2014/04/25

なぜ数学が必要か

(1) ほとんどどんな学生でも、好むと好まざるをに拘らず避けて通れない教科が、数学と英文読解である。
そもそも、数学と欧米言語はつくづく似ている(きっともともとは同じ哲学から興っている)。
数学でいえば、諸々の「要素(情報)」の自由な「編み合わせ」によって、何らかの論理がつくられるということ。
欧米の言語においても、単語たった一つでは立体的な意味は無いが、その「単語のコンビネーション」が特定の意味を成立させており、このコンビネーション型の文法は、もともと名詞一発で全部を語ろうとする日本語にはあまり無い。

そのためだろうか、数学が得意な子は、ほとんどみな英文の論説読解が得意になっているし、この類似性こそが、日本の学生に数学と英語を強制的に課している何らかのリーズニングの深淵なのかもしれない。

ただし。
少なくとも一つ、数学と言語は決定的に違うところがある。
数学においては、既存の論理さえ無視しなければ、「俺自身の」着眼点は自由、思考の方向も自由。
ごく簡単な例で、a(x+1)2+b(x+1)+c = 3x25+4 がxについての恒等式となるよう、定数a,b,cの値を求める場合。
左辺をxについて整理し、ax2+(2a+b)x+a+b+c = 3x25x+4 として係数同士を比較しても求められる、が、そうではなくて xに-2、-1、0を代入すれば定数a,b,cだけの裸の式も得られ、それぞれを算出してもいい。
どちらの方針で計算するかは「俺自身」が決める自由がある。 

しかしながら欧米の言語、ここでは英文読解を例にあげるが、これは単語のコンビネーションの順番に従い「俺自身の」思考が一意に決定されてしまう。
たとえば、"Studies" という単語ひとつだけでは意味が成立しないこと、上に述べたとおりだが、では "Studies attempting to tie vegetarianism to low mortality rates" とすると、「菜食主義を死亡率低下に結びつけるための研究」の意となり、これを「死亡率低下のための菜食主義を試みる研究の結合」と解釈すると文意が異なってしまう ─ つまり間違いとなる。
さらに "... have not been conclusive." と繋ぐと、もっと意味が限定的になってしまい、はぁ分かりました仰せの通りで、と追従するしかない。

…と、いったところから、今回の勉強論④では、どこまでも人間側の自在な着想を保証しつつ、最も普遍性も高い学術として、数学の必要性についてふれたい。


========================================

(2) ある日のこと、たまたま時間が空いた時に小学生女子に算数を教える羽目になった。 
うわぁ、冗談じゃないよ、小学生なんか、こちらが喋っている言葉の1/3くらいしか理解出来ないだろうに…
それでも、慎重に言葉を選びつつ、実際に教えてやったのだが、この経験が実に示唆的であったので、まとめて記す。 

【問い】  「えんぴつが1ダースあります。1ダースは12本のことで、その1ダースの値段が480円です。では、えんぴつ60本ではいくらでしょうか?」
(笑うなよ)

この問題に対して、この娘は、んーーーんとしばし考え、さささっと計算してはみるのだが、なかなか答えが合わない。
しばらくの間、横からああしろ、こうしろと指示していた僕の脳裏に、とつぜん雷撃がバチーーンと走った。
ああ、そうだ、そうだったのだ!
僕はすっと立ち上がり、ホワイトボードに向かって以下を列記した。

(ダース) (本) (円)
?              1           ?
1            12        480
?            60          ?

それから、そーっと声をかけて、さぁ、?のところは、どんな数字になる?と。
すると彼女は…突然ばっと立ち上がると(たぶんこの娘の脳裏にも何か閃光が走ったのだろう)、この表において左から右へ、上から下へと掛けたり割ったりの検算を一人でやってのけ、?の数字をきれいに導き出したのであった。
それどころか左上の?を0(ゼロ)と書き入れたので、正直僕は驚いてしまった。
ともかくもこの検算が終わると、彼女は晴れ晴れとした表情を浮かべ、「自分が何やってるのか、分かった」と。
その通り!よく出来ました!つまり算数(数学)は、情報と情報の関係付けの学問であり、問題の全貌を把握出来たら、自分で意味を与えていけばよいのだよ(などと抽象的に語ってやってもたぶんこの娘には判らかっただろうけど。)
もちろんこんなこと、あくまでちっぽけでささやかな算数のエピソードに過ぎない、が、これだって高校教育における「行列」や「会計学」の基礎でもある。 

さらに、ここが肝要なのだが…算数/数学の勉強においては、言語は出来るだけ介在させない方がいい! 
いや、むしろこれこそがものすごい真理ではないか ─ 我ながら思い返せば、かつて海外の顧客向けに新規コンセプトの製品を提示したときも、言葉であぁだこぅだといちいち説かない方がうまく伝わったもの。
上の小学生向けのアドバイスにしても、種明かしをすれば、こういう営業経験から閃いたものであった。

