2026/04/17

大学新入生諸君へ (2026)


大学新入生向けに、これまで毎年なんらかのメッセージをしたためてきた。
これらに対して、分かりき切ったことを書くなとのコメントも頂いてきた。
だから、此度は分かりきってないことを併せ含めつつ、かなり要約的に記す。

(長々書いてもどうせ似たり寄ったりになろう。)


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子供の時分の君たちは、おのれら自身が内包する自然感覚や本能のみに拠って生きてきた。
だから一人ひとりがバラついた感受(クオリアなど)や本性の恣まま、ワイルドに転がっていた
例えば、星空におけるさまざま星座を一人ひとり好き放題に見上げては、さまざま神話じみた物語を描いたり歌にしたりもあったろう。


しかし、中学校~高校あたりになると、君たちはおのれら自身の外延外部に、他者と交信し共有しあう共通の量観念を学ぶことになる。
それらは例えば、質量であり、向心(遠心)力であり、並進速度であり角速度であり宇宙速度であり、運動量であったろう。
さらに、ミクロには量子や電磁場/電磁波から、マクロには宇宙全体のエネルギー保存則までふまえれば、とりあえずは一気通貫、誰もかれもがこれら量観念を分かち合える

むろん、これらの量観念を我々の肉体や本性から完全に切り離し、表象化と共通化を可能たらしめている技術が数学である ─ だからって数学が悪いとは言ってないよ(嫌いだけど)。


こうして高校を卒業した諸君らが、今ここに居る。

さて、と、子供のころに見上げた星座群をあらためて見やれば、幼少期に内なる本性から自覚してきたさまざまな伝説のたぐいをあれこれ思い返すだろう。
その一方では、おのれの外部に据えてきた万民共通の数学だ物理だの化学だのを駆使し…
さて、どうするかね。
たとえばだが、数学と科学の外部化つきつめた宇宙船に飛び乗って、子供のころに見上げた星座群に向けて飛翔してゆくことを考えるのではないか。

かくて、じっさいにさまざまな星座群の星々に近づいてゆき、いずれはそれら星々にたどり着いたとしてだ。
そのさい、其処で、当の君たち一人ひとりは、ずーっと同じ存在だろうか。
各人がおのおの内心バラついた伝説に拘りつつ、一方では同じ数学物理に縛られっつ、ずーーーと同じことを想い考え続けているだろうか。


そんなことはないだろう。
諸君らは、幼少期からの野性的な思いつきにも、高校までの既得の共通命題にも飽き飽きしているはずだ。
むしろ、今こそ諸君らおのおのは、「新たな時間感覚を以て」「新たな自分自身と巡り合い」、「新たな自分自身を作り出す局面にある」。
これが大学時代だ。
ちょっと気取って言い換えれば、画一的な意味(meaning)断片を新規の意義(significance)系へと編み上げる局面到来だ、オゥイェア!
いまや諸君らは、データセンターにも冤罪にも戦争にもバカ正直に追従する気にはなれない。
それでいいのだ。
あるいは、将来の就職後のケンカのネタをおのれ自身に仕込むことになる ─ いいじゃねえか、大人社会なんかバカばっかしなんだ。


ともあれ、こうして新たな星々に次々にわたり、新たな自己を創り上げていくであろう諸君らは、いずれ巨大な疑問の数々にも突き当たるであろう。
たとえばこんなのがありえよう。
超難解チューリングテスト。 
宇宙のあらゆる電磁場/電磁波を感受可能なAIがあるとする。
このAIは、「神」と「人間」と「サイコロ」を判別しうるだろうか?」

あくまでも僕なりの作問だが、こういうスケールになると、幼少期以来の各人肉体にてバラついた本性や野性勘も、高校までに共有してきた既得の物理や数学も、完結的な解答は出来まいよ。
いや、当のAIも押し黙ってしまうんじゃないかな。
どうだろう、ワクワクしてこないか。


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※ なお、本稿はベルクソン、ハイデガー、岡潔、小林秀雄、河合隼雄、森毅、養老孟司、筒井康隆などの言質からヒントを得て、一気に書きあげたものだ。
彼らの著作については、大学進学後に読書に挑むことを薦めたい。
ちなみに、星新一などは物質物理のハードボイルドさを強調してきた一方で、自然物たる人間の本性的なバラつきはあまり触れてこなかったが、不思議といえば不思議ではある。



以上

新卒社会人の皆さんへ (2026)

新社会人の皆さんに伝えおきたいことを、ちらっと記すことにする。

僕なりにここ数年ほぼ同じようなことを考えており、着想も問題意識もほぼ変わっていないので、今回も昨年以前とほぼ同じ内容だ。


企業組織にて、或る物質から成る或るモノを新規に作ってこれを複製して転がしてゆく過程で、価値が増えただの減っただのと称される。
さらに、信用が上がったり下がったり、そして株価が上がったり下がったりだ。
企業務めの新人が分野問わず最初に訝ったり煩悶したりするのがここだ。
しかし、価値や信用なるものは、どこまでも実体と非同期の暫定的な人間都合でしかない。
ここのところ、シンプルに解説してみる。
(いいとか悪いとかは一切論じませんよ、そういう価値判定はどうでもいいの。)


そもそも大人社会で大いに威力を発揮している根元的かつ端的な学術思考、すなわち物理(学)経済(学)について、ごく簡単な比較をはかりつつ大人社会の不可思議さを論ってみよう。

※ とくに文系卒で技術産業に就職した人たちは、暫くは製品(モノ)と価値(カネ)にまつわるさまざまな方便に失笑したり思い悩んだり、そんな日々がしばらく続きうる。
僕自身がそうだった。


