2025/11/30

【読書メモ】 法と経済学

『法と経済学 有斐閣ストゥディア 得津晶・西内康人

本書前半部に目を通すかぎり、本書の主目的は民法(商法・会社法も)において、’当事者の行為選択における損得トレードオフと動機付け’を如何に数化/価値化しうるかの論考であろう。
ならば本書コンテンツは「民法の経済性(学)」の指摘とも総括しえよう ─ むしろこちらを本書タイトルとすればヨリ大意明瞭な気もする。
すると、ここいらから当然演繹され、かつ疑義も頭をもたげてくる、そんな大命題がある。
民法が経済性(学)を成しているならば、民法上の当事者間には必ず損得の自動調整が効いているといえようか?
うむ、これはなかなか野心的な論考ではある。

また、本書は構成もなかなか野心的ではあり、随所にて「CASE」として続々と呈されているシンプルなケーススタディ群を徐々に分析しつつ、要件や行動動機や損得を解き明かしてゆく。
総じて、文面の分量はけして大量ではないので、一通り読み進める上ではさして困難さは無かろう。

尤も、各文章はやや長めでしばしば論旨反復的でもある。
また、各論から総論を誘う文脈づくりも目立つ。
一方では、ベン図やツリー図やフローチャート類は希少に抑えられている。
以上から、要件や行動動機や損得における’条件分け’(これらの過不足の有無)がやや捕捉し難く、だから却って文面過多にすら映ってしまう。
よって、せっかくの諸々のケーススタディも、比較検証のエッジがしばしば不明瞭に留まっているのが惜しい。


さて、せっかく読みかけた本書ではあるので、とりあえず『第1章』と『第2章』について、僕なりに以下にざっと要約略記してみた。




<過失責任と厳格責任>

民法にては、或る不法行為の成立とその効果を確定すべく、その不法行為による因果関係と損害問題を定義する。
この因果関係と損害問題の定義において、「過失責任」「厳格責任」の原則解釈がある。

「過失責任」原則は、加害者による「予見可能性」と「結果回避義務」に拠った上で、不法行為の結果に損害賠償ペナルティが課されるとするもの。
「結果回避義務」は、加害者側のさまざまな技術能力パラメータに則って、裁判所が画定する。

一方、「厳格責任」原則は、加害者による「予見可能性」と「結果回避義務」が定義無きままでも、不法行為の結果に損害賠償ペナルティが課されるとする。
「結果回避義務」を裁判所が画定することはない。

「過失責任」よりも「厳格責任」の方が、損害を加害者側に内部化させ多大な責任を負わせる原則である。
しかし逆に見れば、「厳格責任」にては加害者側がおのれのみの損得判断に則って行動判断を適正化していることにもなる。

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「過失責任」原則における「結果回避義務」の損得尺度として、「ハンドの公式」が起用されることが多い。
例えば;
(a) 結果回避義務の履行費用
(b) 結果回避義務の履行にて低減が見込まれる損害発生確率
(c) 結果回避義務の違反にて発生が見込まれる損害
この上で、加害者側が (a) < (b) < (c) の損得大小判断を為すのであれば、義務履行の総コストも最小となるはず、だから加害者側は「結果回避義務」を受け入れる ─ つまり「過失責任」原則に同意していることになる。

「ハンドの公式」の留保条件。
「結果回避義務」は、個別要件化すれば基準設定から伝達までいちいちコストが掛かるので、加害者を客観の通常人と見做した上での普遍的なコスト判断が為されるべきである。
むしろ、「ハンドの公式」よりも一般慣習や法令に則ってこそ、加害者の「結果回避義務」のコスト判断が為される場合も多い。

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なお、「過失責任」原則における「予見可能性」は、’知られざる損害発生確率やリスク’についての加害者側の主観判断。
加害者はこの独自の「予見可能性」を「結果回避義務」と比較し、おのれの賠償額の最小化をはかる場合もある。

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日本を含め多くの国々では、「過失責任」原則を採用しており、「厳格責任」原則はあまり採用されていない。
「厳格責任」に則ってしまうと、加害者は自身が過大な賠償責任を課される由をあらかじめ予測してしまい、却って「結果回避」の自助努力がなおざりになってしまう ─ と考えられるため。
さらに、「厳格責任」に則る加害者はコスト負担の最小値とそれら負担者を独自に決定しうる。
(たとえば、上の「ハンドの方式」条件肢にて (b) & (c) と (a) それぞれの効用を比較して最小コスト負担のものを選ぶ。)