=========================================


(3) だいたい高校2年生あたりにもなると、いろいろ本質的なところまで思考出来るようになるもので、だからこんな不平不満もよく挙がるらしい。
「数学は、どうして数字と記号と線分ばっかりなのか?ストーリーが無いんだよな。だから生き生きとした思考が出来ないんだ」
なーるほど。
実はこの疑問は、「経済活動をどうして通貨で表すのか?」と問うに似る。
で、後者の方をとりあえず回答すれば、「この世界の財貨の価値を一律化して表す単位が、通貨の他に無いから」である。
数学の場合も、「この宇宙に論理的に在りうる量や順序を表す共通単位が、数字と記号と線分以外には無いから」…だと思うが、僕はちゃんと教わらなかったから厳密には分からん。
ただ、ざっと振り返ってみれば、数字や記号や線分は、何らかの序列数、大きさ、繰り返し数、組み合わせ数、変化の範囲を表しているようである。
そしてこれらの万国共通の掟さえ守れば、「俺自身」がどう操作しようが俺の自由!
とりあえずあっちへ、やっぱりこっちへと自在に着想の軸をコロッコロッと転換することができる。

百聞は一見に如かず。
さっきっから左側に提示されている一連の図は、何らかの情報の関係付を一定の論理で示している。
これを好きなように考えなさい
制限時間、自分なりのアイデアが出尽くすまで。

このように数学の問題に「俺流に」あたろうとしている時に、横からいちいち言葉であぁだこぅだと解説ばかり押しつけられると、却って堂々巡りをし、それどころか混乱するばかり。
たとえば。
「はーい、いいですかー、二次関数のゼロ座標を中心として、或る経の円をぐるりと記す、さて、この円周と中心角θの関係は?
ほーらほら…円周の座標X軸上の位置を、中心角θに呼応してcosθと称し、一方で同じ円周の座標Y軸上の位置は中心角θに応じたsinθというのですよ!ちゃんと覚えなさい!」
…などなどと言葉で吹き込まれつつ、「ずぶの素人」が言葉で納得すると、すごく効率がよいようで、それでもどうしたって小一時間はかかるんですよ。
しかも、言葉で納得したというのは、ある特定の関係を覚えさせられたといっているに過ぎないのであり、数学を理解したことには必ずしもならない。

むしろ、「俺自身」の好きなように考えて、きっとこんなことなんだろう、と見当をつけ、それを「ものの分かっている人たち」にぶっつけて…
それで、座標とラジアンとcosθsinθなどなどが「とりあえずは全人類にとって最も効率的な表現方法」なのだと教わる。
ああ、そうか、じゃあそれは守ろうじゃないか、といいつつ、その上でさらに「俺流」の思考実験は好き放題に出来るわけ。
こういう勉強方法こそが理想的じゃないのかな。
きっと数学が得意な人というのは自分流の思考実験の回数が桁外れに多いはず。

スポーツにも大いにあてはまることだろう。
膂力と度胸だけでガンガンと暴れていた男が、ボクシングの効率的な身体動作を覚えれば、攻撃や防御のスキルが最適レベルに向上し、さぁその上でおのれの秘密兵器の必殺パンチを…
ね、そっくりでしょう、テニスでも水泳でもサッカーでも同じようなもん。
毎日まいにち、トークばっかり一方的に押しつけられて、何ぞ上達するものか。 

=========================================


(4)  そもそも、数学嫌いの人たちのエクスキューズとしてすぐに挙がる言質は、「それが何の役に立つんだよ?」というもの。
これは実はものすごく重要な問いかけじゃないかと睨んでいる。

大雑把にいえば。
人間は常に或る対象を操作しなければ存続出来ないが、その操作行為をものすごく極端に大別すれば、以下の5つに分類出来ると考える。
何かを「動かす」
何かを「合成する」
何かを「分解する」
何かを「複製する」
何かを「権利化する」

これらのうち、「動かす」「合成する」「分解する」「複製する」の4つは、全て人間と対象物の秩序だった関係付けが求められる。
人間は有限の存在であって、質量保存やエントロピーの法則を超越出来ないし、もし無秩序な関係で在り続ければこの4つの行為は突然終わってしまうリスクがある。
だから数学という「関係付けの学問」を必要とするわけで、かつ、数学の表現だけで伝えられるのなら寧ろ言語の注釈など無くても構わない。 
ただ、数学は「意味」ではあっても、「意義」ではない。
最後の「権利化する」だけは、何かに一方的に「意義」を与えて自分で抱え込むことだから、数学だけでは不可能、どうしても言語が必要となる。

