2022/01/21

2022年 大学入学共通テストについての所感

昨年の共通テスト所感において、僕なりにいわゆる'思考力'についてちらっと考えを巡らせた。
「新規命題の創造を究極の目的としつつ、既得の知識と命題の最適な組み合わせを導く」 ─ これこそが’思考力’の意義に違いない、と。

本旨につき、最近の僕はヨリ俯瞰的に「知識・命題~真理の整合」として捉えることに拘っている。

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’知識・命題’ と '真理' を行ったり来たり の思考操作を、総称して「勉強」という。
ゆえに「学力試験」においても、 ’知識・命題’ と '真理’ の双方の習得量をともに質すものであるべきである。
そして、教師はともかくも、当の学生たちは「勉強」や「試験」がこういうものであろうと信じ込んでいる。
それでこそ青春だ、それでいいんだ!


さて、'知識・命題’ と ’真理’ の行ったり来たりをもっとも厳密に課している科目は数学であろう (数学や論理学にては’公理’ともいう。)
冗長な情報をとことん取っ払った、精密ギリギリの剥き身のサーベルのごとき思考操作である。
尤も、数学上の'知識・命題'と’真理’のみがホントに全宇宙を表現しきれるか ─ ここのところ訝ってしまう人たちがリアリティとの再確認に拘り、それで物理や化学に傾倒してゆき、物理でも化学でも説明しきれぬ生命やウイルスのファンたちが生物に傾倒していく ─ かもしれない。



さてそれでは社会科はどうであろうか?
いまのところ、諸々の '知識・命題'(たとえば自然物と物理要件と資源)を人間社会の’真理’(たとえば商取引と産業) と一貫させている科目は地理であろう。
だが政治経済と世界史は’知識命題’と’真理’のどちらもウヤムヤであり、明瞭な一貫呼応もみられない。

政治経済科においても、なるほど会計や法手続きなどなどにかかる’知識命題’は明瞭にして実践的なものではある。
またいわゆる国富の三面等価などみれば、価値にかかる’知識命題’と'真理’が論理上は一貫しているようにも映る。
そして世界人類共通の’真理らしきもの’としては、万民の便益(utilities)の増大があげられよう。
それでは便益とはなにかといえば…普通に考えればおのれの健康のこととなろうが、ここでは同時に富のことですという声も挙がり、ここから知識命題の不一致がみられる。
あらためて富とは何ですかと訊けば、それは財産の価値のことだという見方が多勢であろう、じゃあ価値とはなにか、そし’通貨とはなにか、いろいろな現実にあてこんで考えてみるとこれらの’知識命題’がウヤムヤに留まっていることに嘆息してしまう。

あるいは、人権と国権こそが人類共通の’真理らしきもの’かもしれぬ。
なるほどそうかもしれないが、ならばだよ、人類は国家民族を超越して混交し統一されるべき種なのか、はたまた、世代とともに個体差をバラつかせつつどんどん独立国を建てるべきであるのか…?
いったいどちらが’真理’であるのかどこの誰も明瞭に説明出来ない。

このように、政治経済や歴史においては’知識命題’と’真理’の対応がハッキリせず、どれがどうであるのかの意義すら判然とせぬままに、競争だの自由化だの再分配だの、多様性だの共生だのLGBTだの住民投票条例だの表現の自由だの不自由だの、デフレだのスタフレだの消費税だの社会保険料だの、はては脱炭素だのと…
まこと、社会科(とくに政経と世界史)は難解な分野であり、本当に勉強といえるのかしらと、まあいいやとりあえず。



さて。
さまざまな学力試験がAIによって作成されてゆくだろう、といわれる。
確かに、’知識命題’と’真理’がともに整然と定められつつ呼応している科目であれば、AIが問題作成してゆくことも十分にありえよう。
しかしだぜ、’知識命題’の正誤がウヤムヤでしかも’真理’があるのかないのか判然としない科目においては、なんぼAIや量子マシンを駆使しようとも「完全な」試験問題など作成できようわけがない。


ともあれ、以上で勉強論および試験論はおわりである。


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…と書いたところで、もう本年の共通テスト所感は片づけちゃおうかと思ったが、せっかくいじくりかけたので、例年のように政治経済と世界史について僕なりの従前からの拘りにも駆られつつ、ちょっとだけ具体的に論ってみることにする。

