2026/04/17

大学新入生諸君へ (2026)


大学新入生向けに、これまで毎年なんらかのメッセージをしたためてきた。
これらに対して、分かりき切ったことを書くなとのコメントも頂いてきた。
だから、此度は分かりきってないことを併せ含めつつ、かなり要約的に記す。

(長々書いてもどうせ似たり寄ったりになろう。)


========================


子供の時分の君たちは、おのれら自身が内包する自然感覚や本能のみに拠って生きてきた。
だから一人ひとりがバラついた感受(クオリアなど)や本性の恣まま、ワイルドに転がっていた
例えば、星空におけるさまざま星座を一人ひとり好き放題に見上げては、さまざま神話じみた物語を描いたり歌にしたりもあったろう。


しかし、中学校~高校あたりになると、君たちはおのれら自身の外延外部に、他者と交信し共有しあう共通の量観念を学ぶことになる。
それらは例えば、質量であり、向心(遠心)力であり、並進速度であり角速度であり宇宙速度であり、運動量であったろう。
さらに、ミクロには量子や電磁場/電磁波から、マクロには宇宙全体のエネルギー保存則までふまえれば、とりあえずは一気通貫、誰もかれもがこれら量観念を分かち合える

むろん、これらの量観念を我々の肉体や本性から完全に切り離し、表象化と共通化を可能たらしめている技術が数学である ─ だからって数学が悪いとは言ってないよ(嫌いだけど)。


こうして高校を卒業した諸君らが、今ここに居る。

さて、と、子供のころに見上げた星座群をあらためて見やれば、幼少期に内なる本性から自覚してきたさまざまな伝説のたぐいをあれこれ思い返すだろう。
その一方では、おのれの外部に据えてきた万民共通の数学だ物理だの化学だのを駆使し…
さて、どうするかね。
たとえばだが、数学と科学の外部化つきつめた宇宙船に飛び乗って、子供のころに見上げた星座群に向けて飛翔してゆくことを考えるのではないか。

かくて、じっさいにさまざまな星座群の星々に近づいてゆき、いずれはそれら星々にたどり着いたとしてだ。
そのさい、其処で、当の君たち一人ひとりは、ずーっと同じ存在だろうか。
各人がおのおの内心バラついた伝説に拘りつつ、一方では同じ数学物理に縛られっつ、ずーーーと同じことを想い考え続けているだろうか。


そんなことはないだろう。
諸君らは、幼少期からの野性的な思いつきにも、高校までの既得の共通命題にも飽き飽きしているはずだ。
むしろ、今こそ諸君らおのおのは、「新たな時間感覚を以て」「新たな自分自身と巡り合い」、「新たな自分自身を作り出す局面にある」。
これが大学時代だ。
ちょっと気取って言い換えれば、画一的な意味(meaning)断片を新規の意義(significance)系へと編み上げる局面到来だ、オゥイェア!
いまや諸君らは、データセンターにも冤罪にも戦争にもバカ正直に追従する気にはなれない。
それでいいのだ。
あるいは、将来の就職後のケンカのネタをおのれ自身に仕込むことになる ─ いいじゃねえか、大人社会なんかバカばっかしなんだ。


ともあれ、こうして新たな星々に次々にわたり、新たな自己を創り上げていくであろう諸君らは、いずれ巨大な疑問の数々にも突き当たるであろう。
たとえばこんなのがありえよう。
超難解チューリングテスト。 
宇宙のあらゆる電磁場/電磁波を感受可能なAIがあるとする。
このAIは、「神」と「人間」と「サイコロ」を判別しうるだろうか?」

あくまでも僕なりの作問だが、こういうスケールになると、幼少期以来の各人肉体にてバラついた本性や野性勘も、高校までに共有してきた既得の物理や数学も、完結的な解答は出来まいよ。
いや、当のAIも押し黙ってしまうんじゃないかな。
どうだろう、ワクワクしてこないか。


====================


※ なお、本稿はベルクソン、ハイデガー、岡潔、小林秀雄、河合隼雄、森毅、養老孟司、筒井康隆などの言質からヒントを得て、一気に書きあげたものだ。
彼らの著作については、大学進学後に読書に挑むことを薦めたい。
ちなみに、星新一などは物質物理のハードボイルドさを強調してきた一方で、自然物たる人間の本性的なバラつきはあまり触れてこなかったが、不思議といえば不思議ではある。