で、歴史から学ぶこと。
いわゆる古代の文明の遺跡から、往々にして高度な数学の記録が出土されるという。
だがそれらの言語は、現代人には読解しきれていない。
そんな現代人からみれば、な~んだ、数学だけの文明だったから滅亡したんだよ、とニヒルに嗤うことも出来る。
が、むしろ真相は逆ではないか……数学を発達させた文明は長大な歴史時間にわたって記録を遺すことが出来た反面、言語だけの文明は移動も合成も複製も不完全なまま、質量保存やエントロピーを無視した言語闘争の挙句に風とともに去りぬだったのではないか。

=========================================

(5) かつて日本は、第二次大戦後のモノ不足、生産力不足の時代に理数系の教育を政策的に強化したという。
しかしモノが余り、人も余るようになると理数系の教育がだんだん軽視されるようになり…

というのが多くの識者たちの日本現代史批判。
だが、本当はどんなモノでも時間とともに変移するし、人の能力だって時間とともに変化するのだから、或る文明において何もかもが余り続けるはずがなく、必ず何かが新たに足りなくなるはずである。
それでも何かが絶対的に「余っているんだ」と強弁するのは、モノや知力や労働力の関係付け=つまり数学を無視した、言語のみの闘争ではないかなと時々ぼんやり思い当たる。

なお、経済・証券ファンの妄想を打ち砕くことを言ってやるが、カネの存在とは数学の法則に則っているようでいて、実はカネとカネの関係以外においては数学を無視するもの。
なんだおまえは左翼思想か、いや右翼の発言に近いぞ、とすぐに批判する人もいるのだろうが、そういうのを言語闘争というのだ。

以上、数学ファンでもなんでもない僕が思いつくまま記してみた。



2014/04/15

【読書メモ】 コンクリート崩壊

万物は流転する、形あるものは壊れる…云々の哲学名言が理系学問の最もクラシカルなエッセンスであるならば、現代文明の安穏とした永続感覚を足元から突き崩す本書こそは、理系リアリズムの最先端を往く一冊か。
『コンクリート崩壊 (危機にどう備えるか) 』 溝渕利明 著、PHP新書版。
昨年7月に初版刊行。

鉄筋コンクリートは諸々の化学反応により確実に崩壊するが、現存する建造物の点検と改修措置は遅れがち、政策的な意思決定は緩慢であり、ともかくも専任技術者育成と配備が急がれる…といった由々しき現況を冷徹に説く。
本書は建築技術における基礎教養から、化学反応の仔細な解説に至るまで、廉価版にかちっとまとまった最強のガイダンスであろう、是非とも一読をお薦めしたい。 
なお予め記しおくが、鉄筋コンクリートの崩壊・崩落を「完全に回避」する決定的施策は今の時点で確立していない由。

とりあえず、本ブログでも【読書メモ】として以下に自己流の要約を列記しおく次第である。
尤も、ここでは本書の第二章『コンクリートとは何なのか』、および第四章『コンクリートの寿命』 に絞ってまとめるに留めた ─ これらの章こそがコンクリート(特に鉄筋コンクリート建造物)の属性上の本質と理想像を集約していると了解したためである (なお、化学反応だイオンだのいうのは僕の担当外なので、そこんところちょっとズボラなメモとなっていることご容赦(笑)。

もちろん、具体的な関心の高い諸兄・諸君は、これら以外にコンクリートの歴史、厳密な反応化学式、政策論などなどのページも併せて読破されることお薦めする。


<1>
・コンクリートは型枠さえ組めば自由な形状が可能、かつ、概して耐久性、耐震性、耐火性に優れる。
特に耐久性においてメリットが高い。
コンクリートは他材料と比べて部材そのものの大きさを必要とし、相対的重量も大きくなるため、構造性能素材としては優れていない、が、まさにその大きさと重さによってこそ、あらゆる可変的な自然環境や過重量や放射線などに「影響されにくい」頑強な素材として活用され続けている。

・生成されたコンクリートの重量あたりの単価は5円/1kgと極めて安価であり、一方で異形鉄筋は60円/1kg、鋼板は80円/1kgもかかる。
ちなみに普通米は400円/1kg、液晶テレビ全体は7,200円/1kgである。
日本における生コンクリートの2012年度の総出荷量は9,200万m3であるが、比重を2.3t/1m3として上の重量単価を適用すると、日本全体の生コンクリートの年間出荷金額は「わずか1兆1千億円」に過ぎない計算になる。
自動車や電機システムなどの工業製品が、大企業1社でさえ年間出荷額が「数兆円以上」に上ることを勘案すれば、コンクリートの「安さ」は驚くべきである。

===========================

<2>
・現代のコンクリート生成時の成分構成比率は、粗骨材(砂利)が約40%、細骨材(砂)が約30%、水が15%、水硬性のセメントが約10%、空気が約5%である。
これら成分をミキサで練り混ぜて合成すれば、数日後に石のように硬化し、コンクリートとなる。
もちろんコンクリートの圧縮強度設定に準じて成分の比率も異なり、概して水が少ないほど硬く合成出来る。

