2016/01/06

あっとランダムな酔っ払い

年が明けた。
依然として、おさまりのつかぬ思いが、次から次へと。

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① 「人類最初の人間は、いったい何を考えていたのだろうか?」
よく挙げられる問いかけだ。
この問いは、おそらくはセットでこう続く。
「人類の最後の人間は、いったい何を考えるだろうか?」
さぁ、ここで、我々の着想は以下の2つに大別されるのではないかな。

ひとつ。
現在生きている我々の知性は、これら最初と最後のうちのどこかに、何らかのかたちで存在しているはずだ、というもの。
神の意志はいつも同じだ、そして世界のGDPの総和はいつの時代でも同じだった…なんて言ってみたり。
いわば、総量と予定調和の文明論、としてみようか。
数学や経済学をたしなむ時、我々は(知力は別として)この総量と予定調和の発想を受け入れることが多い。

だが、もうひとつの見方。
この宇宙で、どんなエネルギーやどんな物質がなにをしでかすかは、すべてランダム。
そのランダム宇宙がランダムに起こし続けているのが、あらゆるエネルギーと物質であり、動植物であり、そして我々人間というシロモノ。
人間の頭脳活動に総量など設定できない、思考に必然など無い、だから、最初だの最後だのを設定すること自体、意味がナッシングだ…と。
これを(たとえば)永遠のランダム論とでもおこうか。

さて。
原発事故から5年も経過し、原爆投下から70年以上が経過した。
さらに北朝鮮が水爆実験だ。
どうも、総量と予定調和の文明論は、いよいよ旗色が悪くなった。
水爆でも原発でも、人間の防衛本能とは必ずしも一致せず物理的に存在し、ひとたび存在しちゃったからには、防衛本能と無関係の要因でドカーーンといっちまうことがありうるわけでしょう。
株価だのGDPだのは、我々の生命と直接の相関や相反関係があるわけではない。

…となると、人間としては事後対応しかないってこと。
皆を救える事後対応、といっても、皆を無償で収納できるシェルターってあるのかな?

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② そういえば。
経済学では、市場のあらゆる財貨の需/給が続く限り、どれもこれも量的な均衡状態に向かうという。
はて?
需/給の量的な均衡とはどういう状態か?

どの人間のいかなる需/給だって、一瞬一瞬に微分すれば、どの一瞬においても量的に衡しているのさ、という論法か?
はたまた、全人類が死に絶えて、需/給が量的にゼロになった状態か?
どっちにしても、経済学など不要ということになるわな。
(ははははは。)

いや。
むしろ経済学とは需/給の不一致(市場の失敗)こそを追求する学問じゃないのかな。

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③ ところで、政治とはなにか?
それは、新規技術の研究開発のためにカネを調達する機能のことだ、という。
かつ、政治は民意の正当な反映手段たるべきだ、との主張もある。

この2つの見方をつなげると ─ 
政治は、新規技術の研究開発のために、民意を正当に反映させるもの、ということになる。
ならば、新規技術を理解出来ない国民は、政治に参加する資格はない、というわけか?
(ははははは。)

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④ 情報化が進むということは、何が真で何が偽であるか、どんどん分からなくなるということ。
ネットに登場するデータ、そして人物のほとんどは、架空の産物かもしれないよ。
そうだとしても確かめようのない時代。
情報量は知識の共有とは相反する。

とすると、他人と知識を共有しないためにこそ、ネットに没頭するのかな?

ただ、ネットについては別の見方もすることがある。
ゲームに没頭している子供は、対人関係の構築が苦手になる、という定説は真だろうか?
ゲームとは、「決まりきったルーチン世界」を誰かと共有するもの。
同じゲームをするやつがいる、あいつもやっている、こいつだってやってる、他にも必ずたくさん居るはずだ、だから僕も
…といってゲームに没頭するのだから、むしろ対人関係の構築こそを最重要目的としているんでしょう。

だから、ネットメディアで人気を博したいのなら、おのれがゲームになればいいのです。

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⑤ さて。
「個人情報」が、どんどん漏洩しているという。
むろん、IT化とはデータの複製と転送の技術。
だから、たとえ法律やカネで人為を制御しようとも、道徳心をもって抑えようとも、いつか必ず漏れ散っていく。

そもそも、「個人情報」について考えてしまう。
これは 「本人」と「名前」と「属性」の3つが全て 1:1:1  で対応しているもの。
だがIT化がすすむにつれ、この3者はバラバラになってしまうのでは。
たとえば、個人と名前と行政情報の全てが n:n:n の対応関係となったり、とすると、僕の苗字も名前も住所も社会保険番号も、毎日変わるようになる。
もちろん、本人さえ知ってりゃいいんだ。
それでこそIT化時代のセキュリティじゃないか。
ダイナミックにいこう!

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⑥ 朝日新聞は実に面白いメディアだ。
ときおり記事を読んでみるが、なんというか、主・述の入り組んだ多重構造をとる文体が目立ち、しかも読点のおきかたが他の日本語と異なっている。
もしかしたら、人間ではない何か別の知的存在が記事を書いているのかもしれない。
もちろん悪いとは言ってないよ。
メディアは多様化こそ望ましいはず、こういう新聞だってもちろん在っていい。

ただ、朝日の系列による出版物のうち、翻訳物だけは頂けない。
新聞に輪をかけて多重構造の文体が頻出し、誰が、何を、何のために、どうしたのか、何度も読み返してしまう。
じつは、これは岩波の日訳本(とくに古いもの)においても見受けられることである。
岩波新書や岩波文庫のうち日本人が著した本は、実に論旨明瞭であり、それを思い返すにつけても日訳本の読み難さは不思議なほどである。

ついでに。
僕の文体は平坦で気持ち悪い、浅薄で含みが無い…などと言う人もいる。
しかし、僕は出来るだけ直列的に書くことを心がけているので、どうしてもこうなってしまうのだ。
頭の中までが単線構造なのではないぞ。

以上