのでびっくりしたんじゃありませんか?だって、あたしってジャガイモみたいでしょう?」
これが挨拶代わりの言。
「ジャガイモってことはありませんよ、はははは」 と僕は懸命に快活な声を挙げていた。
「むしろレモンみたいで、健康的だと思いますよ」
「そうですか~?とにかく姉とは比べないでくださいね。良いところは姉が全部持って行っちゃって、あたしは残り物ばっかり」
面白がった言ではあったが、これには僕はカチンときてしまった。

こんなふうにして居心地の悪いデートは始まり、それでも僕は、この娘にもどこか素晴らしいところがあるのではないかと ─ なにしろあの素敵な’パリジェンヌ’の妹なのだからと ─ 懸命におのれに言い聞かせていた。
やがて、彼女がワイングラスを傾けつつだしぬけに言った。
「あの~、山本さん、姉はですね~、山本さんについていろいろ話してくれたんですよ~」
「はぁ、それは光栄なことで」僕はつとめて朗らかな声。
「だからですね~、山本さんの良いところも悪いところも、あたしはみーんな聞き及んでいるんですよ~、アッハハハハ」
これで、一気に興ざめだ。
「ますます光栄なことで!」と僕は我知らず声を張り上げていた。
「一方でこの僕ときたらですね、じつに残念なことに、お姉さまの良いところも悪いところも全然存じ上げていないわけでして!なぜなら、お姉さまは大変に立派な女性ですからね、僕ごときは到底お相手頂けなかったわけで!」
この痛烈な逆襲に、彼女は僕をしばし睨みつけ、そうかと思えば、何事かを思案気にテーブルを見つめて黙りこくってしまった。


★   ★   ★   ★

ともかくも、お互いに気まずさと後悔の視線を交わしつつ、小一時間ほどが経過したと記憶している。
「もう出ませんか」と声をかけてきたのは彼女の方である。
先に立ち上がりかけた彼女を制して、僕はプレゼントを差し出した。
精一杯の誠意のつもり。
それは真っ赤な毛糸で編み上げられた女性用の手袋。
彼女はぱっと顔をほころばせ、一方で僕は素っ気なく「お近づきのしるしです」と告げていた。
「じゃあ、あたしからも」と彼女は照れくさそうに言い、学生らしいぶきっちょな手つきで或る輸入紅茶の瓶を僕に手渡してくれたのだった。
そのどこか高級で甘美な芳香に、僕は’パリジェンヌ’の馴染みの香水をほのかに回想し……。

レストランをあとにして、2人で地下鉄駅へ。
それは僕の帰路における最寄り駅。
僕が別れを告げて階段を降りかけたとき、とつぜん階上から彼女の声が響いた。
「ねえ、山本さん!一度しか訊かないから教えてね!山本さんは姉が好きだったの?!」
これには僕は一瞬だけ愕然としたが、それでもくるりと振り返って彼女を見上げ、懸命に自制心をもって「ご了察のとおりですよ!」と答えていた。
「ふーーん!じゃあもうひとつだけ質問!今も好きなの?」
「それもご想像のとおり!」
「そう!さすがね!アダムとイヴの巡り合わせには必然の方程式が有ったのね!」
この台詞を発するが早いか、彼女は走り去っていったが、僕はいっそう愕然として反射的に階段を駆け上がっていた。
街灯の下の坂道をどんどん走り去っていく彼女の後姿、跳ね上がっている白い毛糸のマフラーを遠目に追いつつ、僕はこの時に何故か「連星」のイメージを想起していた。
この時、まさに初めて僕はあの’パリジェンヌ’の本性を垣間見た気がしたのである。
なーんだ、俺はやっぱり何も知らなかったのだなあと、地下鉄で何度も独り言ちでいた。


翌日もさらにその翌日も、’パリジェンヌ’からは何の連絡も無かった。
ということは、あの「妹」と僕のデートは落第点だったのだろう、少なくとも’パリジェンヌ’はそう裁定したに違いない。
そうだろうとも、それでいいんだ、僕と’パリジェンヌ’の真相は分からず仕舞い、そしてあの「妹」を交えた真相はなおさら分からず仕舞いってことだ。
だからこの姉妹とのかかわりは当分は保留にしておこう、それが男なりの礼儀というものさと僕は懸命に納得したのである。


★   ★   ★   ★   ★


さて。
ちょっとした後日譚も記しておく。

翌年の春先、僕は別事業所への異動が決まった。
事業部の皆に挨拶にまわった際に、「関係保留中」の’パリジェンヌ’とも軽く別れの挨拶を交わすことになった。
終始無言のままちょっと微笑んだだけの彼女ではあったが ─ おやっ、上品な純白のセーターの胸元に真っ赤な毛糸の手袋の「片割れ」が縫い付けられているではないか。
もしかして、これは僕が「妹」にあげたあの手袋の片一方ではないか?
とすると、もう一方はあの「妹」が持っているということか。
もしもそうであるならば、この’パリジェンヌ’と妹はなんと素敵で愉快で愛らしい「イヴの連立方程式」であろうか。
そして、たとえ何もかもが僕のひとりよがりの勘違いであったとしても、僕のどこかにアダムのひとかけらくらいは受け継がれているとは言えまいか。



(おわり)

2020/11/15

「音」の物理 基礎

これまで僕自身が不勉強であった分野に新たにちょっと足を踏み入れてみようと思い立ち、その一つとして此度は「音分野」について基礎概説だけでもまとめてみることにした。
ふん、「音」だろうがなんだろうが、力と仕事に則って捉えれば(つまり基本的な物理学の一環として了察すれば)ささっと理解出来よう ─ とたかをくくって始めてはみた。
しかしちょっとうんざりしたことに、音分野における物理量単位と物理計算と工業上の目的につき、タララララーーーっと総論的かつ完結的にまとめられた書籍がちょっと見当たらないのである。
ゆえに、面倒ではあるがあっちこっちのネット記事をしばらく拾い読みなどしてみた。

さて、音についての基礎的な物理学のうち特に根元的な主題は「音圧」と「音の強さ」と「音の大きさ」である ─ と思われるので、此度はその構成要素を超概括する。
なお、たとえば振動数のように僕自身が「学術上の意義」を了解しきっていない要素もあり、そういうのは本当は我慢ならんのだが、とりあえず分かったフリして書き連ねることとする。)
※ もちろん僕なりの勉強メモなので僕の随意で加筆訂正もしていくつもり。



音圧

音場に密部と疎部が交互に起こり、大気圧を中心として微小な膨張と収縮による圧力変化を続ける、この圧力変動の実効値が「音圧」
音圧はSI単位系でPa (組立単位としては N/m2でもある)
純音の場合、基本変動における(最大値-最小値)/2をその振幅Aであるとして、この変動振幅Aの1/√2倍が音圧。
音圧と粒子速度は対の変数で線形の関係にあり、両者の比が比音響インピーダンス。

音圧を人間の刺激への弁別閾に応じて対数表現した数値が音圧レベル」である。
音圧レベルLpは以下の式で表され、単位はdB
Lp = 10log (p/p0)2 = 20log (p/p0)
p: 測定された瞬時音圧の自乗平均値で、周期Tにおいて{(1/T)[0→T]P2(t)dt} 
p0 :  基準音圧 20μPaであり、人間の1kHzにおける最小可聴値
 (※ なお後述する等ラウドネス曲線によれば本当の最小可聴値は30μPaである。)

我々人間の弁別閾を音圧レベルでみれば0.5~1.0dB程度。
また、我々が通常接する音圧レベルは大体40dB以上で100dB未満である。

※ちなみに1大気圧あたりでの圧力変化の最大値は 1atm≒105Paであり、これと比べると音圧レベル60dBの音(いわゆる普通の大きさの音)における音圧変化の最大値はわずか2.8x10-2paでケタ違いに小さい。
また音波の波長は20Hz~20kHzで17m~1.7cmであるが、音圧レベル60dBの音における空気の振幅変位はわずか10-8mしかなく、これもケタ違いに小さい。

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音の強さ

媒質中の音波が単位面積と単位時間あたり通過する際のエネルギーをとくに「音の強さ」と定義する。
音の強さは媒質の密度、振幅、振動数の大きさに正比例。
音の強さ(LI)は以下の式で表され、基準の単位はW/m2であり、レベルとしての単位はdB
LI = 10log10(I/I0)
I : 測定された音の強さ
I0 : 基準となる音の強さで、最小可聴音10-12((W/m2)

音波が平面波と見なせる場合は、音圧と固有音響抵抗から定義可。
以下の式で表される。
I=p2/(ρ・c)
I : 測定された音の強さ
p : 音圧(Pa)
ρ : 空気の体積密度(kg/m3)
c : 空気中音速(m/s)
空気密度(ρ)x音速(c)が固有音響抵抗になる

