ふとしたはずみのことだった。
魔法の風船が、ほわん、と僕の手許を離れてしまった。
「あっ、いかん、戻れ、こら!降りてこい!」と僕は飛びついてみたが、そうするとなおのこと、魔法の風船はどんどん高く高く舞い上がっていった。
やがて、冬晴れの青空、高く小さく紅一点、遠く向こうへ見えなくなった。
「ねえ先生、魔法の風船について教えて!」
「ああ、それはね……いや、教えない、君に教えてみたところで、分かるような話じゃないからな」
「分かるよ、あたしだって!」
「分からないよ、無理むり……こら、そんなにムクれた顔するな。よし!じゃあ君にも教えてやろう!あくまで教育の一環として、だ」
「うん!教育の一環」
「茶化すんじゃない。いいか、よーく聞けよ。魔法の風船の秘密は…」
「秘密は?」
「…つまり!恋を求めている者のもとへふわりと降りてくる性質があるということなんだ」
「ふぅーん」
「驚いたか?」
「別に~」
「つまりだな、あの秘密の風船の飛んでいく先には、恋を求めている誰かさんが居るってこと」
「ふぅーん」
「分かったか!?分かっても分からなくても、この話はもうおしまい。だから君には難しいって言ったろ、はい、おしまい」
「……ねえ先生?」
「なんだ?」
「どうして先生がそんな魔法の風船を持ってたの?ねえ~」
「ほらな、どうしたってそういう質問になっちゃうだろ。だからこの話はしたくなかったんだよ、俺ァ」
「要するに、先生が恋を求めていて、だからその風船が舞い降りてきたの?」
「さぁね」
「…ねえ、せんせー~~」
「まだ何か有るのか?!」
「もしも、もしもね、その魔法の風船が、持ち主のところを去って、別の人のところへ飛んでいったら、その場合にはどういうことになるの?」
「なになに?持ち主を去って、別の人のところ?…ねえ、君、つまらないこと考えるんじゃないぞ」
「その場合、二人は結ばれるの?」
「分からん。なあ、もうやめようよ、この話は」
突然、その娘は脱兎のごとく駆け出した。
おい、待て!と僕は咄嗟に呼び止めたが、その娘は何かケラケラと笑ったり歌ったりしながら一層軽やかに疾走してゆくのであった。
待てよ、おいっ!
ふぅふぅと彼女を追いかけながら、僕は心中でおかしいな、おかしいな、と反芻していた。
そうだ、確かに俺は、魔法の風船によって恋の精神を取り戻したんだ…しかし、しかし、そうして俺の内に再び宿った恋心が、こんなつるっつるの顔の小娘に対するものであったはずがない。
それならば…どうして俺は今こんなふうに、この小娘を追いかけているんだろう?
もしかしたら ─
それは、それは。
あの魔法の風船が舞い降りた先の誰かが、この小娘の行き着く処で俺を待っていてくれるのだ、と。
そんな馬鹿げた小娘の空想を、当の俺自身が信じ込んでいるが為なのではないか。
だって、ほら!
今や、もうすぐ先の曲がり角から、彼女が息せき切ってこんなふうに叫んでいるのが聞こえるじゃないか。
「お母さん!お母さん!
その風船の秘密が分かったよ!
大切な人が、もうすぐそこまで来ているよ!
よかったね!よかったね!
お母さんも幸せになれるんだよ!なっていいんだよ!」
おわり