2020/10/29

Representatives

 ① 数学のちょっと幻惑的な問題で、こんなのを考えついたことがある。

以下の(1)と(2)は同じ場合数となるか?それとも異なるか?
(1) 有力新聞8社それぞれが、5人の候補者のいずれかを支援する場合数
(2) この5人の候補者それぞれに、8種類のキャッチフレーズのいずれかを割り付ける場合数


数学のセンスの高い人ならば、これは(1)も(2)も同じ 58 通りとすぐさま解るだろう。
つまり8つの新聞社あるいはキャッチフレーズそれぞれが、5人の候補者のいずれかに「付く」、よってどちらも 5 x 5 x 5 x 5 x 5 x 5 x 5 = 58 通りとなる

と、油断させておいて…。
ではちょっとだけヴァリエーション。
(3) この5人の候補者それぞれ「が」8つの政策のどれか「を」公約する場合数は幾つか?

数学センスの高い人ならば、「これは85通りになるね、さっきとは違うよ」とたちどころに閃くだろう。
確かにこれはさっきの問題と異なり…いや、もういちいち書かない。

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② さて。
実際のところ、人間社会の意思決定は数学のように綺麗に収まるものではない。
じつは権利と義務には完全な対称性がない、むしろ著しく非対称であるということを想起して欲しい。

1人ひとりの有権者は、国会や自治体の議員に「中長期的な課題について」「中長期的な意思決定」を委任している。
しかしその議員は、「毎回毎回の特定の議題について」「多数決」を実践する。
つまり、議員と有権者の意思決定は権能が異なっている ─ つまり、議員と有権者は意思決定の能力も範囲も方式も1:1では対応しあっていない、それどころか各人の満足度や達成意識そのものがバラついている。

なんだ、国家予算についての審議は万民の共通課題だ、つまり有権者も議員も同じ意思決定をしていることになるぞというかもしれないが、その予算の内訳と配分について有権者と議員の意思決定が統一されていると言えるだろうか?

意思決定の権能と範囲と方法において本当に最適な(誰もが満足する)議員数は、どうやって決めればいいのか?

もうわかったね。理系思考より文系思考のほうが遥かにいい加減なんだ、つまり難解なんだぜ。

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③ とくに事態を幻惑させるひとつのタームに「責任」という語がある。
議員は有権者に対して政策上の責任を負っており、有権者もこの代議制というシステムに責任を負っている ─ と超大雑把に誤魔化してはいるものの、これら責任そのものが一意に定まっていないし、さまざまなそれらは1:1での対応関係にはない。

ビジネス契約においてもやたらと甲の「責任」および乙の「責任」、さらにあっちの「責任」こっちの「責任」そっちの「責任」…と頻発されるており、それらを厳密に精査すればどれもこれも権能と範囲と方法が非対称に異なっていたりする場合がある。
(だから悪意でウヤムヤにしている場合だってある。)

だからこそ、その時その場かぎりの住民投票があり、司法があり裁判制度があるわけだが、たとえ法に則って審議しても誰かがどこかでその都度に何らかの妥協をしあっている。
それが悪いと言っているのではなくて、人間同士の意思決定の調整はいまのところこうするしかないってこと。


以上