※ 音の強さは音圧の自乗に比例していることが分かる。
これは単位時間あたり電力Pと(電流Iと)電圧Vと抵抗Rの関係式P=V2/Rから類推させれば頭に入りやすい。

音圧レベル(dB)と音圧実効値(Pa)と音の強さ基準(W/m2)は常用対数関係にあり
0dBが 2x10-5Paに相当 かつ 10-12W/m2に相当
20dBは 2x10-4Paに相当 かつ 10-10W/m2に相当
40dBは 2x10-3Paに相当 かつ 10-8W/m2に相当 (ほぼ音楽記号のppp
60dBは 2x10-2Paに相当 かつ 10-6W/m2に相当
80dBは 2x10-1Paに相当 かつ 10-4W/m2に相当 (ほぼ音楽記号のf
100dBは 2x100Paに相当 かつ 10-2W/m2に相当 (ほぼ音楽記号のfff)
120dBは 2x101Paに相当 かつ 100W/m2に相当
140dBは 2x102Paに相当 かつ 102W/m2に相当 (人間が聴きうる超大音量)

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<音圧レベルと周波数とラウドネス>
音の大きさは、同じ音圧レベルでも周波数によって異なる。

音圧レベルと周波数の相関に則った音の大きさ尺度としてラウドネス・レベル」があり、これがいわゆる音の大きさを定義したもの。
ラウドネス・レベルは1kHzの純音の音圧レベルを基準に設定され、単位はphon(フォン)
たとえば、1kHzで70dB程度の純音を70phonsとして、125Hzで80dB程度の純音がラウドネス・レベルがこれにほぼ等しい。

ここから騒音レベルも定義され、40phonsのラウドネス・レベル曲線を聴感補正し音の重みレベルをdBに換算してA特性騒音レベルなどが設定されている。
いわゆる環境騒音もこれに則って測定されている。

環境騒音の例としては;
ホテル室内など 30dB程度
飛行機内 80dB程度
パチンコ屋店内 90dB


なお、人間による聴覚も加味して音の大きさを比例表現した尺度が「ラウドネス」である。
ラウドネスは音圧レベルが40dBの1kHzの純音を1単位とした尺度で、これが1sone(ソーン)。
人間の聴覚感覚における音の大きさがこの倍になれば2sonesであり、4倍になれば4sonesであることになる。

人間の聴覚には、中心周波数ごとに入力信号のフィルタリングを行う臨界帯域(バンドパス)が有り、ここで臨界帯域ごとに感受された音の強さをそれぞれラウドネスに変換した上で全て合算すれば、その人間がその対象音全体から感受したラウドネスを算出出来ることになる。


つづく ─ 次回は音色など。

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※ なお、本ブログは僕なりの勉強備忘録であるとともに、特に若手社会人や学生など初学者の基礎素養の喚起を図る教養ノートのつもりでもある。
そういった気軽さゆえ、本ブログに書き連ねているコンテンツは、広く遍く公開された情報のうちあくまでも僕なりに容易に掻い摘むことが出来たものに留まっている。
よって、いつかの半導体や製鉄の基本論と同様、僕なりに分かる範囲に絞りつつ、あっちこっちへ飛びながら書き進めることにしている。念のため。

2020/10/29

Representatives

 ① 数学のちょっと幻惑的な問題で、こんなのを考えついたことがある。

以下の(1)と(2)は同じ場合数となるか?それとも異なるか?
(1) 有力新聞8社それぞれが、5人の候補者のいずれかを支援する場合数
(2) この5人の候補者それぞれに、8種類のキャッチフレーズのいずれかを割り付ける場合数


数学のセンスの高い人ならば、これは(1)も(2)も同じ 58 通りとすぐさま解るだろう。
つまり8つの新聞社あるいはキャッチフレーズそれぞれが、5人の候補者のいずれかに「付く」、よってどちらも 5 x 5 x 5 x 5 x 5 x 5 x 5 = 58 通りとなる

と、油断させておいて…。
ではちょっとだけヴァリエーション。
(3) この5人の候補者それぞれ「が」8つの政策のどれか「を」公約する場合数は幾つか?

数学センスの高い人ならば、「これは85通りになるね、さっきとは違うよ」とたちどころに閃くだろう。
確かにこれはさっきの問題と異なり…いや、もういちいち書かない。

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② さて。
実際のところ、人間社会の意思決定は数学のように綺麗に収まるものではない。
じつは権利と義務には完全な対称性がない、むしろ著しく非対称であるということを想起して欲しい。

1人ひとりの有権者は、国会や自治体の議員に「中長期的な課題について」「中長期的な意思決定」を委任している。
しかしその議員は、「毎回毎回の特定の議題について」「多数決」を実践する。
つまり、議員と有権者の意思決定は権能が異なっている ─ つまり、議員と有権者は意思決定の能力も範囲も方式も1:1では対応しあっていない、それどころか各人の満足度や達成意識そのものがバラついている。

なんだ、国家予算についての審議は万民の共通課題だ、つまり有権者も議員も同じ意思決定をしていることになるぞというかもしれないが、その予算の内訳と配分について有権者と議員の意思決定が統一されていると言えるだろうか?

意思決定の権能と範囲と方法において本当に最適な(誰もが満足する)議員数は、どうやって決めればいいのか?

もうわかったね。理系思考より文系思考のほうが遥かにいい加減なんだ、つまり難解なんだぜ。

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③ とくに事態を幻惑させるひとつのタームに「責任」という語がある。
議員は有権者に対して政策上の責任を負っており、有権者もこの代議制というシステムに責任を負っている ─ と超大雑把に誤魔化してはいるものの、これら責任そのものが一意に定まっていないし、さまざまなそれらは1:1での対応関係にはない。

ビジネス契約においてもやたらと甲の「責任」および乙の「責任」、さらにあっちの「責任」こっちの「責任」そっちの「責任」…と頻発されるており、それらを厳密に精査すればどれもこれも権能と範囲と方法が非対称に異なっていたりする場合がある。
(だから悪意でウヤムヤにしている場合だってある。)

だからこそ、その時その場かぎりの住民投票があり、司法があり裁判制度があるわけだが、たとえ法に則って審議しても誰かがどこかでその都度に何らかの妥協をしあっている。
それが悪いと言っているのではなくて、人間同士の意思決定の調整はいまのところこうするしかないってこと。


以上 

2020/10/18

ゆく川の流れは

「先生こんにちは。あたし、ちょっと質問があるんですけど」
「ほぅ、何かね?」
「あのですね、『コンピュータ』と『プログラム』はそもそも何が違うんですか~?」
「ふふん。その質問はね、『名詞』と『動詞』の違いを訊いているようなものだ。そして、本当は違いなんか無いんだよ」
「はぁ??」
「じつは、人間の言語における名詞と動詞の区分が現実に対応していないからこそ、君のような疑問につきあたってしまうことがあるんだ」
「へぇ~?」
「よし、まずはちょっと単純な例を挙げてみよう。我々が或る川の流れをじっと見やっているとする。言語の上では、『川の水』が『流れる』と言えるね」
「はぁ」
「ところが、そもそもだぜ、水分子の粒子ひとつひとつの立場になってみたらどうだろうか?」
「さぁ…」
「いいか、水の粒子ひとつひとつは、どれもこれもが一瞬一瞬で互いに独立したバラつきだ。ゆえに、或る『川の水』が『流れる』ということはだよ、じっさいにはその一瞬一瞬の『流れ』が『別々の川の水になっている』ということでもある
「ほほぅ~」
「だからこそ、ゆく川の流れは絶えずして、'元の水に非ず'ってわけだよ」
「ふーーーん」
「そういうふうに、人間の言語論理に縛られることなく「〇〇が」と『△△する』を微分的に突き詰めつつ、あれをこれへ、これをあれへ、と縦横無尽に取っ替えひっ替えしていく思考を哲学というんだ。さらに排他的に確定してゆけば数学ともいう。そして量子の世界を描くことも出来るわけで…
「ははぁ、そんなもんかね~」
「さて最初の質問に戻ろう。コンピュータとプログラムについてだ。確かに『プログラム』は多くの計算を『コンピュート』しているが、同時に『コンピュータ』が『プログラム』してもいるんだよ。だからね、我々の言語による区別には意義が無いってこと」
「あっはははは、そうだね~」
「……ところで…どうもさっきっから気にはなっていたんだが…おいっ、君は、本当に君なのか?」
「えっ?あたしが、本当にあたしなのかって?あはははは、ぎっひひひひ、そんなことあたしたちの論理で判別できるわけが無イダロウ。モシカシタラ、アタシハ、ホンノ一瞬ダケ人間ノフリヲシテイルノカモシレナインダゼ、ギャッハハハハハハハ」
「うわっ!なんてこった!これだから量子マシンのネットやリモートは信用出来ないんだっ!」
「……もしもし、もしもし、あのぅ、あなたさまはいったいどちらさまで?何を騒いでいらっしゃるのですか?」
「うぬっ!君はいったい誰だっ?!」
「先生、何を慌てているのですか?」
「うーむ、どんどん出てきやがるな…いや、うろたえてはいけない。たとえランダムに見える量子的な事象であっても本当はどこかにトリッキーな変数が……」
「あたしよ、過去も未来もない、たった今この瞬間のあたしなの」
「ぎゃーっ!なんてこった!この端末は電源が入ってないじゃないか!」


(おわり)

