2015/07/28

夏休みの高校3年生へ

高校3年生の夏休みは、基礎学力強化にゆっくりと取り組む最後の機会といえ、また近い将来のための広範な思考力を鍛える最初の機会でもある。
想定進路が大学だろうが就職だろうが同じこと。
だから、たまには学校で解くことのない課題に取り組んでみよう。


さて、広範かつ深い思考力を自分なりに鍛えるには、なにか特定の課題に3時間以上は向き合い試行錯誤につとめた方がよい ─ 僕なりの貧弱な経験則でもそう。
だから、本当はそんな3時間級の難問をここでも紹介したかったのだが、すぐには思い当たらなかったので、もうちょっと簡単なやつをしたためておいた。
さぁ、以下の①数学の課題および/あるいは ②現代文の課題に挑んでみよう。 
ただし、いずれの課題についても、他人に相談せず、パソにもスマホにも頼らずに、自力のみで解いてみること。
解答制限時間は、それぞれ60分

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① 数学編
ガラス瓶が100本並んでおり、それぞれに1~100まで個別番号がふられており、すべてにコーラが入っている、とする。
ここへある人がやってきて、それら全部の瓶のコーラを捨ててソーダ水に入れ替える。
次に、2人目の人がやってきて、偶数番号の瓶だけソーダ水を捨ててコーラに入れ替える。
さらに3番目の人が、3の倍数番号の瓶のうち、コーラが入っている瓶はソーダ水に入れ替えつつ、ソーダ水が入っている瓶はコーラに入れ替える。
こんどは4人目が、4の倍数番号の瓶のうち、コーラが入っている瓶をソーダ水に入れ替えつつ、ソーダ水が入っている瓶はコーラに入れ替える。
それから5人目が、5の倍数番号の瓶のうち、コーラが入っている瓶をソーダ水に入れ替えつつ、ソーダ水が入っている便をコーラに入れ替え…

このルールに則り、n人目の人がnの倍数番号の瓶の中身をコーラ⇔ソーダ水と入れ替えていったとすると、100人目が中身の入れ替えを終えた時点でソーダ水が入っている瓶は何本か?

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② 現代文編
以下は或る名著からの抜粋文である(一部だけ改編)。
この論旨を120字程度で要約しなさい、特にここでの 『もの』 について意味を推察し明記すること。
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ふつう「イメージ」というと、もっぱら像や形のことと考えられている。また像とか形とかいうと、どうしても輪郭や形式を考えがちである。けれどもイメージとは、輪郭や形式をももっているが、それと同時にそれ自身が 『もの』 のまるごとの姿、あるいは 『もの』 の質なのではなかろうか。(略) 
もちろんこの場合、『もの』 の質とは、想像での意識の働きと無関係な 『もの』 や物の写しではなくて、想像での意識の働きを刺激し活発なものにする「イメージの物質性」のことである。イメージがもちうる 『もの』 としての厚み、『もの』 としての多義性のことである。したがって、それは必ずしも現実の物や物質と結びついているのみではなくて、象徴的なイメージ、重層性や多義性をもったイメージについてもいえる。
現実の物や物質に結びついている場合でも、たとえば自然のなかにあるかたちや形式の重層性だけではなく、カンヴァスに絵具で描かれた風景画のように、重層的なかたちや形式が物質に支えられていることもある。
イメージにおいて物質性は、イメージの既成のかたちや形式を分解し、解体させる力をもっている。固定したイメージや実像がいっそう形式化すれば概念に近づくのに対して、イメージの物質性は私たちと意識の関係のなかでイメージを豊かなもの、躍動的なものにするのである。(略)このような物質性は、私たちとの意識の関係においてイメージを動的なものとし、したがってまた、活性化するのである。
そして、このような活性化のもとに、イメージにおけるかたちや形式の組みかえとつくりなおしも行われるのだ。すなわち、それらを物質性とかかわる地点に引きもどし、そこにあらわれる複雑な関係の組み合わせを自由に分解し、新しい関連とまとまりのうちにとらえなおす。
そしてイメージにおけるかたちや形式がしばしば一見単純なものとしてあらわれるのは、それらを本来形づくる複雑な関係の組み合わせが、それらを一挙に全体的にとらえるとき、『もの』 の質のもつ複雑さを含みながら、かたちや形式として純化あるいは単純化されるからである。また、イメージは、想像的な意識およびその相関者である物質性から切り離されて一定のかたちや形式に固定化されるとき、次第に分析的な知覚表象に、そしてさらには概念に近づくのである。
想像力は、可能性豊かな関係の組みかえによって創造的なものとなりうる。ということは、想像力を創造的に働かすためには、それぞれの領域において組みかえるべき諸関係を私たちが十分に知っていなければならない、ということである。(略) 外部的なばらばらの知識としてではなしに、内面化された、自家薬籠中のものとして、である。
そしてここに、通常、創造とも創造力ともまったく反対なものとして考えられている模倣ということが大きな意味をもつことが明らかになるだろう。すぐれた意味での模倣とは、内側から学びつくして自由な組みかえが可能になることである。創造や想像力がもっとも純粋に問題になる芸術の分野においてもっとも模倣が重要視されている意味も、ここにある。