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不法行為の加害者は、上述のようにおのれらによる損害賠償コストの最小化を図るが、一方でこの不法行為の被害者側は自身の利益最大化を図る。

ヨリ総括的に「損害賠償」の機能をみれば;
・コスト負担の見做し平均から実額まで、(潜在的な)加害者たちに従前にスタディさせ、当事者意識を換気させる。
・また、この不法行為訴訟にて被害者側に掛かってしまう金銭的かつ時間的なコストを、損害賠償が代替しうる。

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<損害賠償の機能>

過失と損害の間にて、’事実的因果関係’を不問とする捉え方がある。
この場合、危険の現実化に応じた損害賠償を’一定の被害者’のみに払うか、或いは’潜在的な’被害者全員に払うか、どちらもありうる。
しかしいずれにせよ、’潜在的な被害者’をどこまで拡げるのか、また賠償の対象を’抽象的’危険のみに絞り込むのか、あるいは’具体的’危険を前提とした場合の発生確率をどう数値化するのか ─ 整然とは収まらない。

むしろ、「具体的危険の現実化」に絞り込んだ損害賠償制度が必須であろう。

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損害賠償の保護範囲には限界がある。
「過失責任」原則に拠る「結果回避義務」の違反が’事実的因果関係’として認められたとしても、これが加害者による損害発生確率の低減~抑止と無関係である場合には、損害賠償に加味されない。
※ 本箇所はとくに文面が難解で、論旨を拾い難い。

或る「結果回避義務」が阻止しえない損害項目が、損害賠償にて新たに見出されるとする。
これについての説明義務の不十分性は、直接関係しうる被害者の’自己決定権の侵害’とは解釈されうるが、この被害者への’生命侵害’としては帰責されない。

或る過失において「結果回避義務」が為されたか否かは、加害者の行為が(ハンド公式におけるように)この過失損害を軽減しえたかどうかに係っている。
よって、「結果回避義務」によって軽減されえない損害は、たとえ’事実的因果関係が認められても損害賠償を帰責されない。

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損害賠償の意義は、’抑止’と’保険’である。
’抑止’の観点によれば、損害賠償の対象は、生命侵害の逸失利益や物損代価など’財産的損害’のみならず、’非財産的損害’も含まれるべきである。
ただし、’財産的損害’とくに逸失利益などは完全賠償が図られる傾向がある一方で、’非財産的侵害’への賠償は確たる算出基準の無い謙抑的な賠償に留まっている。

ただし、これら賠償を期待する被害者自身が損害の軽減を怠る場合、また余計な支出を行う場合には、これら被害者は’最小費用回避者’と見做されるので、ここでの増加費用は損害賠償から除外される。


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以上が、僕なりに要約した第1章と第2章のあらましである。

本書は第4章から「所有権における」損得判断と抑止について、使用収益と自由譲渡処分などの論が展開し、制度と合意の実務上の意義にもふれる。
なお第10章からは商法とくに会社法についての意義分析が始まる ─ 企業法務などにあたっている若手従業員などはむしろここいらから読み進めてはどうか。
僕はいったん本書を閉じるが、いずれまた触れてみるつもり。

ともあれ本書は、民法(商法や会社法)が如何に経済性を成しているのか/いないのか、どこまで自由選択が保証されどこからが強行規定なのか…これら再認識する上でさまざまな思考の切り口を呈している。

本書は個々の実例や実践から次第に総論へと誘う文脈づくりが多く、だから大要を了察するにはどうしても忍耐力が問われるが、或る程度まで大要を掴んだ上で挑めばけして難解なものではなく、むしろ民法の意義を新たに認識しなおす一冊といえよう。

(おわり)

2025/11/23

Think Big (4)


とくに若手社会人や学生諸君向けに、ちらっと再開したくなった。
理系にも文系にもあまり偏らせてはいない ─ むしろ現下の世界情勢をふまえれば、両者ぶっ続きで考えるべきではないかな。

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・H.G.ウェルズが著した『奇跡を起こした男』は、SFのひとつの端緒。
論理(言語)が物理(実体)を支配してしまう皮肉、その恐ろしさを綴ったもの。こういう着想は一神教圏ならではか。

※ ちょっと似通っているのが筒井康隆の『熊の木本線』などだが、こちらはむしろ言霊信仰を論っているようでもあり…
では芥川龍之介は、太宰治は、江戸川乱歩は、小林秀雄や三島由紀夫は、言語が実体を支配しうる恐ろしさをどう捉えてきたのだろうか?
なお星新一などはぐっと理系型だったので、言語が実体を支配しきれるわけがないだろうバカだなみんなあっははははと


・さまざまな物質/エネルギーのアナログな「連続量」を、とことんデジタルに微分してゆけば、粒子になり量子になり次元が落ちて情報になり、ただの「数」になる。
この量子的な’数化’が人間の基本論理かどうか…そもそも論理そのものが何某かの直観なのか…


・宇宙あまねく自然物もエネルギーも、アナログ連綿に連なる実体「量」。
だが人間だけはこれらを微分して燃焼させて、無機のデジタル「数」に変換してしまう。
おかげで万物は価値「数」であり権利「数」であり多「数」決であり…
…という人間の本性を、AI自身はボトルネックと見做すのかな?


