2023/12/13

ハイデガー


高校3年次の冬のことである。
東京圏に住む母の親族ともども、武蔵野市の叔母の邸に参集し、スキヤキパーティを催したことがある。
この叔母の旦那氏がなかなかの才人で、そこそこ名の通った文芸評論家であり、かつ、ちょっと名の知れた俳優でもあった。



グツグツのスキヤキ鍋を挟んで、僕はこの旦那氏と差し向い。
そこで僕の進路についての話になった。
「拓君はどこの大学に進学したいのかな?」
「さぁ、数学の勘が悪いので」と僕は照れ笑いを浮かべつつ答えていた。
「ふふん、そうだろうな、それで、理数系学部は受けるつもりなのか?それとも…」
「やめておこうと」
「そうだろうな」
僕はちょっと面白くなかったので、ポン酢の瓶を手にすると真っ逆さまに自皿にあけていた。
「まあそれでも、君ならばそこそこの進学は出来るだろうよ ─ それで、将来はどういう職業に就きたいと?」
「官公庁か、技術産業の関係か、そんなようなイメージを」
「ふーん、それじゃあ、職能はどんなのをイメージしているのかな?」
「そんなことはサッパリ考えていませんね」
「ねえ、会計関係や法務関係はどうかな、君はなんとなくそんなふうに見えなくもないぞ」
「はあ、そうですかね、営業みたいな仕事は向いていませんかね」
「たぶん向いてないよ」
「そうですかね」
ここで母と叔母が割って入り、まだ高校生やもんねぇ仕事がどうこう言われても分からんわねぇと窘めてくれたのだった。
さぁさぁ、せっかくの美味しいスキヤキなんだから、楽しく頂きましょうねと。



母と叔母たちがワインを重ねてゆくにつれて、スキヤキの卓はあれやこれやの軽口に興じてきたのだった。
最前からの旦那氏も芸能界の裏事情がどうこうと興じつつ、ゲラゲラと笑い声に転げていたのだったが、ふとあらためて僕と視線を交わすと、真顔に戻って語り出した。
「おい、拓君は数学はパッとしないと言うが、哲学はどうだ?ん?てつがくは?」
「さぁ、よく知りませんけどね」
「ハイデガーはどうだ?名前くらい聞いたこそがあるだろう、はい、でっがー、知ってんだろ」
「そういえば、名前くらいは」
「じゃあ、量子物理学はどうだ、ボーアとかハイゼンベルクとか」
「まあ、大雑把な粗方くらいは」
「よろしい!君は秀才ではないかもしれないが、秀才の才能くらいはある、かもしれない」
「へえ」
「それでは、ハイデガーについて、ちょっと講釈してやろう」
ちょっと、おかしな冗談はやめときなさいよ、そう窘める叔母たちをすっと制すると、旦那氏はぐいっと座り直した。



「さてと。君なりに粗方を知っているとおり、宇宙はさまざまな物質で出来ている。だから我々人間もやはりさまざまな物質で出来ている」
「そうですね」
「物質はさまざまな原子から出来ている。そしてどんな原子もさまざまな粒子から出来ている。それら素粒子で特にわかりやすいのが電子だ」
「はあ、そうでしょうね」
「そこで、あらゆる物質の元を電子(電荷)だとしよう。さてお立合いだ!ここに’或るもの'が'実在している'とする」
「はい」
「このものの’実在’とは、或る電子(電荷)が、或る処、かつ或る時に、或る方向と速度を以て運藤している、そんな何かだということになるね」
「ははぁ」
「では、そんな或る電子(電荷)の何らかの'実在'を、我々人間は言語で表現しきれるだろうか ─ ?これがハイデガーたちが考えたことだ、たぶん」
「へぇ?」
「なるほど、我々人間でもそんな或る電子(電荷)の運動を観察することは出来るし、確率上の表現だって出来る。しかし、或る処、かつ或る時に、或る方向と速度にて運動を続ける電子(電荷)を、人間の言語のみで完全に表現することは出来ないんだ」
「それはどうしてですか?」
「それはね、人間の言語は常に直列型で一過的な伝達しか出来ず、ゆえに何もかもを一度にどかんと表現し尽くすことがどうしても出来ないからだよ」
「はあ…?」
「そこで哲学者たちは、この人間言語の表現上の限界にギリギリ挑戦出来ないものかと考えを巡らせた。そこでたとえばハイデガーが閃いたのが、よく知られる ’存在了解' 方式などのアセスメント技法さ」
「へぇ」
「そもそも、或る方向とか、或る時間経緯とか、或る速度とか或る強さなどなどの哲学上の表現も、同じように捻出されてきた表現技法だ」
「ははあ」
「それに、もっと多元的な着想も必要になる。そもそもだぜ、当の我々人間自身もまた、元をただせば或る電子(電荷)から成り立っているからね、観察者たる主体と、観察させる客体、これら自体の独立性について’現存在’という暫定を考案したり、あるいはむしろ区別する必要がないと…」
「うーん、つくづく難解な話ですね」
「難解さが分かるだけでも、君はちょっとは見込みがあるぞ ─ だから進路の心配はしなくてもいいよ」

ここでまた母と叔母たちが割って入って窘めたので、僕は口をつぐんだのだった。



やがて夜半時となり、僕と母は帰路のタクシーに乗り込んだのだったが。
今あらためて思い出すにまこと不思議なことには、僕の同級生のN子がいつの間にかこのタクシーに同乗していた ─ どうにもそんな気がしてならぬことであった。
N子はといえば、これまで幾度も本ブログで引用してきた通り、母の代から旧知の馴染みの縁でもある。
ああ、そうだ、N子はこの夕べのスキヤキパーティに同席していても特段不思議ではないほどの間柄であり ─ 
いや、しかしどうもおかしいなあ、僕の記憶違いなのかな。
いやいや、N子こそが記憶違いで僕を本稿に登場させているのかもしれぬ。

タクシーは夜の国道を疾走していた。
いつの間にか雨がざっと降りしきっており、そっと窓から手を出してみれば凍てつくほどに冷たかった。
「何してんの、閉めなさい」 後部座席から母の声が聞こえた。
僕はぐっと振り返ってみた。
そこでは母とN子が並んで座しつつ、学期末の数学のテストでろくな点数を採れなかった僕の知能が高いだの低いだのと論いながらケラケラと談笑していたのだった。


(おわり)