以上

新卒社会人の皆さんへ (2026)

新社会人の皆さんに伝えおきたいことを、ちらっと記すことにする。

僕なりにここ数年ほぼ同じようなことを考えており、着想も問題意識もほぼ変わっていないので、今回も昨年以前とほぼ同じ内容だ。


企業組織にて、或る物質から成る或るモノを新規に作ってこれを複製して転がしてゆく過程で、価値が増えただの減っただのと称される。
さらに、信用が上がったり下がったり、そして株価が上がったり下がったりだ。
企業務めの新人が分野問わず最初に訝ったり煩悶したりするのがここだ。
しかし、価値や信用なるものは、どこまでも実体と非同期の暫定的な人間都合でしかない。
ここのところ、シンプルに解説してみる。
(いいとか悪いとかは一切論じませんよ、そういう価値判定はどうでもいいの。)


そもそも大人社会で大いに威力を発揮している根元的かつ端的な学術思考、すなわち物理(学)経済(学)について、ごく簡単な比較をはかりつつ大人社会の不可思議さを論ってみよう。

※ とくに文系卒で技術産業に就職した人たちは、暫くは製品(モノ)と価値(カネ)にまつわるさまざまな方便に失笑したり思い悩んだり、そんな日々がしばらく続きうる。
僕自身がそうだった。


===================


物理学はあらゆる物質/物体の運動とそれら仕事/エネルギーの変化と保存則とエントロピー増大を考察対象とし、これらを再現的に捉えて語る。
再現性を語るためにこそ、必ず数学に則っている。
数学が有限が無限かはさておくとして、物理は一応はあらゆる実体の有限性と保存性を記述する ─ ことになっている。
コンピュータプログラムさえも、ブロックチェーンでさえも、電磁波の変化として捉えてみれば物理学の考察対象である。
人間の脳神経も遺伝子もやはり物質なので、物理学のうちにあるのは当然である。

では経済学はといえば、こちらも物質/物体や運動や仕事/エネルギーの変化を捉え、これらについての再現性を語る。
やはり再現性ゆえ、数学に則ってはいる。
それなら物理学そっくりじゃんと納得するかもしれないが、そっくりどころか、おそろしく異なっている。

とりわけ厄介なのは、経済事象のひとつひとつを通貨換算して価値や権利を表象しつつも、当の通貨そのものに価値や権利の絶対尺度が無いというところだ。
要するに、どこまでもその時その場の人間風の価値と権利をとっかえひっかえで、これらが物理の外部に超然的におわしますなのである


=========================


さて、物理学経済学は同期をとりうるだろうか?
社会人らしくもうちょっと実践的に論うならば ─ さまざまな物質や仕事/エネルギーの「物理量」と「経済価値/権利」は比例関係にあるだろうか?

物理学に則れば、たとえば過去2000年間において地球の全物質量/全エネルギー量は全くといっていいほど変わっていない ─ ことになっている。
しかし同じ2000年間にて、資産の価値も通貨の価値も、それらの量も、とてつもなく増大しかつ変動してきた。
いったいなぜか?

さらに、通貨の量は信用の量だと言い、信用増大ないし信用収縮といい、インフレやデフレともいい、通貨量と信用は比例関係にあるという人もいるが、では信用が増えるにつれて多くの通貨が必要となっちゃうのか?
このあたり物質量/エネルギー量とどう繋がっているのか、わけがわからぬ。


=================


① 物理学と経済学の差は、上にちらっと書いたように、物質物体の外部に人間風の’価値’超然させるかしないかだ。
あらためて、’価値’について捉えなおしてみたい。

資産の「価値」には、物理上の絶対尺度も基準も無い。 
1クーロンあたりや1電子ボルトあたりの「価値」尺度も基準も無い。
金(gold)1オンスあたりもだ。 
あらゆる価値は、あくまで人間がその時その場で好き勝手に決めているにすぎない。
だいいち、データそのものの価値を独占するなどというが、物理に即していえばデータは電磁上の表象でしかないんだぜ、これらの価値とはいったいどういう意味だ?
ましてや、付加’価値’だの、それを見做した上での付加価値税だのと…

ともあれ、物理学には’価値’の観念は無いが、経済学にてはあらゆるモノや仕事に’価値’を設定する。
ここだけ捉えてみても、物理学と経済学は同期をとっておらず、量的な比例関係にない。

