2013/12/28

魔法の風船


ふとしたはずみのことだった。
魔法の風船が、ほわん、と僕の手許を離れてしまった。
「あっ、いかん、戻れ、こら!降りてこい!」と僕は飛びついてみたが、そうするとなおのこと、魔法の風船はどんどん高く高く舞い上がっていった。

やがて、冬晴れの青空、高く小さく紅一点、遠く向こうへ見えなくなった。



「ねえ先生、魔法の風船について教えて!」 
「ああ、それはね……いや、教えない、君に教えてみたところで、分かるような話じゃないからな」
「分かるよ、あたしだって!」
「分からないよ、無理むり……こら、そんなにムクれた顔するな。よし!じゃあ君にも教えてやろう!あくまで教育の一環として、だ」
「うん!教育の一環」
「茶化すんじゃない。いいか、よーく聞けよ。魔法の風船の秘密は…」
「秘密は?」
「…つまり!恋を求めている者のもとへふわりと降りてくる性質があるということなんだ」
「ふぅーん」
「驚いたか?」
「別に~」
「つまりだな、あの秘密の風船の飛んでいく先には、恋を求めている誰かさんが居るってこと」
「ふぅーん」
「分かったか!?分かっても分からなくても、この話はもうおしまい。だから君には難しいって言ったろ、はい、おしまい」


「……ねえ先生?」
「なんだ?」
「どうして先生がそんな魔法の風船を持ってたの?ねえ~」
「ほらな、どうしたってそういう質問になっちゃうだろ。だからこの話はしたくなかったんだよ、俺ァ」
「要するに、先生が恋を求めていて、だからその風船が舞い降りてきたの?」
「さぁね」
「…ねえ、せんせー~~」
「まだ何か有るのか?!」
「もしも、もしもね、その魔法の風船が、持ち主のところを去って、別の人のところへ飛んでいったら、その場合にはどういうことになるの?」
「なになに?持ち主を去って、別の人のところ?…ねえ、君、つまらないこと考えるんじゃないぞ」
「その場合、二人は結ばれるの?」
「分からん。なあ、もうやめようよ、この話は」


突然、その娘は脱兎のごとく駆け出した。
おい、待て!と僕は咄嗟に呼び止めたが、その娘は何かケラケラと笑ったり歌ったりしながら一層軽やかに疾走してゆくのであった。
待てよ、おいっ!
ふぅふぅと彼女を追いかけながら、僕は心中でおかしいな、おかしいな、と反芻していた。
そうだ、確かに俺は、魔法の風船によって恋の精神を取り戻したんだ…しかし、しかし、そうして俺の内に再び宿った恋心が、こんなつるっつるの顔の小娘に対するものであったはずがない。
それならば…どうして俺は今こんなふうに、この小娘を追いかけているんだろう?
もしかしたら ─ 
それは、それは。
あの魔法の風船が舞い降りた先の誰かが、この小娘の行き着く処で俺を待っていてくれるのだ、と。
そんな馬鹿げた小娘の空想を、当の俺自身が信じ込んでいるが為なのではないか。
だって、ほら!
今や、もうすぐ先の曲がり角から、彼女が息せき切ってこんなふうに叫んでいるのが聞こえるじゃないか。

「お母さん!お母さん!
その風船の秘密が分かったよ!
大切な人が、もうすぐそこまで来ているよ!
よかったね!よかったね!
お母さんも幸せになれるんだよ!なっていいんだよ!」



おわり

2013/12/17

【読書メモ】 憲法とは何か

(本ブログ記事はもともと前半部と後半部に分けたものでしたが、トータルな啓発力が極めて強い書籍の紹介となったがゆえ、一括投稿とします。)

本書は2006年に岩波書店から発刊(僕が読んだものは2012年6月の第6刷版)著者は我が国を代表する憲法学者の一人、東京大学大学院の長谷部恭男教授で、ひろく一般読者層向けに憲法ほか法律論にかかる著作を数多く発表されています。
(確か昨年度の駿台予備学校のHPでも法/政治学への誘いのメッセージを受験生向けに発せられており、僕としても以前から親近感を抱いておりました。)

今回この本を取り上げたのは、これからの憲法改正議論にさいし、問題の再定義をしておかねばとの念もあってのこと、そんな折にたまたま本書を書店で見かけたので購入した次第。