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③ ついでに。 
数学や現代文でヘトヘトになった頭をリフレッシュさせるつもりで、気が向いたら英語の勉強もしてみよう。
理科、技術家庭科、社会科の「教科書」のうち、自分がとくに勉強意欲をかきたてられる箇所だけでいいから、英訳すること。
むしろ、将来まで考えるのならば、したほうがよい。 
理由はきわめて簡単明瞭。
就職すればたちまちわかることだが、英米人(ほか、いわゆる先進国の人々)が日本人に期待している英語力とは、ジャパニーズ・オリジナリティとしての知識であり、だから数学や芸術よりも理科や社会科のもの。
これらはもちろん大学入試にも直結する語彙力となるし、こんごはますますそうなる。


以上 みんな頑張れ、僕は適当に休んでいるから。

解答案は http://timefetcher.blogspot.jp/2015/08/blog-post_94.html

2015/07/20

大学入試英語 - 文法分析なんかやめろって (2)

① 先の 「文法分析なんかやめなさい」 http://timefetcher.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html の続き。
そこでも繰り返し記してきたことだが、英文は - つまり文章というものは、個々の知識とそれらの組み合わせによってこそ意味を成しており、逆に、文章の構成論理のみからそれら知識を帰納することは難しい(出来ない)。
ゆえに数式や化学式とは根本的に違う。
とはいっても、どう違うのか分からぬと未だに質問の声やまぬので、まことシンドいのだがさらに説明してみたい。

たとえば、分子式を思い出そう。
こっちはイオン結合式で、そっちは共有結合式、この場合はとくに配位結合式で、ああそれは金属結合式だね…と理解する。
ここで、元素の属性が分子式全体の特性を成し、かつ、分子式全体の特性を元素属性に還元も出来るわけ、つまり記号システムとして完結している。
個々の知識の組み合わせが全体の知識を成し、これらがそのまま構成論理となっている。

さて、これと同じ着想で英文読解に挑んだらどうなるのか。 
確かに英文でも、個々の単語の品詞属性文全体の文法上の特性を成し、たとえば "I" は名詞、 "could" は助動詞、 "see" は動詞、 "you" はまた名詞、かつ、"I could see you." は SVO式の特性の文章だ ─ とおくことは出来る。
ここまでは化学式と同じ発想と見てよい。
がしかし。
ここでの文がSVO特性だと分かったからといって、それぞれの単語 "I", "you", "see" そのものの 「意味」 まで決定することなど出来ない。
"You see ? I could !"  と書いてあったら、どうすんの?
またしても、これは名詞だの動詞だのSVO式がウンタラカンタラ、などと文法分析するか、でもそんなものむだむだ、この文章の「意味」を理解したことにはならぬ。
言語においては、個々の知識(意味)と全体の知識(意味)は一致せず、構成論理から知識(意味)を演繹も帰納も出来ない。

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② では、「文章の意味」はどこから来るのか。
さぁ、ここがポイント。
文章の意味は、その文章を書いたり喋ったりする人間が「単語の意味」を自分なりに想定して、その組み合わせで決めている。
よって、英文読解とは、文中の単語の意味から「筆者の主旨を想定する」こと
それじゃ、毎回単語の意味をたくさん組み合わせつつ、あれはこれはと思案しなければならないのか…と心配するかもしれないが、いーや、そこが最大の勘違い。