===============


② その上で、さらに仕事(生産)において物理学と経済学を比較してみる。

物理学に則れば、あらゆる物体はそれ自体なんらかの「運動」を為しつつ、さまざまな物体が互いに作用/反作用しあい、これら成果の距離を以て「仕事」と称していること、誰もがお分かりのとおり。
仕事は’生産’でもある。

ところが経済学における用語では「仕事(生産)」の定義が分かり難く、どうも察するに何らかの'価値’の付加を以て「仕事(生産)」と見做しているようでもある。
だから経済学によれば、通貨のみをグルグルと回しているだけでも「仕事(生産)」の付加がどんどん増えていく(そしてGDPも増えていく)ように映る。

※ とくに女たちは、生活そのものがこれすべて「仕事(生産)」を為していると信じているようで、だから職場で遊んでいても寝ていてもとにかく通貨を寄越せと。

=================


③ さらに、仕事(生産)とコストについて。
たとえば電気には、電位差克服のために電流に物理上のコストがかかる。
その電位差を克服すれば、物理上の仕事つまり電力を起こしたことになる(発電を為したこしたことになる)。

しかし経済学に則れば、なんぼ電力の仕事を為したところで、カネというコストばかりが発生し、リターンという名の仕事(生産物)はほとんど無いことになっちゃう場合もありうるわけで、そうなるとこの仕事(生産)行為は経済学上の価値はほとんどゼロだ、ナッシングだ。

むかっ腹が立つかもしれないが、これが物理学と経済学の差だ、そして理系と文系の違いといってもよさそうだ。

==================


④ 物理学にはさまざまなモノやエネルギーの導出や解釈の’自由’こそ大いに有るが、実体そのものの実在の'自由'は無い。
在るモノは在り、無いモノは無い ─ たとえ量子力学でもだ。

ところが、経済学における価値や権利はいくらでも’評定の自由’があり、’操作の自由’もある。
だからこそ、資産や通貨の'取引の自由'もあり、ゆえに保護や排除の'自由'もあり、関税の'自由'だってなんぼでもありうる。
なるほど、これらに伴って或る一定集団の効用や福利厚生は向上しうるかもしれない ─ あるいはしないかもしれない。
実体の実態がどう転ぼうとも、経済上の'自由'はどっかんどっかんスケールが変わり、それでハッピィにもなりうるし、一方であぶれた仲介事業者たちはギャァギャァ騒いでいる。


===========================


自嘲を込めて察するに、人間が物理上の実体を黙殺して経済上の価値だ権利だを設定したがるのは、ひとつには人間の意思決定が短期的で表象的な択一トレードオフを好んでしまうためかもしれない。
最近とくに考えているところでもある。


以上

============================================


(付記)

毎年書いていることだが、仕事における実践的なアドバイスも一つだけしおく。

新人諸君は、なにはさておき、まずはメモ用紙を準備しろ、そして常に携行しろ、見聞きするもの片っ端からメモしまくれ。
チマチマした付箋などはダメだ、大きめの紙を使うんだ、出来ればB5サイズ以上のものだ、広告の裏紙でもなんでもいい。
これくらいのサイズであれば、まとめていろいろ書き記すことが出来るし、いつでもまとめてノート帳として一瞥できよう。

とくに、新規の世界への了察は理科や社会科の新分野学習に等しく、右脳的(絵画的)に物事をズンズン描き続けること必須、だから大きな紙面が望まいのだ。
また、電話番などで取り次いだメッセージもつらつらと書き残し、ビッと引きちぎって上長などに手渡すことが出来る。
一方で、書き損じをしてしまったメモは引きちぎってとっとと捨てるんだ、いちいち名残惜しんでいてはいけない。

以上の機能を同時に果たすべく、B5サイズ以上の紙を常時20枚くらい束ね、これを左上リング綴じの構造にしておけばいい。
これで重要なメモはノートとしてずっと保持し続けつつ、不要な紙はどんどんちぎり捨てることが出来る。
ホントに重宝するから。


もうひとつ付記。

技術仕様から契約書にいたる文書類について、職制を問わずほとんど誰もが実務上拘束されることとなろう。
これらの意義について精緻に了解しておきたい。
口頭による提示や合意ならまだしも、文書によるそれらは諸君らの想像を超えた恐ろしい失態を導きうるものだ。
例えば、同一の商材についての見積書が複数存在する場合、購入希望者はどちらかおのれに有利な方を正当な文書と見做し、それ以外の文書は黙殺すること、当然である。
契約書もしかり。
くれぐれも慎重に、ワンアンドオンリーの原則だぞ、ナンバリングと更新日時の明記を絶対に忘れるなよ。