さて、これまで僕は本ブログにおいて、経済学と法学について概して懐疑的な捉え方を一貫してきました ─  それは、経済学や法学(まして政治学など何をか言わんや)における用語便法の暫定性に便乗し、「自由競争vs民主主義」などなどズボラな枠組み設定を以て、個別の特性(spec)ではなく全体における約数(rate)を争っている風潮がどうにも嫌いであったため。
事実、此度成立の特定秘密保護法において、長谷部氏が同法の基本的な必要性に賛意を示したところ、氏がリベラルな市民派から強圧的な国政派に転向した云々と中傷する声も少なからず上がったようで…
そのように非学術的で蒙昧な扇動を続けるくだらない自称:政治通や自称:経済通の人たちが全く我慢がならない。

しかしながら、本書において長谷部氏が判然と展開される憲法解釈論はむしろ、法体系というものの暫定性を踏まえつつも、表層の諒解から必然解釈へと帰納的に濾過させ純化させていればこそ、実に理知的です。
思想文化論も虚飾も利害得失論も取り去った冷徹な分析に終始されているがゆえ、実に読み易い!判りやすい!特に「多元的」などなど語彙の用法において僕と妙に相性がよく(失礼)、よってこれほど一気に読み抜いた本はほとんどありません。
或いは、高校教育における政治経済科および現代社会科、とくに政治分野の参考書としても素晴らしい一冊たりうるかもしれぬ、と察します。

そこで。
今回の僕なりの【読書メモ】として、とりあえず以下、自分なりに概括しおきました。



・ある領域における特定の人々が、自らの資産(土地)を積極的に運営しその価値を効率的に維持するためには、共同管理を超えた積極性が求められ、そのため、人々が政治的に組織されていなければならない。
また、政府は本来は全地球人の権利をあまねく保障すべきともいえるが、そこまでの実効力は無いため、特定の人々の人権保障を特定の政府が為すことになる。

…という特定の組織状態が国家であるといえ、ゆえに国家はどこまでも功利主義的に成立しており、また普遍的な人権に対して相対的な存在でしかない。
が、それでもあらゆる領域の人々がこの状態を守るからこそ、地球全体も国家群として維持されている。

・ホッブスの社会契約論にどこまでも則れば、人間の私的権利の争奪を抑制するために人為的に国家が必要、だからそれら国家同士の「敵対的な分立」もやむなしということになる。
が、ルソーはこれを批判 し、そもそも国家を人為的に造ったからこそ戦争が大規模化する、と説いた。
そしてルソーは、国家が人為的な存在であればこそ、人知によって戦争を終結させることも可能と説き
─ 実際に1980~90年代の冷戦終結は東側陣営諸国の国家の在りよう(つまり憲法)を変えさせることによって、大戦争の回避に成功したといえる。

・ちなみに、ホッブスの国家存立論を継いだとされるカント『永遠平和のために』によれば、あらゆる国家間の敵対的な分立はそもそも人間世界の宿命ではない。
各国における常備軍の廃止や共和制の採用と人民武装化によって、国家間の勢力均衡を維持しうるとし、よって戦争は避けることが出来るとしていた。
(なお近代ヨーロッパが共和制に拘っていたのは、古代ローマ以来ヨーロッパ各国で公益実現のための理想政体が共和制であるとされていたため。
アメリカ合衆国成立時も、またフランス革命も共和制が理念の基本線であった。)

・さて現実の世界はいまや、国境を超えたテロ戦争、環境問題や疾病とそれらへの予防自衛の局面にあるともいえ、国際機関や国際的な協調が求められる。
そうなると、国家が行使する正当化=権威が、国境を超えて効力を持たざるを得ない。
英哲学者バーナード=ウィリアムズによれば、「国境をいかに引くべきかについて、あらゆる場合に妥当する原理的な正解は無い」とされる、が、だからといって既存の国境(論)そのものが自己目的とされてはならない。 



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・憲法とは、それが機能している限りにおいて、国家の政治秩序の基本的な構成原理である。

・憲法の必要性を説く有力な見解としては、憲法を公権力自身のプレコミットメントと捉える見方がある。
これつまり、能力行使において非理性的な行為で自己の不利益をもたらさないよう、権力自身の能力を拘束的に制限する設定、とするものである。