総じて前回と同様に、今回の共通テストも情報量ワンサカの’資料’から主旨を読み取る能力が、ひとつの名分とされているらしい。
もちろん、なんぼ資料の分量を増やそうとも、上にさらっと記したとおり試験問題は’知識・命題’ と ’真理’ についてともに質すつくりでなければならない!
たとえ政治経済と世界史においてホントはなんらの’真理’もハッキリ確立されずとも、それらしきが一応は存在すると見做しつつ学生たちは勉強続けているんだ。

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【政治・経済】

<第1問>
或る地方公共団体が画策する’市街地活性化プラン’について、地方自治の意義に則りつつ、特措法(空き家法)による権利保障と制限を質すもの。
民泊条例についても再考させるホットな良問ともいえるが、そもそもなぜこの市が観光事業推進による安定収益を図っているのか、地理的要件にものっとりつつ他の産業シフトとの比較検討についても較概して欲しかった。

なお、問1の権力分立についての出題にて、’同一の人間が三権を行使すればすべては失われるであろう…’との引用文あり、おそらくはモンテスキューによる言であろうが、本旨はどうも理解出来ない。
そもそもだよ、いつの日か同じ人間が三権を同時に行使出来る日が来るとすれば、それは彼らが完全な人徳者となった日であり、これ以上無いほどの充実した市民生活の日々を送っていることになるのでは?
(こういうスケールで考えてこそ政治経済は巨大な’真理’追求の科目たりうるんだ。)


<第2問>
経済主体の相関図を呈した出題であり、まこと出題上の’資料’とはこの図のように’知識命題’と'真理’が見事呼応したものが望ましく、こうであってこそ政治経済は物理や化学に迫るほどまともな科目たりえよう ─ と褒めかけたが、いやいやこれは出題スケールが矮小にすぎる。
問2にて、企業側が生産行為において汚染物質を生成してしまう理由は、生産製品に対する消費者側の需要あってこそ、それなのにここでは消費者側の事情を排除して考えましょうと問いかけている。
よいですか、さっきの出題についてもコメントしたが、社会科といえどもヨリ広範かつ深淵なスケールで’真理’にアプローチしてこそ勉強といえるのですよ、個別分析ばかりで全体の系を見過ごしてしまうようではいけませんね。

問8では、諸国の物価と購買力平価と外為レートに則りつつ、「実際のそれら」を算出させる易しい出題ではあるが、「実際の」がどうも気になってしょうがない。
諸国における「実際の物価」と「実際の購買力平価」をホントに精密に調査出来るものだろうか?たとえば俺がロンドンで誰と何を幾らで売買したか、そのさいの通貨は何であり、どんなレートで話をつけたのか、俺しか知らないんだぜ。人間の経済活動におけるグロスなカネの所在と移動は税務署や金融機関やエコノミストに捕捉できようが、「実際の」ディテールな売買の内訳が完全に分かることはねぇんだ。


なんだか飽きてきたので、ここいらでもうやめておく。


なお世界史についても、上に論ったとおりそもそも人類’万民の真理’がどうにもウヤムヤなまま、まぁおそらくは万民の福利厚生の向上こそが世界史の意義なのだなと見当はつくが、その割には時代が下るとともに殺人合戦の規模がどんどん大きくなっており、なんだか難解だなとだんだん懐疑的にもなってしまう。
それでも個々の’知識命題’をわんさかと覚えなければならない。
だから入試問題としても、いかなる出題形式をとろうとも、’資料’をなんぼ読ませようとも、結局どうしても’知識命題’の多寡によって出来が決まってしまう。



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ついでに、英語の出題について。

大学入試までの英語は、所詮は言語情報処理のツールに過ぎないので、学術上とくに精密な語彙を充てる必要は無いともいえよう。
それにしてもだ。
今回のreading文中は昨年ものに負けず劣らず「いいかげん」な表現が目についた。
たとえば;

