2014/03/31

春の奇談 その2

誰も居るはずの無い、深夜の講堂から。
時々、ピアノの楽曲が聴こえてくるという。

そんなことを言い出したのは、かねてから超能力者として知られているKさんだった。
確か、エドガー=アラン=ポーの怪奇小説で、生きたまま埋葬された者が柩の中で絶叫する声を、離れたところから聞き出したという ─ まあそういった類の超能力者が居たと思う。
Kさんにもまさにそういう超能力がある、ということにされていたのだった。

「おい、Kさんは超能力者だってさ。本当かね?」
「嘘なんだろ、あいつ、前から時々そんなこといって専門家ぶってやがる」
「いっそのこと、本当かどうか試してやろうか」
「ははは、そうだな。ちょっとお灸を据えてやるってことで」

そして、その夜のこと。
我々は嫌がるKさんを無理に説得し、車に乗せて、その深夜の講堂に向かった。

車が講堂に近づくにつれ、Kさんが次第に興奮し始めた。
「うわぁ、イヤだ、ほらっ!どんどん聴こえてくるぞ、哀しげなピアノ曲が!やめよう!行くのはやめよう!」
「何を大げさな。ははは、ねえ、我々には何~んにも聴こえませんがね。Kさん、あなた本当はふざけているんでしょう」
「ふざけてなどいない!本当に聴こえるんだよ、ピアノだ、ああ!演奏がどんどん激しくなってくる!いやだ、もう帰ろう!」
「いいえ、帰りません。今さら逃しませんよ、Kさん」
我々はKさんの喚き散らす様を嘲笑しながら、いよいよ講堂に近づいていった。

「どうして分からないんだ!?俺の言うことがどうして分からないんだ!?」 Kさんは呼吸を荒げながらいよいよ大声で、「…そうだ!ラジオをつけてくれ、ラジオだ、ほらっ早く!」
私がくすくすと笑いながら、言われるままにラジオをつけると、悲しげなピアノ曲が流れてきた。
「ほらっ!これだ!これだよ!あんたたちにも聴こえるだろう、この曲のことを言ってるんだよ!」 Kさんが息せき切って更に声を荒げた。
「ばっかばかしい!」 私はラジオを切った。

やがて車は、その講堂の前にキキっと停車した。
照明ひとつ点いていない講堂は、真っ暗。
「うわぁ~っ!いやだっ!助けてくれ!」 Kさんは絶叫していた。
「はっははは、まだふざけているんですか?ねえKさん、我々にはね、な~んにも聴こえないんですけどね。さあ!もしもこの講堂の中に誰も居なかったとしたら、あなたどう釈明する積もりですか?」
我々はKさんを促して、いや、もう両脇からグイグイと引っ張って、講堂の裏口から入館しようとした。
「イヤだっ!中に入りたくない、入ったら…」 Kさんが怒鳴り声をあげながら、じたばたと暴れた。
「入ったら、どうなるって?」 我々はこらえきれずにプッと吹き出した。
かちゃり、と施錠をはずし、我々は真っ暗な講堂の中へ。

あれ?

「おい、Kさんが居ないぞ」
「ほんとだ」
「逃げたのかな」
「どこへ?いつ?」

我々は顔を見合わせて、突然おそろしくなり、一気に外へ飛び出すと、震える手でがちゃりと施錠した。
そして車に飛び乗ると、慌てて講堂をあとにしたのだった。
気を紛らわそうと、慌ててラジオをつけると、かすかに悲しげなピアノの調べ、そして、あぁぁぁぁぁ…という呻き声、ドタドタドタッと狂ったように駆け回る足音が。
どの局も、どの局も…。 

おわり

2014/03/28

春の奇談


同窓会の予定に、ちょっと遅れた。
慌てて会場のホテルに駆け込むと、すれ違いに、長刀を差した何人かの侍がスタスタスタッと駆け去って行った。

ん?なんだあれは、と一瞬いぶかしく思ったが ─ そのまま僕は早足で指定の大応接間に入っていく。
おお、いるいる、懐かしい顔がたくさんだ。
やあ、遅くなりました、みなさん、お久しぶりで!
僕は大声で挨拶したが、みなは無言でしーんと静まり返っている。