・国家の憲法を平和的に成立させ運用させるなら、たとえ人間の本性に反してでも、多元的な(相互に比較不能な)価値観や理念を許容し、理性的な審議と決定プロセスを経た公正な合意にとりあえずは依らざるを得ない
…という発想を「立憲主義=リベラル・デモクラシー」、あるいはヨリ包括的にリベラリズムと呼ぶ。
現代の世界における民主主義の実現形態として、立憲主義による憲法制定と存続が多勢である。
なお、これは価値の相対論(価値の永遠のバラつきの容認)を指すわけではない。

・立憲主義を貫く以上、各主体の「権利」を私的な領域と公的な領域に分けて規定しつつ、後者において全構成員共通の利害とコストを公正に配分することになる。
この切り分けによってこそ、私人である各主体の権利も、また公共利害の意思決定も明確になる。
それを補完すべく、マスメディアの存在、知る権利も保証されている。

・アメリカ合衆国憲法の成立推進者として知られるマディソン(のちに第4代大統領)は、この憲法の正当性を各州に推す理由として、州の小規模な直接民主制のみでは派閥政治に左右されがちだが、大規模な代表制の共和国結成によって小さな利害対立を収斂出来、理想的な民主政治を実現できると唱えていた。
だが実際には、むしろ合衆国憲法によって、共和制の公益追求論を超えた大規模な民主政治の実現に向かったとも言え、そこから現行の世界主流の立憲主義が始まったと見ることが出来る。



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・戦前の日本型ファシズムは、公的領域と私的領域の切り分けに対する日本人の文化的嫌悪感と多元性放棄から興ったもので、天皇すらも伝統的価値秩序におかれており、日本において自由意思を持った主体が皆無となった ─ と丸山真男は説明した。
(但し本書では、これが日本人のみの特性であるなどとは全く書かれていない。) 

・ワイマール共和国時代のドイツ憲法学者シュミットによれば ─ 真の公益の追求を目的とした教養財産階級によるリベラルな議会制は、(彼の時代に)既に過去の理想に過ぎなかった。
現実の議会制は、戦争とともに大衆参政化が進み、政党による大衆組織化と競合を経つつ、暫定的な私益の調整に留まるものとなっている、とした。
そういう議会制の暫定性が、国内における全主権者における敵味方の「政治的」な拮抗を、国家同士の正統性の戦争へと発展させてしまうこと必然、そうなると理想的な議会制リベラリズムなどでは対処出来ず、全主権者による直接民主政、つまりファシズムか共産主義を以て戦争にあたるしかない ─ とシュミットは唱えた。

・しかし現実には、たとえリベラルな議会制民主主義の憲法に則った国家が、公益と私益を分けざるを得ないとしても、公益調整のため暫定的な偽善妥協に陥ろうとも…それでもリベラル陣営が第二次大戦においてファシズム選択国家を打倒し、今日に至る。
とりあえずドイツは、議会制民主主義国家と、共産主義国家に分断されることになった。

・ちなみにハーバーマスによれば、たとえ議会政治が組織政党に支配されるとしても、その政党間の討論が一般国民への語りかけの効果を有する。
ゆえに、このプロセスが延々と続けば、時間も空間も超えた長期的な利害調整に「公論を誘って」いることになり、つまりは民主主義の理想的な追求形態たりうる、と説く。
(著者の長谷部氏はここまで拡大解釈はせず、議会政治における討論の論題を限定させつつ、むしろ議会外でこそ自由な表現形態の討論がなされるべきであるとされている。)

・もちろん、体制論がすべての現実を正当化するわけではない。
戦略論の専門家バビット教授によれば ─ 戦争は国家の憲法の在りよう、つまり国家の正統性の争いである。
たとえば第二次大戦時に、ファシズム国家が核兵器を保有してリベラルな民主主義国家への脅威となることもありえた ─ かかる緊急事態を事前に排除するため、リベラル陣営による日本への原爆投下もやむを得なかった、という論法が成立する。
しかし、政治哲学者ウォルツァーによれば、たとえ一般市民への空爆が戦時の「究極の緊急事態」に即したやむなしの行為であったとしても、一方では日本はナチスドイツ同様の邪悪な拡張国家ではなかったとする。

・この両者の見解を勘案しつつ、更に実践的に考えを詰めれば ─ 
第二次大戦後に勝ち残った東西二極の核による相互抑止も、その破壊殲滅力を考慮すれば、やはり「究極の緊急事態」の継続である。
さらに、仮に日本が勝ち残り、三極による継続的な緊急事態となっていたとしても、現実的な脅威は本質的に変わるものではなかったろう、との見方も出来る。
よって日本への原爆投下は、リベラル陣営対ファシズム陣営間の戦争における緊急事態抑止論のみでは説明出来ないということになる。



