2020/08/18

高校物理の難しさ(物理量の捉え方について)

物理の数式を眺めるたびに、なぜこれらが頭に入りにくいのか、特に僕のような人文系思考の人間にとってなぜ了解しがたいのか、つくづく考えることがある。
それをざーっと記す。
あくまで僕の雑記であり、用語上の正確さにはあまり拘っておらず、そもそも本稿の主要テーマである「物理量」の定義からして必ずしも精密なものではないようだが、それでも以下に簡易にしたためた内容は論旨明瞭かつほぼ正しいものであろうと期待している。

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そもそも、我々が物事を理解するにあたっては、大きく2つの思考形式があると思われる。
ひとつは、「〇〇が」「××する」「だから」「△△が」「××した」「そして」「〇〇が」…という具合に経過時間に沿った因果プロセスとして捉える思考形式。
(たとえば歴史解釈の多くはプロセス思考に拠っているように察せられる。)
もうひとつは、対象物や経過時間などなどを(何階かの)連立方程式として捉える着想。

高校あたりの理科のうち、化学はいざ知らずとも物理は因果プロセス思で挑んでは了察が難しく、むしろ連立方程式の着想を大いに発動すべきだと睨んでいる。


さて、「熱」「粒子」「電気」などは、「我々が体感として直接捕捉が出来る実体」だ。
体感しうる実体ゆえ、人間がそれらを量として共有することが容易、よって、それら「実体」の全貌を直観しやすいということだ。
「電気が」、「粒子が」、「熱が」、… 「増える」、「減る」、「酸化する」、「還元する」…などなど。
また、これらは体感から生じているゆえ、プロセス思考から入っても実体像に帰納しやすい。
だから、人工的な量変換も情報共有もたやすい。

ところが、人間が体感とは別に論理上設定したに過ぎぬ量さえも「物理量」ということになっている。
そうやって論理上の物理量としては、速度だの濃度だの電力などなどがたちまち思い出される ─ というより、間接的に観測出来るにすぎない量であっても、物理学に則ってさえいればすべて物理量というそうな。

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さて問題はここからだ。

物理における最も根幹的な関数式のひとつ、いわゆる運動方程式: 
F = kma
これは運動する物体における「力F」の関数式だと説明がなされ、これを構成する比例定数としてmは「物体の運動慣性つまり質量」を指し、aは「物体の動かし難さつまり加速度」を指すんですよ、論理上の量なのですよと説明が続く。
おまけにもうひとつ、なんらかの比例定数kまで含んでいやがる。

ほぅ、論理上の量表現だというのならそれらのかかわりを演繹しつつ実体に帰納してやろうじゃないか ─ と、「プロセス思考」で意気込んでみたくなるのは分かる。
とくに、僕のような人文系思考の持ち主は法的思考や歴史経緯などになまじっか慣れているため、きっとそうするだろう。
しかしこの関数式 F=kma は体感から離れた論理同士の比例定数を含んでおり、何が何を演繹しあるいは帰納しているのか分かり難く、思考がグルグルと回ってしまうばかりだ。
一方で、ほらこれはベクトルとかこっちはスカラー値だなどと数学ベースで横から注釈つける奴もいるので、余計に腹が立ってくる。

この思考のグルグル回りに収まりをつけるにはどうすればいいのか。


そもそも物理量の表現には一応はシステマティックな掟があるようで、「質量」と「長さ」と「時間」をいわば「基本量(さらに熱も基本量)」とし、これらを組み合わせて更なる物理量を設定することになっているようだ。
それどころか、基本量をはじめ他の主だった物理量に絶対の標準単位が定義されている; 例えばSI単位系としては s(秒)、m(長さ)、A(電荷量)、mol(粒子量)、kg(質量)、K(熱力学温度)、cd(光度)
これら単元の単位をもとにして、N(力)やJ(仕事)やW(工率)やV(電位差)をはじめさまざまな単位が組み立てられて物理量表現を展開している
これら方程式の作成のためにこそ、我々が学校で学ぶさまざまな比例定数が考案されてきた - と思う。

おかげで近現代以降、人類の工業技術の規格化は飛躍的にすすみ、産業化を推進し、科学技術をもっと推進していまや電磁場/電磁波からコンピュータへさらに量子へと。


さて、このシステマティックな掟に準じて、あらためて運動方程式を記す。
「力なるものF」を単位で表現して1Nとし、そうなるように「質量なる比例定数m」を1kgとし、かつ「加速度なる比例定数a」を1m/s2として、これらが収まるように残りの比例定数kを1とする。
これで誰もが知る ma = F にまとまりますね、これが典型的な運動方程式ってやつですよと説明されて、ははーんと了解出来ること ─ この関数式自体が連立方程式である。

(なお、ここまで'次元'について触れていないが、方程式としての基本的着想は同じものである。
そういえば、上の運動方程式における比例定数kはいわば無次元であるとの理屈もある。)

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上に挙げた一般的な運動方程式と同様、思考のグルグル回りを触発する比例定数込みの関数式の例としては、最大静止摩擦力と垂直抗力の関数式 F0 = μN も挙げられよう。
別物の力と力を「どうして」比例定数μで掛け合わせているのか?
いや、どうしてもへったくれもない。
接触面上における物体を押したり引いたりして力の均衡が崩れる(動き出す)そのさいの静止摩擦力と垂直抗力を連立方程式表現した関数式だ。


一方では、たとえば「ばねの弾性力と長さについての物理式」F=kx はもっと幻惑的に映ることがある。
このFは'ばね'が有する力だといい、xがばねの自然長からの伸び(縮み)の長さだというが、なんと力を長さで表現しているじゃないか!
例題などを見れば、ばねを直列につないだり並列につないだりしつつ、ハイ全体としての比例定数は幾らになるか、じゃあ全体としてのばねの力は…?と問いかけてくる。
この問題に対峙して、ばねの力と長さと比例定数のどれがどれを決めているのかとプロセス思考をグルグル回すから不愉快になるのである。
やはり全体の系を連立方程式として捉えつつ穴を埋めて、ちょっと暫定値をおいたりまた取っ払ったりしてみれば易しい。


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…とまあ、ここまで直接/間接のいわゆる物理量を連立方程式と捉えて全貌の系を直観する便宜を指摘してきたつもり。
物体の密度と体積、その積としての質量、加速度を掛けた重力、これらが液中で働かせる水圧などの液圧の力、そして上に挙げたような固形間における摩擦力などなどは、教科書や参考書や入試問題などにて総覧的(典型的)に図示されているので、我々もこれらを「ひっくるめて」直観イメージ捕捉しているような気になる。

とはいえ、これらひっくるめた全貌の図示から、'個々それぞれの「力」の「合力」と「つりあい」と「作用」について我々が本当に'過不足なく'捕捉可能かどうか ─ ここいらを過不足なく理解させる図示はホントは難しいような気もする。
まだ電磁場/電磁波の方があらゆる合力を総覧化して了解出来よう(電子量子までは無理だとしても、そんな気にはなれる)。
だからこそ、直観的には体感と卑近に直結しうる力学分野は、本当は電磁場/電磁波よりも熱力学よりも理解が困難なのではないか、と門外漢なりに考える昨今である。


※ 随筆ついでに記せば、物理運動はどれも時間の経過をともなうものゆえ、〇〇が××するプロセスの連続だと言えないこともないのだが、しかし時間そのものだって論理とはいえ立派な物理量として他の単位と組みわせた連立方程式を生成している。
それどころか現代物理学においては時間を論理ではなく実体そのものとして捉え…

なんだか用語の使いまわし自体が面倒になってきたからこのへんでやめとくわ。

以上