・宇宙の万物はアナログに連なって連続運動と作用反作用を為しているが、人間の脳神経はデジタル微分の静的な’数化’に陥りがち ─ この分断が文明のリスクである
…というのが養老孟司氏などの指摘。
しかしもしかしたら、デジタルで静的な’数化’と操作こそが人間のやっかいな悪癖ではないかという気がしている昨今ではある。


・人間の本性はデジタル志向(思考)かどうか。
物理「量」のSI単位画定はどうなのかな。
たとえば電気素量e、クーロンC、アンペアAなど…。
また、状態方程式における物質量(エネルギー単位)をモル数でなくアボガドロ定数とボルツマン定数によって画定するのは、アナログ志向かデジタル志向か?


・何らかの実体「量」を「数」に置き換えるのは人間ならではの智慧という。端的には言語や通貨や徴税のシステムですね。
しかし逆に、カネや偶像や情報としての「数」を元の実体「量」に戻せるものかどうか?
出来ますよというのがピラミッド数学のメッセージか?
或いは、出来ませんと警告しているのか?


・人間の脳神経はアナログにつながる物質であるので、人間の思考もアナログにずーっと連なっているのだろうか?
とすると、人間が’時間’の同期をわざわざ設定している理由は?
…こんなこと考えると、やっぱり人間の本性はデジタル離散/局在的な思考と記憶で、だからこそコンピュータを閃いたという気が

(思考はぐるぐる回り、ふっと離散し、またくっついて、アナログな満ち潮とデジタルな引き潮のごとく)


・宇宙のどこかで何らかの粒子が 「ほんの一瞬だけ」 「運動を停止した」 とする。
これを人間が物理的に観測し、さらに微分数学をつきつめて表現出来たとして、「あ!停まっている!」という人間側の思考は一瞬の直観に過ぎない
─ とするとだよ、’この一瞬’にては物理も数学も直観も同じ思考ビットであると言えまいか。


・中世スコラ学の’普遍’論争にて。
『万物を超越した神=普遍』が;
①宇宙に実在しうる
②いやあくまで人間論理にすぎぬ
ここが論争されたという。
なるほどね。では「数学」はどっち側だったのだろうか?
ここまで踏み込んで考えないと学問とはいえない。だから現行の世界史は学問ではないとはははは


・さまざまな生物種が体細胞物質のエントロピーを増大させ尽くさぬよう、他所から入ってくるウイルスが新たな経路スイッチングをもたらす。
一方で、核反応技術はむしろエントロピー極大化遂行の一途となるのかな?
核分裂もさることながら核融合で雇用が増えるか減るか、、人口はどうなるのか。



・ここに一枚のお皿があるとして、これが重力(など)の作用によって床に落下し、バラバラに割れる。これでエネルギー/仕事が終わる。
それら割れた断片同士が、新たなエネルギーを得てぶつかり合い、更なる大激震を為しうるだろうか?
プレートテクトニクスの連続による大地震説が理解できない理由。


・もともと地球を成す何らかのエネルギー/仕事が「結果的に」プレートを形成したのであって、そのプレート同士が引き続き新たな仕事を成すわけではないのでは?

既存のプレート同士がどんどん相乗効果を起こして「新たな地震」を起こすのなら、地球を成す全プレート同士が呼応しあって超スケールの巨大地震を起こすこともあるのか?そうやって更に超エネルギーのプレートが其処かしこに形成されるのか?
エネルギー保存則は?