なんだ?なんだ?オレですよ、山本ですよ!
そう呼びかけてみるが、みなはどうにも悲しそうな顔で、僕が一人ひとりに挨拶に回っても、黙ってうなだれたり、そっぽを向いたり。
なんだ、どうなってんだ、と僕は少し混乱しまた腹も立つが、そんな僕の気持ちを案じてか、とくに仲の良かったひとりがすっと近づいてくると、僕に小声で囁く。
「おい…首が無いぞ」
「えっ?」
そこへ、いつの間にか、真っ白な顔をした写真屋が現れて、「さぁ…記念撮影ですよ、みなさん、庭の桜の木のところがよいでしょう」という。
まこと綺麗に咲き誇るその桜の木の下、僕は真ん中に陣取って、さぁさぁとみなも列になるように促して ─ はい、撮りますよ、パチリ。


その写真がさきほど送信されてきたのだが。 あっ!首が無い。
真ん中に立っている僕……以外の全員の首が無い!

これには僕も一瞬度肝を抜かれたが、やがてかなり腹が立ってきて、その写真屋にあてて、くだらない悪戯をするな、ちゃんとした写真を送れとの由、メール送信してやった。
するとまた写真が届いたが、今度は僕の生首……以外の全員の生首が数十体も写りこんだ桜の木であった。

おわり

2014/03/26

逆も真とは限らない

(1) これまで何度となく指摘してきた東大論について、ちょっと命題 T (p⇒q) として定義してみよう。
p: 日本の学術の中心は、といえば「東京大学」ということになっているが、中心におわしますがゆえ、神道や仏教などと同様、誰もがみな分け隔てなく分かち合うべき教義教養のはず。 
 ⇒ q: だから日本の青少年は皆が東大生たりうるべきだ。

さて、この命題、「逆を突いてみる」と ─
q: 日本の青少年はみんな東大生たるべき素養がある 
 ⇒ p: だからこそ東大は日本の学術の中心である。
ん?実際のところはどうか?
東大は日本において青少年が最も入学困難な学校とされている。
だから東大は学術の中心じゃなくて、もっとも遠く険しい遥か彼方の特殊専門学校、ということになる。
ということは、この命題は逆は真ではない。

ついでに背理法的に(?)「対偶」の真偽を確かめると。
東大には日本のほとんどの学生は進学しない 
 ⇒ 東大は日本の学術の中心ではない
おおっ!そういうことになるな!なるほど、或る命題が真であればその対偶も真となる、とはこのことか。

…もうお分かりのとおり。
上のごとく冗談めいた命題は、人間が(僕が)幾らでも作為しうるもの。
尤も、命題というのは、真偽判定も客観的になされるものでなければならないそうでだから上の東大ジョークなどは、命題ですらないかもしれない。

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(2) 実際の世界における様々な論理付けは、たいてい或る人間集団がおのれの利便性を最優先にして練り上げたもの。
残念ながら、化学式や関数式などのように「逆もまた真なり」が成立する客観的な命題ばかりではない。

なるほど、化学の授業ではこんなことを習うだろう。
「イオン化エネルギーとは…陽性元素あるいはハロゲン系や希ガス元素などの原子に対して『外部から加えられるエネルギー』であり、かつ、逆から捉えればそれらの原子自身の属性としての『電子の放出し易さ』でもある ─ と。
加えられるエネルギーがこれすなわち電子放出のしやすさだ、と正・逆の双方から完結的に捉えた命題であり、だからまことに掴みやすい。

だが。
経済学の講義ではどうか。
しばしば需要と供給といい、たとえば「p:供給に応じて需要が生じる。q:需要生じたところに供給が生じる。だからp⇒qであり、逆にq⇒pでもある」と命題をまとめる。
しかし、これは論理として一方向へは成立するとしても、総括的な命題としてみれば、逆は真ならず
「お金」を介在させて考えてみれば解る。

確かに、人間が供給する物・サービスはお金と交換出来る。
だから、お金の量=生産供給量。
だが、人間の需要は、たとえば死んだ人間を蘇生させたい、永遠に一定量以上被爆しない肉体が欲しい…などなど無限にありうる、が、全人類のお金を集めてもこれらと交換することは出来ない。
つまり、需要の量≠お金の量。

従って需要の量≠生産供給量。

以上、証明おわり、上の論理はp⇒qは真であるが、逆にq⇒pは偽となる。
つまりどこかが作為的である。

いいか!これが世の中ってもんだ!
人間世界のいかなる論理も、大命題として自然発生したものではない。
どこかの人間が何らかの理由で創出させるものに過ぎない。

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(3) いやいや、たとえ自然科学の世界でも、キッチリ整然とした「逆も真なり」の命題ばかりが呈されているわけではない。

アウストラロピテクスの一部の種族は、400万年の更新世⇒完新世という地球環境の変化に晒され、我々ホモ=サピエンスになった。
では、我々ホモ=サピエンスが逆に400万年の完新世⇒更新世という真逆の地球環境変化にさらされたら、アウストラロピテクスの一部に戻るのか?

