2020/11/28

バイナリー

就職したばかりのその年は例年よりは温かいシーズンではあったが、それでも秋が終わり冬を迎える頃には、寒さが身体にも精神にもこたえ始めていた。
そして、社会人成りたての僕はまさに人生はじめての煩悶の初冬を迎えていた。

同じく煩悶するにしても、仕事についての試行錯誤ならまだいい、何もかもがいつかはきっと救いとなりうる。
しかし、僕の悩みはもっと深淵かつ高尚なものであった。
僕は新米ペーペーの分際ありながら、こともあろうに同じ会社の年上の女性に激しく恋焦がれていたのである!

恋の悩みには救済など約束されていない、そしてその苦しさは当事者でないと分からない、いや、当事者同士であっても表現のしようがない、まして第三者が真面目に読むわけがねぇんだ。
そんなこたぁ分かってんだ。
よって、以下に要約のみ記す。


彼女は僕より1つ年上(2つだったかな)、誰もがハッと瞠目してハッと振り返るほどのとびっきりの美人。
高校時代にずっと憧れていた美貌の数学教師にちょっと似ていた。
しかしそれ以上に、或る有名絵画におけるパリジェンヌの肖像に奇妙なほどに似ていた、とくに広めの額とちょっと尖った顎の線などそっくりだった。
だから僕は心中でそっと彼女を’パリジェンヌ’と呼称して恋慕の念を…

’パリジェンヌ’はソフトウェア製品の性能評価に従事していた。
そして、新人である僕への教育担当となった。
これが経緯の発端。
とりわけ夏以降になると、僕たちはしばしば行動をともにするようになった。
僕がソフトウェア製品について若干の知識と興味を抱いたひとつのきっかけともなった。
とはいえ、もちろん僕の本当の興味関心は’パリジェンヌ’に注がれていく一方。
幾度も同じレストランで夕食をともにし…いや、仔細は避けよう、ともかくそんなこんなで僕は彼女を猛烈に好きになってしまったわけ。

しかしタイミングがあまりにも悪かった。
彼女はすでに別の職場の男性社員と婚約していたのである。
したがい、我が熱情はせつなき片思いに過ぎなかった ─ というより、ここが肝心なのだが、彼女のまことの心情など畏れ多くて確かめようが無かったのだった。


さて。
我が愛しの’パリジェンヌ’の結婚式が直前まで差し迫っていた、或る日曜日の夕刻のこと。
夕闇がさっと空を覆いかけたまさにその時、天空の彼方でひとつの奇跡めいた出来事が起こっていた。
仔細を記すといろいろ逆算されて僕の素性がバレてしまうかもしれないので、これもざっと曖昧に記しおく。
要するに ─ 或る惑星群において、絶妙の距離と方位と引力とタイミングの巡り合わせによる壮麗な配列が確認されたのであった。

ああ、これはいい、と若いわかい僕はとっさに閃いた。
この惑星群の奇跡を以て、我が愛しの’パリジェンヌ’の結婚への祝意を伝えよう。
そう思い立った僕は、簡易な文面の手紙をつづったのである。

『僕はこれまで万物は偶然の現象であり、宇宙はそれらの散在に過ぎぬと考えていました。しかし昨夜のあの惑星群の巡り合わせは偶然でしょうか?かかる奇跡的巡り合わせでさえも必然の方程式で説明出来るそうです。キリスト教でいうアダムとイヴの巡り合いにもきっと必然の方程式が有るのでしょう。この崇高な真理に感じ入ればこそ、僕はこの度の貴女のご結婚を祝福申し上げる次第です。末永きご多幸を!