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・「仕事」とは何か?
物理上の「仕事」はモノ(慣性質量や重力など)の運動と方位距離から定義される。エネルギーそのものともされる。
経済学上の「仕事」はカネまわしの量と速度。


・物質と物質をぶっつけ合い反応させ合いさまざま変位させる ─ これを物理上は「仕事」という。
人間行為としては、ビル建設もコメ栽培も家事も出産育児も「仕事」である。
とくに女は生活これすべて「仕事」という。

ところがカネ貸し経済学はこれら「仕事」を「生産」と「消費」に強引に分類し、所得格差と富の不均衡を論い、皆さんもっと「消費」をしましょう(カネを借りろ)という。
それでも、一流のエコノミストであれば、ぐっと包括的にもっと「仕事」をしろと指摘する。


・大谷翔平や山本由伸は試合中は生産者だが、家でゴロゴロしていれば消費者だと。
では観客や放送メディアは、そして女たちは、生産者か消費者か。
カネ(価値)を誘導する起電力が生産者で、誘導される電気が消費者か。バカみたいだ。


・東京電力とか関西電力など、いかにも最上流の「生産」型企業に見えますね。’発電’こそが最も純然たる「生産」活動に映るため。
それじゃあ’送電’や’給電’は「消費」? 
抵抗の熱利用は「消費」? そもそも一般の産業機械は?輸送機は?みんな「消費」だけか?

「生産」と「消費」は表裏一体でしょう。


・宇宙は物質同士の「均衡/循環/保存則」が同時に成立している。
戦争は軍事力の「均衡/循環/保存則」がほぼ同時に成立している。
経済は財貨とカネと人口の「均衡/循環/保存則」がほぼ同時に…?いや、これらは成立していないのでは?
ここを誤魔化すために地球温暖化と脱炭素とカネまわしの虚論をもっともらしくでっち上げているんじゃないかしら?


・ざーっと考えるに、さまざまな物質(核)における結合エネルギーと運動エネルギーさらに質量(エネルギー)の総和は変わらない ─ と。
ところが、さまざまな物価や通貨量や税額や保険料は増えたり減ったりどっかんどっかん。
こんなもの折り合いのつけようがないでしょう。人口論で帳尻合わせ可能?

原子力と経済の問題は、要するにこういうところか。
すぱっと捌けたら総理大臣よりもアメリカ大統領よりも上位に立てるんじゃないかしら(笑)


・財貨の「価値の絶対尺度」について。
① 物理上は(電子/粒子レベルでは)「価値の絶対尺度」は設定不可能。
② 数学上は「価値の絶対尺度」など無用で、金銭化も流動も複製も償却も自由自在。
ではAIは①②を統一解釈しうるか?
近未来のインフレや戦争にかかる大問題じゃないかな。



(まだまだ続く)

2025/11/17

東芝で考えたこと

たまには自身の東芝における過去キャリアをふまえて、ちょっと論調を起こそうと思い立つことがある。
だから書いてみる。


’キャリア’とはいえ、大層なものではない。
むしろ、常にどこかへ横入りしてはイザコザを起こすような、そんな日々ではあった。
もとより僕は大学の文系学部卒で、しかも縁も義理も無い東芝入社であり、それでも相応に評価はされていたのだろう、入社後は主に海外営業職に就く機会を得たものの、総じて回顧すれば相応以上には歓迎も期待もされていないふうではあった。

新規の需要創造を前提としている(であろう)商社などならまだしも、製造業はおのれらの技術規格と供給量があらかじめ枠内に嵌められがちである ─ ように察せられる(察せられた)。
どうしても人間が余り或いは不足しつつ、それでいて自然調整は効き難いのである。
だから、新参者がちょっと割り込む度に、余計なことはするなと反発をくらい、それでドカドカと揉めてしまい、別部門に救われたかと思えば、やはり新参者が余計なことをするなとドカドカ…
当時の自身の見識から皮肉に演繹すれば、あたかも企業全体がどこかの誰かによって遥か上空からギュゥギュウ押さえつけられいるようではあり、うむ、結局は内々のカネの差配次第じゃないのか、割り算と引き算とデフレジジイじゃないのか、官公庁や政党と同じじゃないのか、これでも大企業か、若者の世界と言えるのか
…といった憤懣をちらちら覚えつつ、ドカドカぶっつかり合いを繰り返す東芝生活ではあった。

こんなだから、僕なりに東芝で見分したことや考えたことを壮大に論じるつもりはないし、そんな詳らかな知識経験も無い。
また、製造業に入社して一回り二回りくらいすると辞めてしまう若手が多いのも、分かる気がする。


とはいえ、世界の潮目がいつまでも同じってことはなかろう、割り算と引き算ばかりでもなかろう、一方では科学技術の掛け算と足し算も健在なのだ、それどころか巨大な胎動はもう始まっている…。
そう思い返してみればワクワク感もひとしお以上だ。
だから、学生や若手社会人にとっての思考上のヒントとして、以下記す次第である。


