2015/04/16

たいやき

※ 本編は何度も掲載したり消したりを繰り返しておりますが、読者の方々からちょっと気の利いたアイデアを頂くたびに、僕なりに改編を繰り返しているためです。とりあえずまとまりました。

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その街では仕事が早く終わったので、目抜き通りをしばらく歩き、アーケード街を巡ってまわり、ちょっとした探索の小一時間を過ごした。
そんなそぞろ歩きのうちに、気になっていた空模様がいよいよ怪しくなり、やがてザーーッと猛烈な雨が滝のように降ってきた。
たちまちのうちに物凄い雨量となり、あわてた僕は雨宿りの場所を探してバシャバシャと走り続けた。
大通りを疾走しつつ、ふと見やれば、オフィスビルの間にやや斜に挟まったようなかたちで、小さな入口を構えた一軒の喫茶店があった。
ほぅ?こんなところに…
やれやれ、ひとまず助かったと、その入口ドアを開けてくぐり込むように中へ歩み入ると、薄暗い店内には誰もいない。

…と思ったら、奥の戸が開いて、若い女子店員がひとり出てきて明るい声でいらっしゃいませと。
その女子店員は、その、ハッキリ言えば僕の好みで、眉毛がくっきりして鼻筋も高いまん丸顔で胸のかなり大きな娘であった。
ずぶ濡れになっていた僕は、彼女の太陽のようなニコニコ顔にほっと救われた気分になり、コーヒーを、ああ、いや紅茶がいいな、と息せききって話しかけていた。
するとその娘は、僕の様子がおかしかったのだろう、一瞬だけクスッと笑い声を挙げ、それでもすぐに真顔にもどると奥に引っ込んで、3分もするとあったかな紅茶をもってきてくれた。

実はその時、僕はカバンの中に「たいやき」を2つ入れていて、もともと自分で帰宅後に喰うつもりだったのだが、ふっと閃いて、さっきよりも気取った声で、なぁ君はたいやきは好きかね、よかったら1つあげようかとその娘に訊いてみた。
するとその娘が訝し気に、ワァーそれはいったい何ですか?と尋ね返すので、おや君はたいやきを知らないのかね、この先の○○堂で買ったものでとても美味しいよと言ってやると、有難うございまーす私はお腹が空いていたんですよ、そうかいそれじゃあ召し上がれ、では失礼してここで頂きまーす、ぱくぱく。
それからその娘と二人だけで、小一時間は談笑していただろうか、じゃあまた来るからね、さよならと言いおきてその喫茶店を出た。
ふと気づいてみれば、さっきまでの土砂降りはうそのように止んでいて、空には虹がうっすらと見てとれたのだった。

「─ とまあ、だいたいこんな感じで、なかなか楽しい喫茶店だったよ」 と、僕は高橋に教えてやった。
「なんというか、本当に太陽のような娘でね、屈託がなくて、目が綺麗でね」
「へぇ、そうかい」 と高橋は羨ましそうに話を聞いていたが、やにわにすっと立ち上がり、「じゃあ俺も今度その喫茶店に行ってみよう!」 とつぶやくのであった。

しかし。
翌週のこと、高橋が僕のところへ不機嫌な顔で詰め寄ってきた。
「おい、山ちゃん!おまえの言ってた喫茶店、俺も行ってみたんだけどなぁ」
「丸顔で胸の大きな可愛い娘がいただろう?」
「とんでもない!正反対のぶっさいくな女だったぞ!」 高橋が少しだけ声を荒げていた。
「それは残念だったなぁ、きっと曜日が違うんだよ」
「山ちゃんは何曜日に行ったんだ?」
「エート、ああ、水曜日の夕方だった」
「俺だって水曜日の夕方に行った!なあ、山ちゃん、また作り話と違うのか?」
「いやいや、本当の話だよ ─ なんだおまえ、怒ってんの?アハハハハ。なあ、おまえ 『たいやき』 を持って行かなかっただろう?ダメだよそれじゃ。あの喫茶店の娘はね、○○堂のたいやきを持っていかないと、きっと出てこないんだよ…つまり、だ、新たな出会いというものはすべて素材とタイミングで決まるってこと。イヴにリンゴを食べさせるようなものだ
「ふん、そういうものかね」
「そういうものだ。それから、どうせなら土砂降りの雨の日の方がよさそうだぞ」
「よし、わかった」