別の話。
万能細胞/幹細胞は、或る個人の特定の身体細胞を、その当人のいかなる組織器官としても再組成が可能だという。
では逆に、もしも或る個人の全ての身体細胞を万能細胞に還元出来たとして、そこからまったく新たに再組成された人間は同一の当人といえるのか?

さらに別の話。
先ごろ新たに発見された宇宙の生成理論(超高速膨張理論?)は、相対性理論と素粒子理論の従来の相反を解決しうるものだという。
では逆に、相対性理論と素粒子理論さえ矛盾なく折り合いがつけば、宇宙生成のひみつが全て明らかにされたといえるのか?(たぶんそうじゃないと思う。)

或る特別な条件下での論理は、人間が暫定的に設定したもの、だからどこまでも特別な論理に過ぎない。 

 以上

2014/03/19

勉強する理由はたぶんこういうことなんだろう


以下は、ちょっとだけ理屈っぽい話。
数学の基礎を思い出してみよう。
或る正の整数 a b があり、その両者の最大公約数を g として、最小公倍数を l とする。
ここで、結局は ab = gl となること、どこかで習っただろう、いーえそんなことは知りませんというなら、これから習うだろう。

ここでは数学の話をしたいわけではない。
しかしこれはちょっと世の中の論理に似ていなくもない。

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誰でもそうだと察するが─
若くて貪欲なうちは、a(自分)はどんどんでっかく育っていき、そして b(対象物) もぐんぐん発展していく。
だから、未だどこにも存在しない大きな関係(公倍数)が新規構築されるんだ…と考える。
ここで、手っ取り早く最短で実現する関係があれば、それがa(自分)b(対象物)の間のg(最小公倍数)といえる。

さて。
おのれが一定の範疇で何らかのベテランになると、今度は a(自己) b(対象物) の間の「公約数」ばかり求めるようになる。
しかも、ハッキリ言って老け込んでくればくるほど、自分に近い存在つまり l(最大公約数) を求める。

「とりあえず」若者を待っている世界は、往々にして、互いの公約数ばかりを求める(求められる)人たちのコミュニティ。
そして若者は「とりあえず」最小公倍数の実現をはかる。
だから「とりあえず」、世の中は ab=gl でおさまる。

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しかし、だ。
a(自己)b(対象物) の関係は、「勉強の機会数」次第では幾らでも重層化することが出来、だから公倍数も公約数も大きく出来る。
それどころか、「連想力と想像力」次第では、a(自己)と対象物の関係も多角的に b,c,d,e,f,g… といくらでも増やすことが出来る。
これで若き日の g (最小公倍数) も、ベテランになってからの  l (最大公約数) も、でっかく多重化かつ多角化させていくことが出来るのだ。
そういう人たちが増えれば、社会そのものの g(最小公倍数) l(最大公約数) も、とてつもなくでっかく多重化かつ多角化するのだ。

と、なると、残された変数は「有限の機会数」と「無限に近い?想像力」である。
したがい「速さ」でもある。
だからこそ、若いうちから勉強しろって言うんだ。

(どこかおかしいか?ははははは。)


以上

2014/03/12

抜き足、差し足、忍び足

ものの本によれば。
近代以前の日本人は、所謂「ナンバ歩き」という歩行(あるいは走行)が普通であった、という。
これは左手と左足、次に右手と右足を同時に前に出すという、なんだか剣客や忍びのような身のこなしを差すようで(相撲や拳法も似ている)。
尤も、常時このような動き方をしていたかどうかは判らないらしい。
むしろ、ここで僕なりに言いたいのは「常時」の歩行法や走行法ではなく、日本人にはそういう「特技」もあったのではないか ─ いや、今でもそういう身のこなしの骨格というか筋肉が残っているのではないか、という事実であり…
いや、違う、今回提起してみたい主題は人体工学論などではない、第一そんなもの知らない。
そうではなくて、日本人ならではの心的な習性についてである。

