2016/01/03

バベルの塔

① ある事故が起こったとする。
Aさんが 「大事故」 だといい、Bさんが 「大したことはない」 といい、Cさんが 「ありふれている」 という。
このように言い方が違う場合、Aさん、Bさん、Cさん、みんな見識が不完全なのだろうか?
いいえ、各人の思念を代弁している「言語」の方が不完全なのですよ。

なぜ、言語が在るのだろうか?
それはお互いを理解しあうため ─ ではなくて、本当はカネや法や代議制と同様、イヤなやつを遠ざけて分断するために捻出された仲介ツールじゃないかしら?

==================================================

② 言語、というと、バベルの塔の伝説を思いだす。
そこでちらっと考えること。

人間はみな、「好き(嫌い)なもの」というのは、おのれを形成している「なにか」が決めている。
だから本来は誰もが、好きなものが身近などこか、或いは世界のどこかに在って、それらが引っ張りダコになってきたに決まっている。
きっと、そういう好き放題の頑張りが、いわゆる経済成長ってやつも、景気活況ってやつも実現したんでしょうな。
そして、その一方では。
ああ、こんな仕事は外注しよう、そうだ彼我の居住区を変えてしまおう、だから法律を新たに定めよう、決済通貨も新規に定めよう…いっそのこと言語も新たに作ってしまえ ─ などというズルい新発明に至る。

こうやって言語が次々と起こってきた、うむ、これこそがバベルの塔伝説の真意なのではないかな?

それでもなお、ずっと万民共通で残留し続けてきたのは、人間がもともと有する 「言語以前の思念」。
となると、道徳と藝術とスポーツと数学ってことか。

(なお、最近は 『心はすべて数学である』 という本を読んでいる。
これについては近々、また読書メモとしてここに記すつもり。)

=====================================================

③ 僕なりに、工業技術製品の海外顧客向け営業をこなしてきた。
その技術提案書は、とりわけヨーロピアンに提示する場合、言葉数が少ないものほどリスポンスがよく、英語(ないし客先言語)でずらずらと記したものほど不評だった。

とくにアングロサクソンは、技術提案書に英語をずらずらと書くことも、また書かれることも非常に嫌がる。
ハハン、それはこちら側の英語が下手だからだろう、と謙遜し、そこで超大手商社から薦められた英語業者に依頼して、技術提案書を英訳させたことがある。
それでも、アングロサクソン技術者はしかめっ面のまま。
そこで今度は、英文をほぼ全部削除し、システム図案と数式のみを丁寧に練り上げて再提示。
すると!彼らはものすごい勢いで全て読みとおし、更に彼らなりの図案や数式をつらつらと明記して返してきた。

ましてや。
研究開発の現場、医療の現場、スポーツの現場など、緊急性の高いシチュエーションにおいては、常に非言語的な思念そのものをぶつけ合うようだ。
外国人との協業機会が増えれば、なおさらそうなるかな。

==================================================

④ さて、ここまで書いていて閃いたこと。
男性と女性は、たぶん言語の「意義」が違う。

男なりの発想に根付けば、上に記したように、言語というものは自己の思念 「以外の物事」 を定義し、比較し、分離するためにこそ在る。
一度に多くをどかんとまとめて語りたいのも、たぶんそのためだ。
だが、女のセンスによると、世界の万物はみなどこかで繋がっており、思念と言語にも区別など無い ─ ことになっているらしい。
そこで、女性の言語は 「世界の思念を繋ぎとめる」 ためにこそ在るのではないかな?
そのためか、分かりきったことをいつまでも散文調で、小鳥のように小枝を摘まんでは、ピーチクパーチクとそこいら中に撒いてまわっている。

もしかしたら。
男がぶっ壊してしまったバベルの塔を、女たちが作り直しているのか。
そんなふうに考えると、女子が外国語を面白がって勉強する理由も、分からなくもない。
そして、緊急性に応じて非言語的な思念を発現させるのも、じつは女性の方が得意なのかもしれない。

以上