・動詞と目的語の直接的(科学的)な組み合わせ表現が少ない反面で、’for', 'about' の多用による婉曲的(ウヤムヤ)表現が頻繁であった。
・とくに思惟や了察を表す動詞として 'be afraid', 'anticipate', 'assume', 'believe', 'consider', 'evaluate', 'guess', 'imagine', ''overview', 'presume', 'suppose' などなどが いずれも 'think' としてウヤムヤに収斂され、極端に濫用されていたように映った。
・'Wifi'の使用環境の不便さについて指摘する文章にて、'slow'とか'good'とか評しているが、こういうbe動詞と単純形容詞の極端な多用はどうにも欧米の9歳くらいの子供が記した文面のようで、真面目に読みぬく気が失せてしまうのである。
せめて'transmission'の'speed/rate'がどうこうと明瞭に書くのが普通の欧米人じゃないかな。

敢えて肯定的に評するとしても、これらはせいぜいのところアジア型の英語、それも産業界や学術界の実践英語とはほど遠い学生英語に過ぎぬのではないか ─ というのが僕なりの経験則上の総評。
あるいは、もしかしたら'アルバイト英語'とでも称すべきものかもしれぬが、こんなものを敢えて高校生たちに称揚しつつ「教育関連企業」などと自称している塾や予備校はおそろしく悪質ではなかろうっか。


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以上

2022/01/10

新成人 (2022)



新成人諸君、おめでとう。
現時点まで、民法にては20歳を「成年」年齢とおいている。
これがじきに18歳に引き下げられることはご多聞のとおりだ。
ともあれ、此度の君たちはこれまでの20歳の先例に倣い成年となった。
論理的にいえば、世の中のさまざまな命題において「客体」から「主体」へと昇格した。
言い換えれば、'目的語'から'主語'へと出世したわけだ、イェーース!
もっと気取って言えば、’count'から’account’に成長したんだ、イェーア!

さぁ、これからは手紙の末尾に堂々と自分の姓名を記すがよい。
そしてさまざまな請求書の名宛にされて慄くがよい。
もちろん金貸し連中も鵜の目鷹の目で君たちを狙っているぞ。



英語にかこつけて更に続ける。
'will' と 'shall' の違いについてあらためて考えてみよう。
これまで子供だった君たちには、'will'も'shall'も同義に映ってきたことだろう。
しかし大人の流儀は違うんだぜ。
'will'はおのれ「自身そのもの」の自律的意思だが、'shall'はおのれ「以外」による他律的な意思だ。
総じて言えば、自然環境状態におけるあらゆる物質物体の運動や反応は’will'である、その一方で、人間が介在し解釈してしまえばそれらは’shall'してしまうことにもなるってことだ。
え?何を言いたいのか分かり難いって?
じゃあもうちょっと人間寄りに言おうか。
たとえば、或る異性がキスを迫ってきたときだ。
そのキスが'この男性'と'あたし'ともどもの’will'な恋愛行為なのか、それとも二人の成り行き上の’shall’に過ぎない所業なのか ─ ここんところが大人のけじめだ。

'will'は本能であり本性であり本質であり、生きとし生ける我らの本源的な実体そのもの。
だが'shall'は所詮は論理でしかない。



☆   ☆   ☆


我々の人間世界はもともと内実がお互いに不明瞭、そしていまや一層のこと、成り行きが不透明になっている。
温暖化(or寒冷化)ゲームにしろ新コロ新株フィーバーにせよ、はたまた通貨危機やスタグフレーションにせよ、はてはクーデタや戦争にせよ…
いったい誰がどこまで率先的に’will'しているのか、或いは、お互いに'shall'ばかり使いまわして他人面を決め込みつつ、陰で真っ黒にニヤつかせているのか。
さぁ、君たちはおのが’will’に生きるのか、それとも’shsll’で逃げまわる羽目に陥ってしまうのか。



いやいや、自信喪失するには及ばないぞ。
オリンピックや大リーグにおいて、君たちの先輩たちがドカンドカンと遂行してのけた大活躍の数々、どれもこれもが肉体から'willingly'に発せられた実体そのものだったじゃないか。
そして、我々一人ひとり、そういうふうに出来ている。
どれだけ金貸しが巧妙であろうとも、割り算と引き算ばかりのデジタル宗派が文脈の断裂を図ろうとも、論理的な階層化が企図されようとも、君たちの血肉からガンガンと沸き起こってくる'will'のフィジカルな本性爆発が留まることはない。

さぁみんな、真っ直ぐに頑張れよ!


(以上)