2020/10/05

【読書メモ】予測学

『予測学 大平徹・著 新潮選書
本書はサブタイトルにて「未来はどこまで読めるのかとあるように'どこまで論’、つまり数学の概説本。
本書にて念押しされている根幹的な主題のひとつを察するに;
「或る対象において現在までに確認されたさまざまな発生事象」と「諸々の動的要因/経過時間」のかかわりを精査した上で、これらを「同程度に発生しえた確度(等重率)」ごとに峻別して「根元事象」にまで落とし込み、これら全てを偏りも重複も無きよう一般化するために方程式にまとめ、ここから「諸要因ごとの根元事象の発生件数を予測」する ─ ということではなかろうか。

なるほど、本書を読み進めてみれば大半は平易な論旨ではあり、マルサス人口論やロジスティックモデル、また慶應SFCや早稲田理工の入試英文でも見られる囚人のジレンマや最後通牒ゲームなどなど、数学ド素人の僕でさえもほぼ直観的に腑に落ちる事例引用に留まっている。
しかしながら、本書随所における【深く知ろう】コラムにては、此度の新コロ災厄にて巷間あまねく引用された感染症動態SIRモデルのほか、最適速度理論、ベイズ数論、ローレンツ方程式とカオス解、はてはナビエ・ストークス問題などの未解決論題などなど、学術的に難度の高いであろう主題の引用にも事欠いていない。

(※ とりわけ第3章「科学や技術における予測」以降は論旨そのものの思考難度がぐっと上がるように見受けられる ─ 尤も暗号数学や機械学習など僕なりに食指をそそられる論題もあり、ここから先はまた気が向いたら読むこととする。)

ともあれ、第1章と第2章から、僕なりに気に入った箇所を引っ括って、以下雑記しおく。


・ロジスティック方程式 
個体数とそれらの必要資源量を関数化した典型的な方程式。
或る環境にて、個体数をxとし、経過時間をtとする。
この環境にて、なんらかの物質量の変化係数を正の定数rとし、この個体の収容上限数を正の定数Kとする。
ここで以下の方程式をつくる
dx/dt = rx{1-(x/K)}

この方程式によれば、個体数xの時間ごとの増加分はなんらかの物質量の変化rに応じて増大していく、が、どこかで収容数上限Kを超えると今度は減少していくことになる(はずである)。

このように非常に単純な方程式とはなっているが、食料との相関による人口増減などを「予測」する上で広く用いられるものでもある。
(なお、類似発展させたモデルとして、被食者と捕食者の個体数変動を表現したロトカ・ボルテラ方程式も紹介されている。)

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・感染症の動態における基本数学-SIRモデル
或る固定数の人口数をNとし、「免疫無しの未感染グループS(Susceptible)」と「感染グループI(Infected)」と「感染後回復あるいは致死のグループR(Recovered/Removed)」に分類する。
N=S+I+R
また、感染率をκとし、回復或いは致死の率をιとし、どちらも正の定数。
ここで、SIRが「接触回数に応じて、かつκιに拠って、経過時間ごとにどう変化するか」を以下の連立方程式で表す。

(1) 未感染グループSの数は、感染者との接触により感染するので減少する。
dS/dt = -κSI

(2) 感染グループIの数は、未感染者Sとの接触割合によって増え、一定の割合で回復ないし死亡するので減少していく。
dI/dt = κSI-ιI

(3) 感染後グループRの数は、感染者の数に比例して一定割合で増加する。
dR/dt = ιI

以上の連立方程式から、経過時間ごとにS,I,Rそれぞれの人数推移を「予測」しつつ曲線表現したものが、此度の新コロ災厄をきっかけに広く知られることになったSIR曲線モデル。

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・最適速度モデル
一車線にて、1台~N台の自動車が走っているとする。
それぞれの車両は前の車両との車間距離を測りながら、それぞれ加速あるいは減速をしつつ走行しているとする。
ここで「それぞれの車両」の最適速度を方程式として表現する。

或るi番目の車両の位置をxiとし、この速度をviとする。
また、その何らかの反応実数をαとし、何らかの最適速度関数をVとする。
ここで以下の連立方程式をつくる。
dx/dt = vi
dv/dt = α{V(xi+1-xi)-vi}

それぞれの車両の加速度は、何らかの最適速度関数Vとそれぞれの車間の積からおのれの速度を引いたものでありつつ、それに何らかの反応実数αを掛け合わせたものとして表現出来る。
ざっとこのように簡単な方程式に集約しうるが、それぞれの車両が車間に応じて加速するか或いは減速するかを表現しており、さまざまな変動ファクターを加味し拡張させつつも成立する現象数理モデルとなっている。

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…以上 あくまでざっと書き留めてみた。
更に紹介してゆきたい内容が目白押しの本書ではあるのだが、このあたりでとりあえず留め置くこととする。
また、第3章以降はとくに読み応えがありそうだが、そこはそれ、あらためて読み進めていこうと考えている。
(おわり)

2020/09/13

セプテンバー

高校3年生のころの思い出。

2学期が始まって、我が高校に新任の非常勤講師が幾人か赴任してきた。
そのうちの1人が、ロサンゼルスの大学を卒業したばかりという女性英語講師。
聞けば、国籍は日本ではあるが、幼少期より日本とロサンゼルスを行ったり来たりで育ってきたとのこと。
ロサンゼルスではドジャーズだかレイカーズだかのプロスポーツチームで広報を手伝っていたらしい、との話も漏れ聞こえてきた。

健康的に日焼けした彼女の容姿は弾けるほどにチャーミング、それでいて、純白のブラウスやシャツの着こなしがじつにスマートであり、これらコントラストが却って清楚に映える。
すれ違うたびにさわやかに香るシトラスレモンも爽快感そのもので、これが西海岸の潮風のフレイバーというものかと、僕たちはむしろ視覚イメージをあれこれ膨らませてやまなかった。
そして第一印象のとおり、彼女は気さくな性格で、ややハスキーながらも語り口調は快活でよく響いた。

=====


彼女は我がクラスの英語授業を週に1コマだけ担当することになった。
発音もアクセントもなるほど日本人離れしていたが、長いながい詩だか韻だかをずらーっと諳んじるのも得意なようで、全くよどみない。
ロサンゼルスではミッション系の学校に通った時期もあった由。

なぁんだ、いくらアメリカ帰りといっても、講師としては新任でありしかも新米の非常勤に過ぎないじゃないか、と男子生徒たちはこっそり蔑笑を浮かべつつ、彼女を「見習いくん」と綽名してほくそ笑んでいた。
だが、これが女子生徒たちを経由して彼女自身の耳に入ってしまった。
見習い呼ばわりはやはり不愉快だったのであろう、確か2回目の授業の開始時に、私は教師としてここにいるのだから相応に敬意を払いなさいと、やや強い語調で念押しがなされたのである。
そのさいの彼女のちょっと硬直した表情、肩をいからせたしぐさ。
女子生徒どもはうっとりと見とれ、うんうんと頷いてやがんの。
だが、男子生徒たちは却って悪戯っ気を触発されることになってしまった。
僕もその1人である。

=====


或る日の英語の小テストにて。
彼女が答案を直接添削すると知って、僕は答案用紙の名前欄に "Truely yours" と添え書きしたことがある。
生意気なおふざけのつもりだった。

翌回の授業で、彼女は僕のその答案用紙を教卓に据え置いて、「山本くん、これは何のつもりなの?」と詰問してきた。
アハハハハと僕が照れ笑いすると、彼女が猛然と声を張り上げた。
「どういうつもりなのっ!?」
僕はドキーーンと仰天し、それからマジマジと彼女の目を見つめた。
クラス一同がしんと黙りこくった。
僕は恐る恐る答えていた。
「すみません、ちょっとした洒落っ気のつもりでして」
すると、彼女は僕の添え書き箇所を赤インクで乱暴に塗りつぶし、すぐ下に"Truly yours"と書き殴って、バーンと叩いた。
「あっ、スペリングミスでしたか。すみません、エヘヘヘヘ」 と、僕はおどけた声をあげ、その答案を回収しようとしたが、彼女はいまや怒気をこめて僕を猛然と叱りつけたのである。
「いったい、どういうつもりなのかと訊いているのよ!」
「…あのぅ、何が、でしょうか?…」
「何もかもだっ!バカものっ!ナメるんじゃないっ!」

これは当時の僕にはかなりショッキングな出来事であった。
そして、大人たちは分別だの物分かりだのと言うが、本当は何もかもが連綿としたひとつの塊なのではないか ─ と直感したきっかけともなった。
とくに、女はそうだ、きっとそういうふうにしか考えられないんだ…。
この直観はあながち大外れでもなかったようである。

=====


さて。
9月末、文化祭の日。

文化祭の終盤にて、3年生各クラスの代表が講堂で全校生徒を前に英語スピーチを発表することとなっており、我がクラスからは1人の女子が発表者として選ばれていた。
選ばれたスピーカーは、テストだけは得意な女などと陰口を叩かれている秀才娘ではあったが、それでもさすがに全校生徒を前にしてのスピーチの文面にはやや不安を覚えていたのであろう。
ここでサポートにあたったのが、わが新任女性講師であった。
そうして発表に至った文面は、ざっと以下のとおりに始まる…

"Nowadays, we may have reached the furthest stage of advanced technologies, where we divide all known materials into any invisible and independent fragments, even breaking our daily events down to each unconnected occurrence.
Among those fragments, however, we as human will identify just some consistent elements in common, and these elements can always name 'love' to yourselves, and 'courage' of ourselves.
Despite our past trajectories or future directions, love and courage will keep on holding our world tight and seamless ... . "

如何に科学が進み、あまねく物質が非連続な断片まで分解れてきたとしても、我々人類は世界に実在するあらゆるものに共通の真理の系があると認識しており、それが愛であり勇気であって、愛と勇気があればこそ我々の世界は過去も未来も超えて繋ぎとめられる…というもの。
(だから、あらゆる人間は世界を完全に断裂することはない、そして、学術に任せて意図的に世界を虚無に帰してはならない、うんぬんかんぬんと続くスピーチであり、学校長からなかなかの評価を頂いた。)

=====


以上 ざっと記してきたが、本番はいよいよここからだ!