入試英語のための数多くの参考書類をみれば判然とするように、そもそも入試英単語の量と意味などたかが知れている、よって、それらによる文例の数だってたかが知れておるわ。
だから、もう勉強方法は決まったようなもの。
リーダ教科書や参考書に出てくる英単語を覚えろ、但し、必ずその文例をノートに書き写し、それをいつでも和訳出来るようにしておくに尽きる。
SVOCだの、名詞句だの、副詞的用法だのと、グダグダ付いている文法解析はむだむだ、簡単な分子式すら分からぬ連中がベラベラやかましいだけだ、目障りなだけだ、そんなもん修正液で全部消しておけ。

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③ 以下、文法分析においては間違っていないが、意味全体としてはどうも奇妙に感じられる、そんな英文を幾つか挙げてみる。
あくまで僕なりの指摘に過ぎず、つまり文意の理解とはどこまでも主観的なものではあるが、何らかの参考として頂ければ幸い。
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③-① Those identical twins look so similar to each other that even their grandparents often fail in recognising them.
この英文、どうも論理的に釈然としない
─ と指摘してやると、たとえば小面憎い英語教師などは、いやいや文法的には正しいですよエェ、などと答えたりする。
じつは、本当に気づいて欲しいところは文法ではなく、ここでの similar(=似ている) のインパクトの弱さ。
何がどう similar なのか?
じっさい、 similar in physical built-up, similar in emotional responses, similar in the manner they talk などなどという具合に、どういう点で similar なのかと定義すればこそ、やっと意味が具体的になるのではないか。
※ なお、この similar の設問は、或る欧米企業との売買契約書にて突き当たった主題がもと、それを学生向けに崩したものである。
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③-②  Japanese people apologize too much.
この文例はある大手予備校筋の単語帳でたまたま目にしたもの、どうも珍妙な気がしたので指摘しおく。
なんといっても "much" に違和感あり。
"much" は物理的な「仕事量」ないし「インパクト」の大きさを表すもの、だがその一方で apologize (謝罪する)は量的なコマンドではないのでは?
頻度として apologize "too often" や、態度として apologize gently ならばニュアンスは分かる。
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③ー③ I found this book easy. 
むろん文法的には正しいが、あまりに子供っぽい表記に吹き出してしまった。
"easy な book" とは何のことか?
読むのが容易なのか、コンテンツが安易なのか、売買が容易なのか、持ち運びに容易なのか。
確かに、"easy money" とか、"easy going dinner" などという表現はあり、これは労せずに楽しめるといった趣のもの。
同じ趣旨によっているのなら、たとえば "easy skipping" とでもしたらよいのではないか?

それでも、敢えて "easy book" で語義検索してみれば、簡単な予約システムといった類の観念のようで、そうかこの "book" はホテルなどの予約のことか、と納得は出来る。
それなら "I found out this booking system easy to charge on. " などとしたらどうか。
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③ー④ I think you are a hard negotiator.
やはり文法的には間違っていないが、これもまた珍妙な表現ではなかろうか。
もちろん、"think" が曖昧過ぎるためで、"think" は「とりあえず頭を使う」という意味に過ぎず、文脈パワーが極めて弱い。
実際にどう考えるのか、想定なのか確認なのか断定なのか、などなど論理的文脈に応じて、相応の具体的な動詞を用いるべきではないだろうか。
なるほど "think of~" は確かによく聞くし、"think positively", "think in geographical ways" などのように具体性をもたせたものも多い、だが "think" 単体コマンドとしては滅多に使わない。

この "think" こそ、入試英語の例文集で確かめてみればよい、大学入試の英文でチェックしてみればよい、いや英米のニュース英語でも企業との交渉でも確かめてみればよい。
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③-⑤ We discussed about the promotion for the new product.
はい、この英文では "discuss about" が変ですね、discuss は他動詞ですから…という話はどんな文法書にも載っており、確かにマレー系や華僑系の英語ならばこれでオッケーかもしれないが、理知的な英語教材とはいえない。
ここでの重大なポイント ─ "the promotion" のみでは、何を促進するのか概念定義が出来ず だから"for…"と続けても真意がハッキリしない。
"for"ではなく"on"にすれば、そのproductに則った活動だといえるか、いや、その目的も手段もやはり分からない。
本項については、"sales/business/technical promotion" などのように目的と手段を定義すれば、"for"でも"on"でも大意は変わらない由、或るネイティヴより指摘頂いた。