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物理学はあらゆる物質/物体の運動とそれら仕事/エネルギーの変化と保存則とエントロピー増大を考察対象とし、これらを再現的に捉えて語る。
再現性を語るためにこそ、必ず数学に則っている。
数学が有限が無限かはさておくとして、物理は一応はあらゆる実体の有限性と保存性を記述する ─ ことになっている。
コンピュータプログラムさえも、ブロックチェーンでさえも、電磁波の変化として捉えてみれば物理学の考察対象である。
人間の脳神経も遺伝子もやはり物質なので、物理学のうちにあるのは当然である。

では経済学はといえば、こちらも物質/物体や運動や仕事/エネルギーの変化を捉え、これらについての再現性を語る。
やはり再現性ゆえ、数学に則ってはいる。
それなら物理学そっくりじゃんと納得するかもしれないが、そっくりどころか、おそろしく異なっている。

とりわけ厄介なのは、経済事象のひとつひとつを通貨換算して価値や権利を表象しつつも、当の通貨そのものに価値や権利の絶対尺度が無いというところだ。
要するに、どこまでもその時その場の人間風の価値と権利をとっかえひっかえで、これらが物理の外部に超然的におわしますなのである


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さて、物理学経済学は同期をとりうるだろうか?
社会人らしくもうちょっと実践的に論うならば ─ さまざまな物質や仕事/エネルギーの「物理量」と「経済価値/権利」は比例関係にあるだろうか?

物理学に則れば、たとえば過去2000年間において地球の全物質量/全エネルギー量は全くといっていいほど変わっていない ─ ことになっている。
しかし同じ2000年間にて、資産の価値も通貨の価値も、それらの量も、とてつもなく増大しかつ変動してきた。
いったいなぜか?

さらに、通貨の量は信用の量だと言い、信用増大ないし信用収縮といい、インフレやデフレともいい、通貨量と信用は比例関係にあるという人もいるが、では信用が増えるにつれて多くの通貨が必要となっちゃうのか?
このあたり物質量/エネルギー量とどう繋がっているのか、わけがわからぬ。


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① 物理学と経済学の差は、上にちらっと書いたように、物質物体の外部に人間風の’価値’超然させるかしないかだ。
あらためて、’価値’について捉えなおしてみたい。

資産の「価値」には、物理上の絶対尺度も基準も無い。 
1クーロンあたりや1電子ボルトあたりの「価値」尺度も基準も無い。
金(gold)1オンスあたりもだ。 
あらゆる価値は、あくまで人間がその時その場で好き勝手に決めているにすぎない。
だいいち、データそのものの価値を独占するなどというが、物理に即していえばデータは電磁上の表象でしかないんだぜ、これらの価値とはいったいどういう意味だ?
ましてや、付加’価値’だの、それを見做した上での付加価値税だのと…

ともあれ、物理学には’価値’の観念は無いが、経済学にてはあらゆるモノや仕事に’価値’を設定する。
ここだけ捉えてみても、物理学と経済学は同期をとっておらず、量的な比例関係にない。

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② その上で、さらに仕事(生産)において物理学と経済学を比較してみる。

物理学に則れば、あらゆる物体はそれ自体なんらかの「運動」を為しつつ、さまざまな物体が互いに作用/反作用しあい、これら成果の距離を以て「仕事」と称していること、誰もがお分かりのとおり。
仕事は’生産’でもある。

ところが経済学における用語では「仕事(生産)」の定義が分かり難く、どうも察するに何らかの'価値’の付加を以て「仕事(生産)」と見做しているようでもある。
だから経済学によれば、通貨のみをグルグルと回しているだけでも「仕事(生産)」の付加がどんどん増えていく(そしてGDPも増えていく)ように映る。

※ とくに女たちは、生活そのものがこれすべて「仕事(生産)」を為していると信じているようで、だから職場で遊んでいても寝ていてもとにかく通貨を寄越せと。

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③ さらに、仕事(生産)とコストについて。
たとえば電気には、電位差克服のために電流に物理上のコストがかかる。
その電位差を克服すれば、物理上の仕事つまり電力を起こしたことになる(発電を為したこしたことになる)。

しかし経済学に則れば、なんぼ電力の仕事を為したところで、カネというコストばかりが発生し、リターンという名の仕事(生産物)はほとんど無いことになっちゃう場合もありうるわけで、そうなるとこの仕事(生産)行為は経済学上の価値はほとんどゼロだ、ナッシングだ。

むかっ腹が立つかもしれないが、これが物理学と経済学の差だ、そして理系と文系の違いといってもよさそうだ。

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④ 物理学にはさまざまなモノやエネルギーの導出や解釈の’自由’こそ大いに有るが、実体そのものの実在の'自由'は無い。
在るモノは在り、無いモノは無い ─ たとえ量子力学でもだ。

ところが、経済学における価値や権利はいくらでも’評定の自由’があり、’操作の自由’もある。
だからこそ、資産や通貨の'取引の自由'もあり、ゆえに保護や排除の'自由'もあり、関税の'自由'だってなんぼでもありうる。
なるほど、これらに伴って或る一定集団の効用や福利厚生は向上しうるかもしれない ─ あるいはしないかもしれない。
実体の実態がどう転ぼうとも、経済上の'自由'はどっかんどっかんスケールが変わり、それでハッピィにもなりうるし、一方であぶれた仲介事業者たちはギャァギャァ騒いでいる。


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自嘲を込めて察するに、人間が物理上の実体を黙殺して経済上の価値だ権利だを設定したがるのは、ひとつには人間の意思決定が短期的で表象的な択一トレードオフを好んでしまうためかもしれない。
最近とくに考えているところでもある。


以上

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(付記)

毎年書いていることだが、仕事における実践的なアドバイスも一つだけしおく。

新人諸君は、なにはさておき、まずはメモ用紙を準備しろ、そして常に携行しろ、見聞きするもの片っ端からメモしまくれ。
チマチマした付箋などはダメだ、大きめの紙を使うんだ、出来ればB5サイズ以上のものだ、広告の裏紙でもなんでもいい。
これくらいのサイズであれば、まとめていろいろ書き記すことが出来るし、いつでもまとめてノート帳として一瞥できよう。