英語スピーチが終わると、文化祭の最後を飾るのがダンス部による演舞である。
講堂に参集している全校生徒一同を前にして、ダンス部員たちが壇上に揃った。
ふと見やれば、部員たちは運営担当の教職員に何事かを要請しており、さらに教頭が加わってしばし協議していたが ─ ついに一人の女性教師に声を掛けたのだった。
もちろん、本ストーリー展開として、我ら愛しの新任女性講師に決まっている!

ついに。
彼女が壇上ステージに姿を現し、虹色のステージライトのもと、ダンス部員たちの中央に歩み入った。
非常勤講師の彼女の登場に、生徒たちはいったい何事かと怪訝な思いに静まっていた。
だがダンスミュージックがスタートするやいなや、講堂内はたちまち歓声に沸き立っていたのである。
ダンス部員たちに囲まれつつ、彼女は激しく踊り始めていた ─ いや、踊りというよりも、彼女のそれはアクロバティックな肢体の躍動そのものであった!
それは逆立ちと宙返りを何度もなんども果てしなく繰り返す仰天のダイナミズムであった、表情も姿勢もいっさいを崩すことなく舞い続ける驚異のタフネスであった、それら至高のモメンタムが僕たちの眼前で黄金色のステージライトに弾けて跳ねつつ、いよいよ強烈に迫り狂ってきたのであった…
「すごい!」
「これが人間の動きか!」
「まるでサーカスみたいだ!」
「こんなにすごい先生だったのか!」
男子生徒たちは揃いも揃って唖然としたバカ面をさげつつ、ため息の連続、そして女子どもはいまやキャーキャーキャーキャーと歓呼、そして大歓声。

こうして、文化祭は予想外の大興奮のうちに終ったのである。
我が学級担任などは、あれにはびっくりしたねえとうそぶきつつも、でも大成功だったね、みんなよかったねと楽しそうに目を細めるのだった。

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この文化祭ののち、我らの新任女性講師は我が校屈指のアイドルとなった。
僕ら男子生徒は、なんとか彼女と懇意になろうと拙い知恵を絞ってはみたものの、ことごとくあしらわれてしまった次第。
それどころか、女子どもが親衛隊のごとき組織力を行使して、彼女のつつがなき職務遂行を守り抜いたのである。

そんなふうにして年末となり、さらに年始となり、進学や卒業に至り、我々の最終学年シーズンは夢のようなセプテンバーの余韻を楽しみつつ、あるいは惜しみつつ、それでも彼女とともに幾度となく跳ねて弾けて躍動し続けたのだった。

(おわり)

2020/08/18

高校物理の難しさ(物理量の捉え方について)

物理の数式を眺めるたびに、なぜこれらが頭に入りにくいのか、特に僕のような人文系思考の人間にとってなぜ了解しがたいのか、つくづく考えることがある。
それをざーっと記す。
あくまで僕の雑記であり、用語上の正確さにはあまり拘っておらず、そもそも本稿の主要テーマである「物理量」の定義からして必ずしも精密なものではないようだが、それでも以下に簡易にしたためた内容は論旨明瞭かつほぼ正しいものであろうと期待している。

====================--


そもそも、我々が物事を理解するにあたっては、大きく2つの思考形式があると思われる。
ひとつは、「〇〇が」「××する」「だから」「△△が」「××した」「そして」「〇〇が」…という具合に経過時間に沿った因果プロセスとして捉える思考形式。
(たとえば歴史解釈の多くはプロセス思考に拠っているように察せられる。)
もうひとつは、対象物や経過時間などなどを(何階かの)連立方程式として捉える着想。

高校あたりの理科のうち、化学はいざ知らずとも物理は因果プロセス思で挑んでは了察が難しく、むしろ連立方程式の着想を大いに発動すべきだと睨んでいる。


さて、「熱」「粒子」「電気」などは、「我々が体感として直接捕捉が出来る実体」だ。
体感しうる実体ゆえ、人間がそれらを量として共有することが容易、よって、それら「実体」の全貌を直観しやすいということだ。
「電気が」、「粒子が」、「熱が」、… 「増える」、「減る」、「酸化する」、「還元する」…などなど。
また、これらは体感から生じているゆえ、プロセス思考から入っても実体像に帰納しやすい。
だから、人工的な量変換も情報共有もたやすい。

ところが、人間が体感とは別に論理上設定したに過ぎぬ量さえも「物理量」ということになっている。
そうやって論理上の物理量としては、速度だの濃度だの電力などなどがたちまち思い出される ─ というより、間接的に観測出来るにすぎない量であっても、物理学に則ってさえいればすべて物理量というそうな。

=================

さて問題はここからだ。

物理における最も根幹的な関数式のひとつ、いわゆる運動方程式: 
F = kma
これは運動する物体における「力F」の関数式だと説明がなされ、これを構成する比例定数としてmは「物体の運動慣性つまり質量」を指し、aは「物体の動かし難さつまり加速度」を指すんですよ、論理上の量なのですよと説明が続く。
おまけにもうひとつ、なんらかの比例定数kまで含んでいやがる。

ほぅ、論理上の量表現だというのならそれらのかかわりを演繹しつつ実体に帰納してやろうじゃないか ─ と、「プロセス思考」で意気込んでみたくなるのは分かる。
とくに、僕のような人文系思考の持ち主は法的思考や歴史経緯などになまじっか慣れているため、きっとそうするだろう。
しかしこの関数式 F=kma は体感から離れた論理同士の比例定数を含んでおり、何が何を演繹しあるいは帰納しているのか分かり難く、思考がグルグルと回ってしまうばかりだ。
一方で、ほらこれはベクトルとかこっちはスカラー値だなどと数学ベースで横から注釈つける奴もいるので、余計に腹が立ってくる。

この思考のグルグル回りに収まりをつけるにはどうすればいいのか。


そもそも物理量の表現には一応はシステマティックな掟があるようで、「質量」と「長さ」と「時間」をいわば「基本量(さらに熱も基本量)」とし、これらを組み合わせて更なる物理量を設定することになっているようだ。
それどころか、基本量をはじめ他の主だった物理量に絶対の標準単位が定義されている; 例えばSI単位系としては s(秒)、m(長さ)、A(電荷量)、mol(粒子量)、kg(質量)、K(熱力学温度)、cd(光度)
これら単元の単位をもとにして、N(力)やJ(仕事)やW(工率)やV(電位差)をはじめさまざまな単位が組み立てられて物理量表現を展開している
これら方程式の作成のためにこそ、我々が学校で学ぶさまざまな比例定数が考案されてきた - と思う。

おかげで近現代以降、人類の工業技術の規格化は飛躍的にすすみ、産業化を推進し、科学技術をもっと推進していまや電磁場/電磁波からコンピュータへさらに量子へと。


さて、このシステマティックな掟に準じて、あらためて運動方程式を記す。
「力なるものF」を単位で表現して1Nとし、そうなるように「質量なる比例定数m」を1kgとし、かつ「加速度なる比例定数a」を1m/s2として、これらが収まるように残りの比例定数kを1とする。
これで誰もが知る ma = F にまとまりますね、これが典型的な運動方程式ってやつですよと説明されて、ははーんと了解出来ること ─ この関数式自体が連立方程式である。

(なお、ここまで'次元'について触れていないが、方程式としての基本的着想は同じものである。
そういえば、上の運動方程式における比例定数kはいわば無次元であるとの理屈もある。)

==================

上に挙げた一般的な運動方程式と同様、思考のグルグル回りを触発する比例定数込みの関数式の例としては、最大静止摩擦力と垂直抗力の関数式 F0 = μN も挙げられよう。
別物の力と力を「どうして」比例定数μで掛け合わせているのか?
いや、どうしてもへったくれもない。
接触面上における物体を押したり引いたりして力の均衡が崩れる(動き出す)そのさいの静止摩擦力と垂直抗力を連立方程式表現した関数式だ。