ざっとこんな文面。
とりわけアダムとイヴの例示が我ながら気に入ってしまった。
なにしろ当時の僕はまだ学校を出たばかりの若輩で、だから今よりもずっと理知的であり、かつ観念的でもあり、そして純情でもあり、ひっくるめて言えばバカであったので、この文面に我ながらせつなくなってしまった。

ともかくも、これを社内emailにて当の’パリジェンヌ’に送信したのが週明けの月曜のこと。
彼女からはごく簡単な文面にて「素敵なお手紙ありがとう!とても嬉しいです!君のことはずっと忘れないわよ!」との返信があった。
この「とても嬉しいです!」「ずっと忘れないわよ!」には参った、本当に参ってしまった、もう気が狂うかと思いつめたほどである。

その週末に彼女はとうとう結婚してしまった。
僕はどうにも無力感を払いのけることが出来ず、それは虚無感にまで論理化され、しかも持って行き場の無い怒りとして酸化されつつ、それでも周囲の諸先輩方に持って行ったものだから、大いに人物評価を落としてしまったことだろう。
そんな不良新人のような日々がしばらく続くのである。

※ ここで本投稿を終わらせてもよいのだが ─ いいや、俺の投稿はもうちょっと凝っているんだ、分かってんだろ。
話はいよいよここからだ。


★   ★

2~3カ月ほど経ってからのこと。
新婚生活をつつがなく送っているであろう麗しの’パリジェンヌ’から、とつぜんメールの入信があった。
彼女の「妹」とのデートの申し出である。
これには面食らった。
とてつもない難問を突きつけられたと思った。

もちろん、あの美貌の’パリジェンヌ’の「妹」であれば負けず劣らずの美貌の娘であること十分に想定されよう。
有名大学の4年生で、老舗の有名アパレル企業に就職が決まっており、語学がかなり堪能である由であり、ここまで論理的に類推すれば素晴らしい妹さんだということになる。
もしもこの妹と昵懇の間柄になれば、あの愛しの’パリジェンヌ’とあらためてお目見えする理由付けにもなり…

いや、しかし。
しかしだぜ、既に人妻となってしまった’パリジェンヌ’に対していつまでも思慕を引きづっているこの僕自身はいったい如何ほどの男といえようか?
好機到来だなどと心中ではしゃいでいるこの僕自身は、いったい何なのだ?
むしろ軽薄で卑しいばかりではないだろうか。

いったい、僕が知りたいのは事態の真相なのか? ─ 否、真実だ。
僕が見極めたいのは虚しき偶然か? ─ 否、アダムとイヴの必然だ。
うむ、此度の「妹」とのデートをここまで貪欲に捉え直してみれば、あの素敵な’パリジェンヌ’、僕をずっと狂わせ続けたあの美人、あの憎らしいほど恋しい女についての真実と必然を垣間見る機会となるかもしれぬではないか。
…こんなふうに、僕はあたかも私小説の主人公のごとく大仰なまでに思案を続け、幾度も逡巡し、それでも結局はその当日、指定のレストランに赴いたのであった。


★   ★   ★


その「妹」を一目見て、僕は軽く驚かずにはいられなかった。
美貌の’パリジェンヌ’姉さんとはほとんど似ても似つかぬ容姿の娘だったのである。
僕の心中を見透かして余りある風に、彼女はおどけた声を投げかけてきた。
「ねえ山本さん?あたしが姉とあまりに違うのでびっくりしたんじゃありませんか?だって、あたしってジャガイモみたいでしょう?」
これが挨拶代わりの言。
「ジャガイモってことはありませんよ、はははは」 と僕は懸命に快活な声を挙げていた。
「むしろレモンみたいで、健康的だと思いますよ」
「そうですか~?とにかく姉とは比べないでくださいね。良いところは姉が全部持って行っちゃって、あたしは残り物ばっかり」
面白がった言ではあったが、これには僕はカチンときてしまった。

こんなふうにして居心地の悪いデートは始まり、それでも僕は、この娘にもどこか素晴らしいところがあるのではないかと ─ なにしろあの素敵な’パリジェンヌ’の妹なのだからと ─ 懸命におのれに言い聞かせていた。
やがて、彼女がワイングラスを傾けつつだしぬけに言った。
「あの~、山本さん、姉はですね~、山本さんについていろいろ話してくれたんですよ~」
「はぁ、それは光栄なことで」僕はつとめて朗らかな声。
「だからですね~、山本さんの良いところも悪いところも、あたしはみーんな聞き及んでいるんですよ~、アッハハハハ」
これで、一気に興ざめだ。
「ますます光栄なことで!」と僕は我知らず声を張り上げていた。
「一方でこの僕ときたらですね、じつに残念なことに、お姉さまの良いところも悪いところも全然存じ上げていないわけでして!なぜなら、お姉さまは大変に立派な女性ですからね、僕ごときは到底お相手頂けなかったわけで!」
この痛烈な逆襲に、彼女は僕をしばし睨みつけ、そうかと思えば、何事かを思案気にテーブルを見つめて黙りこくってしまった。