この合成過程で、水硬性のセメントと水とが常温でいわゆる「水和反応」を始めるが、この水和反応の期間(および、その反応に応じた発熱期間)は硬化設定によって大きく異なる。
概して、コンクリート構造物の工事を開始してから、その設計上の圧縮強度が得られるまでに少なくとも1ヶ月程度はかかるが、ダムのような巨大構造物でコンクリート部材厚が50mにも及ぶものでは、全体として水和反応が数十年かけて進行する。

・コンクリート生成時の素材はみな密度が異なり、セメントは3.1~3.2g/cm3、砂利と砂は2.5~2.7g/cm3、水は1.0g/cm3である。
ゆえに生成の過程で水が上辺に上がって行き、一方で他の素材は沈み込み、それから乾燥過程での収縮を経て、何らかのひび割れがどうしても起こってしまう。
生成過程において一切のひび割れを発生しないコンクリートは、未だかつて存在したことがない。

===============================

<3>
・「鉄筋コンクリート」が現代文明の最大のインフラ素材として存続している理由。

まず鉄は、地球を構成する金属元素としてアルミニウムに次いで多く存在する、が、自然界では酸化した鉱石の状態に在り、だから錆びやすい(常に酸化状態に戻ろうとする)。
それでも、鉄の鉱石を溶解し銑鉄から鉄鋼へと生成する過程で、硬さと引張強度と粘り強さをいずれも自在に確保することが出来、これが鉄という素材の圧倒的なメリットである。
かつこの過程で、含入炭素量も既に調整されている。
※ ここの箇所は、高炉(転炉)での一酸化炭素放出のフローのことか?
こうして作られた鋼材を建築物の鉄筋として活用するにあたり、その本源的な酸化(錆び)反応を少しでも遅らせるために、耐久性に極めて優れしかもアルカリ性のコンクリートで鈍重に大きく包み込んでいる。 

それどころか。
鉄筋鋼材とコンクリートは熱膨張係数がきわめて近似している。
生成されたコンクリートは、概して温度上昇に伴い若干膨張し、温度下降にともない若干収縮するものの、その熱膨張係数(温度変化1℃あたりの伸縮率)は約 10 x 10-6 / ℃ で、鉄が約 12 x 10-6 / ℃ と極めて近い。
ちなみにダイヤモンドの熱膨張係数は約 1 x 10-6 / ℃ であり、ゴムは約 110 x 10-6 / ℃ である。

以上の理由による鋼材とコンクリートの最強のコンビネーションの実現こそが、現代文明を足元から支え続ける「鉄筋コンクリート」なのである。 

もちろん、熱膨張は工事時点での気温に左右される。
また、建築完了した鉄筋コンクリート構造物において、内部で継続する水和反応の放熱が接触素材と熱交換を行い続ける。
かつ、コンクリートは圧縮に強く引張には弱い(両者の強度の差は1/10~1/13倍ほど)。
これらの要因により、コンクリート構造物の内部で鉄筋との物理的な強度バランスが常に崩れ得ることも留意しなければならない。

================================ 

<4>
建造済みの鉄筋コンクリート構造物の内部では、むろん化学反応が確実に進行していく (物質の化学的属性が永遠不変に一定状態に留まるはずがない!)
このためにこそ、鉄筋コンクリート建築はいつか必ず物理的なバランスを失い、崩壊・崩落する。

具体的現象としては、まず、「コンクリート内部の鉄筋」が化学反応を起こして腐食し、酸化(錆び)に向かう例。
これは外部物質の侵入が引き起こす例でもあるが、コンクリート内部の水の構成比率にも影響される(水が少ないほど概して進行は遅い。)

<塩害> コンクリートに海水や融雪剤が付着し続けると、それらの塩化物イオンがコンクリート内部に浸透し、鉄筋を錆びさせ始める。
それで鉄筋が貧弱化し、コンクリートとの重力バランスが崩れ、コンクリートが「引っ張られ」てもろくも崩れ始める、と、その崩れた隙間からいよいよ塩素イオンと水と酸素が内部に入り込むようになり、内部の鉄筋をもっと腐食させ…と、この悪循環でついにコンクリートそのものが崩落する。
なお、80年代までは、コンクリートの組成材料自体に、塩化物イオンを大量に含む海砂を使っており、除塩措置はなされていなかった。

(ちょっとややこしいが) 一般ごみの焼却灰を原料としたいわゆる「エコセメント」を用いて、ごみ焼却炉そのものが建設されたこともあり、これにより総じて低コストのごみ焼却ビジネスが可能であるとして、自治体が事業化を推進しようとした。
だがこの「エコセメント」は通常のセメントの10倍以上の塩素を初めから含んでいた…というお粗末な顛末。