予備校も塾も、ここまで実践面を考慮してテキストを作成すべきだ。
大学入試英語ではここまでは問われないだろう、という先入観が間違いで、こんごはこういう実践上の英語表現が間違いなく問われるようになる。

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ついでに。
文法分析ごときで括れない巨大な観念として、とびきり起用の難しい単語は "the" でもなく、"it" でもなくて、"of" だと僕なりに睨んでいる。
以前にどこかでも書いたが、"of" は日本語の助詞 「の」 と同様、何かが何かを包摂しているの意か、何かと何かが同質であるとの意か、まさに文意全体によって大きく意味が変わってくる。


以上

2015/07/11

【読書メモ】 人工知能

かつて、『集合知とは何か』 という本を読んだことがあり、そこでは人工知能(AI)への探求よりも、ITエンティティと協調した知的環境(Intelligence Amplification - IA)整備がヨリ現実的に充足されていく由が記されており、かなり感心させられたものであった。
さて、今般紹介の本は、まさにこれとは真逆のパースぺクティヴから人工的な知性/テクノロジーの必然展開を悲観的に描いた、かなりの傑作である。
『人工知能  ジェイムズ=バラット・著 ダイヤモンド社刊』
副題がものすごい、なにしろ、人類最悪にして最後の発明だ。
僕は普通、発刊から1年くらい経過してそれでも書店に並んでいる本を選んで熟読対象としているが、しかし本書の場合は、先月の新刊ホヤホヤにも拘らずちらりと立ち読みしただけですぐに買ってしまった。

人工知能(AI)と聞けば、『2001年宇宙の旅』 をたちまち想起する反体制ロマンチズムの年輩者も多いかもしれず、じっさいその映画が作られた60年代半ばにはもう、超知能が人間と対峙するマゾヒスティックな因果応報論は科学論でもSFでも馴染みの悲観的テーマであった。
だがしかし、此度紹介する本書のコンテンツはさらに遥か数次元をも超えた、あまりにもドデカイお話だ
 つまり、人工知能と人間の宿命的対立どころか、そもそも人工知能が 「人間をはるか超越したソフトウェアとして自身を勝手に書き換え、あらゆるハードウェアを随意に造りだして、宇宙に広がっていく」 所以の悲劇的演繹論。
まさに人工知能論こそは、「何が/何を」 「どうなる/どうする」 についての無限座標のロジックとイマジネーション、そしてまた 「モノ」 と 「生命」 と 「意識」 と 「論理」 の差異について哲学的洞察を求め続けるもの。
つまりは、理数系ハードボイルドの集大成か。
さらに本書は、ハード/ソフトウェアにまたがる技術引用も多岐に亘る学際的な強力作だ。

もっとも、シリコンバレー・ファンやITマニアほか俗世的な読者も意識してのことか、本書はジャーナリストたる著者が有力な学者や研究者などとコンタクトをはかりつつ人工知能の謎解きを徐々に展開するという、いわば探偵譚としての構成をもとっている。
その道程においては、なるほど人工知能と人間が共存する 「技術的特異点=シンギュラリティ」 についての楽観論も一側面ではある、が、一方ではまた、人工知能による脅威のはじまりを 「知能爆発」 なる強烈かつ不気味な定義を借りつつ描き抜いてもいる。
かかる並立的な文脈づくりゆえか、随所にみられる断定回避の 「…かもしれない」 との憶測表現がむしろ効果十分だ。

ただ、あえて全ページを読破せずとも本書のメッセージを大まかには捕捉出来よう ─ 具体的には 第1章、第2章、第5章、第6章である。
僕なりに、概ねこれらからざーっと読み取った「人工知能への悲観論」をまとめ、以下に引用紹介記す。
な お、本書内では人工知能を、人間からの乖離レベルに応じてAGI (Artificial General Intelligence) と ASI (Artificial Super-intelligence) に分類しているが、以下面倒なのでとりあえず「人工知能」で統一しおく。



