『数学の世界史 加藤文元 角川書店』
けして皮肉でもなんでもなく、本書は’数学のみの世界’の変節譚と解釈しうる一方で、’人類史そのもの’を数学が紡ぎ上げてきたようにも拝察可能である。
いったいどちらの前提に立って本書に挑むべきか、読者はしばし迷い続けるのではなかろうか。
たとえ数式や図案を略式に留めおいているとはいえ、本書全体の論旨の了察はけして容易ではなかろう。
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さて、僕なりに予め幾らかの所感を記す。
有意なる文脈の’連続体’であろうか、はたまた無文脈な諸々の’断片記録’に過ぎぬのか?
あくまでも前者であろう ─ と人間自身が認識し続けているならば、さて数学はこの連続体を何時でも何処でも構成し続けてきたと言えるだろうか?
一方で、そもそも数学とはなんだろう?
数学はもともと何らかの有形な実体を表象した記号群であったかもしれぬ、だがそういう表象記号が人類史のどこかで数と量に分かれ、とくに古代ギリシアでは自己の定理化と論証を進め、さらに直感を超えた量化観念や理性(ロゴス)を導いてゆき…
こうして乱暴に併記してみる限りでは、人類の連綿とした歴史を数学が隙間なく織り成してきたとは考えにくい。
むしろ、古代ギリシア以降のヨーロッパ流の数学は悪魔の気まぐれのごとく時や処に不定期に出没し、しばし科学と連携しまた誘導すらしつつ、近代ヨーロッパ以降の’世界史’を先行的に舗装してきたのでは?
なるほど、近現代のパートだけを俯瞰すれば’数学が世界史を学際的に作ってきた’と解釈可能ではある。
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数学の形式作法として本書をおそらくは一貫しているであろうものは、「直観」と「論証」と「計算」であろう。
しかしながら何分にも数学論ゆえ、特定方位への発展や成熟が段階的に確定されているとは考えにくく、むしろ諸々の着想や技法が時間空間を超えて堆積的に混交してこその数学であろう。
だから、これら形式の精密な峻別理解は生易しくはなかろう。
寧ろ各箇所にては拘り過ぎぬ方が却って大いなる全貌に行き渡るのではないか - 少なくとも僕はそんなふうに意識留めつつ本書を読み進めた。
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さらに僕なりに注記しおきたい論題。
本著者によれば、’割り算’こそは人類の数学思考の萌芽であると。
なるほど本書にては、高校生ならば誰もが知るユークリッド互除法を取り上げつつ、この技法が古代ギリシア数学の最たる特性である「図形量表現」と「形式的論証」の典型であると論じられてはいる。
しかしながら、文系上がりの僕としては、’割り算'のかかる特性はともかくも実社会における効用面にて疑義を抱いてしまう。
なんらかの有限の資源や資産においては、’割り算’はあくまでもこれら上限を「数的に」額配分(再配分)してゆく額面操作のヴァリエーションに如かず、これでは化学のような新規ブレークスルーを誘導し難く、だから原始共産主義から近現代資本主義まであらゆる経済思考を矮小化や狡猾性の内に留め置いているのではないか…。
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なにはさて、本書前半部における古代ギリシアの論証数学まわりまで、僕なりに掻い摘んで、ほんの雑記ながら以下に記す。
古代バビロニアやエジプトやインドやシナの数学において、さらにゼロ表記の考案や位取り記数法において、個々の表現技法や命題化にはさまざま変化や進歩がみられる。
しかしこれらにては、自身の数学命題の正しさを語る思考は無かった。
自身の正しさを自身が語る数学は古代ギリシアから始まり、これはなんらかの数学命題を定理化(対象化)した上でその正しさを証明、さらにそれを定理化しまた証明…と多重化してゆく構造。
これが「論証数学」の始まり。
タレスによる幾何学命題。
・正円は直径で二等分される。
・二等辺三角形の両低角は等しい。
・対頂角は等しい。
・三角形は底辺と低角から決まる。
・正円の直径の円周角は直角である(これはユークリッドの平行線公理が必要)
これら命題の証明は、図形の回転や折り返しや平行移動などの’運動’さらに'重ね合わせ'による。