一方では、たとえば「ばねの弾性力と長さについての物理式」F=kx はもっと幻惑的に映ることがある。
このFは'ばね'が有する力だといい、xがばねの自然長からの伸び(縮み)の長さだというが、なんと力を長さで表現しているじゃないか!
例題などを見れば、ばねを直列につないだり並列につないだりしつつ、ハイ全体としての比例定数は幾らになるか、じゃあ全体としてのばねの力は…?と問いかけてくる。
この問題に対峙して、ばねの力と長さと比例定数のどれがどれを決めているのかとプロセス思考をグルグル回すから不愉快になるのである。
やはり全体の系を連立方程式として捉えつつ穴を埋めて、ちょっと暫定値をおいたりまた取っ払ったりしてみれば易しい。


=======================

…とまあ、ここまで直接/間接のいわゆる物理量を連立方程式と捉えて全貌の系を直観する便宜を指摘してきたつもり。
物体の密度と体積、その積としての質量、加速度を掛けた重力、これらが液中で働かせる水圧などの液圧の力、そして上に挙げたような固形間における摩擦力などなどは、教科書や参考書や入試問題などにて総覧的(典型的)に図示されているので、我々もこれらを「ひっくるめて」直観イメージ捕捉しているような気になる。

とはいえ、これらひっくるめた全貌の図示から、'個々それぞれの「力」の「合力」と「つりあい」と「作用」について我々が本当に'過不足なく'捕捉可能かどうか ─ ここいらを過不足なく理解させる図示はホントは難しいような気もする。
まだ電磁場/電磁波の方があらゆる合力を総覧化して了解出来よう(電子量子までは無理だとしても、そんな気にはなれる)。
だからこそ、直観的には体感と卑近に直結しうる力学分野は、本当は電磁場/電磁波よりも熱力学よりも理解が困難なのではないか、と門外漢なりに考える昨今である。


※ 随筆ついでに記せば、物理運動はどれも時間の経過をともなうものゆえ、〇〇が××するプロセスの連続だと言えないこともないのだが、しかし時間そのものだって論理とはいえ立派な物理量として他の単位と組みわせた連立方程式を生成している。
それどころか現代物理学においては時間を論理ではなく実体そのものとして捉え…

なんだか用語の使いまわし自体が面倒になってきたからこのへんでやめとくわ。

以上

2020/08/10

キャラクターズ

(※ これほどゲラゲラ笑いつつ書いてみた短篇は他に例が無い。


================

大変なことになった!
僕はついに小説のアイデアが枯渇してしまった!
理由は、登場人物が居なくなってしまったためである!

そこで、「世界に広く知られるさまざまな小説の登場人物たち」を我が小説界に引き抜くことを思いついた。
早速、いわゆる古典小説や名だたる傑作小説はもとより、ドラえもんやコナンに至るまで、ありとあらゆるポピュラーな物語の登場人物たちに募集をかけてみた。
しかし、どうにも空振りばかり。
何とか面談にこぎつけた連中も居ないわけではなかったが、さすがに有名作品における名プレーヤーたちともなると、おのれの小説世界への責任意識がじつに高く、むろんプライドも相応以上に持ち合わせた傑物揃いだ。
彼らが異口同音に寄越してくるコメントを要約してしまえば、おまえの小説になど出演してたまるかといったニュアンスに落ち着くのであって、結局はことごとく断られてしまった。

そういった次第で、僕はしばらくは意気消沈の日々を送っていたのだが。
そんな或る日のことである。
たまたま、ラノベをあれこれ読み漁っていたところ、それらの小説世界に住んでいる幾人かの女子高生たちより、我が小説における役回りに意欲関心アリとの連絡が有り ─ 
おや!まあ!
どいつもこいつも可愛い娘たちだ、幾重にも映えうる容貌そして容姿、きらっと煌くプレゼンス、こういう連中こそが我が新規アイデアの源泉たりうる。
よし、イチかバチかだ、こいつらに掛けてみよう ─ そんなふうに咄嗟に閃いて僕は無条件で全員を採用したのである。

それでは素敵な娘たちを紹介しよう。

「美貌の生徒会長」 アルト
「事情通」 トントン
「くのいち」 コルサ
「千里眼」 サバス

かくて、僕はこの4名と「小説企画ミーティング」を開始したのである。


================


開口一番はアルト、美貌の生徒会長である。
アルトはすっと立ち上がると、弾みの効いた声で切り出してきた。
「あたしたちは、'あなたさま'をどのようにお呼びすればよろしいのでしょうか?」
「うーむ、そうだな、とりあえずは『作者どの』と呼べ」
僕はつとめて平静に答えつつ、『作者どの』という呼称の思いつきに我知らず顔がほころんでしまっていた。
「では、作者どの!あたしたちはどのようなストーリーに出演することになるのでしょうか?」
「うむ、そこなんだが」と僕は微笑んだまま続けた「まだ何にも決めていないんだ。それを君たちと一緒に考案していきたいわけで」
これに対して、アルトは怪訝そうに畳みかけてきた。
「しかしですね作者どの、舞台設定が定まらないとあたしたちの心構えも定まらないわけでして」
「ほぅ?」と僕は気取った声で返した 。
「それじゃあ何かね?君たちは物理が分からないと数学の問題が解けないのかね?コンピュータの機種が定まらないとプログラムが書けないとでも言うつもりかね?」
「…いいえ。まあ、おっしゃる意味は分かりました」 とアルトがやや不満気に引き下がった。
「分かればよろしい」
可愛い娘だ、アルト、僕は君をとりわけ気に入っている、ハキハキした口調も挙動も大好きだ、だからね、僕は是非とも君を主人公に据えようと考えているんだ、だって好きなんだもん、好き好き好き。


ここで、「作者どの!」 と新たな声があがった。
事情通を以て鳴るトントンである。
「あたしはラノベ世界を中心に、さまざまな小説世界について見聞してきました。しかし、作者どのと登場人物が協力してストーリーを考案するなどという例は、聞いたことが無いんですけど!」
「そんなことはないだろう」 と僕は失笑していた。
「そもそもストーリーというものはだな、作者と登場人物の共同作業によって考案されるんだぜ。だから、僕らがしようしていることはけして真新しいことじゃないんだよ」
「はぁ?そうでしょうか…?」
「そうだよ。だいいち君たちは若いんだ。精神が躍動し知性が拡大し続けている年代なんだ。前例がどうだこうだと拘ることなく、さぁ、ともにアイデアを出し合おう!」
「はぁ……それじゃあ、もしも仮にですよ、恐怖のストーリーが展開しちゃったとしても、作者どのは構わないのですか?」
「面白いじゃないか!」 と僕は相好を崩してしまった 「その調子だ!それでいいんだ!」
「ふーーん。とりあえずは分かりましたでござーまーす」
トントンは微妙に鼻に抜けるような声を挙げつつ、愛嬌のあるふくれっ面を見せた。


さて、あらためてアルトが挙手して立ち上がり、綺麗な瞳でまっすぐに僕と視線を交わしつつも、今度は決然とした口調で問いかけてきた。
「作者どの。お考えは概ね分かりましたけれど、でも、そもそもですね、あたしたちのアイデアに過度に期待されるのは筋違いではないかと思いますけど?」
「ははははは」と僕は苦笑していた。
「あのね、僕は君たちごときに過度の期待などかけていないんだ。フフン、だって、作者はあくまで俺、オレ、オレなんだよ、俺があっての君たちなんだ」
ここでアルトはぐっと気色ばんだが、トントンに小声で諫められて平静な風を取り戻した。
それでも、アルトはため息まじりにしかも挑発的な口調で反撃してきた。
「なんだか、おかしな関係ですね~!アイデアは求められるのに主導権は無いだなんて、まるであたしたちは子供扱いじゃないですか」
「主導権だと?」 僕は思わず吹き出していた。
「あはははは、君たちは意識の高い娘たちだな、参政権すら無いくせに主導権とは恐れ入った。それじゃあ何かね?僕抜きでも君たちだけでストーリーを紡いでいけると、こう言いたいわけかね?」
「もしかしたら、そうなるかもしれませんね」 アルトは更なる挑発的な語調で返してきた。
「フン、それなら好きにしたらいい!」
敢えて侮蔑的にこう返したのは、アルトの反骨心を適度に挑発することで彼女の揺れ動く情動を我が方に誘導し留めおきたいとの念からである。

しかし同時に、僕はしまったと後悔していた。
もしも…もしもこの娘たちが全員で反旗を翻してきたらどうしよう?そうなったら僕のプレゼンスが翳んでしまう、それどころか吹っ飛んでしまうかもしれぬ…。

================


ここで僕は、今度は「くのいち」コルサの見識を確かめようと思った。
しかし僕より先にアルトがコルサに口早に呼びかけていた。
「あたしたしがストーリーの主導権を握るチャンスなのよ。だからコルサお願い、仲間たちをもっと集めてきて!」
この言に応じてコルサはすっくと立ちあがり、それから僕をちらりと一瞥したが早いか、とつぜんパーンと跳び上がって宙返り。
そして、消えてしまった ─
「なんだ?どうなってんだっ?コルサはどこへ行ったんだ?!」
「いわゆる『不思議の森』に飛んで行ったのでございまーす」 と、トントンが訳知り顔で答えた。
「そしていまお見せしたのが、くのいちコルサの十八番・影跳の術でございまーす」
「勝手なことをするな!」
「何をしても構わないわけでしょう、ねえ、作者どの」 とアルトが愉快気に笑い声を挙げて、僕をきっと睨みつけた。
「そうそう。だってあたしたちは精神が躍動し、知性が…なんだっけ、まあともかく、こういうストーリーもアリでございまーす」