とくに、新規の世界への了察は理科や社会科の新分野学習に等しく、右脳的(絵画的)に物事をズンズン描き続けること必須、だから大きな紙面が望まいのだ。
また、電話番などで取り次いだメッセージもつらつらと書き残し、ビッと引きちぎって上長などに手渡すことが出来る。
一方で、書き損じをしてしまったメモは引きちぎってとっとと捨てるんだ、いちいち名残惜しんでいてはいけない。

以上の機能を同時に果たすべく、B5サイズ以上の紙を常時20枚くらい束ね、これを左上リング綴じの構造にしておけばいい。
これで重要なメモはノートとしてずっと保持し続けつつ、不要な紙はどんどんちぎり捨てることが出来る。
ホントに重宝するから。


もうひとつ付記。

技術仕様から契約書にいたる文書類について、職制を問わずほとんど誰もが実務上拘束されることとなろう。
これらの意義について精緻に了解しておきたい。
口頭による提示や合意ならまだしも、文書によるそれらは諸君らの想像を超えた恐ろしい失態を導きうるものだ。
例えば、同一の商材についての見積書が複数存在する場合、購入希望者はどちらかおのれに有利な方を正当な文書と見做し、それ以外の文書は黙殺すること、当然である。
契約書もしかり。
くれぐれも慎重に、ワンアンドオンリーの原則だぞ、ナンバリングと更新日時の明記を絶対に忘れるなよ。

※ 塾業界や風俗関係などであれば、うっかりミスでも土下座くらいで済まされる、かもしれない。
しかし、まともな産業のまともな産品や製品においてはちょっとしたミスのみでも復元不能なほどの大損をもたらす場合も多い。
そんなこと続けていたら多大な賠償を負うのみならず、さらには市場からバカアホ呼ばわりされて信用失墜してしまいかねないぞ。


もうひとつ付記しておこう。
いわゆる事務系職の若手企業人の皆さんは、TCP/IPとかJDBCとかIncotermsなどなどの統一的プロトコルを一通り頭に入れて、まずは「系」を理解したい。
それら「系」が分かってこそ、営業や経理などの「因果」も「プロセス」も見晴らしがよくなる。

※社内がアホばかりなら、大手SIerや大手商社に訊け。

2026/04/05

大学入学時の思い出

毎年のこと、4月が巡ってくるたびに、慶應の日吉キャンパスを思い出す。
記憶に蘇る日吉の風景と情景は、常に真っ青な晴天のもとである。
そしてそれら記憶の大半はメシばかりである。


僕の慶應進学は大学時から。
いわゆる一般入試を経ての入学であった

もともと僕自身は幼少時にロンドンで育ち、ここで親族関係を通じてのちょっと凝った巡り合わせもあって、例えば 'potential'や 'entropy'や 'induction/deduction' や'intensive/extensive property' などなどの語彙と表現を子供ながらに言い回したり作文したり、そんなくらいの観念知識はあったのだ。

しかし英語の出来そのものは、立川市での学校生活通じてパッとしなかった。
なんといっても語彙や言い回しのストックが希少だったため、そしてそれら習得にさして意欲も無かったため。
それでも高校時には、幼馴染のスーパー美少女であったN子にビシビシしごかれ、さらに超美人の教師や非常勤のお姉さまがたにもバシバシ叱責されるなど、我ながら人一倍以上に努力したつもりではあったが、それでもペーパーテストはやはりパッとせず…

こんなだったから、慶應入試本番の英語もおそらくはパッとしない出来だったろう ─ よくも合格出来たものだと未だに不思議ではある。
或いは、論説文課題の出来が図抜けて良かったのかもしれず、なんとなくそっちの方が誇らしい気もしている。



なお、もっと不思議なことには、僕はいわゆる英語教科クラスに編入されたのだった。
イギリス人講師が早口で話す内容が半分も分からず、途方にくれて辞退しようとしたら、半分でも分かればいいよと、いずれ更に半分が分かるようになるさと励まされ、それでは何時まで経ってもアキレスと亀みたいなものじゃないかなどと僕は可笑しくなって…
そんなこんなについても今さらながら思い返すことがあり、そうだあの最初の授業の日も日吉の空は真っ青だった。

そういえばこの英語教科クラスにて、英文による自由エッセイ課されたさいに、『Barefoot stones (裸足のアスファルト) 』という掌編を提出したところ、「君には文才がある。もっと書きなさい」などと激賞され、これには僕自身が面食らったものである。
舗装路を裸足で歩いて通学していた少年期の回想をちょっと物語風に膨らませただけの、拙いエッセイにすぎず、何がどう高評価されたのか分からず仕舞ではある。


この英語教科クラスは1年時にはまともに出席し、また若干の同好会じみた交流も楽しむ機会に恵まれた。
中にはびっくりするようなインテリ名家の才媛もおり、いやぁさすが一流大学ともなるとコミュニティなりソサイエティなりもひとかたならぬものだと感心し、あるいは腰が引けるほど恐縮したこともしきりである。

尤も、そのうちにThe Economist誌のいわゆる'Big Mac Index'などに則った討論ゲームなどが始まると、だんだん興醒めしていったことは否めない。
いかにも財貨と通貨と外為の端的な相関論のようであって、あくまで数値上の'価値(value)'の論ばかりであり、一方で実体量としての'効用(benefit)'についてはこれっぽっちも論考が無いのである。
アングロサクソンの本性なのか、特にズルい連中の特性なのか、いずれにせよこの虚構性がどうも好きになれなかった。
さらに、イギリスとアメリカの資産見識の差異だのバランスシート会計の違いだのと実務上の英語論も始まっていき、な~んだそんなもの三田キャンパスで学べばいいじゃないかなどとうんざりしつつ、次第に出席しなくなっちゃったよ。