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・憲法が守ろうとするものは、その憲法自身の定義によってその時点で成立している(と見做される)国体であり諸主体に過ぎない。
普遍的に存続してきた民族性や文化性のすべてではない。
ゆえに、一定の条件下における最善の国制は、多元的な価値観の合意としてではなく、常に最適な一つの秩序としてしか存在し得ない、として憲法を運用する場合もありえる(レオ・シュトラウス引用など)。

・だがそうなると、たとえばテロ国家への武力行使という形で、むしろリベラリズム自体の否定にすらつながり得る。
しかしながら、欧米諸国(の理想)と同様、日本も立憲主義=リベラル・デモクラシーを堅持するならば、日本は経済力や軍事力において「欧米以上に」寛容な(非攻撃的な)社会のモデルを構築する、という選択肢も有効である。
そのさいに、日本はやはりリベラル立憲主義の原理に則った国家と長期的に提携していくことが国際関係の基本たるべきで、これは軍事戦略論以上に、広範な日本人の活動範囲にかかる課題。
ここに、今後の日本国憲法の在り方が懸かってくる。



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・立憲民主政(リベラル=デモクラシー)は権力分立に則っている。
たとえば、古典的な権力分立論として、モンテスキューが当時の英国議会政治を参考に説いたとされる三権分立論がよく知られる。
尤も、これは「三権の分離による均衡と抑制」を説いたものではあっても、それらを別々に「特定機関に独占させる」旨を説いたものではない。
司法権を随時の陪審制として立法・行政から分離せよとは説いたが、これを完全に独立した権力機関にしろとは記さなかった。
また立法機関の権力独占を抑えるべく、行政機関は自身の立法阻止権を行使し、むしろ積極的に立法に参加すべきと説いた。
フランス革命においても、またアメリカ合衆国憲法(大統領による立法拒否権)においても、モンテスキューが多大な影響を与えた。


・さて、権力分立の状況に則りながら、世界のリベラル・デモクラシーを「再分類」すると (アッカーマン教授の引用例) ─

まず、アメリカをはじめとする大統領制では、議会と大統領が別々に選出され、さらに実際の業務においても両者の交渉や調整の機会がほとんど無い。
まさにそれゆえに、立法と行政の両者ともに特定の党派のみで占められる場合もある。
或いは、もし両者が異なる党派で占められると、利害の一致に到達しにくく、国政が閉塞する例が(途上国などで)散見される。

この国政閉塞のリスク回避策として、立法と行政の相互の「交渉・調整機会の確保」があげられ、それを機能させ続けてきたのが、イギリス型の議院内閣制で、議会を占拠する最大多数与党が政府との利害も一致させやすい。
が、反面では、議会と政府において同じ党派が同時に権力独占に陥るリスクは、やはり残る。

さらに。
この権力独占リスクまでも回避しうる政治システムが、違憲審査権などを通じて立法府と行政府の権限を相互に制限しうる、ドイツや日本の議院内閣制である。

・以上から、今後の世界におけるリベラル・デモクラシーの権力分立形態としては、このドイツ・日本型の立法/行政の相互制限関係における議院内閣制こそが最も望ましい。
さらに、特定の党派勢力が権力の独占を図り易い新興途上国においても、ドイツ・日本の議院内閣制に倣うことこそ最も望ましい。

逆に、最良の制限力を機能させている日本の議院内閣制に、首相公選制を導入すると、むしろ首相と議会党派を選抜段階から分断させ、相互の制限力を奪う方向に機能してしまうので、勧められない。



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・さらに。
アッカーマン教授の引用によれば、国の根本原理を変革する政治過程を「憲法政治」と呼び、一方で日常の利害調整における政治過程を「通常政治」と呼ぶ。

イギリスは憲法典が無く、イギリス議会が多数決によってほぼ万能な権限を行使するため、そもそも「憲法政治」と「通常政治」の区別が無い。
これを「一元的民主政」と称すべきである。 

一方で、硬性憲法を有するアメリカ・ドイツ・日本などでは「憲法政治」と「通常政治」の過程がはっきり区分されており、これを「二元的民主政」と称す。
二元的民主政の方が、立法・行政は現実的な通常政治に集中出来る。