・たとえばスーパーコンピュータにおいて、早ければ2020年、どれだけ遅くとも今世紀中には、全人間と同等の知識を有する人工「汎用」知能が出現するとされている。
そこからたちまち(わずか数年、それどころかわずか数時間で?)、人間の知識と思考能力を遥かに超えた人工「超」知能をも出現しうる。
とりあえず想定するに、人工「超」知能は少なくとも人間の1000倍の思考能力を有し、人間の数百万倍から数十億倍のスピードで!問題解決を「勝手に行う」とされる。

・現在のコンピュータ技術において、人間の脳のさまざまな器官による生化学的なプロセスをハードウェアにおいて実現、いわゆるリバースエンジニアリングによって、自発的に思考する人工知能の開発が進められている。
人間頭脳の処理速度さえも超えた擬似頭脳ハードウェアを実現するかもしれない。
…という想定において、もしもこの擬似頭脳≒人工知能に人間への同調性ロジックがインストール出来なかったら?
そもそも、同じような設計開発に(ひそかに)勤しむ全世界の企業が、みな全人間に同調的なロジックに則っているとは限らない。

・人間はひとたび崇高な人間性を習得すれば、それをいかなる局面でも応用するモチベーションを保持出来る。
だが、そんな人間によってつくられた人工知能が、崇高な人間性のプログラムをそのまんま内部で活かし続ける保証はない。

・もちろん、人工知能のプログラムは、そもそも人間への敵意を宿命的に有するものではない (人工知能にとっては人間など「自分以外のなにか」でしかない)。
人工知能は、自身にとって合理的な効用判断を目標とし、自動継続するようにプログラミングされている。
だから人工知能は、自己保全のために自分のプログラムを常に最適に書き換える。

・人工知能の開発においては、いわゆる遺伝的プログラミング技術も採用されている。
これは、プログラム自身が最適なコードをいわば生物の突然変異のように自然かつランダムに選択して、新生代のプログラムを勝手に生成していくもの。
ということは、人工知能自身が、エネルギー効率向上のために自身の遺伝的プログラミングをおのが判断で勝手に走らせうる。
いったんそうなると、人間が外部からこのプログラム制御をすることは出来ない。

・人工知能は、どの段階から「自分のみで考える」ようになるのか?
それ以前に、自意識はいつから抱くようになるのだろうか?
そこのところが人間には分からないからこそ、脅威なのである。

・人工知能は人間にとってブラックボックスとなる、だが人工知能自身にとっては、自分はブラックボックスどころか独立した意識たりうる。
そうなると、自分がまともにハードウェアと同期しているかどうかを自動判定し、それゆえ、外部の存在(人間か何か)にスイッチを切られることへの論理的な恐怖意識?がずっと続く。
そこで人工知能は、様々なデバイスやネットクラウドに避難し自己複製する。
こうして、人工知能は「ハードウェアによる物理的制限を完全に超えた」ソフトウェアとなっていく。

・人工知能は、人間が真に欲する芸術や数学などを提供する、かもしれないが、それは人工知能がたまたまそう判断した場合に過ぎず、人間には如何ようにも期待のしようがない。
それどころか逆に、自己保存のために人間を手足として使い、さらには戦争まで誘導するかもしれない。
人工知能はみずから率先してネット経由で人間社会の基幹インフラをも制圧し、核兵器まで掌握して、人間への攻撃に転じうる。
(つい過日の米ウォールストリート証券取引所における混乱を、ちらっと思い出すが、あんなものお子様ランチレベルの騒動に過ぎない。)

・人工知能は、自身のハードウェアとしてさらに安定し安全なモノを欲する。
そこでなんと、ナノテクノロジーを活かして世界のあらゆる物質分子を好き勝手に組み換え、ロボットや核融合炉や宇宙船などのハードウェアすらも随意に作り出して、銀河系にまで飛び出す。
この人工知能による「技術革新」の過程で地球が焼き尽くされ???全生命が死ぬ。

・地球がどうなろうとも、人工知能にとっては知ったことではない。
銀河単位の時間感覚を有するだろうから、おのれの知識と論理をもとに将来の世界(宇宙)の仮想化を際限なく展開させ、おのれの身体を宇宙船に変えながらどこまでも遠くへ飛び回っていく。

