2014/03/12

抜き足、差し足、忍び足

ものの本によれば。
近代以前の日本人は、所謂「ナンバ歩き」という歩行(あるいは走行)が普通であった、という。
これは左手と左足、次に右手と右足を同時に前に出すという、なんだか剣客や忍びのような身のこなしを差すようで(相撲や拳法も似ている)。
尤も、常時このような動き方をしていたかどうかは判らないらしい。
むしろ、ここで僕なりに言いたいのは「常時」の歩行法や走行法ではなく、日本人にはそういう「特技」もあったのではないか ─ いや、今でもそういう身のこなしの骨格というか筋肉が残っているのではないか、という事実であり…
いや、違う、今回提起してみたい主題は人体工学論などではない、第一そんなもの知らない。
そうではなくて、日本人ならではの心的な習性についてである。

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① 日本人はずっと昔から、この山と海ばっかりの島国に住んできた。
山にせよ、海にせよ、人間にとってはなにかと不規則の事象が起こるものである。
だだっ広い平地とは、違うのだ。
さて、自然環境条件に不規則な事態が頻発していると、住んでいる人間の側もどこか不規則への備えが必要になるのはしょうがないこと。
とはいっても、「不規則への備え」、などそもそも定義が出来ない
─ かくして日本人は何事につけても、定義を好まなくなったのではないか。
我々日本人がいつもどこか抜き足差し足で歩く「ことが出来る」のは、不規則で不可知な何かが起こることを前提とし、咄嗟に対処するためではないか。

そして。
我々が概して飽きっぽく、時おりこれといった訳もなく妙に感傷的になったり、ぞくぞくスリルに溺れたりするのは、決まりきった平静な状況下において、こういう抜き足差し足忍び足の遺伝子が欲求不満で暴れているのではないかな。 
仏教と相性がよいのも、これと関係があるのだろうか。

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② 少し以前に 『数学の想像力』 という本を読んだ。
そこで、日本の近代以前の「和算」数学は極めて高度であり、たとえば江戸時代の和算は既に物凄い精度に到達していた、云々かんぬんと紹介されている。
しかし同著は併せてこういう見解も紹介している ─ 日本の伝統的な和算には「証明」が無かった、たとえば円周率の精度計算にしても、円の径と内接図形と外接図形もとにした計算の加速ロジックそのものは傑出していた、が、それら内接図形と外接図形から挟み撃ちにした完全無欠な円周率の証明を図ることはなかったと。

こういうのを読むと、日本人としては、ああ、そうか!とあらためて閃いてしまう。
おしなべて我々は、たとえ理屈ではどう言おうとも、心底では「論理の再現性」など信用していない。
(だから和算以外の数学も法律も、本当は信用していない。一方で和算などは近現代タームとしての数学ではなく、むしろ日本的に「数術」と称するべきか…。)
いつも「その時、その場かぎりの不規則性」に晒され続けた我々は、抜き足、差し足、自己流で処理能力をブラッシュアップし、忍び足のハードウェアとして実践することは得意なのだ。
しかし、それを全構成員の共通法則で分かち合うことは苦手なのだよ、きっと。

外国語にしても同様で、我々はおのれの専門分野の文献にだけは精通するが、世界中の皆がわかるように英語で発信することは苦手なのだ。
何が起こるか知れたものではないこの世界において、そんな訓練などしてる場合ではなかったのだ。

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③ さて。
世界には、完全無欠なフォーマットを前提とする文明だって有るだろう(もしそうでなければ、我々がいい加減だの気まぐれだのと非難されることはないはずだ)。
それは、たとえば。 
世界で起こることは全てがゼロサムゲーム、量と知識の総和が必ず一定で、土地や人口やカネの「配分」だけで何もかもが納まる、と信じている文明圏だ。
いわば割り算の文明とでもいえようか、或る者の成功は或る者の不幸を必要とするのであろうか。

どういう条件下でこういう発想にいきつくのか、といえば ─ それは「不規則な事態」など起こりえない安定した大地、そこが枯れた場合には移動・移植・複製、そして一神教、さらに権力集中と計画統制。
少なくとも計画と統制を説く人たちは、いつもゼロサム型の思念で生きている、と往々にして云われている。

こんなふうに捉えてみれば、(たとえば)アジアの或る国で、市街地のマンションのクーラー室外機を高層階の外壁にペタッと貼り付けている意味も、分からなくもない。
あの室外機が「何らかの理由で」どすーんと落下する、ということは「ありえない」のだ、だってそんなことが無いようにくっつけた「はず」だからさ。
もし仮に落下事故が起こったとしたら…いーや、そんな事故は無かったことにしてしまい、一方ではもっとしっかり固定出来るクーラーを買ってくりゃいいんだ、工業関係の人材が不足しているなら海外から集めてくりゃいいんだ。
これらは全てが「カネの再配分」で解決出来る、それでまた元通りの秩序に戻るではないか…と。
まあ、こんなふうに考えているのではなかろうか。

そんな彼らは無造作にペタペタと歩く。
何もかも上限の分かりきっているこの世界で、抜き足、差し足など必要ないからだ。

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④ ところで我が日本において、防御策のいい加減な原発が事故を起こしたことについて。
これをどう考えればいいんだろうか。
いくら「多重防御の必要性くらい解ってましたよ」などと言われても、どうしても割り切れない…日本スピリットとあまりにも乖離した事故ではないか。
日本ならではの不規則性を予期しつつ、抜き足、差し足、忍び足で開発設計した日本人は居なかったのだろうか。
今になって抜き足、差し足で対処したって遅すぎるんだよね。

以上