※ 塾業界や風俗関係などであれば、うっかりミスでも土下座くらいで済まされる、かもしれない。
しかし、まともな産業のまともな産品や製品においてはちょっとしたミスのみでも復元不能なほどの大損をもたらす場合も多い。
そんなこと続けていたら多大な賠償を負うのみならず、さらには市場からバカアホ呼ばわりされて信用失墜してしまいかねないぞ。


もうひとつ付記しておこう。
いわゆる事務系職の若手企業人の皆さんは、TCP/IPとかJDBCとかIncotermsなどなどの統一的プロトコルを一通り頭に入れて、まずは「系」を理解したい。
それら「系」が分かってこそ、営業や経理などの「因果」も「プロセス」も見晴らしがよくなる。

※社内がアホばかりなら、大手SIerや大手商社に訊け。

2026/04/05

大学入学時の思い出

毎年のこと、4月が巡ってくるたびに、慶應の日吉キャンパスを思い出す。
記憶に蘇る日吉の風景と情景は、常に真っ青な晴天のもとである。
そしてそれら記憶の大半はメシばかりである。


僕の慶應進学は大学時から。
いわゆる一般入試を経ての入学であった

もともと僕自身は幼少時にロンドンで育ち、ここで親族関係を通じてのちょっと凝った巡り合わせもあって、例えば 'potential'や 'entropy'や 'induction/deduction' や'intensive/extensive property' などなどの語彙と表現を子供ながらに言い回したり作文したり、そんなくらいの観念知識はあったのだ。

しかし英語の出来そのものは、立川市での学校生活通じてパッとしなかった。
なんといっても語彙や言い回しのストックが希少だったため、そしてそれら習得にさして意欲も無かったため。
それでも高校時には、幼馴染のスーパー美少女であったN子にビシビシしごかれ、さらに超美人の教師や非常勤のお姉さまがたにもバシバシ叱責されるなど、我ながら人一倍以上に努力したつもりではあったが、それでもペーパーテストはやはりパッとせず…

こんなだったから、慶應入試本番の英語もおそらくはパッとしない出来だったろう ─ よくも合格出来たものだと未だに不思議ではある。
或いは、論説文課題の出来が図抜けて良かったのかもしれず、なんとなくそっちの方が誇らしい気もしている。



なお、もっと不思議なことには、僕はいわゆる英語教科クラスに編入されたのだった。
イギリス人講師が早口で話す内容が半分も分からず、途方にくれて辞退しようとしたら、半分でも分かればいいよと、いずれ更に半分が分かるようになるさと励まされ、それでは何時まで経ってもアキレスと亀みたいなものじゃないかなどと僕は可笑しくなって…
そんなこんなについても今さらながら思い返すことがあり、そうだあの最初の授業の日も日吉の空は真っ青だった。

そういえばこの英語教科クラスにて、英文による自由エッセイ課されたさいに、『Barefoot stones (裸足のアスファルト) 』という掌編を提出したところ、「君には文才がある。もっと書きなさい」などと激賞され、これには僕自身が面食らったものである。
舗装路を裸足で歩いて通学していた少年期の回想をちょっと物語風に膨らませただけの、拙いエッセイにすぎず、何がどう高評価されたのか分からず仕舞ではある。


この英語教科クラスは1年時にはまともに出席し、また若干の同好会じみた交流も楽しむ機会に恵まれた。
中にはびっくりするようなインテリ名家の才媛もおり、いやぁさすが一流大学ともなるとコミュニティなりソサイエティなりもひとかたならぬものだと感心し、あるいは腰が引けるほど恐縮したこともしきりである。

尤も、そのうちにThe Economist誌のいわゆる'Big Mac Index'などに則った討論ゲームなどが始まると、だんだん興醒めしていったことは否めない。
いかにも財貨と通貨と外為の端的な相関論のようであって、あくまで数値上の'価値(value)'の論ばかりであり、一方で実体量としての'効用(benefit)'についてはこれっぽっちも論考が無いのである。
アングロサクソンの本性なのか、特にズルい連中の特性なのか、いずれにせよこの虚構性がどうも好きになれなかった。
さらに、イギリスとアメリカの資産見識の差異だのバランスシート会計の違いだのと実務上の英語論も始まっていき、な~んだそんなもの三田キャンパスで学べばいいじゃないかなどとうんざりしつつ、次第に出席しなくなっちゃったよ。