そして、次の水曜の午後。
本当に土砂降りになった。
高橋は居てもたってもいられぬ風情でちょっとイライラしていたが、やがてダッと立ち上がると会社を出て行った。
よし、そうこなくっちゃ面白くない、と僕は内心で小躍りし、そーっと高橋を尾行することにした。
横殴りのような激しい大雨の中、高橋は○○堂に足早に入っていくと、やがて紙袋を小脇に抱えて出てきた。
「あっ。あの馬鹿、ホントにたいやきを買ってやがんの、アハハハハ、しかもあんなに一杯」 と僕は忍び笑いを浮かべながら、更に高橋のあとをつけた。
高橋はいよいよ小走りになり、ずぶ濡れのスーツもなんのその、たいやきの紙袋を提げながら例の喫茶店に向かう。
そして、その小さなドアを開けて…。
一方で、僕は道路の反対側にあるホテルの食堂から、喫茶店の様子を観察することにした。
小一時間、いや、もっと経ってからだろうか、いつまで経っても高橋が出てこないので、僕はホテル食堂をあとにしたのだが、空はまさにウソのように晴れ上がっており、太陽が文字通りサンサンと照りつけて、僕は汗だくになりながら帰路についたのであった。

翌日、高橋が出勤してこないので、僕は上司に事の顛末を話してみた。
上司は黙ってうんうんと首肯を繰り返しながら僕の話をひととおり聞くと、よーく分かった、もうこの件はいいと言ってとりあえず詮索は終わった。

高橋が依然行方不明のまま、また一週間が経ち水曜日となった。
今度も、雨が降っていた。
なんと今度はこの上司が動いたのであった。
僕の尾行にも気づかず、上司は○○堂に駆け込むと、もう両脇に大きな紙袋を二つも抱えたまま出てきて、もちろん中にはたいやきがぎっしりと入っていることは言わずもがなだが、そのまま驚くほどの駆け足であの喫茶店に入っていった。
僕はまた道路の反対側にあるホテルの食堂に入って、あの上司がどんなツラ下げて出てくるかと、ほくそ笑みつつずっと待っていたのだが…

ほどなくして雨がぴたりとやみ、うって変わって驚くほどの晴天となり、太陽は容赦なくギラギラと照りつけて、とてつもない猛烈な熱気がホテルの中にまでたち込めてきた。
と、思ったら、喫茶店のドアが中からどかーーんと打ち破られて。
それは巨大な尾びれであった…あっ!と僕が固唾を飲む間もなく、隣接するオフィスビルをもたちまちバラバラに倒壊させて、そのとてつもなくでっかい「たいやき怪獣」の恐怖の威容が、真っ白な灼熱世界にどどーーんと現れたのである。
ほんの暫くの間、なにか焦げ臭いにおいが伝わってきたかと思えば、バチーン!バチバチバチ!といたるところから爆裂音が聞こえ、たいやき怪獣はもう大通りにででーーんと躍り出てくると、ブスブスとくすぶっている自動車やバスをどかんどかんと弾き飛ばしながらこちらのホテルの前までずいっずいっと這い寄ってきて、それから窓越しに僕をぎろりと睨んだ。

そうか!あの娘に最初の1匹を喰わせたのが間違いだったのだな!と僕は手で膝を打ったのだった…。
こうやって新たな邂逅が起こり、新たな秩序が始まってしまうのだなァと、僕は不思議な感慨にとらわれながら空を見上げたのだが、ぞっとするほどつきぬけた青空にはもう一点の雲も無く、残酷なまでにギラついた太陽はいよいよ容赦なく僕の身体をカラカラに渇水させていた。
だから、たいやき怪獣がバリバリバリと襲いかかってきても僕は涙どころか冷や汗の一滴すら流れることはなかった。

以上

2015/04/08

大学入試英語 - 文法分析なんかやめなさい!

※ 本旨は意外にも(?)論考が難しく、何度か書きなおしております。

いつか別稿で書いたが、英文を文法分析し、いちいち品詞のラベリングを続けていけば、それだけその英文の本旨から離れることになりうる。 
文章というのは数式や化学式と本質的に違うもので、個々要素の属性が全体の意味を演繹するとは限らず、全体としての意味から個々要素の属性が帰納されるとも限らない。

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ちょっと遊んでみよう。
"wallpaper", "flowers", "show" - この3つの単語いずれか、あるいは全てを用いて、最大3語までをつくる場合、何通りの言葉を生成しうるか?
たとえば wallpaper だけでも独立した1つと数え、wallpaper show でもまた別の1つとし、 show wallpaper flowers でもさらにまた別の1つ、そして flowers show flowers でも別の1つとする、など。
そうすると、「3つの単語どれかで1語をつくる場合」は 3通り。
「3つの単語どれかで2語をつくる場合」は 32 = 9通り。
「3つの単語どれかで3語をつくる場合」は 33 = 27通り。
つまり 3+9+27 で39通りもの言葉を生成しうることになるのだ!

