つい先日のこと。
或る知人の娘さんが慶應の総合政策学部を受験するに際して、その娘を適宜応援するよう頼まれ、一緒に日吉キャンパスまで出向いて行った。
といっても、もちろん、たかが未成年の女子のこと、「お車にて送迎」さしあげたわけではなく、そんな依頼を受けたわけでもなく、あくまで随行してやったというところ。
(こんな無礼な書き方をしていいのか、と思われるかもしれないが、本ブログは彼女のご両親は読まれないだろうから、いいのだ。)
日吉の駅に着くと、いわゆる正門の銀杏並木の入口まで渡り、そこで彼女に最後の激励。
総合政策は、たぶん日本の入試で一番難しい読解問題が出るが、それは受験者みな同じ条件だ、恐れるな、それから小論文課題は大胆にいけ、でっかく考えればこそ多様なアイデアが出るもんだぞ。
などなど。
他の受験生たちに混じって小走りに坂をのぼり試験棟に向かっていく彼女を、しばし見送る。
それから僕は、駅の西口に抜けて普通部通りや中央通りを歩いてみる。
かつてたらふく食った超大盛りのチャーハンだのラーメンだの、メシのことばかり回想。
やがて、また駅を通り抜け、今度は日吉キャンパスの外苑をぐるりと散歩してみた。
懐かしさが、徐々に、徐々にとこみ上げてくる。
そして。
「頃合」を見計らうと、僕は日吉キャンパスの正門に立ち戻っていた。
もう試験は始まっており、しん、と静か。
さて、と…。
僕は一人、閑散とした銀杏並木の坂道を上っていく。
いやぁ…何年ぶりだろう、いや、もっとだ。
在学当時は味もそっけもないと感じていた日吉キャンパスの、今にして見ればなんと懐かしいことか。
そして、入学当初はまこと巨大に感じられたキャンパスが、都心部に慣れっことなった今の感覚からすれば、なんとまあこじんまりとして小さいこと。
まずは陸上運動場、眺め下ろせば景観はほとんど変わっていない。
それから塾高の前を通り、マムシダニの林まで階段を降りていき、テニスコートの脇も抜けて更に進めば、野球部だのの体育会の部室があちらこちらに並ぶ。
それらに感動したり、嘆息したりと、しばし時間を過ごす。
そしてまた塾高の脇から日吉記念館の前まで戻ってくると、またキャンパス内をぐるりと周回だ。
もちろん入試期間だから棟舎には入館出来ない、するつもりもない。
ただ、藤山記念館だの食堂だのを通り抜けながら…わっさわっさと20前後の学生たちでごった返していた情景が蘇り、懐かしさがいよいよ増すばかり。
ちょっと矢上方面まで遠望してみれば、ああ、そうだ、ここは丘の上だったのだなとあらためて実感。
==================================
あらためて自分の半生を振りかえれば ─
そうだ!僕自身の「近代史」はこの日吉キャンパスから始まったのだった。
喜び、笑い、感動、怒り、悲しみ、そしてもちろん学識も論理勘も着想、すべてのフォーマットが。
原風景、という言葉があるが、まさに人生の試行錯誤の原風景が此処に在る。
一方で、都心部の三田のキャンパスはといえば、つい2年ほど前にも旧知の友人のはからいで棟舎内をいろいろ巡ったばかり。
が、しかし彼の事も含め、大学の思い出は、その始まりは、そして楽しさはとなると、やはりこの味もそっけもない日吉キャンパスなのだ。
そうだったのだ!
此処こそが、何もかも出来損ないで中途半端だった僕の、大学時代の小さな道場だったのだ ─ 。
これは実に奇妙な邂逅だった。
今までほっといて、すまなかったな、でも、そっちだってもうちょっと早く俺を呼び覚ましてくれればよかったんだよ…
といった感傷に揺さぶられつつも ─ 本当に不思議なことなのだが、もう暫らく此処へは来まいと同時に決心していたのだった。
ああ、そうか。
つまり、こういうことか、都心部の三田キャンパスでは、何事も決算は大きければ大きいほどよいという「現代史」を教わったが、しかしこの日吉の丘では、決算以前の「近代史」において諸々の枠組みづくりに励んだというわけか。
いつも青空の下、この小さな世界は僕の一部であり、僕もこの小さな世界の一部だったのか。
お互い、何かを供与するでもなく、返済するでもない…きっとそんな意思も時節も不要なのだろう。
そういうことなんだな。
それなら。
僕の未来から日吉の過去へ、そして僕の過去から日吉の未来へ、縁と由から再びめぐり会ういつかまで、とりあえずはさようならだ。
まあ、そんなようなことを僕は内心ひとりごち、かつ、こういう青臭い相性もまた僕らしいものだなあと失笑も漏らしつつ、日吉キャンパスをあとにしたのだった。
(そういえば、あの娘の合格発表は確か今週の水曜日、直観的に推察すればあれだけ利発な娘なら受かっていてもおかしくはないのだが…ともあれ、たとえ一斉の選抜試験といえども、結果は縁と相性のなせる業だと弁えて欲しいもの。)
以上
2014/02/24
2014/02/14
ランダム (続: 『コードブック』)
ダイスやポーカーは、事象がランダムに発生するからスリルがある。
いや。
本当はどんなゲームにも何らかのシーケンシャルな規則性があるのに、我々自身の意識がランダムに発生しているから、ゲームの事象がランダムに見えてしまうのか。
それとも。
全てのゲームは実際にランダム事象発生型なのだが、我々自身の意識がシーケンシャルにしか動かないため、ゲームもシーケンシャルに見えてしまうのか。
もしも。
人間の時間的な制限を超えた、巨大な意識が宇宙に存在するとしたら ─
その巨大な意識は、人間をどのように見ているのだろうか。
宇宙の巨大な意識にとって、全ての人間の意識活動はランダムに発生しているに過ぎないのか。
いやいや。
宇宙の巨大な意識こそがランダムで、だからゲームのランダム性こそが自然であり、シーケンシャルな連続である人間の意識の方が不自然なのか…
「ちょっと!あんたいつまで本を読んでるの?早くこっちへ来て夕飯のお料理を手伝ってよ!毎日、毎日、同じことを言わせないで!」
「毎日、毎日じゃないでしょ!その場限りの思いつきで叱るのはやめてよ!」
「いちいち文句言わないの!どうせくだらないカード占いの本でも読んでるんでしょ?早くこっちへ来て!夕飯の手伝いも出来なくてどうするの?」
「うるさいなぁ!いま面白いところなんだから!」
(…続く、かもしれない)