一方では、スポーツのクラブに入ったこともあったが、こちらはちょっと厄介な顛末になってしまったので、いずれ別稿にて。


ともあれ、大学入学時から卒業まで総じて振り返ってみれば、中高からの内部神学者の方がセンスが高く学業も優秀であった。
一人例をあげれば、『初夏のエアバス』などと小粋な異名をとっていたやつは本当にエアバス機の設計に関心高かったようで、実際の顛末はともあれ、ああいう才覚ある連中こそが世界を股にかけてゆくのかなとしばしば思い知らされたり。
一方で、大学から慶應進学のいわゆる外部生はどうってことのないサラリーマンタイプが目立ち、それどころか『バカ顔のポルシェ』などと陰口をたたかれるようなバカ息子タイプも散見される始末であった。


あくまでも大学時の話である。
卒業後ずいぶん経過したいまや、おのおの知見も経験もさらに運命もさまざま移り変わったろう。
いずれにせよ慶應卒だ、楽しくやってるだろうな、大半の連中は。



==============================--



そういえばこれも思い出したが ─ 大学入学後まもなく、早朝の倉庫内バイトに就いていたことがあった。
某大手乳製品企業の集荷工場にて、毎朝5時~8時までの集荷作業である。
それから自転車で立川駅まで出て、日吉キャンパスの授業へと。



この集荷工場の作業は、けして身体負荷がキツかったわけではないし、僕自身も実は身体労働は嫌いでもない。
しかし、あのヨーグルトのケースをまとめてこっちへ持って来いだの、このテトラポットをとっととそっちへ片づけろだのと、毎朝毎朝、一方的に指示を受け続けているうちに、僕は次第に憤懣を鬱積させていったのである。
なんだこんな仕事、自分自身の意思決定はな~んにもないじゃないか、ロボットにやらせりゃいいじゃないか、ロボットがロボットを監視し命令し、ロボットが作ったヨーグルトをロボットが飲んで食って寝てりゃいいんだ、俺はロボットじゃねぇぞ、たとえ時給を倍に上げられたって言いなりにはならないぞ…

ああ、そうだ ─ あれは、あの7月の朝のことだ。
ほんのちょっとだけ遅刻してしまった僕は、事務所の課長と怒鳴り合ったのだった。
憤激のはずみで僕はロッカーをブン殴ると、ふてくされたまま現場に出て、器材を足で転がしまた放り投げていたのだった。
それで、とうとう年長社員たちを巻き込んでのケンカ騒動へ。
石油臭の入り混じった強烈な空冷世界、キキーッと停まったフォークリフト、残酷に照らしつける蒼色の蛍光灯、もっと残酷にギラつく灰色のヘルメット、それらの合間からギッと睨みつけてくる真っ黒な視線の数々、テメェだのオンダリャァだのの怒号飛び交う哀しい現場。

このとき諍いを収めてくれたのが年長の男性社員である。
「おい学生くんよ、あんたはバイトだから適当な心づもりだろうっけども、ここの社員はみんな生活かけて朝から晩まで仕事してんだぁ、そしてよ、あんたも俺らもよ、同じ現場で同じ商品扱ってんだぁ、これらの商品を待っててくれるお客様もたーっくさんいるんだぁ、だっからよぉ、もっと仕事に敬意払ってくれや」

この言はいわば女性的な真理であった、「実体」も「論理」も混然した世界のエッセンスそのものだった、そう僕には聞こえたのだった。
とっさに僕は、この集荷現場からトラックに積み込まれてゆく牛乳やヨーグルトが、近郊の高校や中学校の子供たちの元へ届けられてゆく、そんなさまを想像していた。
そして、言いようの無いほどのぶざまな自己嫌悪に苛まれたのである。



この朝を最後に、僕はこの工場バイトをクビになったのだった。
一方で、初夏の日吉キャンパスは青空に映え、眩いほど真っ白に輝いて見えた。
あまりにも眩くて、僕ごときには勿体無いほどであった。
人生には現場があり、また道場もあって、ここ日吉キャンパスはきっと道場のたぐいだろうが、きっとどちらもどこかで繋がっているのではないか ─ なんてことをぼやっと考えていた気がする。


(以上、思い出がてらに)