一方では、スポーツのクラブに入ったこともあったが、こちらはちょっと厄介な顛末になってしまったので、いずれ別稿にて。


ともあれ、大学入学時から卒業まで総じて振り返ってみれば、中高からの内部神学者の方がセンスが高く学業も優秀であった。
一人例をあげれば、『初夏のエアバス』などと小粋な異名をとっていたやつは本当にエアバス機の設計に関心高かったようで、実際の顛末はともあれ、ああいう才覚ある連中こそが世界を股にかけてゆくのかなとしばしば思い知らされたり。
一方で、大学から慶應進学のいわゆる外部生はどうってことのないサラリーマンタイプが目立ち、それどころか『バカ顔のポルシェ』などと陰口をたたかれるようなバカ息子タイプも散見される始末であった。


あくまでも大学時の話である。
卒業後ずいぶん経過したいまや、おのおの知見も経験もさらに運命もさまざま移り変わったろう。
いずれにせよ慶應卒だ、楽しくやってるだろうな、大半の連中は。



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そういえばこれも思い出したが ─ 大学入学後まもなく、早朝の倉庫内バイトに就いていたことがあった。
某大手乳製品企業の集荷工場にて、毎朝5時~8時までの集荷作業である。
それから自転車で立川駅まで出て、日吉キャンパスの授業へと。



この集荷工場の作業は、けして身体負荷がキツかったわけではないし、僕自身も実は身体労働は嫌いでもない。
しかし、あのヨーグルトのケースをまとめてこっちへ持って来いだの、このテトラポットをとっととそっちへ片づけろだのと、毎朝毎朝、一方的に指示を受け続けているうちに、僕は次第に憤懣を鬱積させていったのである。
なんだこんな仕事、自分自身の意思決定はな~んにもないじゃないか、ロボットにやらせりゃいいじゃないか、ロボットがロボットを監視し命令し、ロボットが作ったヨーグルトをロボットが飲んで食って寝てりゃいいんだ、俺はロボットじゃねぇぞ、たとえ時給を倍に上げられたって言いなりにはならないぞ…

ああ、そうだ ─ あれは、あの7月の朝のことだ。
ほんのちょっとだけ遅刻してしまった僕は、事務所の課長と怒鳴り合ったのだった。
憤激のはずみで僕はロッカーをブン殴ると、ふてくされたまま現場に出て、器材を足で転がしまた放り投げていたのだった。
それで、とうとう年長社員たちを巻き込んでのケンカ騒動へ。
石油臭の入り混じった強烈な空冷世界、キキーッと停まったフォークリフト、残酷に照らしつける蒼色の蛍光灯、もっと残酷にギラつく灰色のヘルメット、それらの合間からギッと睨みつけてくる真っ黒な視線の数々、テメェだのオンダリャァだのの怒号飛び交う哀しい現場。

このとき諍いを収めてくれたのが年長の男性社員である。
「おい学生くんよ、あんたはバイトだから適当な心づもりだろうっけども、ここの社員はみんな生活かけて朝から晩まで仕事してんだぁ、そしてよ、あんたも俺らもよ、同じ現場で同じ商品扱ってんだぁ、これらの商品を待っててくれるお客様もたーっくさんいるんだぁ、だっからよぉ、もっと仕事に敬意払ってくれや」

この言はいわば女性的な真理であった、「実体」も「論理」も混然した世界のエッセンスそのものだった、そう僕には聞こえたのだった。
とっさに僕は、この集荷現場からトラックに積み込まれてゆく牛乳やヨーグルトが、近郊の高校や中学校の子供たちの元へ届けられてゆく、そんなさまを想像していた。
そして、言いようの無いほどのぶざまな自己嫌悪に苛まれたのである。



この朝を最後に、僕はこの工場バイトをクビになったのだった。
一方で、初夏の日吉キャンパスは青空に映え、眩いほど真っ白に輝いて見えた。
あまりにも眩くて、僕ごときには勿体無いほどであった。
人生には現場があり、また道場もあって、ここ日吉キャンパスはきっと道場のたぐいだろうが、きっとどちらもどこかで繋がっているのではないか ─ なんてことをぼやっと考えていた気がする。


(以上、思い出がてらに)

2026/03/14

マルチバース


先生こんにちは!あたしですよ」
「おやっ?君は…どうしてここに居るのかね?」
「先生、何を仰っているのですか?今日は卒業の挨拶に伺った次第ですよ」
「ああ…そういえば、今年もお別れシーズンだね。毎年のこと、いろんな娘たちが別れを告げにやってくる時節だ」
「そうでしょうね」
「うむ。君は、キラッと輝く瞳、人情味のある柔らかな鼻筋、意思の強そうな顎、なるほど知性とハートを兼ね備えたなかなかの逸材だったよ」
「ふーん。有難うございま~す」
「それに、なだらかに開いた肩と腕のライン、それでいてぎゅっと引き締まった手首。さらに、大きな尻と長い脚は規格品のジーンズを破裂させんばかり。なかなかの天才体型だ。あたかも駿馬の疾走を予感させるね」
「ふふふっ、褒め過ぎですよ先生」
「ともあれだ、卒業おめでとう。大学での更なる研鑽を祈っているよ」

