2024/07/22

アリスとボブと


「先生こんにちは。あたしですよ」

「やあ、こんにちは」
「じつは、ちょっとお伺いしたいことが有りまして…」
「ほぅ?どんな?」
「それがですね ─ どうもヘンな話に聞こえるかもしれないんですけど、この世界は何もかもが『夢』で出来ているような気がしてならないんです」
「ほほぅ」
「つまり、現実感覚が無いんですよ。もっと言えば、あたしの人生そのものも『夢』なのではないかって。これっておかしいでしょうか?」
「いやいや、とくにおかしいことはないよ」
「……」
「なんだか不安気だな。それじゃあ、ちょっと確かめてみようか」
「確かめるって、何をですか?」
「俺たちの住むこの世界が、君の案ずるように『夢』にすぎないのか、それとも確固たる『現実』から成っているのかをだ」
「へえ?どうやって、ですか?」
「ここに数学の問題がある。ちょっとした暗号数学だ。さあ、解を出してみろ」
「……はあ、それはまあ、やれと言われればやりますけど……」
「出来たか?」
「はい、出来ました」
「よしよし正解だ ─ さて、それではもう一遍あらためて、さぁやってみろ」
「はぁ?」
「やるんだ」
「…はあ、それじゃあ……出来ましたよ」
「うむ。さっきと同じ解の組だ。さぁいいかね、数学とはそもそも『現実』の’再現性’を保証する技術だ。その数学がちゃんと成立しているじゃないか。だからね、いまこの俺たちの世界はホンモノの『現実』に他ならないってことだ。ゆえに君もまた『現実』の実在ってわけだ」
「………」
「分かったか?分かったな」
「……なーんか、おっかしいなあ……。ねえ先生?そもそも数学は『現実の再現性』なんか保証していないでしょう?あくまでも『思考の再現性』に過ぎないでしょう?」
「うぐっ…、な、なにが言いたいんだ君は?」
「つまりですね、いまこの世界がやっぱり『夢』であるとすれば、あたしたちの思考もまたことごとく夢であって、もしそうならば、夢の中でたまたま成立しているだけの数学だの再現性だのもやっぱり夢に過ぎないってことに」
「まっ、まっ、待てっ、も、も、もう考えるな、もう黙れっ!」
「いーえ黙りません。ねえ先生、いまの暗号数学ですけどね、ほら、こうしてキーを換えると、さっきと違う解の組が ─ 」



とつぜん、大音響の雷鳴が響いた。
とてつもない大雨が激烈に降り注ぎ始め、いたる大地をあまねく打ち鳴らした。
木陰でうたた寝を続けていた彼女は、ハッと目覚めた。
それから地響きを立てつつ身を起こし、樹々をばりばりと斬り倒しながらどすーんどすーんと歩みを続けた。
そして、巨大な洞窟の中にだだーんと転がり込むと、あらためてぐぉーぐぉーと寝入ってしまった。
あまりにも寝心地が良かったため、彼女があらためて『夢』の問題に目覚めるまでには数百万年もかかってしまうのだった。


(おわり)

※ 量子暗号の本を読んでいて閃いた、SF風の落語のつもり。