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いわゆる技術産業とくに製造業を成しそして有する重大要素。

① 物質量
② 技術・知識
③ 


① 物質量は、源泉資源(エネルギー)量であり、素材量であり、土地空間サイズであり、製品の新規開発量であり、製造量であり、それらのバリエーションでありまたバラエティである。
電機メーカーでいえば、燃料電池、パワーMOSFET、蒸気タービン、電波設備から、超電導モーター、光型量子コンピュータ、核融合発電システム…などなど。


② 技術・知識は人間自身に内在する知的資源である。
電機メーカーでいえば、数学全般、物理学全般、化学全般、生物学の一部、コンピュータ技術、ソフトウェア技術、セキュリティ技術、精密加工、複製量産、移送、さらに工業所有権、商法、外国語知識、…など。
そしてりわけ文系タイプとして必須の素養が、新規需要喚起の能力である。


③ 富(wealth)は、実体としては上の①と②の積である。
なお、対外交渉や取引にては、この①と②の積を'効用'さらに'権利'であると主張し、もっと総称的に'価値'と主張しうる。
さらに関税や納税といった数字ゲームにては、これらはカネ、債券、証券に勘定換算され、これらを帳簿上は資産(および資本)ともいう。

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…とまあ、ここまでざっとまとめたところで、あらためてもわっと突き当たる疑義がある。
それは、'生産性(productivity)' '付加価値(added value)' である。
どちらも僕なりに社会人ことはじめから了察しきれていない観念である。

もちろん勘定や利益計算や償却におけるこれら数値操作は易しい、そんなもの俺だって新人そこそこからノウハウは知っていたし、それこそ派遣女子でも計算できよう。
しかしだぜ、そもそも’生産性’については、生産というくらいだから①と②のどちらか或いは両方が増産されていないければならないはずだが、見聞するところカネ勘定換算における額面上の増進を以て’生産性’と言いやがる。
ましてや’付加価値’となると、①と②の積を’価値’と換言した上で、これが増えましたと主張しておるので、なおさら①と②のどっちがどうなったのかが不明瞭なのであり、それでいて国内はむろんアメリカや欧州や中国などとの取引にても’付加価値税(VAT)’を考慮しなければならず、実際のところこれら国地域で解釈が微妙に異なってやがんの。


もっと不明瞭な観念がある。
’情報(information' であり、'データ(data)'であり、'情報通信技術(ICT)'である。
これらは①の物理量であり、②の知性でもあり、これら積の③富でもあり、そしてそれぞれにおける属性でもありプログラムであり数値でもある。
つまり、ほわんとし過ぎている。
ほわんとしたままでも①と②と③に掛かる実務はこなせる。
’情報’や’データ’については別途考えるところを記す。

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ともあれだ。
少なくともこれだけは確かであろうこと。
新規の①物質量あるいは②知識技術がガンガン活性化していれば、相応に③富も膨らむはずだ。
逆に①と②に上限をおいたり他者から侵され続ければ、③富が縮小するのもやむなしであり、さればとカネばっかり運用していれば貧乏なバカに陥るは必定。

おのれを奮い立たせ、ガンガンやる気を起こすには、なんといっても①と②に(ある程度まで)通じるべきであろう。
そしてこれらこそが、本当の製造業 ─ つまり新規の世の中を創り上げていくパワーの源泉であり、会社の盛衰もあくまでこれらに掛かっている。
だから①と②をどこまでも大切にして欲しい。

とくに、②においては数学や物理学以上に化学知識と技法が、①の物質バリエーションやバラエティに大いに寄与しうるだろう。
あくまで僕なりの経験則ではあるが、数学や物理学は概して’高速化’と省力化’と’小型化’を導いてしまい、これらだけでは製品のバリエーションは増えてもバラエティは膨らみ難いのではないか。
一方で化学の知識と技法は製品の素材をさまざま組み換えうるので、バリエーションもバラエティもさまざま展開しやすく、だから次から次へと新規需要を喚起出来る ─ ような気がしてならない。

(①や②に通じきれず、なかんずく嫌悪を覚えるようであれば、巡り合わせが悪かったのだと割り切ってとっとと辞めるべきではないか。)

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ウェスティングハウスとか福島原発など、思い出したくはない名ではあるが、しかしこれらとて変わりゆく。
変わりゆけばあらたな①物質量と②知識技術が興る。
なお、一応は技術知識のインテリが揃いに揃っているはずの東芝において、CO2温暖化について其処此処で疑義の声は挙がっていたにせよ、全社としては、まあいいや、風も潮流も常に方位を変えているんだ。



(おわり)