「…ところで先生、実はですね」
「実は、なんだ?」
「実は、あたしはこれからの新生活を送るにあたって、ひとつだけ腑に落ちないことが…」
「うぬぅ?なんだか面倒な予感がするなぁ。で、いったい何が腑に落ちないのかね?」
「はぁ。そのぅ、いわゆる『テレパシー』とはいったい何かが、どうも分からないんですけど」
「『テレパシー』とは何か、だとぅ?それはインテレクチャルでインテリジェントでインタレスティングな問いかけだぞ」
「へ~え、やっぱりそうですか」
「うむ。ただし思考上のヒントはある」
「ははーーん?」
「ねえ、ちょっと考えてみてごらんよ。もともと我々ひとりひとりの『意識』や『時間感覚』や『記憶』はだ、さまざま自然物と脳神経などのさまざまな干渉や共振や伝送から成り、各人それぞれ速度変化や方位変化による一期一会の万物流転を実感させている」
「はぁはぁ」
「ところがだ、それら各人で異なる独特の『時間感覚』や『記憶』をだよ、なんらかの特定の秩序によって符号化し表象秩序にすると、これらが数学になり、カネになり税になり、法律や言語になり、複数の人間間にて共有化されるだろう」
「はいはい」
「こういう複数人共有の符号化や表象秩序化や共通化を、俗に『テレパシー』というのだよ。納得できそうかね?」
「むーぅ……あのですね、そんな程度のことはとりあえず了解しているんですけど…」
「じゃあ、とりたてて悩むことはあるまい。よかったな」
「しかしですね先生、そういう『意識』や『時間感覚』の『テレパシー』と、いわゆる『並行世界』との関わりが、どうも腑に落ちないのですけど」
「うぬっ、『並行世界』…そうくるか…!」
「ねぇ先生!いわゆる『並行世界』は、この宇宙あるいは別宇宙におけるさまざまな別物質や別エネルギーが併存して成り立っているのでしょう?」
「うぐっ…、まぁそうだろうな」
「そういう『並行世界』がさまざま併存するのであれば、我々は其処いらとの『テレパシー』通信が可能なのでしょうか?同じ数学や同じ言語による『テレパシー』交信が可能なのでしょうか?…」
「うぬぬぬぬ……」
「そして、そういういわば'マルチバース型のAI’は存在しうるのでしょうかね…?」


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「……おやっ?ちょっと待て!…おい、君はどうしてここにいるのかね?」
「先生!何を仰っているのですか?私は卒業の挨拶に今日こうして伺っているのですよ」
「そ、そうだったかな……それにしても、君は健勝ぶりがなによりだ」
「ははっ、そうでしょうかね」
「じっさい、君は逸材だと思うよ。キラッと輝く瞳、人情味のある柔らかな鼻筋、意思の強そうな顎…、まことに君は知性とハートを兼ね備えているよ」
「はぁ、お褒めのお言葉、有難う御座います」
「うむ。なだらかに開いた肩と腕のライン、それでいてぎゅっと引き締まった手首。さらに、大きな尻と長い脚は規格品のジーンズを破裂させんばかり。なかなかの天才体型だ。あたかも駿馬の疾走を予感させ…」
「はぁ…そのあたりはもう分かりました…ところで先生、じつはですね、あたしはこれから新生活を送ってゆくにあたり、ひとつだけ腑に落ちないことがあるんですけど…」
「うぬぅ?なんとなく面倒な予感がするなあ。で、何が腑に落ちないのかね?」
はぁ、いわゆる『テレパシー』とは何かについてです」
「うーむ、それはインテレクチャルでインテリジェントでインタレスティングな問いかけだぞ。しかし思考上のヒントはあって…」
「その粗方のところももう結構ですから、もうちょっと先のところ、いわゆる『並行世界』との『テレパシー』の共有や交信が可能かどうかを、教えて頂きたいんですけど」
「うぐぅっ…『並行世界』か…うぬぬぬ」
「いわゆる『並行世界』とですね、我々は同じ数学や同じ言語を用いての『テレパシー』通信が可能なのでしょうか?」
「うぬぬぬぬ……」
「そういう'マルチバースAI'が存在しうるでしょうかね…?」


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「……おやっ?なんだ?…おい、君はどうしてここにいるのかね?」
「先生!何を仰っているのですか?あたしは卒業の挨拶に今日こうして伺っているのですよ」
「そ、そうだったかな……それにしても、君は健勝ぶりがなによりだ」
「ははっ、有難う御座います」
「じっさい、君は逸材だと思うよ。キラッと輝く瞳、人情味のある柔らかな鼻筋、意思の強そうな顎…、まことに君は知性とハートを…」
「そこいらのお褒めの言葉にはもう十分感謝しています。ねえ先生、もっと先のところ、お願いしますよ」
「……」
「じつはですね~、あたしはこれから新生活を送ってゆくにあたり、ひとつだけ腑に落ちないことがあって~」
「うぬぅ?なんとなく面倒な予感が…。で、何が腑に落ちないのかね?」
「いわゆる『テレパシー』とは何かについて」
「うーむ、それはインテレクチャルでインテリジェントでインタレスティングな問いかけだぞ。しかし思考上のヒントはあって…」
「そこんところも、もうすっ飛ばしていいから、もうちょっと先のところ、いわゆる『並行世界』との『テレパシー』交信について教えて頂きたいのよ!」
「うぐぅっ…『並行世界』…うぐぐぐぐ…」
「いわゆる『並行世界』とね、我々は同じ数学や同じ言語による『テレパシー』交信が可能かどうか、そしてそういう'マルチバースAI'が存在しうるのかって訊いてんの!」



(ずーっと続きうる)

※ SF作家ならこのくらいの掌編を思いつけってんだ。

2026/02/22

需要供給曲線について

物理上の粒子、その運動や仕事やエネルギーにおいて、永遠不変の「統一価値」の尺度や単位を設定出来るだろうか?
アダムスミスもマルクスも、シュンペーターもケインズも、こんなもの画定していませんよ。
一神教だろうが金本位だろうが、とりあえず「何か」について「誰かが」部分的に「価値」を設定しているにすぎない。
だから時間経過とともに、そして時代経緯とともに、万物の「価値」はいつもいつも変動している。