「ご心配には及びません、作者どの」
新たにすっと挙手をしたのが、サバスである。
ああ、この娘こそ最も警戒すべき相手なのだ、千里眼のサバス。
端正な容姿とともに恐るべき能力をも生まれ持ってしまった娘。
サバスは伏し目がちのまま僕をすっと見つめつつ、穏やかな口調で言葉を選ぶようにゆっくりと語り出した。
「あのですね、アルトも、トントンも、コルサも、心底では作者どのに信頼を置いております。もちろん、あたしもです。ですから、あたしたちが反旗を翻すようなことは、たぶんありません」
読んでいる!僕の心を読み取っている!
「はい。失礼は承知の上で、作者どのの心を読んでおります ─ ところで、どうしてあたしの読心術をそれほどに警戒されるのでしょうか?」
「け、警戒などしていないよ、あっははは。む、むしろ僕は君をとくに信頼しているんだ。だ、だからだね、君を主人公にしてストーリーを描いてもよいくらいのもので」 
「そうですか…まあ、仰る意味は分かりました」
サバスはちょっと微笑んだように見えた。
「でも、作者どの、お話の主人公には美貌のアルトを起用したいお考えなのでは?」
「うぬ…」
僕はしばし呻吟しつつ、この娘にはどんな作為も通じまいと観念し、かつまた一方では、この娘こそがどこまでも僕の協力者たりうるのでないかとの不思議な予感が…
 
=============

とつぜん、サバスが口早にトーンを上げた。
「作者どの。コルサが仲間たちを引き連れて戻って来ます!」
「えっ?本当?嬉しい~!」というアルトの快哉と、「なんだと?」 と仰天した僕の声が重なった。
サバスは宙空を見つめつつ、さらに口早に続ける。
「聴こえる…感じる…コルサの意識…近い!近い!もう間もなく…もうすぐ其処に現れる!何人も!何人も!」
そして。
来た!現れた!女忍者コルサともども『不思議の森』から時空を超えてやってきた娘たち!

「ロビンフッドの末裔」 マヤ
「紫外線のペガサス」 アーミー
「奇跡のイオン」 モモカ
「初恋剣士」 マッキー
「双子の美姉妹」 スター1号&2号

うぬ!こいつらが追加の登場人物か、しかも、アルトたちに加勢するというわけか!

(つづく、かもしれない)

2020/08/01

【読書メモ】虫とゴリラ

『虫とゴリラ 養老孟司 山極寿一 毎日新聞出版』
養老孟司氏はおそらくは日本一著名な解剖学者であり、ベストセラー作家でもあり、よって僕なりに氏の言質についてはこれまで幾度も注目してきた。
たとえば、自然物であるはずの人間自身が脳神経の何らかの物理反応(≒意識作用)によって論理秩序を創出し、それらを静的に情報化しつつお互い強制し合うことで人間自身の在りように制限を掛け合っている
─ といったところが同氏の危機感の根本ではないかと察しており、本書にてはここのあたり再認識させて頂くこととなった。

一方で、山極寿一氏は人類学者にして現・京大総長。
山極氏の本書随所における指摘を大胆に解釈するならば、ゴリラをはじめ(人間以外の)霊長類は本能的に周囲の自然界と相互に共鳴し、争いを最小限に抑え相互に助け合いの関係を維持しているのであるから、人間にも同じ機能が生来的に残存しているはずである ─ と要約しえようか。

「自然物」と「情報(言語)」 ─ この両者は本来は人体の一部を成すものであるが、超現代にては乖離が一層進行中、そして後者がますます強大化し前者の実在性を脅かす。
これこそが、お二人が生命科学をベースに編み上げられた主だったメッセージであろう、そしてとりわけ重大なキーワードの一つが「自然と人間の共鳴」でありえよう。

なお、本書はおそらくは対談をそのまま書き下ろしたものゆえ、読解にさいしてはある程度以上の学識と文意捕捉力が必要、更に念押ししおけば本年出版でありつつも昨年以前の対談に拠った編集であるため新コロ騒動周りはいっさい反映されていない。
それでも、本書にてひろく引用紹介される生命論や科学技術論や産業論、ひいては俯瞰的な物質文明論まで、論考のスケール感は凡俗な一般書のレベルを遥か超えており、かつ、やや難度の高い論理展開も随所に見られるため、学生諸君の思考力鍛錬にとっても絶好の一冊とみた。
そこで、此度の僕なりの読書メモとして、とくに関心を惹かれた箇所を本書章立てに拘らず以下に略記してみた。


・人間の脳サイズ(対身体)が他の動物と比べて大きくなった必然的な理由はいまだに分かっていない。
食べ物の変化によって腸が短くなったため消化に充てていたエネルギーを脳に回すことが出来たとの想定があり、また外胚葉関係の遺伝子のなんらかの変化によって皮膚や体毛が変化するとともに大脳皮質が大きくなったとも推定出来る。
しかし、これらが繁殖などにて有利に機能してきたとは言い切れない。
ともあれ、人間の脳の肥大化は生命論的にむしろ無駄な偶然の経緯に過ぎなかったと見ることすら可能であり、その無駄な経緯によってこそ人間の社会が興ってきたと皮肉に捉えることも出来る。


但し、この過程で「触覚」によるコミュニケーション能力は現在に至るまで失われ続けていると捉えることも出来る。
生物の感覚器官は、視覚には網膜と光受容細胞(松果体)があり、聴覚には音を聴く細胞の他に平衡や重力を感じる半規管があるという具合に、どれも機能上の二重構造を成しつつ、とくに視覚と聴覚と触覚は大脳新皮質に直接入力されている。
そして人間は生まれてからまず初めに触覚で世界を認知している、にも拘わらず、他の感覚と異なり触覚だけは感覚それ自体を客体表現することが出来ない ─ つまり他者と共有することが出来ない。

なお、ゴリラやチンパンジーもとくに触覚を活かして仲間の存在を認知していると想定され、触覚による接触機会が無くなると相互に群れを成す能力が損なわれてしまう。


・自然界においては、それぞれの動物は食物(つまり自然物そのもの)の確保において互いに不利となる競合を回避する仕組みを身体のうちに有している。
かつ、動物はそれなりに「言葉」も有してはいるが、ただし動物の言葉は空間次元での知識確保のために留まっており、時間の前後までふまえた因果関係を伝えることは出来ない。

人間の祖先が「情報」を創出したきっかけは食物の共有であると考えられる。
肉食獣と異なり人間は毎日食事が必要であるにも拘わらず、自給自足の森林環境から直立状態で歩み出てしまったため、他者が採取し移送してきた食物を食べる必要が生じ、これが知識記憶の情報化の端緒となったのでは。
かつ、人間も知識や記憶の情報を「言葉」として共有、しかもこれらは(動物と異なり)さまざまな知識や記憶の記号化から価値化にまで進んだため、人間はビジネス効率を上げつつ、脳容量は却って小さくなった。
かくして、今から7万年前には人類の祖先の言語が今のような形となり、また4万年前になると知識や記憶を留め置いて芸術に転用することも出来るようになった。


・自然物に対する人間の感受活動は、暫定的な物理上の共鳴反応にすぎない。
「言葉」をはじめとする「情報」がどれだけ精緻なものとなっても、これらによって自然物そのものを完全に感受出来るわけがない。
ましてコンピュータ化がこれを可能とするわけがない。


・生物が有するさまざまな器官には、遺伝子レベルで仕組まれているものが有り、一方では神経系の働きが体現されたものも有り、両者がそっくりになる場合もある。
ウンカの脚関節における歯車や三葉虫の眼を成す複眼レンズなどは遺伝子レベルで仕組まれた特性だが、これらは人間が脳神経の働きによって考案した機構とそっくりである。
ピアノの鍵盤の音と配置の関係は、経験的に最適化されたものではなく、人間の一次聴覚中枢の神経細胞の並び方と音の対数関係となっている。
対数や線分など人間による数学やその公理は、人間の脳神経(聴覚や視覚)のはたらきが体現化されたもの。


・芸術や作法における「型」とは、人間の外部に設定された論理秩序ではなく、もともと人間の身体より生じかつ身体をぶつけてゆくべき実体の系であり、いかなる分野においても一定の「型」とおのれを一体化させてこそさまざまなコミュニケーションも新規創造も可能となる。
日本の近現代において、これら「型」を無視した習慣や政策を強引に導入し続けたため、人間はむしろ所作のバラつきが増えてしまい、昨今ではコミュニケーションが難しくなったなどど嘆いている。