さて、品詞分解という分析手法は、これら単語の組み合わせ一つひとつにおいて、それぞれの属性を峻別する技術なのである。
たとえば;
wallpaper…これは名詞として汎用するが、動詞かもしれない
flowers …これも名詞として汎用だが、動詞かもしれない
show…これは名詞としても動詞としても使う
wallpaper flowers…これはwallpaperが形容詞的に使われた名詞かもしれぬ、がもしかしたら wallpaper が flower するとの意かもしれない
wallpaper flowers show…これは show が名詞かもしれぬが、動詞かもしれない
wallpaper show flowers…これは show が動詞かもしれぬが、wallpaper show が flower するのかもしれない
show flowers wallpaper…これは show が wallpapers を flower sるのかもしれない、が、flowers wallpaper は名詞として意味をなさぬから文法的に間違っている
show wallpaper show…これはshowを動詞としても名詞としても…

…といったあんばいに、ここでは総計39通りの品詞ラベリングをひとつひとつ実践することになる。
まるで、ロボットに言語生成プログラムをインストールしているようだ ─ これは成立しうる、これも成立しうる、これはダメ、これは……などと。

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そもそも、英語を話したり書いたりする人間が、毎回まいかい生成可能単語を一件一件リストアップし、それらに文法のラベリングを付しながら作文しているか?
違うでしょう? 我々は文法という論理属性のみには拘束されず、単語を自分なりの知識で選び、それらを組み合わせて、「全体としての文意を形成」 しているんでしょう?
だから、それを読まされる側に立ってみても、 「既に書かれ/話されてちゃった文章」 において、「全体としての文意を想定」するしかない。
だから、化学式や数式とは違うんだって言ってんの!

仮に、wallpaper shows flowers と記してあったら、読み手(聞き手)としては、これら単語一個一個を品詞分析して論理的な組み合わせを検証するのではなくて、全体としての文意を連想、この場合は 「壁紙が花を見せてくれる」 と了察することこそが求められている。
そのさい必要なことは、むしろ 「単語が持っている知識の幅」(とくにどれでも動詞となりうる)をたくさん覚えること。

 "big city" という英語表現がある。
この "big" が如何なる意味かを理解するには、文法論理だけでは絶対に不可能。
どうしたって、英米の経済学などに則った知識が必要になる。
英語科というのは最も学際的、なようでいて、実際は最も知識教養力が低い場合も多い。

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でも、「国語科」では品詞による文法分析をさんざんやらされたぞ…と反論されるかもしれない。
しかし、それでも言いたいことがある。
「国語」 というのは、既に我々が心身ともに一体化している言語であり、さてそこで本当に単語レベルでの用法が論理的に厳正かどうか ─ を国民として謙虚に再確認するためにこそ、品詞分析の手法を覚えるのである。
だからこそ。
たかが受験英語のレベルで文法分析など愚の骨頂、やめなさい。
こんなもの押しつけて時間稼ぎをしている連中自身も、英文法の深淵なんか知っちゃいない、それに大学入試でそんな深淵まで問いただすこともない。
こんなことして非実践的な論理分析ごっこに酔っている余裕があるのなら、数学や論説文読解でもっと真剣な論理分析に頭を使いなさい。
むろんそれら科目とて本当に人間的かどうかは分からぬが、論理的思考力を鍛える上ではずっと実践的ではある。

以上

2015/04/01

大学新入生諸君へ (2015)

新たに大学生の諸君へ。
ごく簡単にメッセージを。

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 大学入試までの勉強を、たとえば数学的な要件付けにて記すと、ざっとこういうものだったのではないか。
『ここにドアA、ドアB、ドアCがある。このドアA,B,Cそれぞれの鍵穴の形状・属性をもとにして、共通のカギがどのようなものか記しなさい』
しかし。
大学進学以降、そして社会人になってからの知性は、ちょっと異なる。
『ここに一つのカギがある。このカギで開閉しうるドアは、いったいどんなものがありうるか?自分なりに考案しなさい』