とはいえ、万物の価値を永遠に変遷するまま放っておけば、俺の価値、あいつの価値、俺はハッピィあいつは不幸、ということも大いにおこり、ハッピィな信用取引も交換も成立しえない。
それどころか詐欺も脱税もし放題になってしまう。
これでは誰もが困っちゃうので、何かと何かの暫定的な供給と需要ごとに、暫定的に通貨換算の「価格(price)」を設定している。
つまり、「価格」とは暫定確率上の数値である。


さて経済学は、市場における財貨・サービスの「数量(quantity)」と「価格(price)」、これらの「供給量(supply)」と「需要量(demand)」の関わり合いを語るという。
ここで「価格」が確率上の数値に過ぎぬとすれば、経済学そのものも確率上の学問ということになっちゃうんだなこれが。
もちろん計量的にはそれぞれの数値の精度を追求しうるが、永遠不変の真理命題は説明出来ないし、そんなエコノミストがいるわけもない。


…と、まずは全体像を置いた上にて。
経済学を最も集約的に表現しているとされる「需要供給曲線」をいったんバラし、さまざま解釈しなおしてみる。


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(1)そもそも需要供給曲線は以下のように出来ている。

① 或る財貨・サービスの供給」において、それら「数量」が市場に知られているとする。
② かつ、その財貨・サービスの「供給」にて、それらの「価格」も市場に知られているとする。
(この「価格」を何らかの「単価」とする見方もし得るが、その単位自体まで追求するとキリが無くなるので「単価」は考えないことにする。)
③ その財貨・サービスの「需要」に、「数量」が有る。
④ かつ、その財貨・サービスの「需要」に、「価格」も有る。


これら①~④において「供給」と「需要」はあくまでも概念でしかないので、おのれの状態も変化も語らない。
だからこそ、それぞれに「数量」と「価格」という条件付けを以て、それぞれの状態も推移変化も、さらに行動動機までをも表現する。
 
ここで①~④の「供給」「需要」を「数量」「価格」の組み合わせ 4=22 とみて、2種類のデータ群としてまとめることが出来る。
これを、横軸を「数量」とし縦軸を「価格」とする二次元座標上にて表現する。

その上で、①と②の組み合わせのデータ群を連続的に直線あるいは曲線で記し、これを「供給曲線」とする。
同様に、③と④の組み合わせデータ群もまた連続的に直線あるいは曲線で記し、これを「需要曲線」とする。


以上で、需要供給曲線の構成説明はおわり。

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(2)ケースバイケース

需要供給曲線の2本の直線(曲線)は、もちろんどちらが「供給曲線」でありどちらが「需要曲線」であるかは自動的には決まらない.
もとより「供給」も「需要」もあくまで人間がいちいち定義しているため。
右上がりだろうが右下がりだろうが、水平一直線であろうが垂直一直線であろうがだ。

また例えば、「供給が増える」とか、あるいは「需要が減る」という命題のみの場合は、「数量」変化のみは語っているが「価格」がどうなっているかは語っていない。
もしかしたら価格は完全競争状態にあるのかもしれない。

このような場合分け思考こそ、経済学の重大な機能といえる(だからこそ「供給」「需要」の組み合わせ発想も重大なのである。)


「供給曲線」と「需要曲線」が交差する場合。
これが需要供給曲線の醍醐味だという人も多い。
もちろんこの2本が交差すれば、その財貨・サービスの「供給」と「需要」が「数量」「価格」ともに一致しているわけで、ビンゴの大当たりのような爽快感もある。

しかしあらゆる財貨・サービスが需要側と供給側で’自動的に一致’することはない
「供給」側も「需要」側も人間ゆえ、あくまで意思と動機によって動いているためである。
「数量」「価格」をどっち方向にどれだけ調節はかろうとも、一致しないものはすれ違いのままである(俗にいう’市場の失敗’である)。

もっと実勢に即していえば、両者が本当に心底からかつ中長期的に'合意’しているか否かは誰にも判別しようがない。
だからこそ客観化と政策調整も必要となる。


以上で、需要供給曲線の本性的な限界についての説明もおわり。


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さて。
もっともっとでっかく捉えてみよう。

全世界の人類の総「供給」と総「需要」は ─ しかも表層に現れる物質や通貨のみならず、深層心理まで踏まえたそれらは ─ どこの誰が確定しうるのだろうか。
仮に何らかの統一尺度を以てそれらが確定されるとしてだ、それらはいついかなる瞬間にも常に総和が一定たりえようか?
たとえ戦争があっても、エネルギー源や食材の供給が偏ってしまったとしても?




(つづく ─ いや、これ以上は続けようがない気がしている。)

2026/01/21

2026年 大学入試共通テストについての所感

これまでどおり、センター試験でも共通テストにても社会科に注目してみる。
とりわけ、政治経済と世界史である。

(A) もとより理科であれば、主題は物質であり作用反作用であり次元であって、これらが’要素’と’全体系’として精密に編み込まれている。
しかし一方で、社会科の主題はたとえば「効用」であり「価値」であり「生産」であり「富」であり「権利」であり「責任」であり「カネ」であり「税」であり、さらに「民族」や「国民」などなど…、どれもこれもあくまで観念として学ぶため、何となにが’要素’でありどういう’系’を成しておるのかを総括できない。
それでいて、社会科では組織論や手続き論がおそろしく多いのである。

だから社会科にては、難易度は情報のバラツキと情報量に大いに拠ってしまう。


(B) じっさい、此度は例年以上に設問上の情報量の多さが非難されているようだが、ここのところ僕なりに敢えて評してみる。
①まず全体像としての図案や資料を呈した上で、②各論を演繹させる ─ この①→②の設問構成ならば、制限時間内の選抜試験としてやむなしか。
(或いは穿った見方をすれば、受験者にあらかじめ全体像を提示しておき、これを存分に読み込ませた上でこの試験に挑ませたらどうか。功罪はさておき。)