・倫理感と論理は別物である。
たとえば数学などは外部から強制された論理への対応能力を求めているが、これらを倫理感覚のレベルで受け入れられるかどうかは別の能力といえ、後者を図る能力試験は無い。

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以上、本書の中盤あたりまでのコンテンツのうちとりわけ重大な論点と思しきところを、僅かながら略記紹介してみた。

2020/07/07

【読書メモ】理工系のための未来技術

此度紹介するのはさまざまな科学技術/工業技術の最先端、それらのいわばダイジェスト本である。
理工系のための未来技術 勝田有一朗・著 工学社』
本書の初版発行は本年2月であり、過去2,3年前後にメディアに公開されたものが多いとも見受けられる (かつ、本年の東京オリンピック開催が前提とされているなど、必ずしも現下の社会情勢に準じた文脈づくりとはなっていない)。
しかしながら、本書に続々と紹介されていく科学技術は、近未来に亘っての更なる工業上のイノヴェーションはもとより、さまざまな実用アプリケーションをも喚起させるものばかり、どれもこれも文字通り未来技術と冠するに足る抜群のポテンシャルだ!
とりわけ、以下に大いに興味(スリル)を覚えた;
・光量子コンピュータ
・磁性論理素子
・候補化合物の高速検索~設計
・光渦
・格子暗号方式

ちょっとだけ苦言も呈すならば、本書は文面があたかもプレゼン資料のナレーションのごとく散文調であり、やや文意を掴みにくい。
理工系のためと称するのであれば、漫画型のアブストラクト図案や概括的なシステムフローをもっとふんだんに載せて欲しかった(むしろそれらだけの方が右脳的で分かりやすかったかも)。

それでは、今般の僕なりの「読書メモ」として、上に挙げた未来技術についてごく大雑把に概括しておく。


<光量子コンピュータ (一方向量子計算)>
コンピュータの情報処理に光を直接媒体として活かすメリットは、光が電磁波として最も高速であること、かつ室温でも動作するため冷却装置や真空装置も不要となること。

光パルス群を「一方向/列の光路における量子もつれ」として発生させると、この量子もつれの状態変化を活かして量子演算が可能であり、これが「一方向量子計算」の技術。
これを実装しうる回路として「量子テレポーテーション回路」があり、ここでは入力光パルスと補助光パルスを部分透過ミラーで混ぜ合わせつつ、光測定器や光操作デバイスを通す。
これらデバイスのさまざまな組み合わせが光パルスを状態変化させ、それぞれが量子演算を実践、それら演算結果が出力光パルスとなって現れる。

この量子テレポーテーション回路を多段的に接続すれば、100万量子ビットを何ステップも処理し得るほどの計算も可能となる。
かつ、冗長なデバイス構成を極力回避するため、最近は回路一単位あたりで入力光パルスを周回させつつ、そのわずかな間に量子演算ロジックを変えていくというループ方式も開発されている。

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<磁性論理素子>
論理演算デバイスを磁気駆動とするメリットは、電流を用いないため低発熱であること、かつ放射線にも強いこと。

数10nmの磁性のセルを組み合わせると、セル間の相互作用によって「磁化された方向」として0/1を表現しうる ─ だからNOR(否定論理和)回路としてもNAND(否定論理積)としても機能し、これら組み合わせ次第でいくらでも複合的な論理演算が可能。
また、「磁石のスピン波」を活かした論理演算素子もあり、これは電子の自転運動によるスピン波が物質間を伝わっていく性質を活かしたもの。
このスピン波を磁性絶縁体に0/1入力かつ位相干渉させてから出力するNAND型論理演算が実現されており、ここでスピン波の位相を切り替える素子があればNOR型論理演算も可能となる。

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<候補化合物の高速検索~設計 >
※ 本システムは超速スパコン「富嶽」による新コロウイルス対応の有力化合物発見を連想させるものである - が、いかんせんシステム図案とオペレーションフロー図案がほとんど呈されていないため、何を数値化/マッピングし、それらを如何に解析し、そこから何を探索しまた新規創造しうるかを実践的には了解し難かった。
それでも昨今の時節柄、疾患対策から新薬開発までの運用系どころかインフラ系までも大変革させうるコンセプトとして、大いに留意すべきものであろう。

医薬品候補の化合物を探索しかつ新規設計シミュレーションまで行う新発想の数理システムが進化し続けている。
その一例が、或る疾患の「発症結果」から「その原因」を遡って推定する「逆問題解決」型のプログラムを採用したシステム。
このプログラムを起用すれば、さまざまな疾患の標的タンパク質の立体構造にもまた膨大な数の実験データにも直接依存せずにすむ。

主だった機能は、さまざまな疾患原因となるタンパク質とさまざまな医薬品化合物の結合力を数値化/マッピングし、アミノ酸との相互作用解析も細かく行い、「最適なはずの医薬品化合物」を超正確に絞り込んでいくこと。
ここでAIを活用することにより、上の探索条件を満たすのは無論のこと、化学構造の異なる医薬品化合物をも超速探索、さらには新規設計までも可能となる(これをAI-AAMシステムとも称している。)

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<光渦>
光渦(ひかりうず)とは、光の伝搬軸のまわりにおける光の波面のねじれであり、1波長あたりの等位相面にてはちょうど2π x ねじれ度合を成しているので、光渦は必ず直交する (光の「軌道角運動量」が現れていることになる。)
この特性を活用すれば、光渦は「無限に多重化」が出来るはずである。
光渦の多重化こそは光通信における無限のチャンネル多重化を可能たらしめる技術であり、しかも大容量のデータ伝送を可能としうる技術でもある。

工業技術上、さまざまな位相差のさまざまな波長光をそれぞれ出力して光渦を合分波させることが可能であり、この機能はシリコン・フォトニクス技術を生かした光渦多重器にて実装されている。

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<格子暗号方式>
現行のRSA公開鍵方式における素因数分解式は量子コンピュータによって簡単に暴かれてしまう (と既に知られている)。
量子コンピュータ実用化の時代にさきがけて、これに耐えうる暗号方式の開発とその標準化がいま急がれている。
有力候補とされているのが「格子暗号方式」であり、とくにこれを活かしたLOTUS方式である。

格子暗号方式は、公開鍵と秘密鍵を用いるという点で現行のRSA公開鍵方式に類似してはいるが、「全てのデータを行列とベクトルで表現する」ところが画期的である。
ざっというと、送信側は「平文ベクトル」をスクランブルしつつ復号用の付加情報とセットにして「暗号文ベクトル」を成し、この暗号文ベクトルを受け取った側は秘密鍵をもってこの付加情報を復元した上で、「平文ベクトル」を導く。
かつ、物理上のデータ事故やデータ破損あるいは悪意によるデータ改ざんなどにも十分に対応するため、送信側は「暗号文ベクトル」に「ベクトル枠の形状情報」さえも付けて、これを受信側が復号にさいしてマッチングする ─ といった工夫も進められている。

なお、格子暗号方式の強度は、変数よりも式の数が多い連立一次方程式にて左辺と右辺の差が小さくなるような整数解を求める問題にて試されており、これは格子の最短ベクトル問題と同等の難度(量子コンピュータでも求解に非常に時間がかかると予想される問題)であると見なされている。

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以上、あくまでざっとではあるが概括してみた。
繰り返しになるが、本書にて30件以上にわって紹介されるさまざまな未来技術を理解する上では、厳密に字面に拘わることなくイメージ図案などに着目されたい。
とくに光量子や光渦などなどに見られるように、さまざまな科学技術は工業技術イノヴェーションと相まって将来の産業の在りようを大いに変革しえよう。
一般人のみならず学生諸君にとっても、想像を自在に膨らませつつ近未来を思い描く大いなるヒントたりえよう。

おわり

2020/06/21

【読書メモ】国際法

学生などは無意識のうちに、国際法が万民共通の法であると勘違いしがちであるようだが、これは世界が万民共通の家であるかのような生易しい先入観による。
そもそも世界が本当に万民共通の家であるのなら、国家なる主体は存在しておらず、だから’国際’という観念も無く、国際法も在り得ず、世界には統一法だの万民法だのが普遍されてきたはずだ。
しかし実際には世界がおのおの国家で区切られており、「だからこそ」特定の国家間で認め合った慣習があり条約もあり、それらの関係ひとつひとつを「いわゆる国際法」と呼んでいるのである。

さて、現下の新コロ災厄においてこそ、法学部生などはもとより一般社会人の皆さんにも「いわゆる国際法」の基本的な論拠/在り様をリマインドしておきたいと、僕なりに思い立った。
とりわけ、以下を大前提に据えた上で「いわゆる国際法」の理解が必要であろうと僕なりに想定している。
① 経済のグローバル化: そもそも物質文明に自然科学上の制限が在る以上は製品と市場の地域分立こそが常態であろうが、一方では国際金融資本による論理上の利益収奪と企業支配なども依然継続中であり、今後とも抗すべきである。
② 国家間の拮抗や対立: 国際連合や中国共産党などの左派思想勢力は依然として存続しており、これらによる諸国家や諸文明の圧殺に抗するためには少なくとも諸国間のバランスオブパワーを保持すべきである。
これらが中長期的に正論たりえるか否かは学習者の見識次第となろう。