なんだ、こんな問題提起があるか?そんなドアなんて、超単純な形状から超複雑なシステムまで、無制限にありうるじゃないか!
…と、なまじっかな秀才ほど文句つけたくなるかもしれないな。
いいから黙って聞け。
確かにそういうドアは無制限にありうる(いや、違うかもしれないよ)。

つまり、高校までの勉強は「意味」があらかじめ与えられていて、そこに則って「何かを変換したり結びつけたり」のトレーニング。
しかし、大学以降の勉強は、 「既に知っているはずの何か」において、自分なりに「新たな意味」を導き出すこと。

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② こんなのもあるかもしれないぞ。
「もしも頭脳がコンピュータになった人間がいるとして、その人はまだ人間といえるのだろうか?その人自身はおのれを人間だと思い続けるだろうか?」

人間はなにをもっておのれ自身を人間と定義しておるのか?
このように、いったん「定義」のレベルまで立ち上って、それから新たなアイデアを描くのが、君たちの仕事。
もちろん、その「定義」は誰も教えてくれませんよ、てめぇで考えろってこと。

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③ さらにこんなのも。
「飢えから充足に向かう経済と、充足から技術革新に向かう経済は、何が違うのだろうか?」

カネですよ、と答えるのは高校生レベルまで。
じゃあそのカネの発行量や流通量が倍になったら、我々の寿命は倍に伸びうるか?それとも伸びないか?その理由は?
もう大人なんだから、ちゃんと考えなさい。

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ざっと思いつくまま記したが、ついでにちょっとヒントをつける。

我々が何事か分かるということは、まだ解らない何かを峻別するということでもある。
客観と主観は同じ場合もあるし、異なる場合もある。
量と率と可能性はみな違う。

じゃあ皆さん、頑張ってね。
損得よりも、まずはおのれなりの論理に生きろ。
損得の世界は、ほっといても君たち一人ひとりを待っていてくれるから焦らなくともよろし(笑)

以上

新卒社会人の皆さんへ

以下、ごく単純に記す。
ものすごく簡単なことだからだ


人間も企業組織も、ゆえに市場も、そしてきっとどんな職業でも、何かと何かを常に交換し続けている。
その交換行為を仕事といい、極端に大別すれば、掛け算の仕事と、割り算の仕事がある。


ここで、ほんの少しだけ具体的に。
掛け算の仕事とは、ハードウェア、ソフトウェア、学術思考および無作為なヒラメキを縦横自在に組み合わせ、「新規技術の開発」と「市場関係(売上)の拡大」を図る行為。
そのために商材や市場や法規制について勉強し、視野をどんどん拡大させて思考し続けるすること - つまり野心的な意欲が必要だ。

一方で、割り算の仕事というのは、「必要」を残し「不要」を捨てる行為で、物流、保守、金融為替、証券などを通じて、利益最大化を図る行為。
人間は何もかもを最大限に活かすことは出来ないので、costとterm(納期)における利益の捻出を常に図らなければならない。


もちろん、個人としても組織としても、割り算の仕事の連続によってカネや時間を研ぎ澄ませてこそ、掛け算の仕事の余裕も生まれる。
割り算の仕事ですらも立ち行かなくなってしまったら、その個人も組織もいったんは終わりである。
しかし、野心的な意欲が生き続ける限りは(そして資源や機会に上限設定が課されない限りは)、新たな掛け算の仕事のアイデアは次から次へとふつふつと湧いてくるもの。
たぶん人間はこのように出来ている。
とりわけ、若さとはそういうもの。

老いも若いもなく、みなが掛け算の仕事に取り組めるという楽観的見方によれば、自由競争、市場競争といった競争論が威勢よく奮い立つ。
いや、何もかもどうせ上限があるのだから、せめて割り算によって最適化を、と諦めてしまえば、コストと利益のフェアネス論争、そして自由競争と社会主義の対立へと向かう…のではないか。
かくして、いろいろな文化もあり、いろいろな討論や協議もあり、いろいろな国々が併存していると考えられる。



僕なりに、あらゆる局面にて学び取り、実感し、納得し続けていること。
だからこそ、僕なりに新卒社会人の諸君に伝えたいことはこれだけである。

なお、大人として一番楽しいことは、論旨の分からない人間や訳の分からない事柄を理解するためのおのれなりの試行錯誤、これも付言しておきたい。

諸君の健闘と活躍を祈る。

以上