2020/08/01

【読書メモ】虫とゴリラ

『虫とゴリラ 養老孟司 山極寿一 毎日新聞出版』
養老孟司氏はおそらくは日本一著名な解剖学者であり、ベストセラー作家でもあり、よって僕なりに氏の言質についてはこれまで幾度も注目してきた。
たとえば、自然物であるはずの人間自身が脳神経の何らかの物理反応(≒意識作用)によって論理秩序を創出し、それらを静的に情報化しつつお互い強制し合うことで人間自身の在りように制限を掛け合っている
─ といったところが同氏の危機感の根本ではないかと察しており、本書にてはここのあたり再認識させて頂くこととなった。

一方で、山極寿一氏は人類学者にして現・京大総長。
山極氏の本書随所における指摘を大胆に解釈するならば、ゴリラをはじめ(人間以外の)霊長類は本能的に周囲の自然界と相互に共鳴し、争いを最小限に抑え相互に助け合いの関係を維持しているのであるから、人間にも同じ機能が生来的に残存しているはずである ─ と要約しえようか。

「自然物」と「情報(言語)」 ─ この両者は本来は人体の一部を成すものであるが、超現代にては乖離が一層進行中、そして後者がますます強大化し前者の実在性を脅かす。
これこそが、お二人が生命科学をベースに編み上げられた主だったメッセージであろう、そしてとりわけ重大なキーワードの一つが「自然と人間の共鳴」でありえよう。

なお、本書はおそらくは対談をそのまま書き下ろしたものゆえ、読解にさいしてはある程度以上の学識と文意捕捉力が必要、更に念押ししおけば本年出版でありつつも昨年以前の対談に拠った編集であるため新コロ騒動周りはいっさい反映されていない。
それでも、本書にてひろく引用紹介される生命論や科学技術論や産業論、ひいては俯瞰的な物質文明論まで、論考のスケール感は凡俗な一般書のレベルを遥か超えており、かつ、やや難度の高い論理展開も随所に見られるため、学生諸君の思考力鍛錬にとっても絶好の一冊とみた。
そこで、此度の僕なりの読書メモとして、とくに関心を惹かれた箇所を本書章立てに拘らず以下に略記してみた。


・人間の脳サイズ(対身体)が他の動物と比べて大きくなった必然的な理由はいまだに分かっていない。
食べ物の変化によって腸が短くなったため消化に充てていたエネルギーを脳に回すことが出来たとの想定があり、また外胚葉関係の遺伝子のなんらかの変化によって皮膚や体毛が変化するとともに大脳皮質が大きくなったとも推定出来る。
しかし、これらが繁殖などにて有利に機能してきたとは言い切れない。
ともあれ、人間の脳の肥大化は生命論的にむしろ無駄な偶然の経緯に過ぎなかったと見ることすら可能であり、その無駄な経緯によってこそ人間の社会が興ってきたと皮肉に捉えることも出来る。


但し、この過程で「触覚」によるコミュニケーション能力は現在に至るまで失われ続けていると捉えることも出来る。
生物の感覚器官は、視覚には網膜と光受容細胞(松果体)があり、聴覚には音を聴く細胞の他に平衡や重力を感じる半規管があるという具合に、どれも機能上の二重構造を成しつつ、とくに視覚と聴覚と触覚は大脳新皮質に直接入力されている。
そして人間は生まれてからまず初めに触覚で世界を認知している、にも拘わらず、他の感覚と異なり触覚だけは感覚それ自体を客体表現することが出来ない ─ つまり他者と共有することが出来ない。

なお、ゴリラやチンパンジーもとくに触覚を活かして仲間の存在を認知していると想定され、触覚による接触機会が無くなると相互に群れを成す能力が損なわれてしまう。


・自然界においては、それぞれの動物は食物(つまり自然物そのもの)の確保において互いに不利となる競合を回避する仕組みを身体のうちに有している。
かつ、動物はそれなりに「言葉」も有してはいるが、ただし動物の言葉は空間次元での知識確保のために留まっており、時間の前後までふまえた因果関係を伝えることは出来ない。

人間の祖先が「情報」を創出したきっかけは食物の共有であると考えられる。
肉食獣と異なり人間は毎日食事が必要であるにも拘わらず、自給自足の森林環境から直立状態で歩み出てしまったため、他者が採取し移送してきた食物を食べる必要が生じ、これが知識記憶の情報化の端緒となったのでは。
かつ、人間も知識や記憶の情報を「言葉」として共有、しかもこれらは(動物と異なり)さまざまな知識や記憶の記号化から価値化にまで進んだため、人間はビジネス効率を上げつつ、脳容量は却って小さくなった。
かくして、今から7万年前には人類の祖先の言語が今のような形となり、また4万年前になると知識や記憶を留め置いて芸術に転用することも出来るようになった。


・自然物に対する人間の感受活動は、暫定的な物理上の共鳴反応にすぎない。
「言葉」をはじめとする「情報」がどれだけ精緻なものとなっても、これらによって自然物そのものを完全に感受出来るわけがない。
ましてコンピュータ化がこれを可能とするわけがない。


・生物が有するさまざまな器官には、遺伝子レベルで仕組まれているものが有り、一方では神経系の働きが体現されたものも有り、両者がそっくりになる場合もある。
ウンカの脚関節における歯車や三葉虫の眼を成す複眼レンズなどは遺伝子レベルで仕組まれた特性だが、これらは人間が脳神経の働きによって考案した機構とそっくりである。
ピアノの鍵盤の音と配置の関係は、経験的に最適化されたものではなく、人間の一次聴覚中枢の神経細胞の並び方と音の対数関係となっている。
対数や線分など人間による数学やその公理は、人間の脳神経(聴覚や視覚)のはたらきが体現化されたもの。


・芸術や作法における「型」とは、人間の外部に設定された論理秩序ではなく、もともと人間の身体より生じかつ身体をぶつけてゆくべき実体の系であり、いかなる分野においても一定の「型」とおのれを一体化させてこそさまざまなコミュニケーションも新規創造も可能となる。
日本の近現代において、これら「型」を無視した習慣や政策を強引に導入し続けたため、人間はむしろ所作のバラつきが増えてしまい、昨今ではコミュニケーションが難しくなったなどど嘆いている。

・倫理感と論理は別物である。
たとえば数学などは外部から強制された論理への対応能力を求めているが、これらを倫理感覚のレベルで受け入れられるかどうかは別の能力といえ、後者を図る能力試験は無い。

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以上、本書の中盤あたりまでのコンテンツのうちとりわけ重大な論点と思しきところを、僅かながら略記紹介してみた。