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① 日本人はずっと昔から、この山と海ばっかりの島国に住んできた。
山にせよ、海にせよ、人間にとってはなにかと不規則の事象が起こるものである。
だだっ広い平地とは、違うのだ。
さて、自然環境条件に不規則な事態が頻発していると、住んでいる人間の側もどこか不規則への備えが必要になるのはしょうがないこと。
とはいっても、「不規則への備え」、などそもそも定義が出来ない
─ かくして日本人は何事につけても、定義を好まなくなったのではないか。
我々日本人がいつもどこか抜き足差し足で歩く「ことが出来る」のは、不規則で不可知な何かが起こることを前提とし、咄嗟に対処するためではないか。

そして。
我々が概して飽きっぽく、時おりこれといった訳もなく妙に感傷的になったり、ぞくぞくスリルに溺れたりするのは、決まりきった平静な状況下において、こういう抜き足差し足忍び足の遺伝子が欲求不満で暴れているのではないかな。 
仏教と相性がよいのも、これと関係があるのだろうか。

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② 少し以前に 『数学の想像力』 という本を読んだ。
そこで、日本の近代以前の「和算」数学は極めて高度であり、たとえば江戸時代の和算は既に物凄い精度に到達していた、云々かんぬんと紹介されている。
しかし同著は併せてこういう見解も紹介している ─ 日本の伝統的な和算には「証明」が無かった、たとえば円周率の精度計算にしても、円の径と内接図形と外接図形もとにした計算の加速ロジックそのものは傑出していた、が、それら内接図形と外接図形から挟み撃ちにした完全無欠な円周率の証明を図ることはなかったと。

こういうのを読むと、日本人としては、ああ、そうか!とあらためて閃いてしまう。
おしなべて我々は、たとえ理屈ではどう言おうとも、心底では「論理の再現性」など信用していない。
(だから和算以外の数学も法律も、本当は信用していない。一方で和算などは近現代タームとしての数学ではなく、むしろ日本的に「数術」と称するべきか…。)
いつも「その時、その場かぎりの不規則性」に晒され続けた我々は、抜き足、差し足、自己流で処理能力をブラッシュアップし、忍び足のハードウェアとして実践することは得意なのだ。
しかし、それを全構成員の共通法則で分かち合うことは苦手なのだよ、きっと。

外国語にしても同様で、我々はおのれの専門分野の文献にだけは精通するが、世界中の皆がわかるように英語で発信することは苦手なのだ。
何が起こるか知れたものではないこの世界において、そんな訓練などしてる場合ではなかったのだ。

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③ さて。
世界には、完全無欠なフォーマットを前提とする文明だって有るだろう(もしそうでなければ、我々がいい加減だの気まぐれだのと非難されることはないはずだ)。
それは、たとえば。 
世界で起こることは全てがゼロサムゲーム、量と知識の総和が必ず一定で、土地や人口やカネの「配分」だけで何もかもが納まる、と信じている文明圏だ。
いわば割り算の文明とでもいえようか、或る者の成功は或る者の不幸を必要とするのであろうか。

どういう条件下でこういう発想にいきつくのか、といえば ─ それは「不規則な事態」など起こりえない安定した大地、そこが枯れた場合には移動・移植・複製、そして一神教、さらに権力集中と計画統制。
少なくとも計画と統制を説く人たちは、いつもゼロサム型の思念で生きている、と往々にして云われている。

こんなふうに捉えてみれば、(たとえば)アジアの或る国で、市街地のマンションのクーラー室外機を高層階の外壁にペタッと貼り付けている意味も、分からなくもない。
あの室外機が「何らかの理由で」どすーんと落下する、ということは「ありえない」のだ、だってそんなことが無いようにくっつけた「はず」だからさ。
もし仮に落下事故が起こったとしたら…いーや、そんな事故は無かったことにしてしまい、一方ではもっとしっかり固定出来るクーラーを買ってくりゃいいんだ、工業関係の人材が不足しているなら海外から集めてくりゃいいんだ。
これらは全てが「カネの再配分」で解決出来る、それでまた元通りの秩序に戻るではないか…と。
まあ、こんなふうに考えているのではなかろうか。

そんな彼らは無造作にペタペタと歩く。
何もかも上限の分かりきっているこの世界で、抜き足、差し足など必要ないからだ。

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④ ところで我が日本において、防御策のいい加減な原発が事故を起こしたことについて。
これをどう考えればいいんだろうか。
いくら「多重防御の必要性くらい解ってましたよ」などと言われても、どうしても割り切れない…日本スピリットとあまりにも乖離した事故ではないか。
日本ならではの不規則性を予期しつつ、抜き足、差し足、忍び足で開発設計した日本人は居なかったのだろうか。
今になって抜き足、差し足で対処したって遅すぎるんだよね。

以上