<中性化> コンクリート自身は、内部の鉄筋の酸化(錆び)を防ぐように高アルカリ性を保っているが、空気中の二酸化炭素や亜硫酸ガスが雨水に溶けつつコンクリート内部に浸透すると、そこの水酸化カルシウムと酸化イオン反応を起して、中性化が進む。
この中性化プロセスで、炭酸カルシウムと水をつくり、内部の鉄筋を溶かしはじめるが、特に二酸化炭素は屋外よりも屋内に多く、この反応も進みやすい。


次に、コンクリート自身が病んでいく例。

<アルカリシリカ反応>
そもそもコンクリート生成素材の粗骨材(砂利)や細骨材(砂)の一部は、ナトリウムやカリウムといったアルカリ金属物質にどうしても反応し、自らの周囲にアルカリシリカのゲルを生成、これが水を吸収しやすく膨潤(?)し、水和反応の過程に応じてひび割れを生じさせる。
80年代以前の日本では、コンクリート生成における骨材として輝石安山岩を用いてきたが、これが高速道路などの亀裂やひび割れをもたらし、当時の建設省がコンクリートの骨材規制を行うに至った。

ともあれ事後策としては、コンクリート外部からの水の侵入を遮断しつつ、内部に亜硝酸リチウムを注入してアルカリ金属反応を固定化すること。
かつ、いわゆる低アルカリセメントを用いて新たにコンクリートを生成してもいるが、それによる建造物に対しても、アルカリ金属物質(海砂の塩化物や飛来塩分)が侵入してしまう。


<侵食>
酸、無機塩類、硫化水素、亜硫酸ガスが、コンクリート建造物中のセメント水和物質と化学反応して、コンクリート内部で水に溶けやすい物質を新たに生成してしまう。
これがコンクリートをも溶かすことになる。
特に硫酸塩が、セメント水和物質における水酸化カルシウムと反応すると、石膏のような膨張性化合物が出来、コンクリートを破壊、下水道関連施設で多く見られる現象である。

上述以外にも、水分が誘発し内部水圧を狂わせる物理現象として、温度が零度以下の状態でコンクリートのひび割れが次第に大きくなるケース、表面の水が凍結することでコンクリートが体積膨張を起して剥落するケース、また生成素材であった粗骨材が水分の凍結で壊れるケースもある。
さらに、内部の鉄筋に電流がおこりコンクリートが軟化するケース(電食)もある。

============================

<5> 
アメリカでは、1930年代の建造ラッシュで建てられた鉄筋コンクリートのインフラの多くが、早くも60年代までに落橋などの事故を起こしているにも拘らず、維持管理や補修などの措置は十分とはいえない。
さすがに80年代以降、鉄筋コンクリート建造物の崩壊崩落の危機意識が高まるにつれ、消費ガソリンあたりの燃料税という形でこの維持補修の財源確保を図ってはきたものの、それでも2004年時点の査定では「欠陥橋」がアメリカ全体の27%におよぶ。
この危機管理と対処策が、今後のアメリカ経済活動/成長を阻害しうる巨大な難題で在り続けている。

さて、戦後日本の高度経済成長を支えてきた構造物群の多くが、既に建造から50年を超えようとしている。
かつ、日本の地理的要件を鑑みると、気候(気温)変動や海からの飛来物質などが鉄筋コンクリートにもたらす化学/物理作用は、アメリカよりも更に大きい ─ ともいえる。

戦前の日本のコンクリートは、現場でマニュアルに塗り固めていく工法をとっており、現代でも表面はともかく物理的な崩壊は相対的に少ない。
物理的な崩壊が多いのは、むしろ戦後のコンクリート建造物であり、その理由は生コン製造工場で製造されるコンクリートの「軟らかさ」が仕様で求められるようになったため。

そもそも、高度経済成長期の大量かつ急速なコンクリートの需要に応えるため、コンクリート調達効率の向上が追求されるようになったが、そこで採用された方式は、製造工場を出荷後に工事現場までまとめて搬送しさらに現場で高速のポンプ圧送をするというもの。
この高速調達方式に応えるべく、生成時にセメントの水の構成比を高くした「軟らかいコンクリート」が積極的に採用されるようになった。

この、軟らかい=概して「寿命」の短いコンクリートが戦後日本のインフラに大量に採用されるに至る。

===========================

<6>
現在の土木学会の『コンクリート標準示方書』では、鉄筋コンクリート構造物の「設計耐用期間」が一応は定義され、それは構造物の使用、維持管理、環境条件を考慮しつつ機能目的を満足させうる期間とされている。
また同示方書では、耐久性、安全性、復旧性などの「要求性能」も使用目的に準じて定義されている。
ただ、これらを総括的には理解し得るとしても、「経時変化」への抵抗性とそれぞれの「要求性能」との完全な相関が明示されていない → 鉄筋コンクリートの寿命の科学的な定義は無い。