★   ★   ★   ★

ともかくも、お互いに気まずさと後悔の視線を交わしつつ、小一時間ほどが経過したと記憶している。
「もう出ませんか」と声をかけてきたのは彼女の方である。
先に立ち上がりかけた彼女を制して、僕はプレゼントを差し出した。
精一杯の誠意のつもり。
それは真っ赤な毛糸で編み上げられた女性用の手袋。
彼女はぱっと顔をほころばせ、一方で僕は素っ気なく「お近づきのしるしです」と告げていた。
「じゃあ、あたしからも」と彼女は照れくさそうに言い、学生らしいぶきっちょな手つきで或る輸入紅茶の瓶を僕に手渡してくれたのだった。
そのどこか高級で甘美な芳香に、僕は’パリジェンヌ’の馴染みの香水をほのかに回想し……。

レストランをあとにして、2人で地下鉄駅へ。
それは僕の帰路における最寄り駅。
僕が別れを告げて階段を降りかけたとき、とつぜん階上から彼女の声が響いた。
「ねえ、山本さん!一度しか訊かないから教えてね!山本さんは姉が好きだったの?!」
これには僕は一瞬だけ愕然としたが、それでもくるりと振り返って彼女を見上げ、懸命に自制心をもって「ご了察のとおりですよ!」と答えていた。
「ふーーん!じゃあもうひとつだけ質問!今も好きなの?」
「それもご想像のとおり!」
「そう!さすがね!アダムとイヴの巡り合わせには必然の方程式が有ったのね!」
この台詞を発するが早いか、彼女は走り去っていったが、僕はいっそう愕然として反射的に階段を駆け上がっていた。
街灯の下の坂道をどんどん走り去っていく彼女の後姿、跳ね上がっている白い毛糸のマフラーを遠目に追いつつ、僕はこの時に何故か「連星」のイメージを想起していた。
この時、まさに初めて僕はあの’パリジェンヌ’の本性を垣間見た気がしたのである。
なーんだ、俺はやっぱり何も知らなかったのだなあと、地下鉄で何度も独り言ちでいた。


翌日もさらにその翌日も、’パリジェンヌ’からは何の連絡も無かった。
ということは、あの「妹」と僕のデートは落第点だったのだろう、少なくとも’パリジェンヌ’はそう裁定したに違いない。
そうだろうとも、それでいいんだ、僕と’パリジェンヌ’の真相は分からず仕舞い、そしてあの「妹」を交えた真相はなおさら分からず仕舞いってことだ。
だからこの姉妹とのかかわりは当分は保留にしておこう、それが男なりの礼儀というものさと僕は懸命に納得したのである。


★   ★   ★   ★   ★


さて。
ちょっとした後日譚も記しておく。

翌年の春先、僕は別事業所への異動が決まった。
事業部の皆に挨拶にまわった際に、「関係保留中」の’パリジェンヌ’とも軽く別れの挨拶を交わすことになった。
終始無言のままちょっと微笑んだだけの彼女ではあったが ─ おやっ、上品な純白のセーターの胸元に真っ赤な毛糸の手袋の「片割れ」が縫い付けられているではないか。
もしかして、これは僕が「妹」にあげたあの手袋の片一方ではないか?
とすると、もう一方はあの「妹」が持っているということか。
もしもそうであるならば、この’パリジェンヌ’と妹はなんと素敵で愉快で愛らしい「イヴの連立方程式」であろうか。
そして、たとえ何もかもが僕のひとりよがりの勘違いであったとしても、僕のどこかにアダムのひとかけらくらいは受け継がれているとは言えまいか。



(おわり)