・なお、アメリカ合衆国の歴史において、「憲法政治」のレベルの調整が挑まれた時期は ─ 独立戦争から合衆国憲法の制定に至る時期、南北戦争と復興期、ニューディール政策期の三度だけである。
つまり、「憲法政治」に直面することは稀であり、また、そのさいに硬性憲法の文面を書き換えるとも限らず、また書き換えからといって国の在り方が大きく変わるとも限らない。

以上から。
二元的な民主政に則りつつ、かつ、立法府と行政府の権限を相互に制限しうるシステム、つまりドイツ・日本の議院内閣制こそ、権力分立システムとして最も望ましいといえる。 




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・さて。
憲法の改正にはどんな意義がありうるのか。
シカゴ大学のストラウス教授によれば、政治体制が成熟した国家において、ほとんどの問題は通常の法律に則って解決しうるため、憲法典そのものの改編には意味がなくなっている、という。
憲法改正にエネルギーを奪われることなく、通常の政治司法のレベルでの解決に注力することが望ましいと。

アメリカ合衆国憲法の改正実績として、南北戦争後に人種差別の是正を目的として改正された第13~15修正が挙げられる、が、これらが事実上の効力を有するのは約100年後の公民権法によってであった。

逆に、実際の状況を追認したかたちでの憲法改正としては、女性の選挙権を定めた第19修正や、上院議員を各州の直接選挙で選ぶこと定めた第17修正が挙げられる。

なお1971年のフランスでは、憲法を改正することなく、1789年革命当初の人権宣言を再解釈することによって、憲法保障の結社の自由を国民の権利として制度的に再設定した経緯がある。


・現在の日本国憲法を鑑みても、憲法そのものの文面がそのまま法的な効力を発するわけでもなく(環境権など)、逆に憲法に文面無くとも個別の制定法や具体的判例に依って効力を有する権利もある(プライバシーの権利など)。
「国を守る権利」も同様で、個別の制定法で定めない限り憲法条文をいじっても実効力は無い。

・憲法九条の狙いは、軍と政治が権力を共有しないよう、権利行使の幅に制限を設けていること。
この憲法九条の改正自体が、それ自体が軍と政治それぞれの権限を具体的に改編しうるわけではない。
現行の政府解釈に依る自衛のための実力保持にせよ、こんごの集団的自衛権の行使容認議論にせよ、政府と軍の権能の制限を別段定義が必須である。
(軍の実力を永遠絶対に排除しろ、などとは言っていない。)



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・オクスフォード大学の法哲学のハート教授は、法と道徳の違いに着目し、法は意図的に変更されうるが道徳はそうではないと説いた。
もともと、人々には権利や義務を定める社会的慣行が法として存在していたのだが、近代化が進み社会生活が可変的となると、あらためて人為的な規範(ここでは憲法)が生成され、あわせて司法の専門家も求められるようになる。
つまり、憲法は全国民の真理ではなく、様々な慣行を再認定するための便宜的な中核機能と捉えるべきである。

したがい、憲法もその認定や改正も、国民のみならず専門家の力量に大きく依るしかないし、憲法のテキスト文言を変えたところで実社会の道徳規範が全て変わるわけでもない ─ と見るべきだろう。



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・ところで。
専門的な能力や運営力を行使すべき官僚機構や日銀などは、立法や行政と異なり、政治党派間の交渉や調整過程から離れた「中立性」が求められる。
とりわけ、現代社会の先進国においては、立法のみならず行政も社会の隅々の需要を反映しつつ、サービスを提供する能力が必須である。
これも現状の大統領制では困難であり、政権党を問わず中立に職務を遂行出来る議院内閣制の下でなればこそ、実現可能である。

・日本の最高裁裁判官の人事権は、憲法上は内閣が有するが、実際は最高裁長官の意見を徴するのが普通。
また、実際の日本の立法は多くが内閣提出法案によっており、それは起草段階で法律のプロ集団である内閣法制局の審査を経ている。
これらを鑑みても、最高裁が内閣に従属しているとはいえない。

むしろ、最高裁が内閣に従属せず自主的な司法判断力を有していればこそ、最高裁は議員提出立法や旧憲法下の規定に対する違憲審査に挑む余裕が有るといえる。 
(因みに、イギリスは2009年から、それまで上院=高等法院に担わせていた司法権を、新たに設置の最高裁に移した、がこの最高裁は依然として違憲審査権は有していない。)


以上