この現状において。
・塩害、中性化、アルカリシリカ反応、化学的腐食などの化学反応
・戦後に採用された軟化コンクリート
…といった要素を考慮して、「現代の鉄筋コンクリート構造物の寿命はとりあえず100年程度」とおいている。

しかし、100年設定を超える耐久性が要求される場合には、変質、水和物溶脱も考慮しなければならない。
ここで、リスクではなくメリットとしてとりわけ注目されているのが、コンクリートが本来的に有する「炭酸化反応」の性質である。
中国の大地湾遺跡から出土したセメント系材料は約5,000年間もほぼ原型を留めていたとされ、その理由は炭酸カルシウムの働きで表面が極めて滑らかになってきたため。
極度に滑らかな表面は、水をほとんど全て流してしまい、内部に侵食させない。

この炭酸化反応を応用した新型のコンクリートが、既に日本の大手建設会社、セメントメーカ、建材メーカによって共同開発されている。
しかもアルカリ度も低くもともと中性に近いため、自然生物環境との共存にも適するという。
この新型コンクリートは理論的には10,000年!の寿命とされており、もしインフラ構築に実用されれば補修回数(とコスト)を大幅に減少させることになる。

以上

2014/04/13

オーバーフロー



「先生、こんにちは!お部屋までご案内頂いて、本当に感謝しております。あたし、とうとう来ちゃいました!」
「やあ、いらっしゃい!…わざわざ来てくれたんだから、ちょっと奇妙な話をしてあげよう。実はね、この部屋は、以前は或る女性が住んでいたんだけれど、その女性がどこかへ行ってしまってね、代わりに僕が住んでいるんだ」
「わぁ~、なんだか、ゾクゾクしますね」 
「いいかい?君はいまこの部屋まで階段をのぼって来ただろう、さあ、階段は何段有ったかね?」
「はぁ、数えませんでしたけど…」
「じゃあ、数えなさい。まず、いったん階下まで降りていってごらん、全部で何段有るか。それからあらためてここまで階段をのぼってくるんだ、その時に今度は何段あるかな?」
「変なの…なんだか解らないけど、やってみます」

「さあ。階段を数えたね、幾つだった?」
「はい!先生!降りていく時は13段だったのですが、またのぼってきたら14段でした!」
「不思議だろう、はっははは」
「ホントにビックリしました!いったいどうなっているのですか?」
「知りたいかね?いや知りたくなくても教えてやろう。あのね。階下とこの部屋は、ちょっとだけ次元が違うんだよ。だから、階下からのぼってくる時にね、別次元に移行するための特別なステップを踏んでくるわけなんだ」
「へぇーっ!じゃあ、この部屋は異次元の世界なのですか?」
「簡単に言えば、そうだ。ほら、トランプのカードを思い出してごらんよ。どの柄も普段は13枚しかないけれども、でもジョーカーを加えたら?」
「ああ、14枚になりますね!そうか、つまりヒトケタ次元が高くなると、そういうことなんですね!」

「どうだ、この部屋まで来ただけでも、大発見が有っただろう?」
「はい!もう大満足です」
「…ところで、ここに窓が有る」
「はい、有りますね」
「この窓は、とっても素敵な窓なんだよ…いいかい、僕はね、実は、親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばっかりしているんだ」
「あっ!先生!何をするんですか!?」

その男性教師はいつの間にか、縄の一端を自分の机の脚に括りつけており、その縄を掴んだまま、窓からヒラリと。

「先生~っ!自分が何をしていらっしゃるのか、分かってるんですか~?!戻って来て下さいっ!」
「やだよ~~だ」

男性教師はすすすっと庭まで降りていってしまった。


「先生、本日はお部屋までお招き頂き、有難うございます!僕、来ようかどうしようかちょっと迷ったんですけど、やっぱり来ちゃいましたよ」
「あら~!いらっしゃい!待っていたわよ…せっかく来てくれたんだから、ちょっと奇妙な話をしてあげる。実はね、この部屋はかつて、或る男性が住んでいたのよ。でもその男性が行方不明になっちゃって、それで今はあたしが住んでいるわけなの」
「そうなんですか?僕、なんだかワクワクしてきました!」
「ねぇ、あなた、この部屋まで階段を上がってきたでしょう。何段あったか、数えたかしら?」
「さあ…数えませんでしたけど…」
「じゃあ数えてみて。いい?まずいったん下まで降りていって、それからあらためてここまで上がってくるのよ。それで階段が何段有るのか、数えてみるのよ」
「へー。変なの。でもいいや、やってみます」

