2026/06/11

アガサクリスティー

或る午後のことである。


昼過ぎからもくもくと寄せて連なっていた雨雲は、ぞくぞくするような真空の緊張を以て、ついに都心部にとてつもない土砂降りをもたらした。
たまたま営業まわりを続けていた僕は、これはたまらぬと、目抜き通りを素早く駆け抜け、或る有名ホテルの正面入り口に駆け込んでいた。
ずぶ濡れの気恥ずかしさから、僕はフロントのスタフたちの目に留まらぬようにと、そそくさとフロアを早歩きしつつ ─ それで、左正面のレストランに入店したのだった。


このレストランは、初めての入店ではなかった。
これまでに幾度も、イギリスなどのSIerたちと商談や交渉を繰り返してきた経緯があり、さらには科学技術論のたぐいについてちょっとした舌戦をも交わしてきた、そんな所以の店なのである。
な~んだ、そんなの、と読者諸兄は鼻でせせら笑うかもしれぬ。
しかしだ。
このホテル内の地階の或るレストランが、『我々のいわゆる'リアリティ'といわゆる'フィクション'の端境に在る』 のだと聞けば、うっ、それはいったいどういうことだと訝られる読者も少なからずであろう。
どうでもこうでも、そういうことであり、そういうロケーションなのだ。


『ザ・ゲーム』─ それがこのレストランの我々なりの呼称である。
本当はもっと粋な名を冠する一流レストランなのだが、僕なりに海外のエンジニアや評論家などと此処で幾度も顔を合わせ、リアリティ⇔フィクションについてさまざまプログラムを論じているうちに、彼らともどもいわば同志の符牒として『ザ・ゲーム』を用いるようになっていた。

大きく張られたガラス窓は、ところどころ上品なステンドグラスの幾何的な組み合わせ。
客はあらかた半分ほどの入りで、だから僕はお気に入りの窓辺のテーブルに座すことが出来た。
ぐしょぐしょに濡れた上着とネクタイを外しつつ、窓から外を見やってみれば、先ほどまで駆けていた目抜き通り、激しく降りしきる雨、さらに遠景の曇天まで、一様に眺めることが出来た。


あらためて店内を見やり、ふと気づいた。
ちょっと離れた右側のテーブル席に、初老の女性が1人、ワイングラスをチラチラと意味ありげに傾けている。
その都度、ワインが微妙に揺れる。
なんとなく、気になった。
そして。
たまたま今度は左側のテーブルに目を移したところで、僕はあれっと驚いた。
其処に座していたのもやはり初老の女性であり、彼女もやはり意味ありげにワイングラスを上げたり下げたりで、そのたびにワインが
揺れる。
2人とも、どういうことだろう、と僕は軽く訝っていた。
なにかの体操のつもりか、あるいは、まじないの類だろうか。

アイスコーヒーを頼みつつ、僕はしばらくこの左右両端に座する初老女性たちの仕草を観察した。
2人とも、まだ続けている、うーむ、従前からずっと続けているんじゃないか。
ならば、彼女たちは互いに何らかの交信を続けているのかもしれぬ。
アイスコーヒーをすすりつつ、僕はさらにそっと彼女たちの妙な挙動を左右そっと見やり続けていたが ─ とつぜん、僕はふっと気づいてしまった。
あっ!
右側の女性のグラスは、そしてワインは、窓を彩る紫色のステンドグラスからの採光をあたかもプリズムのごとくきらりきらりと偏光し、さまざまな波長の光線を発している ─ そんなふうに映る。
それではと、僕は次に左側の女性のグラスの運動を凝視してみた。
あっ、こちらは緑色のステンドグラスの窓の前だ、そしてこの緑色もこちらの彼女のグラスとワインのプリズムによって偏光を成され、さまざまな波長による信号を…


うぬ、っと僕は思い当たっていた。
これは、僕らのみが仲間内で嗜んできた『フィクション』法の一端じゃないか!
挙げられそして傾けられるグラスとワインが、それらのヴァリエーションが、数次にわたる複雑な魔方陣を成し、それらがいわばキーとなって、たとえばチェスのごとき譜面と駒を動かして…
これらの想像が大当たりであるならば、彼女たちは『フィクション世界』からやってきたのでは。
どうにかこうにかしつつ、彼女たちは我らの『リアリティ世界』に渡って来、そしてこのレストランにたどり着いたのでは…!

このまま彼女たちのゲームが展開していくと、いったい何が起こるだろうか。
我ら『リアリティ世界』の時間感覚がだんだん圧縮され、因果律が乱れてしまうのではないか。


僕がそんなこんなと思案を巡らせていた、そのせつなである。
とつぜん窓からとてつもない稲光が差し込み、次の一瞬には凄まじい雷撃の大音響が聞こえた。
あっ。
彼女たち2人が、ともに消えていた。
僕は弾かれたように立ち上がると、素早く勘定を済ませ、それからホテルを駆けだしていた。
雨は文字どおり嘘のように止んでおり、正面にはじつに艶やかな虹を見やることが出来た。

そんな僕のすぐ脇を1人の娘が速足で追い越していった。
と思えば、今度は正面から別の娘がやってきて、すいすいとすれ違っていく。
僕が地下鉄の駅前にたどり着くと、右の路地から、さっきの娘が、そして更に左の斜め正面からもう一人の娘が…
彼女たちが縦横に往来続けるそのさまは、大都会の街道の地図と相まって、あたかも巨大なチェスの譜面を…



(つづく ─ いや、これはもうこれでいいかなという気も。)