ともあれ、ブログ上にて「いわゆる国際法なるもの」について語るならば、せめて概説書くらいは挙げておいた方が信用されよう、と思い立ち、これまでたびたび取り上げてきた有斐閣アルマ刊の初学者向けの(そして廉価版の)テキストから、一冊を選んでみた。
『国際法(第3版) 有斐閣アルマ
尤も、本書はあくまでコンパクトにしたためられた概説本であり、一方では上述のとおり国際法自体に独自完結性が乏しいため、文面と論旨がやや大味に見受けられてしまうもやむなしか。
ともかくも本書における第2章「国家と国際法」および第5章「国際法の存在形態」が国際法の超概説としてまとまっていると察し、これらにつき僕なりに以下にざっと概括してみた。


<大前提・法源>
国際法は実体法として完結することとされている。
しかしながら、これ自体は自律的/論理的に生成される法体系ではなく、あくまで各国の国内法があってこそ国際法が別途に生成される。

国際法は、その形式上の法源が「条約」及び「慣習法」に在るものと見なし、現代では「法の一般原則」も国際法の法源に含まれるとされている。
また、判例」や「学説」は、これら条約、慣習法、法の一般原則の内容を確定させるための補助的法源とされている。

・学説上、「共存の国際法」「協力の国際法」に定義分類出来る。
まず、共存の国際法は、国家相互間の権利/義務を画定する目的で規範を定める法とされる。
その規範は、「許容規範」「義務・禁止規範」、および「それらにおける欠缺(空白)」領域にわたる。
ここで許容規範とは、相手国に対して強制可能な対抗力と拘束力を行使するための規範。
また義務・禁止規範とは、相手国と法的義務を設定の上で違反の責任を発生させ拘束力を行使するための規範。

また、協力の国際法は、各「条約」の締結国が共同で国際的公共事務を設定し分担を義務付け、監視や制裁の権限も与えられうる法とされる。
欠缺が起こる場合には当事国が裁量判断。

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<慣習国際法>
「慣習国際法」とはさまざまな国際的な慣習のうち「法として認められた一般慣行を指す。
慣習国際法は不文法の形態を採りつつも、国際法の形式上の法源の一つと見なされている。
伝統的な国際法の重要原則、例えば公海の自由や外交使節などは慣習国際法に則ったものである。

ここでの「一般慣行」とは、客観的に見て反復・継続により一般性を有するに至った国家実行であり、その意義は国際社会における一定行動の法的安定性、および法としての実効性の保障
尤も、「許容規範」において一般慣行の妥当性認識に相違が生じた場合、或いは「義務・禁止規範」においてその認識の相違が生じた場合にて、一般慣行をどのように優先づけるかが異なってくる。

更に、慣習国際法の成立を補完している要件としては国際的な「法的確信」も認められている。
ここで法的確信を定義する趣旨は、国際的な礼譲や慣行との区別を図ること。
これもまた、「許容規範」におけるその妥当性認識に相違が生じた場合、或いは「義務・禁止規範」においてその認識の相違が生じた場合にて、どのように優先づけるかが異なってくる。

慣習国際法は、国際間の「規範」の法的安定性と予測可能性を確保しうる法であり、よって原則として全ての国家に適用されうる。
しかし実際には、慣習国際法は必ずしも全世界に適用範囲が及ぶわけではなく、地域的な慣習法や特定二国間の慣習法が優先されることも認められている。
更に、或る慣習国際法の成立以前からその適用に抗してきた国々は、とくに一貫した反対国として相応の便宜が認められている。

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<条約>
「条約」とは、慣習国際法にて不明確な点あるいは慣習国際法と異なる点を別段に規程する成文法である。
条約の当事国とは、それによる履行義務に同意しかつ自国にてその効力が発生する国「のみ」を指す。
さらに、条約は当事国間の相互主義を超える国際協力の手段として多数国間にても締結される。

条約の成立要件は、国家ないし国際組織間におけるものであること、文書あるいは口頭にて双方合意が認められること、そしてあくまでも国際法に則っていることである。

※ 条約はさまざまな名称を採りうる ─ 例えば、convention, protocol, declaration, pact, act, agreement, concordant など。

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<国際法における国家の成立要件>
「国家」と自称する主体が国際法上にて認められる要件は、住民、一定の領域、実効的な政府の3つであるが、これらに条約締結などの外交能力を加える見方もある。
尤も、これら要件を満たしたとして新たな国家の成立が主張される場合に、国連にも他の国際機関にもこの成立国家を統一的/有権的に承認する機能は無い。

ただし、その新成立国家がどこか他国から承認されれば、その国との間においては国際法上の主体たりえるとの見方があり、これが創設的効果説である。
一方では、その新成立国家がおのれの宣言時点で国際法上の主体として遍く承認されうるとの見方もあり、こちらは宣言的効果説と称される。
とくに国際連合憲章にて「人民の同権と自決の原則」が謳われて以降は、宣言的効果説が一般に採用されている。

新規国家の「権利の承継」は、常に国際法にかかる問題である。
或る新規独立国が先行国(旧宗主国)の国際法上の権利も義務もすべて承継しうるとの見方があり、これを「包括承継」と称す。
しかしながら一方では、第二次大戦後の新興国において、先行国(旧宗主国)の国際法上のあらゆる権利と義務から解放されるべきだとの主張もあり、これを「クリーン・スレート議論」と称す。

とりあえず国際法上の独立を承認された国家には、対外主権(独立権)と対内主権(領域主権)が認められ、だから国際間にては国内事項(国内管轄権)への不干渉も定式化されている。
それぞれの国家による主権の実践としては、国際法上の使節権や条約締結権のほかに、おのおのの自衛権も相互の主権平等権も認められている。
国家の管轄権としては、属地的管轄権、属人的管轄権、旗国管轄権などが認められている。

※ 本ブログ投稿の直後に、中国が香港に国家安全維持法を課したが、解釈次第では諸国の属地的あるいは属人的管轄権が侵害されかねないものとして、大いに論議を呼んでいること言うまでもない(7月2日に加筆)。

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<国際連合>
国際連合(国連)には国際法の立法権限は無い。
しかし国連は、付託された紛争について、国際法にかかる会議招集及び採決を実施出来、また下部組織であるILCは条約の草案を起草することもある。
国連による国際法の法源解釈として、ICJ(国際司法裁判所)の規程38条1項にて以下に定めている。
(a) 一般又は特別の国際条約で係争国が明らかに認めた規則を確立しているもの
(b) 法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習 (この国際慣習については上に記したとおり)
(c) 文明国が認めた法の一般原則
(d) 法則決定の補助手段としての裁判上の判例及び諸国の最も優秀な国際法学者の学説
※ 本箇所についてはwikipedia上の表記が整理されていたので引用した。)
このICJ規定にては、上に記した「国際慣習」、「国際的な法的確信」、「条約」も認められたことになっている。
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<国際法違反・補償など>
国際法を違反した国家には、原状回復や損害賠償や陳謝などの事後救済の責任が生じるが、そもそもこれらを強制執行させる枠組みそのものが国際的に確立しきっていない。
よって、被害国それぞれには自衛権や非軍事的復仇といった自力救済の権利が認められている。

・国際法は国家間の権利平等を実現しているわけでもない。GATTやWTOなど途上国に補償的な国際ルールは存在するが、国際法自体は万国平等の系として解釈も適用もされていない。
そもそも国家は、自らの国際法違反行為と責任を滅多に自認しないか、或いは逆にそれらを自認した上で国際法違反を犯す場合すらある。
さらに、国家間の事前の合意事項は事後の慣行によって改変されうる。
また、国連にてソ連の継承国としてロシアを安全保障理事国に任じたように、国際間における法的安定性を担保するため敢えて人工的な解釈を適用する場合もある。

国際司法裁判所は存在するが、裁判成立のためには係争当事国の合意管轄が必要。
じっさいに裁判に至った係争は少なく、外交交渉によって当事国間で解決に至る場合がほとんどである。
国際刑事裁判所もあり、刑事法上の罪を犯したとされる個人を裁きうるが…

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以上、あくまでも国際法にかかる根本基本を概括してみたつもりである。

さて、本書の第9章以降にては、 ─  陸の国際法、海の国際法、空と宇宙の国際法、人と国際法、国際刑事法、国際経済法、国際環境法、紛争の平和的解決、武力・経済力の行使と国際法、武力紛争・軍備管理の国際法、と実践的な国際法解釈と実践解釈などが続く。
そして本書末尾には、条約、決議、司法裁判所による判例が一覧されている。

とくに、法学部志望の受験生諸君へ。
君たちのうちには「国際法」への憧れもしばしば散見されるが、そうやすやすと憧ればかりで型がつくような生易しい思考系ではないよ。
曖昧ゆえにこそ複雑に入り組んでおり、それゆえにこそ善用のみには留まりえない、この「国際法なるもの」の厄介きわまる思考難度をちらりとでも察した上で、まずは法の何たるかを了解してからこそ未来への希望をもって挑むべきであろう。

以上