2015/12/29

歴史を学ぶ

① もしも歴史を学ぶなら、おのれ自身が歴史になれ
…というフレーズは、誰によるものか知らないが、さらっと書いてみて実に深遠だ。
歴史は、必然という成分へ微分さるべきか、はたまた偶然という成分の積分なのか、そこをきちんと見極めるためには、おのれが導関数になれ、成分となれ。

たとえば、忠臣蔵を学ぶためには。
おのれ自身の身体と脳を、江戸時代のものに「戻す」必要がある。
もちろん、人間としての意識を戻すためには、世界そのものも同様に「戻す」べきである。
そのためには ─ 
気象条件も地形も土壌も水質も、熱エネルギー源も素材も食糧も、通貨も法観念も税制も政体も、そして言語も数学も、全て江戸時代に戻さなければなるまい。
その上で、最低でも一世代(たとえば30年)は過ごすべきだろう。
もちろん、その間は常に切腹や生首チョンパのリスクだって伴わなきゃなるまいな!
ああ、なんという偉大な実証実験だろう!
これぞリアリズム。

なぜ、こういう実証実験を行わないのだろうか?
それはきっと、我々が誰もかれもみな、歴史をあくまで客体として捉えたいからだ。
交渉の現場に身を置くのはいやだ、清算済のカネと人事情報だけつまんでいたい。
要するに、評論家のままでいたい、と。
過去について、自分自身が主体として経験的に学ぶのは、いやだと。
(もっとも、強制連行だの慰安婦だのという論理につき、これを実証実験して事実の有無を検証するわけにもゆくまいが。)

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② 我々は、戦時下の人たちの苦難を理解すべきだ、という。
この世界の貧しい人たちの辛酸を分かちあおう、などという。
あるいは、地方で働く若者たちの寂しさを知っておきたい、などと。
さらに、難病に罹った人たちの気持ちを察してやりたい、などと。
ああ、むりむり。
おのれ自身が、あったかほっかほっかの環境に身を置いて、何を理解できようか。

スポーツ選手に対して、「いま、どんなお気持ちですか?」 と訊く軽率なジャーナリストがいる。
藝術家に対して、「どんなお気持ちで、このようなものを制作されたのですか?」 と問うてみたり。
だが、気持ちを知りたいのなら同じ修練を同じ時間だけこなせ。
最低でもそれだけのことをこなしてから、質問してこい、というのがスポーツ選手や藝術家の本音じゃないかな。

え?なになに?男子は、女子の気持ちを理解すべきだと?…だったらてめぇが女になれ!
いやよ、そんなの、やだー。
だってイヤなんだもん。

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③ そもそも歴史とは何だろう?
歴史とは、過去の或る一瞬、その直後の一瞬…ではなく、それらをつなぐ原因と結果のプロセスだ、とおきたい。
しかし、或るプロセスの原因結果を理解し説明するために、とりあえず別のプロセスを仲介させていては、いつまで経っても本源には到達出来ない、とも考えられる。

社会科は、歴史のプロセスをも、往々にして 「価値」と「権利」 といった観念の循環で済ませてしまう傾向がありはしまいか。
これが価値だ、それが権利なのだ、権利とは価値の主張であり、価値とは権利の根源だ、そして、どちらも法として表現されている、か。
うむ、抽象観念にすぎぬとはいえ、ここまではマテリアルに化体化もされるし、人間同士で普遍性もあるし移植性もあるから、まだ許せる。
しかし。
○○観、○○意識、○○主義、というジジくさい修飾語尾をつけると、もうダメだ。
それは平安貴族の価値「観」、これは近代市民の権利「意識」、などというと、もう空論そのもの。
何の原因も結果も説明しきれない。

共産社会(ユートピア)とは、科学技術によりあらゆるマテリアルの供給不足が解消され、全員のあらゆる需要が全員のあらゆる供給によって充足される状態のはず。
理念的には素晴らしい。
だが、共産「主義」となるとまったく真逆に働き、何もかも量的に危機に瀕しているのだとして、価値の一元化と、権利独占と、人口統制に走ってしまった。
さぁ。
これは世界史のプロセスにおいて、原因なのか、結果なのか。
いや、そんなものは例外事例だ、というのだろうが、例外だろうがなんだろうが、起こってしまったものごとは厳として歴史なのだ。

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④ 歴史という本当のプロセスを学ぶためには。
とりあえず、価値や権利という表層観念の循環で留まっていては不十分だ。
これ以上には通約できぬ「マテリアルの量変化」にまで、降りていかなければならない、と考える。
たとえば ─ 
気温や水温の変化のたびに狩猟採集と農耕生活が入れ替わった、水質が変わった、土壌の組成が変わった、食糧が変わった、建築素材が変わった、物理学や化学の知識が増えた、入手可能な鉱物資源や炭化水素が増えた、放射性物質が…そして人口は。

つまり、歴史のプロセスの説明とは、「人間自身を含めた何らかのマテリアルが増えたか減ったか」 の実証によってこそ、可能であるとはいえまいか。
だから本当は、おのれ自身が体感し体現しなければ、おのれ自身の歴史をプロセスとして学ぶことなど出来ない…のではないかな。

以上