「さぁ、どうだった?階段は何段有ったかしら?」
「先生!ビックリしました!降りて行くときには14段しか無かったのに、またここまで上ってきたら15段有ったんです!」
「ふふふっ、驚いた?」
「はい!いったい、どうなっているんですか?」
「知りたい?いえ、知りたくなくとも教えてあげるわ。実はね、この部屋は、異次元の部屋なのよ」 
「ヘェーーーッ!すっごく不思議ですねー!」
「…ところで、ほら、この窓」
「はぁ?」
「…ふふふっ…この窓はね、とっても素敵な窓なのよ…ねえ、あたし、親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしているの」
「あっ!先生、何をしているんですか!?やめて下さい!戻ってきて下さいっ!自分が何をしているのか分かってるんですかっ!?」

ずっと続く  

2014/04/06

恐怖の呪文 (ははははは)


いいかね。
人間のあらゆる言葉というのはね、もともと数学だったのだよ。
いや、言葉と数学のルーツが同じだと言った方が正しいかな。
ただし!
ひとつだけ決定的に違うところがある。
つまり、だ、数学は時間や空間にかかわらず常に「行ったり来たり」の思考実験が可能なのだが、言葉というのは時間や空間に逆らって唱えることは許されないんだ。

ちょっと怖い話になるけどね…
本に載っている文字を、普通は前から徐々に読み進めて、最後に裏表紙をパタリと閉じて、これで読書完了だよね。
ところが ─ もしもだよ、まず最初に裏表紙をぺらっとめくって、最後のページから言葉を逆読みしつつ、ずーっと逆方向にページを追っていくとね、恐ろしいことが起こるらしい。
一番最後に、表紙に戻って、ぱたりとその本を閉じた時に…
いや、もうよそう。
もう一度言うが、数学と言葉は似ている、でも似て非なるもの、だから、絶対に本を逆から読んではいけないよ。

おや?ここに本があるね。
あぁ、これは、無限の克服について書かれた本だね。
アキレスとカメの駆けっこの話も載っている、とても面白い数学の本なんだよ。

先生!
実は、あたし、その本を…逆からずっと読んでしまったんです。
だってこれ、あまり文字も多くないから、構わないかと思って。
それで、今ちょうど読み終わったんですけど。
そしたら、ねぇ、ほらっ!亀とアキレスの距離がどんどん離れていって………てっいてれ離んどんどが離距のスレキアと亀!っらほ、ぇね、らたしそ ─

わっ!なんてことをしてくれたんだ!
ああ、もう、アキレスが亀の遥か後方に居るじゃないか…あっ、もうアキレスが見えなくなった!……!たっなくなえ見がスレキアうも、っあ…かいなゃじる居に方後か遥の亀がスレキア、うも、ああ


気がつくと、僕は洞窟の中でゴロっと寝返りをうっていた。
洞窟の入口から差し込む日光をぼやっと楽しんでいると、やがて、何かがとてつもない速度でヒューーーンと地面を走り去っていくのを、ほんの一瞬だけ垣間見たのだった。
あれ?いまのは何だったのだろう ─ なんとなく亀みたいな形をしていたような。
妙な気分で、更にしばらくの間ゴロゴロとしていると、いつしかビュービューと凄まじい風雨の吹きすさびが洞窟にも舞い込んでくる。
ちょっと心細くなり、岩を重ねて入口を塞ごうとしていると ─ 何か引きちぎれた切れっ端がバタバタバタと額に当たる。
そのぐしゃぐしゃの一片を掴んで、ぼやーーっと眺めてみれば、何か小さな模様がたくさん描かれていたが、腹の足しにもなりそうもないので、火にくべて燃やしてみようと…。
あれ?そういえばどうやって火を起こせばいいんだろうか。

永遠に続く

2014/04/02

それは論理か実在か?

昨今のニュースでいろいろ僕なりに考えるところがあり、とくにSTAP(万能/幹)細胞の騒動については少し呆れている。
そもそも万能/幹細胞は、「論理のみ」なのか、「確固たる実在」が確認されているのか…どちらで将来を見据えるべきか、どっちもか…と議論を詰めていきたいところ。
しかしながら、その「論理」は一見したところ真である、が、その論理の根拠たるコンテンツは「実在」していない、だから将来の成果物も不正確なものに決まっている、よって論理そのものを潰してしまえ ─ 
というのが現在のめちゃくちゃな乱痴気騒ぎじゃないのかな?
これ以上は、どうも雑音がやかましくてよく解らない。

=============================

(1) さて。
こんごも万物についていちいち問われ続けるであろう、論理と実在について、本ブログの信条にのっとり、出来るだけ単純かつ極端に考えてみる。

世界史の文化史につらつらと現れる偉人たちにもみられるとおり、古代から人間は様々なものの実在を認めるたびに、それらを連結して再利用したり、更なる別種のものを生成すべく、人間独自の論理を捻出してきた。
数式記号などは、実在の連結ツールの最たる例じゃないかな。
大雑把にいえば、人間の論理とは、人間の周波数と人間の数理・文法をもって完結的に表現された系だろう
(同様に、猫には猫の周波数、猫の数学、猫の文法がある ─ だからあんなに得体の知れない動きをするのかも)。

