頭の中をスッカラカンにして読みましょう。
経済学というのはどんなに焦点が大きくても小さくても、あくまで何らかの効用の関数であり、そこへのインプットやアウトプットはフィジカルな実体ではなく、仮想された定数である。
いわゆる経済評論家(エコノミスト)が実証的な正解を滅多に提示せずに、あっち、こっちと定量的な仮説論議ばかり喧しいのもこのためだ。
これからどんな物質がどのような産業で研究開発され、どんなマテリアルとして活用され、人体や知性にどのような効用をもたらすか…そんなこと経済学でわかるわけがない。
しかし、一つだけ前提があって、経済学は資源や資産と人間との関数だ ─ ということは、つまるところは人口論じゃないかな。
「人口とエネルギーの量的関係」、「人口と知識の量的関係」、「人口と生産量の量的関係」、そして 「人口とカネの量的関係」 を関数として研究すること。
かつ、ある人たちにとっての便益/コストの最適化、あるいは万民にとっての便益/コストを最適化を関数として追求すること。
つまり。
どうしたって、人口を増やすべきか、減らすべきか、どちらかを目的に据えた関数を考察することになるよね。
ここに統計と変化率を適当にまぶせば、必ず何らかの経済学を打ち立てることが出来る。
え?そんなものは時代遅れだって?
コンピュータがロボットを使って、論理的に最速かつ最も安定した生産行為を繰り返し、それをコンピュータとロボット自身が消費し続ければ、人間は要らなくなるって?
これこそが文明の必然的な方向だって?
いやいや、人間の介在しない市場関数は経済学ではない! ─ と喚き散らす経済学マニアも多い。
ほ~ら、やっぱり必ず人口論としての関数になる。
とすると、少なくとも経済学の上限はもう明らかである。
考察する主体である自分「だけ」は人間でなければならぬ、が、残りは全部コンピュータとロボットが制御すればよい ─ という関数。
この上限にどこまでも迫りつつ、でも絶対に超えぬところで、自分の功利最大化とコスト最小化を追求すること。
もちろん、あくまで関数の追求であり、自然や物質や学術や生命という実体インプット/実体アウトプットについては責任は負わない。
この傍観者としての孤独に耐え抜けば、自称・経済通のみなさんだって経済学者になれる、かもしれないよ。
以上