尤も、どれも’直観的’方法ではある。
ピタゴラス学派は、協和音の整数比が此岸と彼岸を交信させるといった独特の直観に則りつつ、数論と量論を静/動で分類した。
算術は静的数論であり、音楽は動的数論。
また幾何学は静的な量理論で、天文学は動的な量理論であると。
かかる分類に則りつつ、それぞれがおのれ自身の正しさを論証するとした。
紀元前5世紀ごろ、古代ギリシア数学にては、それまでの’運動’や’重ね合わせ’による直観には留まらない「形式的な論証」が始まった。
あわせて、数を強引に「図形量」と化した上での論証も進んでいった。
この二重の大転換によってギリシアの論証数学は変わってしまった。
この端緒となったのがパルメニデス以来のエレア学派である。
エレア学派によれば、論証数学においては人間自身の直観的感覚よりも論理(ロゴス)が優先されるべきである。
自然界の事物の’運動’や’生成’や’消滅’などはあくまでも人間の感覚過程であり、完全に在るとも完全に在らないとも断定出来ない。
こんなものを理性(ロゴス)で論証してはいけないのだと。
パルメニデスの弟子であったゼノンは4つの「逆理」で知られる。
論理(ロゴス)に忠実に則るならば、時間は無限小に分割出来るはずであり、物体の運動もそれら無限小の時間幅ごと成分に分割出来るはずである。
よって、連続時間を飛行し続けている矢は無限小の一瞬一瞬ごとに停止していることにもなる。
逆に、物体の運動と時間の無限分割が不可能であるならば、運動する物体にはそれぞれ最小の運動単位が在るはず。
しかしその最小の運動単位と経過時間とのタイミング次第では、例えば互いにすれ違う隊列の重なり合う瞬間が無くなってしまう─といった事態も在りうることになる。
さらに、アキレスと亀の競争は…
ともあれ、エレア派の観念優位の論法はとくに'運動'を否定することによって幾何における現実と理論(ロゴス)の不一致さを導くもの、そしてこれへの危惧も自覚していた。
そこで、一応の歯止めを設けるべく公理と公準を従前に設定した上で、彼らなりの論証数学が成った。
数ではなく「図形量」こそを数学思考の対象と据えた論証数学、その最たる例がユークリッド互除法と背理法。
これによって、正方形の対角線と辺の比を自然数単位では通約表現が出来ず、図形量表現するしかない由が、直観ではなくあくまでも論証によって明らかにされてしまった。
アルキメデスによる数学の’逆数版'の原理にては、或る「量」の有限個(回)の分割と近似が可能である由を説いており、これはエレア派ゼノンによる無限分割のパラドックスを回避出来る。
これは正円と内接/外接する正多角形を用いるもので、それぞれの面積が有限「量」としては同じになることを背理法(’取り尽くし法’)によって論証する。
なおこの’取り尽くし法'はプラトンの弟子であった数学者エウドクソスによる無理数の比例論にも描かれている。
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さて、本書の各論が最初に邂逅するのは p.263から始まる『解析と統合』の項であろう。
ここから、近代以降の西洋数学(さらには世界数学?)の論を基幹的に成す2大アプローチについての紹介が為されていく。
ひとつは古代ギリシア以来の馴染みのもので、予め既知である定理をあらためて定義や公理によって論証するもの、これを「総合」アプローチとする。
もうひとつは、方程式と解の関係のように、未知のものを既知と仮定した上で全貌から暴いてゆき、最終的にその未知を発見するもの、これを「解析」のアプローチとする。
とりわけ、「解析」のアプローチは16世紀以降の西洋のみに起こり、これが古来の「総合」アプローチともども、真に普遍的な数学を目指すようになり…
以降、ガリレオ、カヴァリエリ、デカルトらを経て、17世紀後半の科学革命の時節に登場したニュートンやライプニッツ、無限小を前提とした微分積分学へと、本書の数学論は更にさらに続いていく。
なお、傍流的なエピソードの数々もなかなか興味を惹かれるものが多い。
例えば、微分積分数学の端緒は意外にも早く、14世紀のマートン学派による物理運動の幾何的表現に原型を見ることが出来ると(平均速度の定理など)。
本書はともかくもスケール大きな数学論である。
理系文系問わず、また職能も問わず、一読を薦めておきたい。
以上