では逆に、実在を「超えてしまった人間論理」があるだろうか。
あるね。
たとえば、円周率がそうだ。
もちろん円周率という定数は人間の論理である。
聞けば、はるか数十兆ケタ(?)までも論理的に算出実績があるという。
仮にここまでの論理を真とする。
では、その数十兆ケタまで正鵠を極めた円をここへ持ってきなさい、と言われて…はて、そんな円がどこに実在しているのか?
そんな円など実在しない、よって、 円周率という論理そのものが虚偽なのですか?
そして円周率計算を実行したハードウェアも、また円周率に則って組み上げられた物理的なマテリアルや建造物も、全部虚偽だということになるんですかね?
だったら我々は一刻も早く数学の教科書を焼き捨てなければならない。

==============================

(2)  あらためて、「実在と論理が一致していないもの」を極端に整理してみると。 

・厳然と実在しているのだが、(人間の)論理で完全に連結しきってはいないもの ─ 宇宙、生命、時間、電磁波、放射線、エントロピー(?)、ピラミッドなど
ざっくばらんに言うとハードウェア/理科分野に多いのかな。

・実在を連結するどころか、そこから乖離した(人間の)論理が先行捻出されているもの ─ 上に挙げた円周率など数学定理の他、音楽、地球環境、設計図面、カネ、税、法律、民主主義など
こちらはソフトウェア/社会科系分野に多いのではないか(養老孟司先生なら「実体の脳化」と仰るかもしれない。)

「カネ」という論理ひとつをとっても、それは本来は現金という実在に留まっていたが、論理がどんどん拡張し、現代世界ではカネは帳簿でもあり、手形でもあり、証券債権でもある(だからクレジットカードもビットコインも成立する)。
また、ただの音の不規則な羅列から乖離した、数学的な論理定型によって、「音楽」が人為的に作られるようになった。

=============================

(3) ともあれ、昨今の最大の問題は2種類。

まず、「論理的には完全に連結されてはいないが、実在している」という、そんな何かについて。
そういうものを活用して新たな研究開発や新規創造は許されるのか。
こちらは放射線被爆の問題も当てはまるだろうが、電磁波を利用した携帯電話なども良い例。

一方では、「実在を先行超越している論理」 を基にして、新たな研究開発や新規創造が許されるのかという問題もある。
此度のSTAP細胞騒ぎの本質は、こっちじゃないのかしら。

勉強を進める人たちは、論理と実在のいずれかの不完全性を突いて全てを貶めるという愚に陥ることなく、具体的な対象物ないしは論理を精査し、一つひとつ新規の開発創造まで踏まえて検証していくべきだろう。

==============================

(4)  ところで、連想ついでに。
こんなものもありますね。
実在するかしないか、それすら判然と出来ないもの ─ 神、霊魂、言語、夢など。 

たとえば神については、社会科で「唯名論」「実在論」という哲学論争について習うだろうが、しかしもともとは遥か古代から、神の実在が永く信じられてきた。
論理先行の19c末にやっと死んだことにされているほどである。
一方で、まだ生きている神々だって世界には沢山おわします ─ ということになっているが、その実在をどうやって確認するのだ?

でも、言語は明らかに実在し、それらを論理でちゃんと連結しているじゃないか…と考えがちだが、そこが悩ましいところ。
たとえば。
古代クレタ文明で使用されていた「線文字A」は未だ解読されていない。
だが、「その線文字Aをもとに作られたミケーネ文明の線文字B」は、古代ギリシア語に通じるものとして論理的に解読済だという。
つまり、線文字Aは現代人の論理では連結出来ない、にも関わらず「文字として実在した」ことになっている。
(このおかしさが分かりますか?とくに社会科の勉強は論理先行のものを扱う機会が多いゆえ、むしろ或るものが本当に実在しているのか鋭敏に意識しなければなりませんよ。)

しかしもっと面白いのが、「夢」ではないか。 
そもそも「夢」は、それを見る者にとっては、おのれの論理のみによって連結されている ─ いや論理だけが暴走しているというべきか。
しかし実在はしていない、実在しないからこそ夢という。

「若い人たちは大いに夢を抱いて欲しい」、とは教育関係者の常套句だが、これはなかなか巧妙な方便だね。
何らかの対象物が実在するしないに拘らず、それについての論理だけは正確に打ち立てておけ、という意味ともとれるが、一方では具体的なもの(実在するもの)に高い関心を抱いて欲しい由も訴えている。
どっちとも受け取れるように、「夢」という言葉を好んで使っているのかもしれない。

以上(とりあえず思考の限界だ、はははは)