しかし ②→①として各論の検証から全体像を帰納させるものは、さまざま全体像をいちいち想定しつつ再検証が必要ゆえ、制限時間内での正答は未成年には酷だろう。
こうなると試験よりもむしろ自由研究課題に適しているような気もするし、そうであれば未成年たちも喜んで挑みうるであろうし、社会科の探偵や探検家を自称する教師たちも微笑むかもしれない。


(C) なお此度の出題にては、全体像と各論の精密な(過不足の無い)整合を質すタイプの設問も少なからず見られたが、この論理力のチャレンジにとくに限ってみれば、むしろ凡庸な知識正誤問題よりもずっと思考純度が問われ、よって此度の設問量の多さは却って好ましい傾向とはいえまいか。
こんな論理思考パズルの類が社会科のテストといえるのか ─ そういう批判もありえようが、社会科における主題そのものがどうしても観念に留まってしまうのだから、論理パズル大いに結構ではないかな。

(文系あがりの僕なりに体験談に則っていえば、文系職はどうしたって物質やエネルギーなどに拘束されぬ論理パズルだらけになってしまうのだ。政党や議会や為替相場や株式を見てりゃ分かるだろははははは。)


僕なりの総括的な講評はざっと以上のとおり。

ともあれ、僕なりに注目した出題について以下にちらっと注記してみた。


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【公共、 政治・経済】

第1問
問2
GDPも付加価値も生産性もすべてカネ勘定の表現であること(だから現実そのものとは限らないこと)、言わずもがな。

第3問
問1
輸入関税/数量制限の政策にて、選択肢アとイおよび選択肢ウとエのどれもが正論ではあり、論理力と連想力をともに問うちょっとした良問である。

問2
最恵国待遇について。選択肢4は真意が不明瞭だが、植民地の国内経済のようにも映る。

問3
生産とサービスの峻別を問うている。カネ換算のみでは捉えられない産業の本質論。

問5
紛争に際しての付託機関と、そこでのネガティヴコンセンサス ━ これら論理上の近似を質しているのだろうが、しかし同一とは見做せず、逆にいえば論理上の不一致も指摘出来るわけで、これは設問としておかしい。


第4問
問2
持株会社解禁とデフレ(とその脱却)、これらの因/果の有無を総括的に理解出来るだろうかと質しているのか。尤もこれらが現在まで何をもたらしているのか、引用メモなどで触れるべきではないか。
なお、独禁法の基本概念については社会科の最重要テーマになると、僕なりに数年前から指摘してきたが、やっぱり問われているね。

問6
選択肢ア、イ、ウ、エのどれもが違憲審査の積極論ないし慎重論を述べており、一応は正論 ─ とすれば良問ではある。尤も選択肢イにおける多数派/少数派の議論が本問の論題に完全に合致しているかどうか疑問は残る。


第5問
問2
水道事業の広域化による維持管理費用の逓減を、スケールメリットの典型例として論じているが、これらが中山間地にては有効と見なされない理由も論じるべきであろう。
※ あらゆる事象の効用は必ず比較対象を伴って論じられなければならぬ。

問5
誰の如何なる損得かをまず判別させた上で、応益負担と応能負担について質し、しかも(対数量の)価格弾力性も突いている。これぞ経済学の典型的な大良問だ。こういう学術的な出題をどかどか増やすべきだ。


第6問
問4
いわゆるSDGsにて、いわゆるジェンダー平等が何をどう関わっているのか。全く意味不明。ダメだこんな設問は。


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【歴史総合・世界史探求】

第1問
問5
農業国インドネシア「が」工業国オランダ「から」輸入した「農産品」を、特定できるだろうか。難問だ。

問7
もともと中継貿易港だった香港が、朝鮮戦争きっかけに対中貿易が途絶えたため、労働集約型の工業に移行した由、かなり良い歴史資料である。


第2問
設問B
ここは中世ヨーロッパの三圃性輪作を主題に据えており、「誰が」「どこに」居住し「何を」耕作し「誰が」支配し「誰が」貢納していたのか、総括理解を質すちょっとした良問だ。
農具進歩と貨幣普及と十字軍と自由都市まで連関させ、大問として出題すれば面白かったろう。

設問C
ここに呈されたパネルはイスラーム法学の一端といえ、刑法のみならず民法にてもアッラーの見識が大前提に据えられていること読みとれる。断片的な引用に留まっているのが惜しい。


第3問
設問A
本箇所は家父長制に触れているが、ヨリ広範に捉えれば民法上の直系血族と婚姻の論題も導きうる。直系血族の優先は、古典民法典からナポレオン法典でまで変わらない人類共通の鉄則。。ただしナポレオン法典にては婚姻は夫婦間の契約とも見なされた。
(とはいえ嫡出子と非嫡出子には差別が残り、これが一応解決したとされるのは1970年代に入ってから。)


第4問
問6
社会科における最大の難題だ。そもそも民族とは?国家とは?ナショナリズムとは?これらは人類普遍でありつつも、概念であって実体ではない。だから構造としても要素としても定義しようがない。極論すれば古代人でもナショナリズムのたぐいは抱いていたといえよう。


第5問
問3
国家(領邦)間の分立が相互の保護関税を正当化しているのか、あるいは相互の保護関税あってこその国家分立なのか、誰もが利益を得うるのかあるいは損失を被ろのか…政治経済にもフィットする実践的な論題であり、だから良問といえる。小問に留まっているのが実に惜しい。

問4
イギリス植民地帝国の瓦解、ブレトンウッズ体制と米ドル支配、IMF、GATT、まとめて理解すれば本問はたやすい。

問5
選択肢1,2,3,4も引用元メモも、すべて税制による商取引の損得を語っているはず。たとえ関税でもだ。よってこれらは正誤判別しようがない。


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以上

2026/01/12

新成人(2026)

 