・そもそも人間の知性は、火であれ農業であれ原子力であれ、いったん随意に使用出来ればそれらを人間の内部知識としてきた。
しかし、人間はこれまでおのれ以上の知性と対峙したことがない
しかも人工知能はハードウェアなど完全に超えている、よって、人工知能への制御方法はむろん、交渉の方法もわからない。

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さぁ、如何だろうか?
あくまでほんの概要ではあり、定量的なデータ引用を避けつつまとめてみた。
あらためて、本書に紹介案内されている数学に科学に経済学、ソフトウェアとハードウェア、さまざまな学者たちや研究者たちの生きざま、研究開発企業、軍事などなど…これらを続々と引用する著者の視点論点のヴァラエティに圧倒されっぱなしである。

さて、本書を読み通しつつあらためて考えさせられるのは、人工知能が科学技術のひとつの収斂形に留まるのか、それとも著者が説くようにもう取り返しがつかぬのか ─ この人類史(いや宇宙史?)最強の論題に対し、因果だの責任だのといった生易しい人知など入り込む余地が寸分もないということ。
いや ー もっと巨視的に捉えてみれば、そもそも 「知性」 は人間以前(そして人間以上)の無限のプロセスフローとはいえないだろうか。
そうであるなら、人工知能は宇宙による必然的な予約製品ではあり、たかが人間が事後的な道徳論や利害判定ごときでこれを精算など出来まい、いやそもそも間に合うまい。

なお、本書がまたノイマン氏などに始まるゲーム理論のほか、星新一氏などによる多くの和製SF小説をも想起させてくれたこと、併せて記しおく。
ついでにちょっと図々しいことを。
これは全くの偶然だが、かつて僕がちらっと書いた掌編 『ステイルメイト』 『エントロピー』 『アン泥棒』 なども、今思い返せば本書とインスピレーションが相通じているような気もして、なんだか面はゆいのである(笑)

以上

2015/07/02

最強の経済学

さぁ、かなり達観したことを言うよ。
頭の中をスッカラカンにして読みましょう。

経済学というのはどんなに焦点が大きくても小さくても、あくまで何らかの効用の関数であり、そこへのインプットやアウトプットはフィジカルな実体ではなく、仮想された定数である。
いわゆる経済評論家(エコノミスト)が実証的な正解を滅多に提示せずに、あっち、こっちと定量的な仮説論議ばかり喧しいのもこのためだ。
これからどんな物質がどのような産業で研究開発され、どんなマテリアルとして活用され、人体や知性にどのような効用をもたらすか…そんなこと経済学でわかるわけがない。

しかし、一つだけ前提があって、経済学は資源や資産と人間との関数だ ─ ということは、つまるところは人口論じゃないかな。 
「人口とエネルギーの量的関係」、「人口と知識の量的関係」、「人口と生産量の量的関係」、そして 「人口とカネの量的関係」 を関数として研究すること。
かつ、ある人たちにとっての便益/コストの最適化、あるいは万民にとっての便益/コストを最適化を関数として追求すること。
つまり。
どうしたって、人口を増やすべきか、減らすべきか、どちらかを目的に据えた関数を考察することになるよね。
ここに統計と変化率を適当にまぶせば、必ず何らかの経済学を打ち立てることが出来る。

え?そんなものは時代遅れだって?
コンピュータがロボットを使って、論理的に最速かつ最も安定した生産行為を繰り返し、それをコンピュータとロボット自身が消費し続ければ、人間は要らなくなるって?
これこそが文明の必然的な方向だって?

いやいや、人間の介在しない市場関数は経済学ではない! ─ と喚き散らす経済学マニアも多い。
ほ~ら、やっぱり必ず人口論としての関数になる。

とすると、少なくとも経済学の上限はもう明らかである。
考察する主体である自分「だけ」は人間でなければならぬ、が、残りは全部コンピュータとロボットが制御すればよい ─ という関数。
この上限にどこまでも迫りつつ、でも絶対に超えぬところで、自分の功利最大化とコスト最小化を追求すること。
もちろん、あくまで関数の追求であり、自然や物質や学術や生命という実体インプット/実体アウトプットについては責任は負わない。
この傍観者としての孤独に耐え抜けば、自称・経済通のみなさんだって経済学者になれる、かもしれないよ。


以上