2022/01/10

新成人 (2022)



新成人諸君、おめでとう。
現時点まで、民法にては20歳を「成年」年齢とおいている。
これがじきに18歳に引き下げられることはご多聞のとおりだ。
ともあれ、此度の君たちはこれまでの20歳の先例に倣い成年となった。
論理的にいえば、世の中のさまざまな命題において「客体」から「主体」へと昇格した。
言い換えれば、'目的語'から'主語'へと出世したわけだ、イェーース!
もっと気取って言えば、’count'から’account’に成長したんだ、イェーア!

さぁ、これからは手紙の末尾に堂々と自分の姓名を記すがよい。
そしてさまざまな請求書の名宛にされて慄くがよい。
もちろん金貸し連中も鵜の目鷹の目で君たちを狙っているぞ。



英語にかこつけて更に続ける。
'will' と 'shall' の違いについてあらためて考えてみよう。
これまで子供だった君たちには、'will'も'shall'も同義に映ってきたことだろう。
しかし大人の流儀は違うんだぜ。
'will'はおのれ「自身そのもの」の自律的意思だが、'shall'はおのれ「以外」による他律的な意思だ。
総じて言えば、自然環境状態におけるあらゆる物質物体の運動や反応は’will'である、その一方で、人間が介在し解釈してしまえばそれらは’shall'してしまうことにもなるってことだ。
え?何を言いたいのか分かり難いって?
じゃあもうちょっと人間寄りに言おうか。
たとえば、或る異性がキスを迫ってきたときだ。
そのキスが'この男性'と'あたし'ともどもの’will'な恋愛行為なのか、それとも二人の成り行き上の’shall’に過ぎない所業なのか ─ ここんところが大人のけじめだ。

'will'は本能であり本性であり本質であり、生きとし生ける我らの本源的な実体そのもの。
だが'shall'は所詮は論理でしかない。



☆   ☆   ☆


我々の人間世界はもともと内実がお互いに不明瞭、そしていまや一層のこと、成り行きが不透明になっている。
温暖化(or寒冷化)ゲームにしろ新コロ新株フィーバーにせよ、はたまた通貨危機やスタグフレーションにせよ、はてはクーデタや戦争にせよ…
いったい誰がどこまで率先的に’will'しているのか、或いは、お互いに'shall'ばかり使いまわして他人面を決め込みつつ、陰で真っ黒にニヤつかせているのか。
さぁ、君たちはおのが’will’に生きるのか、それとも’shsll’で逃げまわる羽目に陥ってしまうのか。



いやいや、自信喪失するには及ばないぞ。
オリンピックや大リーグにおいて、君たちの先輩たちがドカンドカンと遂行してのけた大活躍の数々、どれもこれもが肉体から'willingly'に発せられた実体そのものだったじゃないか。
そして、我々一人ひとり、そういうふうに出来ている。
どれだけ金貸しが巧妙であろうとも、割り算と引き算ばかりのデジタル宗派が文脈の断裂を図ろうとも、論理的な階層化が企図されようとも、君たちの血肉からガンガンと沸き起こってくる'will'のフィジカルな本性爆発が留まることはない。

さぁみんな、真っ直ぐに頑張れよ!


(以上)