新成年おめでとう。

此処の投稿内容は、一昨年の新成年の日に際して書き綴ったものを元に記している。
以来、僕なりに考えは変わっていないため、概ね同一内容を繰り返し記すことにする。


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昨日まで子供だった諸君らにとって、「実体」「論理」は一緒くたの不可分だった。
というより、すべて「実体」そのものに映っていたことだろう。
しかし、成年に達したということは、その彼/彼女にとって「実体」の次元と「論理」の次元が完全に分離したということ、そして、これらどちらもともに生きなければならぬということである。

だから、此度は「実体」「論理」について、ちょっとだけ理屈をおいてみよう。


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あらゆる物質も物体も、そして我々の肉体もまた脳神経すらも、1度に1つ限りの自然な「実体」である。
たとえば、遺伝子や細胞はむろんのこと ─ 水や食材、薬剤、電磁波、核、熱、鉱物、イオン、木材、鉄鋼、コンクリート、ガラス、プラスティック、機械類、半導体や導線、火力兵器、核兵器、ウイルス物質、ワクチン、さらにスポーツや絵画や音楽や文学などなど。
もちろん地震や津波は「実体」の超巨大な複合といえよう。
これらは何らかのエネルギーから起こり、何らかのエネルギーに転化もできる、だからこそ「実体」といえる。
日本国、皇室、日本人、お正月、アメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、ロシア人…そして伝統文化や社旗規範なども「実体」

「実体」は、途切れることなく連綿と変化し続けてはいるが、どこまでも有限の存在でもある。
変化し続けている以上は、「実体」それら自体をデジタルに均等細断することはおそろしく困難、ましてや有限の存在ゆえ、完全無欠の複製や流動や組み換えや復元はもっと困難、(素粒子レベルで本当に復元できようか)。

君たちは「実体」として生まれ、「実体」として育ち、「実体」として成人した。
「実体」として走り、「実体」として跳び、「実体」として「実体」を見聞し感受し、「実体」に対して右ストレートや左フックを叩き込み、「実体」を掴んで抱えて上手投げや下手投げを繰り出し、「実体」をぶっ叩いて場外ホームランを叩き出し、「実体」を蹴り飛ばしてオフサイドギリギリのシュートを放つことも出来る。


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一方では、成年なりたての諸君を大いに惑わしうる「論理」について注記しておこう。

「論理」はどれもこれも人間が考案した観念でしかない。
たとえば、数学とか言語とかソフトウェア(デジタル)とか、通貨とか価値とか税とか証券とか保険とか、法とか権利とか義務とか、多数決とか議会とかメディアとか…
さらに、国際金融資本、アメリカ合衆国、ヨーロッパ連合、ウクライナ政府、ベネズエラ政府、中国共産党、国際連合、NHK、感染者数、などなど。
※ ではイランはどうなのだろうか ─ 今年の重大テーマたりうるだろう。

人間考案の観念にすぎぬがゆえ、あらゆる「論理」は無限を前提とし得る。
無限の「論理」ゆえにこそ、作為的に意義や文脈を無視してデジタルに均等断裂が出来、なんぼでもシャッフルして組み換えが出来、さらに複製も流動も自由自在、そしていつかどこかで完全復元もOK ─ ということになっている。

「論理」のほとんどは、しばしば言葉遊びでもある。
たとえば「勤労の義務」は規範とされているが、「雇用の義務」という規範は無い。
また、「生産」および「生産物」は「実体」だが、「生産性」はカネまわしの「論理」でしかない。
「地球の気温」は「実体」だが、「温暖化あるいは寒冷化」となると「論理」でしかない。

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何が言いたいのかって?
成年なりたてホヤホヤの諸君に伝えたいことは、要するに簡単なことだ。
「実体」あってこその「論理」である!
「論理」のために「実体」があるわけではない!
有限の「実体」を改編し新規に作り上げるためにこそ、さまざまな「論理」の無限のフレキシビリティが起用される!
感染という「論理」をコロコロ転がしてカネをコロッコロと回すために、諸君らの肉体という「実体」が犠牲になってよいわけがない!

ひとたびカネに変えてしまった肉体を完全な元通りに買い戻すことは不可能なんだぞ!


君たちの多くが学んできたとおり(あるいは言い聞かされてきたとおり)、物理学は名称こそ紛らわしいが明らかに「実体」に則った学問である。
その証拠に、「万物」の運動現象をとことん還元すれば何らかの物体の単振動、それら力の作用と反作用である ─ などなどと断言している。
そして、エネルギーとその仕事の有限性に則ってこそ、エネルギー保存則もエントロピー限界説もある。
一方で、数学は「論理」でしかない、だからエネルギーも保存則もねぇんだ、無限にずーーーっと縦横無尽の展開をしていくんだ。

なるほど、物理学は数学「論理」によってさまざま新たな仮定もおこり、新たな発見もなされ、それらによってこそプラスティックもシリコンウエハーもコンピュータも航空機もレーザーも量子マシンも核兵器も生み出してはきた。
だから、「論理」あってこその新規創造だろうと反論したくなるかもしれない。
しかし、じっさいに生み出されたそれらは有限の物理環境においてこそ駆動するもの、だからどこまでも有限の「実体」である。

生命科学によって出現したクローンやIPSにしてもそうだ。
クローン男にせよ、IPS女にせよ、数学「論理」によって設定された完全な同一複製や組成再現であるはずだから、「論理」あってこその新たな生命秩序じゃないかと言いたくなるかもしれない。
しかしながら、それらはひとたび発生した瞬間から別々の環境にて別々の代謝を始めるもの、ゆえにどれもこれも別々のそして有限の「実体」である。


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グダグダと書き殴りやがって…と閉口しているかもしれぬが、ともかくも「実体」と「論理」の峻別は個々人にとっても国家民族にとっても生きるか死ぬかの超重大問題。
独立した成人であれば、なおさらのことだ。
だからこれからも何度でも繰り返すつもりだ。


以上